橋の見える丘
討伐を終えて街に帰前に少し寄り道をすることにした。
用水路を逸れてから草原を少し歩いた場所、岬にある丘。
ここは切り立った崖の上に位置しているので水道橋が一望できる。
「すごい…です」
ケルシーはその景色に圧倒されたようで、草原に崩折れる。
少し傾いた太陽に照らされて、黄色レンガの水道橋が黄金色に輝いて見える。
谷からの風が、花弁を吹雪のように巻き上げて幻想的な雰囲気を醸し出す。
景色と彼女の横顔があまりに絵画的だったので、切り取って額縁に飾りたいほどだ。
「わたくしはあの橋の上にいたんでしょうか?」
彼女はその風景を瞳孔に焼き付けるように目を丸くしている。
「ああ、この景色を見せれて良かったよ。
腰を抜かすほど喜んでくれるなんて」
「いえ、あんな高いところ…。
落ちたら大怪我じゃないですか〜!」
ケルシーは声を震わせながら訴える。
落ちたら大怪我どころではなく、多分赤いシミになるだろう。
「え……高いところ苦手なの?
さっきまで全然平気だったじゃないか」
「あんなに高いところにいるなんて…、知らなかったんです〜!」
橋の上での記憶を辿ってみて、ひとつの結論に至った。
俺にとっては頼りないと感じた手すり壁だが、ケルシーにとったら自分の背より高い壁で崖下が全く見えなかったのだろう。
怖いもの知らずな娘なのかとおもっていたが、驚異的な鈍感力を発揮していただけのようだ。
様子を見るに無理だとは思うが念のため確認する。
「…立てるか?」
「た、立てませんっ……」
概ね予想通りの返事がかえってきた。
抱き上げるのと背負うのどちらがいいのか分からない。
抱くといっても普通に向かい合って抱くのか、お姫様抱っこなのかいろいろある。
一番無難そうなのはやはり…。
「背中に乗る?」
ケルシーは涙目でこくこくとうなずく。
俺は彼女の鞄を前に抱えるように腕お通した。
鞄は大きさの割には重たくなくなかった。
これなら小さい娘でも背負えるはずだと納得する。
むしろ軽い、いったい何が入っているのか気になるほどだ。
ケルシーに背を向けて屈むと、彼女は抱きつくような格好で体を預けてきた。
ゆっくり立ち上がったが、背中の彼女は爪を俺の背中に食い込ませて震えていた。
なるべく揺らさないようにゆっくり歩き出す。
きっと喜んでくれると期待して連れてきたんだが、彼女を怖がらせる結果になってしまった。
良かれと思っての行動だったが、善意の押し売りになってしまった事を反省する。
「ご主人様、ありがとうございます」
少し落ち着きを取り戻したケルシーが話しかけてきた。
「どうした?」
「景色です。
あの景色を見せてくれるために立ち寄ってくれたんですよね?」
相変わらずこの娘は…、自分が怖い思いをしたのに俺が負い目を感じないように気遣っていたのか。
「ああ、橋が一番綺麗に見えるのがあの丘なんだ」
「やっぱりご主人様のお気に入りの場所だったんですね。
怖かったですが、とっても綺麗だと思ったのは本当で、感動しました」
「シトロンでいいよ、呼び捨てで」
「急にどうしたのですか?」
俺の脈絡のない注文に、彼女は戸惑った様子で尋ねてきた。
「いや、女の子からご主人様って呼ばれるの、正直悪くないって思ってたんだけど、やっぱりくすぐったいな。
俺も呼び捨てにしてるし、ケルシーも名前で呼んでくれよ」
少女はすこし考えてから呼んでくれた。
「はい、シトロンくん」
心臓が止まるかと思った。
彼女の性格だ、てっきり年上の俺のことは"さん"をつけて呼ばれると思っていた。
幼女と言っても差し支えない相手から、"くん"づけで呼ばれるとは思っていなかった。
とんだ不意討ちだ。
耳に息がかかる距離で囁かれたもんだから、計り知れない破壊力があった。
今までは子供だと思って全く意識していなかった。
でも姿が見えない状態、澄んだ声で「シトロンくん」なんて呼ばれると急に異性として意識してしまう。
自分の心拍数が気になる。
心臓の音はきっと彼女に筒抜けだろう。
背中には慎ましやかだが幼女の体躯には不釣り合いな胸の柔らかい膨らみの感触。
俺は思わず生唾を飲み込む。
思い返してみると、背が低いわりに妙に肉付きが良くて色っぽい体をしている。
落ち着け俺…幼女に劣情を催してるんじゃない。
そろそろ崖からも離れた所まで来たので「もう平気か?」と訪ねてみた。
これ以上彼女の体温を感じていたら頭がどうにかなりそうだったからだ。
「実は今もちょっとだけ怖いです。
シトロンくんはいつもこんな景色をご覧になってるんですね」
何のことかと一瞬考えたが、俺の身長から見える視界のことを言っているのか。
「親父さんは?おんぶしてくれただろ?」
「父は背が低いので、こんなに高いおんぶはシトロンくんが初めてです」
「どうする?平気なら降りて歩くか?」
俺の心の動揺など全く気づく様子もなく、ケルシーは遠くを見つめている。
「いえ、シトロンくんが良いなら。
もうすこしこの景色を見ていたいです」
少し平静を取り戻した俺は、歩き続けることにした。
彼女の体温はとても温かく、犬や猫のようにからだの小さな動物は体温が高いという話を思い出した。
しかしこれは機嫌を損ねそうな話題なので、俺は別の話題を探すことにした。
「ギルドで報酬を貰ったら飲みに行かないか?」
口に出してしまってからはっとした。
もう少し考えてから話すべきだった。
こんな子供が酒を飲めるはずないじゃないか。
「嬉しいです…!
お酒に誘ってくださったのはシトロンくんが初めてです!
お酒は飲めませんが、是非お食事をご一緒させてください」
そりゃ子供を飲みに誘う迂闊な奴はそうそういないだろう。
だけど反応は好意的でよかった。
ささやかだけど打ち上げが出来そうだ。
「あ……シトロンくん、少しよろしいですか」
ケルシーが恥ずかしそうに自分の髪を弄りながら尋ねてきた。
「どうした?」
「お花を摘みたいのですが」
半日も過ごせば生理現象がきてもおかしくない。
相手はまだ子供なんだしもっと気を使うべきだった。
「あ、あぁゴメン気が付かなかった。
どこかいい茂みを…」
「ありがとうございます。
ここで大丈夫です」
ケルシーを降ろして近くで用を足せそうな場所を探す。
しかし彼女は、限界が近かったのかその場でスカートの端を手で持ち上げてしまった。
「ちょっ、おいおい」
俺は慌てて両目を手で覆う。
まだ子供だから恥じらいもあまりないのかもしれない。
近くにいてくれた方が危険が無いので安心だが、視界に入れるのはいろいろまずい。
視覚を塞いでいると聴覚に意識が異常に集中してしまう。
ケルシーの服が擦れる音、きっとストッキングを脱いでいる音だろう。
どんな下着を履いているんだろうか?
年相応の動物の刺繍の入った下着かも知れないし、可愛いフリルの下着かも知れない。
いや彼女のことだ、背伸びしてセクシーな大人っぽいデザインを選んいる事も考えられる。
下着を膝まで降ろしたケルシーはしゃがみ込んで素肌を風に晒している頃だろうか。
そして足元の葉を濡らす水滴の滴る音が……。
……してこない。
俺は恐る恐る目を開いた。
「……なにをしてるんだ?」
ケルシーは持ち上げたスカートを籠のように使って白い花を集めていた。
「花を摘んでおります。
スライムが髪にかかってしまいましたので、花の香りの洗髪料を作ろうかと」
よく考えてみるとモンスターの体液を被って喜ぶ女の子がいるはずない。
ケルシーはそんな役目を進んで引き受けて、不満の一つも漏らさずに仕事をやり遂げてくれた。
そんな彼女でわいせつな妄想、下着の色まで想像してしまったことに罪悪感を感じた。
俺は彼女の真似をして背の低い木の枝から花を摘んだ。
白い花弁が一体何の花なのかわからないが、どこかで嗅いだことがある、とても良い香りだ。
「シトロンくん?」
彼女は不思議そうにこちらを見上げてくる。
「集めるのはこの花でいいか?」
俺が花を一つ手渡すと、彼女は少し驚いた表情になってからはにかんだ。
「はい。ありがとうございます」