43話 のり弁シールは貼ったはず
神界時間 午前8:57
コーヒーカップを片手に、白い廊下を歩くひとりの女神。
ヒールの音が、コツ、コツ、と規則的に響く。
朝の神界はまだ静かで、淡い金色の光が廊下の端に差し込んでいた。
「朝早いのはやっぱり眠い。……昨日ちょっと遊びすぎたかな」
彼女は欠伸を噛み殺しながら、自分の執務室の前で立ち止まる。
電子ロックキーのランプが――緑に点灯していた。
「……あれ? 開いてる?」
眉をひそめる。
昨夜は確かに鍵をかけて帰ったはずだ。
だが、扉はすんなりと開いた。
「昨日、キーかけ忘れたかな? ま、いいや。――あー、コーヒー冷める前に資料確認しなきゃ」
軽い足取りで中へ入る。
その瞬間、女神はぴたりと動きを止めた。
室内は、静かすぎた。
デスクの上の書類が、いつもより“整然と”並んでいる。
誰かが、触った痕跡。
「……え?」
奥から、低い声がした。
「おはようございます、A級女神・エリュシア殿。
本日、あなたに確認すべき“報告義務違反”がございます」
その声を聞いた瞬間、彼女の顔から血の気が引いた。
ゆっくりと振り返る。
そこには、漆黒の外套をまとった神官が立っていた。
長い杖を手に、まるでずっとそこにいたかのような静けさで。
「……ちょ、ちょっと待って。出勤前に部屋入るの、通達違反じゃないですか?」
「ええ。ですが、あなたが“業務外の夢干渉”を行ったという報告を受けまして。
通常の査察プロトコルを省略しました」
神官の目は冷たい。
女神はコーヒーカップを持ったまま、乾いた笑いを浮かべた。
「夢干渉って……あれは緊急措置命令の範囲内よ? のり弁シールもちゃんと貼ったし――」
「“のり弁シール”、ですか?」
神官がわずかに眉を動かす。
女神は小さく肩をすくめた。
「正式名称、“真実隠蔽シール”ですけど、現場ではそう呼んでるの。
いちいち堅苦しい名前で呼ぶの、めんどくさいでしょ?」
「……はぁ。やはり、あなたの現場処理は問題だらけのようですね」
神官の杖の先が淡く光る。
空間の空気がわずかに震えた。
エリュシアは乾いた笑いをもう一度浮かべて、コーヒーを啜る。
「ねぇ、それ、査問の前にやめてくれる? まだ定時前なんだけど」
神官は咳払いを一つし、背筋を伸ばした。
「いいですか、エリュシア殿。
我々は、必要以上に各世界へ干渉はしません。
だが、放任もせず、間違った方向へ進む人類を正しき道へ導く――
それが、“監理局”の原則です」
彼の声は、硬質な響きを持っていた。
「もし、それでも正しい道に進めない場合のみ、
“救世主システム”を発動し、救世主を派遣して対処する。
これは万年不変の規則です」
エリュシアは眠そうに片目を擦りながら、あくびを噛み殺す。
「で? その立派なお説教、オチは?」
神官の目が細くなる。
「あなたの行為は、“干渉はしない”という原則を歪め、
“放任しすぎて隠蔽に走った”――
明確な規則違反です」
部屋の温度が、一瞬だけ下がった。
エリュシアの表情から、わずかに笑みが消える。
「……あーあ。朝から面倒なことになったわね」




