道化に送るシンフォニー④
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水晶を前に椅子に深々と座った私は、深呼吸をひとつ挟んで右手を上げた。
私の頭よりもずっと大きい水晶は、透き通っていてとても綺麗だ。
触れたら、私の記憶がここに映し出されるとタルークさんは言っていた。
それがお父さんとお母さんの過去に繋がるのかはわからない。
いまどうしているのかもわからない。
でも、私もふたりが無事だと信じている。
「触れます……!」
一言告げて、私は迷わず水晶に手のひらを当てた。
瞬間、ぐんと引っ張られたような感覚が全身を駆け抜けて、一気に力が抜ける。
「……っ」
椅子がなかったら、倒れていたと思う。
私は急激に重くなる体を必死に立て直し、水晶に映る景色を見ようとした。
「大丈夫、力を抜いて。君は夢のなかで――」
タルークさんの声が聞こえて……私の意識は急激に薄れていく。
体は傾いだけど、右手は水晶から離れることはない。
――まるで……夢と現実の境界線にいるような。そんな奇妙で心地よく、なにかから解放されたような微睡みが、私を包んでいた。
「……大丈夫なのか」
「うん。これは体の深いところに留まっている魔力を引っ張り出すようなものだから、眠っているのと変わらないよ」
大臣に答えたタルークさんは、水晶のそばに歩み寄る。
澄んでいた水晶には、いまやゆっくりと……どこかの景色が映り始めていた。
「……さあ、見せてもらうよ」
タルークさんの片方だけしかない翠色の眼がぎらりと光る。
――冷たい石の部屋。
そこには、数々の道具がぱっと見は乱雑に置かれていた。
その隙間を縫うように、丸かったり細長かったり三角だったりするガラスの瓶と、なんだかわからない様々な色合いの液体、それから動物のものと思われる骨などが並んでいる。
けれど、ここを使う人たちにとって、あの並びは使いやすいようよく整頓された姿であり、誰かが動かそうものなら白い研究服の人たちが烈火の如く怒るのを知っていた。
そのなかで、知っている――そう、知っている人が、前にやって来る。
黒髪黒眼の男の人は、ほかの人と同じ研究服に身を包んでいた。
物を片付けたり、自分の身なりには無頓着なんだ、この人は。
だから、切るのを面倒くさがった髪は、頭の後ろでちょこんと結ばれていて――いつもそう――。
「よく成長している。いい頃合いか」
彼は微笑んで、手元のボロボロになった手帳になにかを書き込んだ。
「……レザ、ちょっといいかしら」
さらにやってきたのは、暗めの茶色い髪――こっちはとても長く、背中を覆うほどある――を同じように頭の後ろで結んだ、切れ長の紅い眼をした女性。
すっきりとした顔立ちの美人で、この人のことも、とてもよく知っている。
「アルミナか。どうした」
「器のことだけど……なんだか、意識があるみたいに見えない?」
「……意識? 器に? そんな馬鹿な」
「――なら、少しだけ実験に付き合ってほしい」
レザ、と呼ばれた男性と、アルミナ、と呼ばれた女性。
知っている。
この人たちを、知っている。
彼らは、それから何度もやって来ては、器――うつわ? ううん、そうじゃない。
『わたし』に、教え、見せ、反応を待つようになった。
やがて、誰もいないある夜に。
彼らは、私を連れ出した。
「よし、いいぞ。おいで」
男の人――レザ――お父さんが、私に腕を伸ばす。
「ちゃんと認識してくれているわ」
女の人――アルミナ――お母さんが、私を覗き込む。
「やっぱり、これは――こんなことが」
呟いたお父さんは、広がる星空の下で私を抱き上げて言った。
「器じゃない。魂は――ここに在るんだ」
――器。うつわ。
うつわじゃない。……私は、器なんかじゃない……。
私。わたしは……!
「――結界を破ろうとしている者がいる。タルーク」
瞬間、意識が半分だけ引き戻され、大臣の焦りを含んだ声とともに塔が震えた。
微睡みのなか、私は……いま見ていた夢……ううん。現実のことを受け入れられず、固まっていたと思う。
「なんてことだ……まさか、十七年前に、これだけのものが……?」
タルークさんが呟いて、額に右手を当てて首を振る。
「タルーク」
「わかってる! ……予想以上だ。そこまで事態は切迫してるのか」
なにが言いたいのかはわからなかったけど……決していい響きではないのはわかる。
ふたりが私を挟んで扉に向かい合い、私は水晶に手を当てたまま、まだ動くことすらできずにぼうっとしていた。
頭も体も重い。
いま見ていた夢の続きは、明白だった。
彼らは私を連れて逃げ出した。
旅の商人として……何年も放浪することになるのだ。
でも――。
「私は……」
掠れた声が、唇からこぼれていく。
私が器なら、私は……誰なんだろう……?
私に入ろうとする黒い靄……あれが、私なのだろうか。
そのとき、一際大きく塔が震え、結界が――弾け飛んだ。
同時に、耳を塞ぎたくなるような轟音が響き渡り、扉が信じられない勢いで吹き飛ばされる。
そこにいるのが『黒い靄』だと、私は思っていた。
けれど。
「デューッ!」
「……!」
聞こえた声が。
飛び込んできた真っ赤な髪の青年が。
私の意識を、今度こそ引き戻す。
真っ直ぐにこっちに駆けてきたその人が、椅子にぐったりともたれていた私を思い切り抱き締めたのと同時に、視界の端で炎が躍った。
太陽の匂いがして、その温もりが私を満たす。
ぎゅーっと苦しくなって、でも嬉しすぎて。
私は、震える声でその名を呼んだ。
「……ルークス……?」
「うん。……ごめん、遅くなって。――もう大丈夫。大丈夫だ」
胸のなかが、熱くなる。
来てくれた。ルークスが、来てくれたんだ……。
「――退け大臣……! デューは俺が守……」
私を抱き締めたまま、噴き上がる炎を宿した右手を上げたルークス。
しかしその言葉は、最後まで紡がれることはなかった。
いつもありがとうございます。
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