第18話 熱帯雨林の伏兵と、知恵の石鹸
鬱蒼とした熱帯雨林の朝は、ひどく湿気が高かった。昨夜はなんとか雨を避けて野宿できたものの、汗で体がベタつく。これから雷の属性がいるという山地帯を目指すのだから、身支度を整えておきたかった。
レックスの朝は早い。
誰よりも早く起き、道具の点検や手入れを怠らない姿は、見ていて妙に安心する。
わたしは、湯気の立つコーヒーを手にしながら声をかけた。
明里「それ、何を作ってるの?」
レックスは焚き火の残り灰を木の椀に入れ、水を注いで何かをかき混ぜていた。
レックス「ああ、簡易的な石鹸だ。」
明里「脂を分解してくれるのね?」
レックスは頷くと昨日の調理で出た獣脂を加え、さらに静かに混ぜ続ける。鼻をくすぐるのは、焦げた灰と、油の独特な匂い。それでも、レックスは何でも無いように手を動かしていた。
レックス「これで汚れくらいはどうにかなる。」
レックスは出来上がった石鹸を一つ一つ詰めて、こう言った。
レックス「おまえたちにも作ったから持っていろ。」
わたしたちは身支度を整え、先を急ぐことにした。森は鬱蒼として湿度が高いのか、すぐに汗になって出てきた。
道なき道を進むと、煉が足下を見ていることに気づいた。
明里「どうしたの?足下見て?」
煉「なんか感触おかしいから変だと思ったら、蟻塚を踏んだらしい。」
蟻塚が崩れ入口か出口か判らない場所から無数のアリが蠢きながら出てきた。
煉が足元を見つめるその時、レックスが血相を変えて叫んだ。
レックス「おまえらここから逃げろ!ヤツらが来るぞ!」
わたしたちは何のことか解らずモタモタしていると、レックスが腕を引っ張り、今すぐこの場を離れるように催促してきた。そして、レックスはわたしたちとは違う方向、川の方角に向かって走り出した。
レックスは全速力で走り、「ここまで走れば灼炎蟻は着いてこれまい」と肩で息をし、木に寄りかかりながら安堵した。
しかし――
レックス「いた、痛い!?痛いより熱い!」
腕を見ると、黒い牙が鋭い灼炎蟻が体内に蟻酸を注入している。無機質な目から怪しくひかり隊列を組みながらレックスのほうにすすむ。
レックス「ま、まずい、このままだとやられる。こいつは追跡型のモンスターだ。汗を感知し追いかけるタイプだ!」
レックスは激痛に顔を歪ませた。通常のモンスターなら寄せ付けない彼の鱗が、灼炎蟻の放つ蟻酸によって侵食され、まるで燃えるような痛みが全身を走っているようだった。
レックスは急いで川の方角に向かった。勢いそのままに川に飛び込み、膝くらいまで浸かる。これで一安心かと思いきや、水面には木の葉がヒラヒラ舞って落ちてくる。よく見ると、それは灼炎蟻の先発隊だった。灼炎蟻たちは葉っぱに乗ってレックスの目に向かって蟻酸を飛ばしてきた。片目に蟻酸が入ってしまった。目が焼けるように熱い。
だが、ここで負けるわけにはいかない。
レックス「くぅ、だがどうやって戦う?」
河原には灼炎蟻本隊が、レックスを退治せんとばかりにびっしりと覆いつくしている。明里たちはレックスが心配になり、彼のあとを追っていた。河原には数十万というアリたちが蠢き、レックスは腰より上まで川につかり、片目だけ開けて微塵も動かない。もう、最後を決めたような面構えだった。
明里「レックス!早く逃げて!」
煉「なにしてんだよ!早く逃げろ!」
灼炎蟻がレックスを取り囲み、さらに近づいてくる。
煉「このやろう、燃やしてやる!」
煉は叫び、掌に炎の球を作り出し、河原の灼炎蟻の群れに投げつけた。だが――
灼炎蟻たちは一斉に火球の熱に反応し、まるで刺激されたかのように暴れ出した。体表が硬質な殻に覆われているせいか、炎の直撃にも微動だにせず、むしろその炎に導かれるように四方へと散開する。
煉「なっ……焼けないだと!?」
群れは爆発的な勢いで広がり、逆にレックスのいる川の方へとなだれ込んでいく。
明里「だめ、レン!あれ、熱に反応して活性化する!」
肩まで川に浸かっているレックスだが、灼炎蟻に噛まれた痛みで効いたのだろうか、レックスはとうとう川に隠れてしまい、明里たちは覚悟を決めて川を見ている。レックスはもう頭までつかりここからは見えなくなっている。 森に静寂が戻り灼炎蟻の動きの音だけが聞こえるようだ。手を伸ばせば届く距離まで灼炎蟻の群れが近づく。
息をのみ水面を見守ると今いたレックスのところから泡が立ちのぼり、やがて大きくなっていった
その時、突如水面が激しく揺れ、レックスが勢いよく川から飛び出してきた! 彼の全身は水で濡れそぼっているが、表情には諦めが消え、どこか不敵な笑みが浮かんでいるように見えた。
明里、煉「レックス!」
レックス「まだ死んじゃいないぜ。追い詰めたつもりが石鹸を使って追い詰めてやったぜ。」
川を見ると、アリたちが力なく水面に浮いていた。
レックス「石鹸が界面活性剤のかわりになって灼炎蟻を溺れさせてやったぜ。まぁ、石鹸1個が犠牲になったけどな。」
明里「すごい!石鹸の界面活性作用で、アリの周りの膜を覆う油分が溶かされて、呼吸ができなくなったんだ!」
わたしの科学的な考察が、まさに目の前で現実となった。アリのモンスターは、あっという間にその動きを停止した。レックスは全身の蟻酸による痛みに耐えながらも、最後の一匹まで駆逐した。
レックス「やれやれ、旅ってのは石鹸一つでひっくり返るもんだな。」
彼は息を荒げながらも、勝利を確信したような笑みを浮かべた。熱帯雨林での思わぬ伏兵だったが、わたしたちはレックスの経験と知恵、そして明里の科学的知識の応用で、この危機を乗り越えることができたのだ。




