31話 迷いの月、導きの星
奥の部屋はしんとしていた。
外からはまだ霧の気配が漂い、吐く息が白くなるほど空気は冷たい。
明里はベッドの横に椅子を引き寄せ、じっとシルフィアの寝顔を見つめていた。
レックスに頼まれて様子を見ているだけなのに、胸がざわついて落ち着かない。
――かすかにまつげが震えた。
シルフィアがゆっくりと目を開き、焦点の合わない視線を天井にさまよわせる。
やがて明里の姿を認め、目を細めた。
「……ここは?」
「レックスがあなたを運んできたの。毒はもう抜けたわ。動かないほうがいい」
明里はなるべく落ち着いた声で答えた。
しばし沈黙が落ちる。
シルフィアは視線だけを動かし、明里をじっと見つめた。
「……優しいのね。あんたが“救世主”だなんて、信じられなかったけど」
「……救世主?」
明里は思わず聞き返した。胸の奥がざわめく。
自分がこの世界に呼ばれた理由、その言葉がずっと喉にひっかかっていた。
「……今朝、“星”のカードが出てたの。希望の象徴。
だから、あんたに賭けてみたのよ。あんたが本当に、この世界を救える人間なのか」
シルフィアは天井を見たまま、ぽつりとつぶやいた。
明里は言葉を失った。
シルフィアは静かに続ける。
「この世界は何度も救いを求めた。けど現れたのは偽物ばかり。
みんな期待して、裏切られて、絶望した……」
かすかに唇がゆがむ。
「だから試した。あんたが本物なら、この程度じゃ折れないはずだから」
明里は膝の上で拳を握りしめる。
頭の中に、さっきの戦いの光景がよみがえる。
血にまみれたレックスの背中、倒れたポルックス、苦しそうな煉の顔――。
「……わたしは……まだ、何もできない」
小さな声でつぶやいた。
「でも、守られてばかりじゃ嫌。レックスも、ポルックスも、煉も……もう傷つけさせたくない」
しばしの沈黙。
やがてシルフィアが目を細め、ゆっくりと息を吐いた。
「……ふふ。今の言葉、覚えておきなさい」
初めて、彼女の口元にわずかな笑みが浮かぶ。
「借りは返すわ。次に危機が来たら――今度は、私があんたを守る」
その瞬間、明里の胸の奥で何かが小さく鳴った気がした。
まだ形にならないけれど、それは確かに灯った火だった。
シルフィアは目を閉じかけながら、かすかに唇を動かした。
「……本当は、“星”だけじゃなかったの。
横に出たのは……“月”。迷いと幻惑、運命の障害を意味するカード」
明里は息をのむ。
「希望の光があるなら、必ず影もついてくる……。
だから私は、あんたを惑わせる“月”になろうとしたのよ。
……ほんとは、自分自身が闇に怯えてただけなのにね」
その声はもう眠気に沈みかけていたが、不思議と確かな響きを残した。
明里はその横顔を見つめながら、小さく呟いた。
「……なら、わたしは絶対に“星”を選ぶ」




