14話 鏡の瞬きと目覚めの兆し
これで失敗したら、もう後がない。地底湖を渡る手段も、鏡を取り出す方法も、他に思いつかない。
わたしは手に持ったマジックハンドを、ぎゅっと、痛いくらいに握りしめた。どうすればいいんだ。もう、どうにもならないのかもしれない。
その時だった。
横から、冷静な声がかかった。
「おい、待てよ」
煉だ。彼はわたしの様子を見て、落ち着いた口調で続けた。
「さっきから、飛距離が全然出てねぇぜ。このままもう一度同じように投げても、多分また同じことの繰り返しだ」
その通りだ。分かっている。でも、他にどうすれば…?
「そしたら、どうすればいいのよっ…!」
焦りと苛立ちが混じった声が出てしまった。
煉は、そんなわたしを見て、フッと小さく息を吐くと、一つの提案をした。
「…いいか。投げ出すのはお前だ。だが、俺が空中で蹴ってやり、コントロールする。それで、飛距離を稼いで、正確にあの女神像まで届かせてやるぜ」
空中で蹴る? そんなことができるの? そして、コントロールまで?
煉の真剣な瞳を見て、彼の言葉がただの出まかせではないことを感じた。彼の並外れた身体能力なら、本当に可能なのかもしれない。
(でも…もし失敗したら…? 残り2回しかないのに、煉に任せて、それでダメだったら…責任を負わせちゃうんじゃ…?)
一瞬、そんな思いが頭をよぎる。だが、迷っている時間はない。自分一人でやっても、また同じ失敗を繰り返すだけだろう。この状況を打開するには、煉の力を借りるしかない。
信頼できる仲間である煉に、この最後の望みを賭けるしかない。
わたしは、煉の目を見つめ、深く頷いた。
「…よし」
わたしは、地底湖の縁に立ち、静かに集中力を高めた。意識は、地底湖の中心に立つ女神像と、そこに掲げられた鏡へと向けられる。
失敗の2回のイメージは、無理やり心の奥底に押し込めた。代わりに頭の中で繰り返すのは、マジックハンドが弧を描き、女神像の鏡をしっかりと掴む、成功のイメージだ。理想の軌道を思い描く。
わたしの周囲の空気が、確かに変わるのを感じる。ピンと張り詰め、余計なものが入り込めない、研ぎ澄まされた精神力が高まっている証拠だ。
静かに、ゆっくりと動作を構える。両手にマジックハンドの竿の部分を持ち、重心を安定させる。呼吸を整え、体の中に静かに力を込めていく。肩の力は抜き、腕と手先に全ての意識を集める。
(今度こそ…!)
失敗はもう許されない。残り2回。
わたしは、隣に立つ煉の方をちらりと見た。煉もまた、真剣な表情で地底湖の中心を見据えている。二人の視線が一瞬交錯し、お互いに小さく、しかし確かな決意を込めて頷いた。この一投に、二人の全てを賭ける。
そして、わたしはマジックハンドを振りかぶった。
「——!」
腕を振り上げ、力を込めて放とうとした、その一瞬だった。
違和感を感じた。
指先から、マジックハンドの竿を通して伝わる、ほんのわずかな、しかし決定的なズレ。
(しまった…!)
一瞬、手を緩めるのが早かったのだ。まるで、野球でボールを投げる際に、リリースポイントが早すぎてボールがすっぽ抜けてしまうような、あの感覚。
「スッポ抜け…!?」
声にはならず、内心で叫んだ。投げ出されたマジックハンドのハンド部分が、狙った方向から大きく逸れ、ゆらゆらと頼りなく空に舞う。
しまった、と思うか思わないかの、まさに刹那の出来事。もうダメだ、と絶望が胸をよぎった、その直後。
隣の空気が、ボォン、と震えるように揺れた。
「——ッ!」
煉が、獣のような唸り声を上げながら、わたしのすぐ横から大きく、力強くジャンプした。その跳躍は、まるで地を蹴る爆発のようだ。
その瞬間、わたしの目には、煉の姿がスローモーションに見えた。
大きく開かれた彼の足、一点に集中された力、研ぎ澄まされた横顔。時間が引き延ばされたような、濃密な一瞬。煉が、まるで狙っていたかのように、宙に舞うマジックハンドのハンド部分を、正確に、力強く蹴る。
ゴンッ、という鈍い音が、わたしの耳にはスローに、しかし鮮明に響いた。
蹴られたマジックハンドのハンド部分は、それまでの頼りない動きが嘘のように、ビュンビュンと空気を裂きながら、信じられないほどの速度で飛んでいく。その軌道は、まるで導かれているかのように、女神像に向かって一直線だ。
(いけ…! いけぇっ!!)
わたしは、祈るようにその行方を見守った。マジックハンドが宙を飛ぶ、この時間は、永遠のように長くもあり、瞬きする間に終わってしまうかのような短くにも感じた。心臓が、ドクドクと全身に血を送る音だけが、やけに大きく聞こえる。
マジックハンドは、驚異的な速度で地底湖の上空を飛び続けた。そして、ついに女神像へと到達する。
ビュンビュン飛ぶ勢いのまま、マジックハンドのハンド部分が、女神像の胸元に掲げられた鏡へと向かう。狙いは正確だ。
——なんとか、鏡をキャッチする。
だが、女神像は鏡を抱きかかえるような姿勢をとっているため、ハンド部分が鏡の縁に引っ掛かり、完全に引き抜くことができず、引っ掛かったような状態になってしまった。
(——っ!)
わたしは、手に伝わるマジックハンドの竿を通して、鏡から伝わる強い抵抗する力を感じた。このまま無理に引っ張っても、竿が折れるか、鏡が傷つくだけかもしれない。最後のチャンスなのに、掴んだのに、引き抜けない——!?
絶望がよぎりそうになった、その時。
わたしは、咄嗟に機転を利かせた。無理に引っ張るのではなく、逆にマジックハンドの竿の部分を、ほんの少し、意図的に緩ませたのだ。
「——今だっ!」
竿が緩み、マジックハンドのハンド部分と鏡の間にわずかな「余裕」が生まれた、その一瞬。鏡が女神像に固定されていた「ロックした部分」から、カチリ、という小さな音と共に外れた手応えが伝わってきた。
鏡を、女神像から外すのに、成功した!
「やった…!」
外れた鏡を掴んだまま、マジックハンドのハンド部分が、まるで役目を終えたかのように、ゆるゆると空中を飛び、わたしの元へと戻ってくる。
重さも、抵抗もなく、手元に戻ってきたマジックハンドのハンドには、しっかりとあの輝く鏡が掴まれていた。
手にずっしりとした重みを感じる。間違いなく、あの女神像の鏡だ。
成功である。
張り詰めていた全ての緊張が、一気に溶けていく。手足の震えが止まらない。
わたしは、鏡を掴んだマジックハンドを胸元に引き寄せ、安堵の息をついた。隣では、煉が力強く頷き、安堵と達成感の入り混じった表情で見守っている。
長かった、そして短かった、命運を分ける挑戦だった。
女神像の鏡は、近くで見るとさらに異様な存在感を放っていた。縁には細かい文字のような文様が彫り込まれ、淡い光が呼吸するかのように脈打っている。わたしは震える手でその表面を拭い、そっと覗き込んだ。
鏡に映ったのは、わたし自身——のはずだった。だが、一瞬だけ、鏡の中の「わたし」の目が、現実のわたしよりもわずかに遅れて瞬きをしたように見えた。
背筋がぞわりとする。
「……今の、見た?」
隣の煉は首を横に振る。「何も変じゃなかったぞ」と言うが、わたしの鼓動は速くなる一方だ。
裏側をそっと撫でると、冷たい金属の感触が指先に伝わる。コン、コン、とノックしてみる。鈍い音が、洞窟全体に響き渡った。
何かが、起きそうな予感がする。けれど、それが良いことなのか、悪いことなのか、今はまだわからなかった。




