第58話 ブラッド・ウィップと鏡の書
創生の術式の本質が、二人の目の前に姿を現した。
明里とシルフィアが、金属片に映し出された文字を食い入るように見つめた、その時だった。
突如、読書台の奥の、銃撃で歪んだ書架の影から、何者かが飛び出した。
「――っ!」
そいつは黒い西洋甲冑を纏い、空気を焼くような圧を放っていた。
装甲の隙間から覗く紫電は、まるで神経のように脈打っていた。
それが呼吸している。
金属が、生きていた。
その紫電の奥で、一瞬だけ“こちらを見た”ような錯覚が走る。
シルフィアが即座に反応し、風の魔法を放とうとする。
「待って、シルフィア!」
明里が叫んだが、遅い。
人影は、その魔法の光を事前に予測していたかのように紙一重で避け、
手をかざして低く呟いた。
「――ブラッド・ウィップ」
空気が裂けた。赤黒い茨が、鞭のようにしなりながら閃光の軌跡を残す。
その一閃が、シルフィアの頬を掠めた。
肌を焼くような痛み。熱に混じって、空気の匂いが――鉄に変わる。
甲冑の掌に、黒い球体が生まれた。
空気を押し潰すような重圧を帯び、まるで“重力”そのものを凝縮したようだった。
明里もシルフィアも、息を呑むしかなかった。
次の瞬間、それが禁書へと向かって放たれる。
本は浮かび上がり、頁がひとりでに捲れながら球体に吸い込まれていく――そして、跡形もなく消えた。
黒い甲冑は崩れた瓦礫の上を信じられない速度で駆け抜け、
図書館の入り口の闇へと消えた。
シルフィアは、奪われた本と消えた人影を交互に見つめ、顔を青ざめさせた。
「やられた……!早く追いかけないと!あれは禁書よ、すぐに取り返さなきゃ!」
「待って、シルフィア!」
明里はシルフィアの腕を掴み、その場に引き留めた。明里の呼吸はまだ乱れているが、その瞳は驚きよりも、深い洞察を湛えていた。
「追いかける必要はないわ。そして、そんなに焦らなくて大丈夫」
「な、何を言ってるのよ!あれが奪われたら、目的が――」
明里は散乱した金属片を拾い上げ、冷静にシルフィアに見せた。
「あの本は、人類の創造と叡智の為に書かれた。そして、あの鏡文字よ」
明里は一つ息を吐き、静かに続けた。
「あれは、誰にでも簡単に読める代物じゃないわ。
この世界の言語で書かれていたとしても、鏡という『物理法則』を介して――初めて、その文章の意味が反転し、理解できる仕組みになっているの」
明里は一度、息を吐いた。
「あの泥棒が、私たちと同じように『鏡文字』だと気づき、『反射の原理』を応用できる知性を持っている可能性は……極めて低い」
シルフィアは言葉を失った。
「それに、あの本に書かれているのは、『術式』の本質。単語を並べただけじゃなく、大量の図形と数式……この世界の常識では理解不可能な、極度に複雑な『科学的・哲学的論理』の塊よ。例えるなら、高校生が突然、アインシュタインの相対性理論の原著論文を渡されたようなものだわ」
明里は冷めた口調で断言した。
「泥棒は、本の『価値』は知っているでしょうけど、その『解読方法』も『本質的な内容』も知らない。簡単に解読できる代物じゃないわ。」
「あの本は、最強の防御に守られている。人類の叡智という、名のね」
「……まぁ、あの泥棒がそれを理解できるなら、それはそれで脅威だけどね。」
明里の声は静かだった。
けれどその瞳の奥には――“理解されること”そのものを恐れるような、微かな影が揺れていた。
まるで、それがすでに予言された結末であるかのように。
――その夜、禁書は闇の底で再び“開かれた”。
響いたのは、紙の擦れる音だけ。
だが、その一音が――世界の構造をわずかに軋ませた。




