代償 其の一
『冬丘の事件後』、僕は古山さんを無事に家まで送り届けた後、薄暗い夜道を歩いていた。
しばらくの間、月明かりが道を照らしていたのだが今は雲に覆われていて真っ暗だ。道を通る人も車もいないが、僕は通行の邪魔にならないように端に自転車を停めて、ライトを点けた。ついでに携帯で時間を確認する。画面には『5月7日 午後9時07分 くもり』と表示されており、わずかだけ眺めていると自然にため息が漏れた。約束していた時間をあまりにも過ぎている為、普段は優しい母でも流石に怒るだろう。
「ハァー・・・・・」
言い訳を考えるよりも先に2度目のため息が漏れた。どうやら、『感情』はただ戻っただけではないらしく、感情を失っていた期間の分が今の僕に上乗せされているような感じだ。そのせいか、今まで以上に感情の表現が豊かになっている感じがする。そのお陰で瞳に映る全てが鮮明に見え、身体の五感が研ぎ澄まされている。
例えるなら、子供の頃に元々持っていた豊かな感性を取り戻したような感じだ。
しばらく前までは視界に映るモノ全てが淡く見え、生きている心地がしなかった。黙示者になる前からもそうだったが・・・・・今は違う。瞳に映る全てが鮮明に見え、全身を駆け巡っている血流さえも把握できている。
のろのろとした動作で携帯をしまい込み、自転車にまたがろうとしたその時だった。体に寝起きのような重い重圧が圧し掛かった。一瞬だけふらついたが、転倒する寸前の所で何とか立ち止まる事が出来た。気力は十分だが、貧弱な僕の体が付いていけていないようだ。
「ハハハ・・・・・だるいなぁ」
誰もいない夜道で僕はいつもの台詞を呟き、家に向かってゆっくりとペダルを漕ぎだした。
家の前に着くと、僕は野島がいつも止めている場所に自転車を停め、玄関のドアを音を立てないようにゆっくりと開いて中に入った。目の前には顔を膨らませて両腕を組んだまま仁王立ちしている母がいた。僕が来るまでこの状態だったのかは分からないが、怒っている事は間違いないだろう。
「た、ただいま・・・・・おかあさん」
出来るだけ愛想のある笑顔で口を開いたが、母はムスッとした顔のまま僕を見据えたままピクリとも動かない。元々優しそうな顔をしているのでそこまで怖くないが、どことなく反省させる威圧感が漂っている。
「え、えっと・・・・・遅くなってごめんね」
何とか言葉を口に出すが返事は返ってこない。少しだけ沈黙が訪れると母は呆れたようにため息を漏らし、いつものように愛想のある笑顔を浮かべ口を開いた。
「まあ・・・・・もう、いいわ。 お腹空いてる?」
多少戸惑いつつ僕も笑みを浮かべて頷く、母は手を洗ってくるよう言うと、先にリビングへと入っていった。言われた通りに手を洗い、そのままリビングへと入ると、テレビで今話題の推理ドラマが流れていた。母は僕の食事を準備しながらも時折、視線をテレビに移して事件の成り行きを見守っている。
僕はいつもの席に腰を掛け、食事が出るまで推理ドラマを観る。既に事件は起きた後らしく、今は犯人がどうやってアリバイを作り、どのようにして犯行に及んだかについて話していた。
野島の黙示『解析』なら事件はもうすでに解決しているのだが、僕と母は頭上に次々と疑問符を浮かべるだけで、何もわからないでいた。
「犯人はいないよ」
どことなく聞こえた声の方に僕と母は視線を向けた。少しだけ開いていたリビングのドアが完全に開くと、そこから軽装に身を包んだ野島が入って来た。自信ありげな笑みを浮かべながら口を開くと話を続ける。
「被害者だと思っていた人が転んで、振動で立てかけていた包丁がそのまま心臓めがけて真っ直ぐに刺さったから死んだよ。背中に包丁が刺さった人が台所で倒れていたら、そりゃあ殺人だと勘違いするだろうよ」
「「・・・・・」」
僕と母は野島の話を聞いて、漠然としたまま動かなかった。そんな事があるはずないと思いつつも、野島が推理ドラマやクイズ番組で外れたことが一度もないので、本当なのか判断が難しい。
野島は冷蔵庫からペットボトルのスポーツドリンクを取り出すとテレビの傍にあるソファーに腰かけ、キャップを外して飲み始めた。どうやら晩御飯はすでに食べた後らしい。
「まあ結局、最後まで見るから別にいいわ」
母はそんな事をいって僕の前に料理を置くと正面に座った。僕は礼を言い食事を始める。焼き魚に豆腐の味噌汁、傍に肉じゃがが添えられており、いつも通りの優しい味がする。感情が戻ったからなのか、いつも通りの事なのに凄く落ち着く。ドラマの展開も気になったがすでに野島の解説を聞いたので、そのまま食事に集中する。
「あーあ、また野島の言った通りだったね。それに、最後はちょっと・・・・・」
しばらく見ていた母が呆れた口調でそう言うと、野島が「だから言ったのに・・・・・」と呟いて体を起こし、空になったペットボトルを手に取り立ち上がった。どうやら無事にドラマが終わったらしい。
「そう言えば、なんで野島はすぐに事件の内容が分かったの?」
二人共僕が黙示者である事を知ってはいても、僕自身が黙示者であるという事を自覚し、活動している事は知られていないので、僕は普通の学生を装って質問した。質問に対して二人共呆れたように僕を見ると、野島はため息を漏らして、いつものように解説を始めた。
「推理ドラマは事件から先に始まるから、『犯人の考えていた事』や『自分だったらどうしたのか』とかの事を考えると何となく正解になるんだよ。まあ、樹島には一生わからないと思うけど」
「へぇー、確かに・・・・・わからないな」
野島は僕を見下すように僕を見据え、僕は目を点にして視線を合わせる。野島は軽く舌打ちしてペットボトルを捨てると、「もう寝る」っと言ってリビングを出て行った。その光景を母は黙って見ているだけだったが、ぎこちない笑みを浮かべて僕の食べ終えた食器を片付け始めた。僕は礼を言って部屋に戻ろうと席を立つ。
「ああ、樹島。早くお風呂に入っちゃいなさい」
「今から入るよ。もう少し待ってて」
僕はノロノロとした動作で自分の部屋に戻り、寝巻代わりに使っている灰色の半袖シャツと黒の半ズボンを下着を持ってお風呂場へと移動した。
いつものように入浴を済ませ、持ってきた服に着替えてリビングへ戻ると、ちょうど母が翌日の朝食の準備をしていた。僕は母の斜め後ろにある冷蔵庫を開けてよく冷えた缶コーラを取り出し、部屋に戻ろうとすると、
「飲んだら、そのまま机に置いたままにするんじゃなくてちゃんとゴミ箱に入れといてね」
「わかっら~」
入浴後でのぼせている僕はろれつが回らず、ふらつきながらもゆっくりと部屋へ戻る。いつものことながら自分が『平均以下の貧弱体質』である事を改めて思い知らされるが、生まれつきの体質なので仕方ない。
部屋に入ると電気を点けて机に座り、感情を失ってから今まで触っていなかったパソコンを前にして電源を点けた。久しぶりに見るロゴが表示されると、すぐにログイン画面へと切り替わった。僕は缶コーラを額に当てて少しの間、頭に籠っている熱をゆっくりと冷ます。
「ふぅ・・・・・」
背もたれにもたれて、ため息に似た安息を漏らしてから額の缶コーラを机に置いて蓋を開く。プシュっという音が鳴って蓋を戻すと、口元に当てて中の液体を飲む。冷えているシュワシュワとした炭酸と飲みなれている甘さが入浴後の渇いたのどを潤していく。少し飲んだ所で僕は口元から缶を離し、邪魔にならない所に置いてパソコンへと向かい合う。マウスとキーボードを操作してログインすると、インターネットで1時間程ゲームをした。感情が無かったころは何も感じなかったが、今は十分に楽しむことが出来た。
しかし、強烈な眠気と疲労感が出てきた為、仕方なくパソコンの電源を切ると缶コーラを飲み乾した。母に言われた通りにリビングに戻り、軽くすすいでゴミ箱に入れる。家族はすでに眠っている時間帯なのでリビングには誰もおらず、音を立てないように部屋へと戻る。時間を確認するとすでに23時を過ぎていた。眼鏡を机に置いて電気を消し、布団に倒れこむ。バフっという音が鳴って、視界が真っ暗になる。
「・・・・・」
呼吸が出来ないので体を反転させ、天井を見つめる。眼鏡を掛けていないので視力は悪いが、部屋は真っ暗で物の輪郭すらも見えない。普段なら薄いカーテンの隙間から月の光が部屋を照らすのだが、どうやら雲に覆われているらしい。
目蓋を閉じていないにも関わらず、視界には暗闇しか映らない。僕はゆっくりと目蓋を閉じて今日あった事を思い出す。そう言えば、今日は色々とあり過ぎた。
冬丘家が被害を受ける前に事件を解決したり、何の前触れもなく唐突に感情が戻ってきたり、古山さんに慰められたり、夜道で・・・・・
それを思い出した途端、一瞬にして顔が熱くなるのを感じた。僕自身が稀に経験する羞恥心だ。誤魔化すようにすぐさま体を反転させて枕に顔を沈ませた。
(僕は何であんな事を・・・・・! おかしいだろう!)
心の中でそんな事を叫びながら、自分が相当感情的になっている事を痛感する。元々黙示者になる前(正確には黙示者として活動するようになる前)でもこんなにも感情的になる事はあまりなかった。
君は・・・・・優しすぎるよ
ふと、古山さんの言葉が頭に浮かんだ。
「・・・・・僕は優しくないよ。優しいのは古山さんや・・・・・の方だ」
独り言を呟いてゆっくり目蓋を閉じると、いつの間にか羞恥心は治まっており、僕はそのまま深い眠りに就いた。
どれくらい寝ていたのだろう。右手に耐え難い程の痛みで僕は目を覚ました。すぐに上体を起こして右手を前に出した。
「!?」
暗闇に目が慣れている為、右手が今どうなっているのかハッキリとわかる。僕の意志ではなく右手は固く握られ、憎悪を殴った際に触れた部分がバキバキという骨が砕ける音を立てながら『破壊』と『再生』が繰り返されている。指の付け根(第3関節)から第2関節にかけて尋常じゃない痛みが伝わり、右手全体が破裂しかかっているように感じる。歯を食いしばって必死に痛みに耐えているが、すぐに呼吸は荒くなった。心臓が鼓動を刻む度に右手へと作用し、痛みが増す。幸いにも母の黙示『超回復』のお陰で右手は何とか原型を留めている。ゆっくりだが確実に『破壊』が治まっていき、徐々に『再生』の方が上回っていく。次第痛みは完全に消え、完治したことを理解した僕はようやく考えをまとめる。
そう言えば、手崎に痛み止めを打たせていなかった事と憎悪を討伐する際に自分が使った黙示の代償をまだ払っていなかったことを思い出し、隣に置いてある携帯を手に取って時間を確認した。
5月8日 午前1時05分 くもり
画面を消して天井を見上げると、目蓋を一気に限界まで見開いた。
刹那、僕の身体は瞬時にして活動を静止させた。血流の流れや肺に入っていた空気、細胞の活動さえ静止している。憎悪を討伐した時とは全く逆の状態だ。どちらにも共通している点があるとすれば・・・・・どちらも僕の意思によって行われているという事とどちらでも僕の意識があるって事だろう。
30秒から1分ほど経つと、唐突に僕の静止していた時間が再び動き始めた。
しかし、僕は一度だけ目蓋をぎゅっと閉じて、再び目蓋を限界まで見開いた。動画を早送りにしたみたいに僕以外の空間がもの凄い早さで流れた。
5秒も経たずにそれは治まると僕は携帯を手に取って、時間を確認した。
5月28日 午後7時36分 くもり
どうやら元の時間に戻れたらしい。ついさっき晩御飯とお風呂を済ませたばかりだが、お腹は空いており入浴後のさっぱりした感じもない、着ているのも寝巻じゃなく戻る前に着ていた制服だ。ゆっくりと体を起こして立ち上がり、机から眼鏡を手に取って掛ける。
視界が鮮明になり、軽く首を回して肩こりを和らげる。そのまま気だるげにリビングへと移動して冷蔵庫から缶コーラを取り出し、テレビを点けてソファーに腰かけてニュースを見ながら缶コーラを飲む。
ニュースで様々な情報が流れているが特に事件があるわけではなく、芸能人の恋愛についてやある会社の社長が記者会見で謝罪しているのが放送されている。しばらく見ていたが、缶コーラを飲み乾した僕はテレビを消し、缶をゴミ箱に捨ててリビングを出ると玄関に母が腰かけていた。買い物に行っていたらしく、マイバッグには様々な食材が入っている。
「ああ、お母さん。おかえり」
リビングの扉を閉じて母に声をかけると母は少し驚いたように振り向いて、僕だとわかったら笑みを浮かべて返事を返す。
「ただいま、樹島。 あれ? 今日は遅くなるんじゃなかった?」
「ああ、本当はそうだったんだけど。友達が風邪で休んでいたから、そのまま家で自主勉していたんだよ」
「そうだったの。 今からご飯の支度するからもう少し待っててね」
「わかった。その前に、先お風呂入っていいかな?」
「うん。もうすぐ野島も帰ってくる頃だから先に入っちゃいなさい」
「わかった。すぐ済ませるようにするよ」
そう言って部屋に戻ると、机に眼鏡を置いて寝巻代わりの黒Tシャツと黒い半ズボン、下着を取ってお風呂場に向かった。
入浴を済ませると持ってきた服を着て、ふらつきながらリビングへ入っていく。
「樹島はお風呂入った後、必ずのぼせるのは分かるけど・・・・・今日は特に顔が赤いね。 大丈夫?」
母が晩御飯を作りながらこちらを一瞥すると、驚いたようにして声をかけてきた。僕はふらつきながらも何とかソファーに辿り着き、そのままソファーに前から倒れこんだ。ろれつと回らない頭に力を振り絞って口を開く。
「らいぢょうぶ、らいぢょうぶ、今日はぁなせか、いつまよぃのわせてぇうだけらぁよ~(大丈夫、大丈夫、今日はなぜか、いつもよりのぼせているだけだよ)」
言っている自分でも笑いがこみ上げてくるが、身体に籠った熱で力が入らない。眼鏡を掛けていないからかのぼせているからなのかわからないが視界がぼやけていて、色と輪郭でしか物を判別できない。母は呆れたようにため息を漏らすと冷蔵庫から何かを取り出して僕の手にそれを握らせた。
「頭冷ましながら、飲んじゃいなさい」
「あいがたう」
視界がぼやけていてよくわからないが、握っているのはどうやら缶コーラらしい。渇いたのどを潤したいが、その前に額に当てて熱を冷ます。
少しの間そうしていると玄関から野島の声が聞こえた。どうやら部活が終わって帰って来たらしく、いつものように玄関で土を落としてお風呂場に直行する。母は顔を出して何か話していたが、のぼせている僕には何を話していたのかわからない。
「ご飯もう少しで出来るから」
「わかった。すぐ入る」
ようやく頭が冴えてきたが聞こえてきたのはそれだけだった。額から缶コーラを離してゆっくりと上体を起こし、缶の蓋を開けて一口飲んだ。ある程度動けるようになった僕は鈍い動きでテレビを点け、テーブルのいつもの席へと腰かけて料理が出来上がるのを待つ。
すぐに料理が出来上がり、それぞれが目の前のテーブルに並べられる。偶然にも献立は先ほどと同じだった。入浴を終えたらしく野島も丁度入ってきた。野島はスタスタといつもの席に座ると合掌して一人だけ食事を始めた。唖然としながら見ていると、前の席に母が座り合掌して食事を始めた。続けて僕も合掌して食事を始める。小食の僕にとっては2食続けて食べるのは苦痛なのだが、僕の黙示によってすでに消化され無くなっている為、普段通り美味しく食べることが出来た。
食事を終えて部屋に戻ると、そのまま布団に潜り込んだ。目蓋をゆっくりと閉じて意識を集中すると空間が急速に早送りされる感覚を感じた。しかし、それはすぐに治まると僕はゆっくりと目蓋を開いて携帯で時間を確認した。
5月29日 午前0時32分 晴れ 着信2件 伝言1件
そう言えば、波屋から何か頼みがあるって言われていたな。
しかし、すでにこんな時間なので伝言を聞いてから今日はもう眠ろう。僕は伝言を再生させて耳元に携帯を当てた。伝言が開始される音に続いて知っている声が流れる。
「あー、凪月。急用で3日くらい学校休むから。んじゃ」
僕は首を傾げて携帯をスリープ状態にして、充電ケーブルを差し込んだ。携帯を放り投げるように布団の傍に置いて横になった。
波屋は学校を休む時に必ず連絡してくる。理由はわからないが、波屋なりの気遣いなのだろう。僕は自分勝手にそう決めつけてゆっくりと目を閉じた。
身体がゆっくりと水底へ沈んでいく感覚と共にゆっくりと深い眠りに就いていく。
ピピピピピピピピ・・・・・
いつものアラーム音が聞こえる。意識が覚醒してアラーム音が徐々にハッキリと耳に響く、目蓋を開くのもアラームを停めるのも体がだるくて動く気が起きない。
「・・・・・」
仕方なく目蓋を開いて携帯で時間を確認する。
5月29日 午前4時45分 晴れ
設定している時間ではあるが、一度も起きた試しの無かった時間だ。僕は指でアラームを解除して再び眠りに就こうと目蓋を閉じると、脇腹に強い衝撃と痛みが走った。
「っうぅ・・・・・」
苦しみもだえつつも右目を開き、衝撃を加えたであろう人物の方向に顔を向ける。眼鏡を掛けていない為、視界はぼやけていて誰なのかは色と輪郭でしか判断できない。しかし、親切にもその人物は自分から声を掛けてくれた。
「はぁ、早く・・・・・起きろよ」
声変りを終えた低い男の声が耳に入り、ぼやけていた視界は次第に形が分かるようにまでなると、僕の隣には見慣れたユニホームを着た少年が立っていた。弟の野島だ。
「うぅん・・・・・早過ぎないか? もう少し眠らせてくれよ」
「・・・・・」
野島は見下すような、哀れむような視線を向けている。
「はぁ、もう俺は行くからな」
軽くため息を漏らしてそう言うとそのまま部屋から出て行った。毎朝起こしに来てくれるのは嬉しい事だが、流石に今日は早過ぎだろう。 ・・・・・寝るか。
夢を見た。
目蓋を開くと目の前には人が10、いや20くらいの人が傷ついて倒れており、辺りは殺風景な肌色をした平地がどこまでも続いている。周りを淡い光が照らしているにも関わらず、空には太陽や月と言った光を放つ物や光を反射する物も無かった。倒れている人は全員血を流している為、生きているのか死んでいるのかわからない。夢だと言うのに現実味があり、心臓の鼓動が早くなり呼吸も荒くなって考えがまとまらない。普段ならこんな悪夢を見ることはなく、そうじゃないとしてもここで覚めるのだが・・・・・
動揺して動けずにいた僕を呼び覚ましたのは、地面に着いたままの手に何かの液体が付いている感覚だった。ゆっくりと地面から手を離し、恐る恐る顔を向ける。
「!?」
生々しい赤い鮮血が両手を染めていた。まだ固まっておらず、鮮血は重力に従って手の平からひじにかけて垂れていった。
すぐ傍には2人ほど、血を流して倒れている。周囲にはすでに『血だまり』が出来ており、どうやら両手に付いた血は彼等のモノらしい。周りの倒れている人達よりも出血がひどく、2人共倒れたまま動かない。一人は僕と同じくらいの少年、もう一人も僕と同じくらいの少女だった。
すでに荒くなっている呼吸が、次第にもっと荒くなり心臓の鼓動も強く、早くなっていく。発狂しそうなその時だった。背後から地震に似た低くて重い音が聞こえた。
「ヲオオオォォォォォ」
ゆっくりと恐る恐る振り返ると、そこには山のように巨大な黒い何かがブヨブヨと揺れ動きながら収縮していた。うめき声のような声と共に黒い何かが2メートル程になると、これまでは歪な形状だったモノが徐々に人間のような形へと形状を変えた。
恐怖と驚きのあまり声が出ない。全身から冷や汗が流れ、視線をソイツから逸らすことが出来ない。状況は尚も理解できていないが、夢にしてはありえない程現実的だ。
「ヲオオオオォォォォォォォォォォォォォォォォ」
ソイツが雄たけびを上げると同時に、全身から黒い煙が噴き上がり一瞬で辺りを覆った。
しかし、すぐに激しい爆音と衝撃が発せられて覆っていた黒煙が一気に散らされ視界が戻る。
一体、何が起きているんだ!?
呆然と見据える僕の前には、禍々しい漆黒の鎧を纏い、紅色の眼光をこちらへと向けている人の形をした『何か』が立っていた。光沢を放つように光を反射している漆黒の鎧には、中に入っているのが人ではない事を示すように禍々しい黒煙が鎧とその隙間から吹き出ている。
僕はソイツから一瞬たりとも目を離せずにいた。目の前のソイツはゆっくりと周りを見回すと、紅色の視線が僕と重なった。
「愚かなる黙示者達よ・・・・・我を殺すためにいくら束になろうとも、我が進行を妨げるまでにもならぬ」
鎧から深くこもった低くて渋い声が聞こえた。その声はあまりにも不気味で、冷徹で、頭に深く刻まれる程に印象的だ。ソイツは僕に向けて指を指し、言葉を続ける。
「我の前に現れる全ての者・・・・・死せるべし」
刹那、ソイツは僕の目の前に一瞬で移動しており、膝をつけている僕と高さを合わせ右手が僕の左胸の方に伸びていた。ソイツの視線は自らの右手にのみ向けられている。
遅れて胸に激痛が走り、右手の伸びた方に恐る恐る視線を移す。
「!?」
驚きを隠せなかった。右手の伸びた先、つまり僕の左胸にはソイツの右手が突き刺さっていた。右手が僕の心臓を覆い、掴んでいるのがしっかりと分かる。
ソイツは僕の心臓を掴んだまま、自分の方へと勢いよく手を引いて心臓を引っこ抜いた。激しい激痛が走り、肺の空気を全部吐き出す。消化器官や肺が損傷しているらしく空気と一緒に大量の血も吐いた。視界の端が少し暗くなり、意識が遠のく、空いた胸を押さえて顔をソイツに向ける。大量の出血のせいか、視界がぼやけていく。
苦しむ僕に構うことなく立ち上がると、右手に乗せた僕の心臓を哀れむように見ていた。すでに血流が通っていないにも関わらず、心臓はまだリズムよく鼓動している。
「これほどまでに貧弱な心臓は見た事ないな・・・・・見るに堪えぬ」
そう言うとためらう事無く握りつぶした。肉の弾ける音と同時に血肉が弾け、少しだけ僕の体に付いた。
「我、『灰の王』に絶たれる事を光栄に思え」
薄れゆく意識の中で、それだけがハッキリと聞こえた。視界は暗くなり、次第に激痛も治まった。
ピピピピピ・・・・・
というアラーム音が徐々にハッキリと聞こえ、パっと目蓋を開く。右腕に力を込めて天井に伸ばす。肌の色は相変わらず悪いが、『血』は付いていない。すぐさま上体を起こして右手を胸に当てて顔を向ける。規則正しい鼓動を奏でており穴などは空いていない。
ハァ、ハァ、ハァ・・・・・夢、か・・・・・
全身を嫌な汗が覆っていた。なり続けるアラームに目を移して時間を確認する。
5月29日 午前5時30分 晴れ
いつもより少し早いが、僕はゆっくりと立ち上がり着替えを持ってお風呂場に行った。低めの温度に設定し、シャワーで眠気と汗を洗い流して持ってきた服に着替えるとリビングに入った。野島がすでに家から出ていたからか朝食はすでに準備されていた。母はソファーに背を任せてテレビを点けたままウトウトしている。
「おはよう。お母さん」
「う、うーん。 あら、おはよう樹島、早いのね!」
母は少し伸びをしてこちらを見ると、驚いたように目を見開いて体を起こした。朝食の準備をすると言ってテレビを消すと、台所へと移動して準備を始めた。
普段よりも早く起きた事で時間をかけて朝食を食べることが出来たが、気分的には最悪だったので母との会話も一切なかった。適当な時間になるまで部屋で夢の事を考えていると、登校するには丁度いい時間帯になった。気だるげな体に鞭を打ち支度を済ませて家を出ると、気落ちしている僕をあざ笑うように、生々しい朝焼けが町を照らしていた。