運命の日
「ロレント・・・!?」
床に尻餅をついたままのエルゼが、素っ頓狂な声をあげた。 令嬢らしく口元を隠すこともせず、あんぐりと口を開けている。
「キースまで・・・なぜここに?」
エルゼは頭を押さえたくなってきた。
よりにもよって最悪なタイミングで、恋人とその弟が来てしまったのだ。
ロレントはこの状況を誤解しているようだし、キースはおそらく――
彼女が恐る恐る視線をリエラの方に向ければ、彼女はしばらくキース目を合わせた後、俯いてしまった。
先程の一件といい、冷淡に感じるほど凛としている、普段のリエラらしくない。伏せられた艶のある睫毛は、微かに震えているようにさえ見えた。
(やっぱり、この二人には何かあるのね)
エルゼの直感が確信に変わる。
先程リエラが我を忘れかけたのも、キースの名前を出した直後だった。
「エルゼ・・・怪我は?」
いてもたってもいられないという様子で、ロレント駆け寄ってくる。
差し出された彼の手を借りて、エルゼは立ち上がった。
「平気」
恋人を安心させようと、エルゼは笑ってみせる
。
が、不器用な彼女は演技めいた笑みしか浮かべられず、ロレントにとっては不安を煽るだけだった。
彼の激情の矛先は、即座にリエラに向けられる。
「リエラ、何があったか話してもらおうか」
ロレントが詰め寄るも、リエラは苦々しげな顔で黙ったままだ。
何やら胸元を押さえつけており、痛みを堪えているようにも見える。
だが、怒りに目が眩んだロレントには、罪を暴かれた者のふてぶてしい態度にしか思えなかった。
「ロレント、リエラ様は何も――」
「君じゃなくて、彼女に訊いている」
ロレントの声は、裁判官のように厳粛に響いた。
午後の光に満ちた部屋も、こんな雰囲気では法廷のようだった。
「事故なのか?それとも、故意にやったのか?」
ロレントから嫌悪と疑いを向けられて、リエラは心が冷えていくのを感じていた。エルゼの甘言にかき乱された精神が、安定していくのがわかる。
優しさよりも憎悪の方が、冷徹な人間を作り出す役に立つのだ。
(ロレントに感謝する日がくるとはね)
俯いていた彼女は、胸元で揺れるコインをより強く握りしめる。
そうすれば、自分を冷たく射抜くキースの目から、逃れられそうな気がした。
意を決したように手を離すと、彼女は顔をあげて淡々と言い放った。
「みずぼらしい孤児たちの手紙を読まされようものなら、貴族ですもの、誰だってカッとなってしまいますわ」
一瞬、室内を沈黙が包む。
そこにいる四人全員が、全く違う表情を見せていた。
怒りと驚愕で固まるロレントに、哀しげに目を伏せるエルゼ。そして、うんざりしたような顔のリエラに、そんな彼女を注視している無表情のキース。
重苦しい沈黙を破ったのは、ショックから立ち直ったロレントだった。
彼の瞳は、大切な者たちを侮辱されて怒りに燃えていた。怒りを向けた相手が男だったなら、殴っていただろう。
「リエラ、君はっ――」
彼の言葉は続かなかった。
なだめるように後ろから肩に手を置かれ、ロレントは背後を振り返る。
そこに立っていたのは、らしくない神妙な顔つきのキースだった。
「兄貴」
弟のいつになく低い声に、ロレントは本能的に嫌な予感がした。
野良猫のように飄々とした性質のキースは、負の感情をも陽気さで覆ってしまう。
だからこそ、彼から笑顔が消えた時は恐ろしい。笑みで誤魔化せないほどに、感情が高まっているのだ。
「当主に用があるんだろ」
「あぁ、そうだが・・・」
ロレントの返答に、リエラが静かに反応する。
彼女は、憔悴しきった父を人に会わせることが嫌いだった。
ましてロレントのような人間は、父には痛いほど眩しく映るだろう。
「父様に何を――」
「黙れ」
リエラの言葉は、威圧的な声に恐れをなしたように霧散した。
「あんたは俺と一緒に来い」
そう言うやいなや、キースはリエラの手首をきつく握った。
そのまま、抵抗する彼女を引きずるようにして部屋を出ていく。
「ちょっと、放して・・・っ」
「無礼です、こんなの」
「黙ってろ」
それきりキースは無言になり、応接間の扉が彼の手で乱暴に閉められる。
リエラの虚しい抵抗の声だけが、廊下から響いた。
残ったロレントとエルゼの二人は、合わせたようにきょとんとした表情をしていた。
エルゼが、半ば無意識でぽつりと呟く。
「あの二人、何かあったのかしら」
「・・・君もそう思うか?」
「というと、ロレントも?」
頷いたロレントの様子からは、複雑な心境が手に取るようにわかった。
「あぁ・・・。この間、僕の知り合いが薔薇園であの二人を見かけたらしいんだが・・・彼が言うには、どうも、その・・・“いい雰囲気”だったらしい」
言いづらい内容に、ロレントの声は途切れ途切れだ。
エルゼの方も、躊躇いがちに告げる。
「キースの方は、あの・・・いつもの演技とかではないの?」
キースは、兄とその恋人のために助力を惜しまなかった。
エルゼたちの静止も聞かず、あのリエラを手玉に取ろうとしたのもその一つだ。
「僕も最初はそう思ったが・・・」
「さっきの様子からすると、違うかもしれないってことね・・・」
エルゼは切なげにため息をついた。
あの二人にはやはり、自分たちが立ち入れないような見えない壁がある。
しかしエルゼには、二人の間はもっと分厚い壁で隔てられているように思えるのだ。
「その話はまぁ、置いておこう。僕は、リエラの父君に伝えることがあるんだ」
唐突に、ロレントの声音が明るくなった。
何事かと、エルゼも彼の方を向く。
恋人の顔は、先程とは打って変わって晴れ晴れとしていた。
「あ、あぁ・・・さっきもそう言ってたわね」
いつになく上機嫌なロレントの様子に、エルゼは圧倒されていた。
「じゃあ、行ってきたらどう?待ってるわ」
「いや、先に君に言ってしまいたい」
「・・・へ?」
目を丸くしているエルゼの肩を、ロレントは愛しげにかき抱いた。
そして、歓喜に満ちた声で告げる。
「あぁ、エルゼ・・・喜んでくれ!」
*
キースは、リエラを薄暗い空き部屋に連れ込んだ。乱暴に扉を開け、閉める。
他人の家に赴いた際の、礼儀正しく常識的な行動とはとても言えない。
使用人に遭遇せず、助けを求められなかったのが、リエラにとっては不運だった。
「あの、何なんですか」
腕を掴むキースの手を振り払い、リエラは蔑みを込めた声音で告げた。
そんな彼女の抗議を無視して、キースはゆっくりと口を開く。
リエラの挙動の全てを読み取ろうとするかのように、鋭い瞳は彼女に据えられたままだ。
「兄貴の説得に、親父が折れた」
リエラの目が軽く瞠られ、その表情が固まる。
しかし、それは一瞬のことだった。驚愕と焦燥は、幻のように消えた。
代わりに彼女の心に押し寄せたのは、もうロレントたちと関わらなくてもいいという、この上ない安心感だった。
(金を持った男なんていくらでもいるんだから、ロレントにこだわる必要なんてなかったんだわ)
『愛だ何だとぬかす愚か者たちを叩きのめす』というくだらない執念のために、なぜ時間を無駄にしていたのか。
本来の目的を忘れていた過去の自分を、リエラはなじった。
貴族社会一のロマンスの成就に、彼女は仄暗い嘲笑を浮かべる。
「ロレント様がいらした時点でまさかとは思ってましたけど・・・愚かなことですね」
「何?」
怒気を孕んだ低い声音にも、リエラは、全く怯まなかった。
開放感と安心感が、苦手な男を前にしても、彼女を強くしてくれる。
第一、キースとももう関わることはないのだ。エルゼとロレントが結ばれたのだから、リエラに構う意味もなくなる。
「家に利益をもたらさない結婚を許可するなんて、愚かです」
「あんたは、そればっかりだな」
キースは嫌悪感をむき出しにして、リエラを睨みつけた。
しかし、彼女はなおも怯まない。
「普通の考え方のはずです。貴族に生まれた者なら」
「理解できないね。したくもない」
キースは、それきり沈黙した。
何かを考え込んでいる様子で、埃のたまった床下を見つめている。
「大事な義姉君を痛めつけられたことは、どうでもいいんですか?」
リエラは、キースの怒りを呼び起こそうとした。
彼から罵倒や非難を浴びれば、薔薇園での妙な感傷を完全に消しされるかもしれない。そんな思いが、リエラを突き動かしていた。
だが、キースはリエラの言葉に微塵も動揺した様子を見せなかった。
ただ、彼女に冷たい一瞥を向けただけだ。
「自分の利益のために他人を傷付けるような奴は、その行為を簡単に告白したりしないもんだ。悪人を演じるつもりなら、覚えておいたほうがいい」
願い通りの言葉を引き出せなかったが、リエラはなおも引き下がらない。
「わたしがエルゼを突き飛ばしたのは、本当のことですけど」
「だから、そんな風にべらべらしゃべること自体がおかしいって言ってるだろ。今のあんたを見てると、まるで断罪されたがってるみたいだぞ」
完璧に図星を突かれてリエラは、押し黙った。
会話の主導権を握ったキースは、言葉を続ける。
「で?これからどうするんだ?」
そっけなく言いつつも、キースが本当に知りたいことはここからだった。
これからリエラが、どう生きようとするのか――
返答によっては、彼の考えも、運命すらも変わる。
そんな彼の思惑も知らず、リエラは改めて嘲笑を浮かべた。
「新しい縁談を探してもらうに決まってるでしょう?今度は、あなたの兄のような愚か者が相手でないといいですけど。あと、貧乏人もお断りですね」
「やはり、金か・・・」
キースはそっと嘆息した。リエラはまだ、狂ったように金に固執している。
ここまではっきり口にしたことはなかったものの、彼女のその欲は見え隠れしていた。
見えないのは、金への欲求の下に隠された、彼女の本心だ。
キースはなおも探りを入れる。
薔薇園での一件のように、一瞬でいいから彼女の本当の姿が見たかった。
「若い体が目当てなだけの、欲深いジジイが相手でもか」
「もう少し言葉を選べないんですか?貴族の位を捨てたとはいえ、生家の評判に関わりますよ」
「質問の答えになってない」
「しつこいですね・・・金さえ貰えればどうでもいいです。それに、子供を作ることは、当然の義務です」
――金さえ貰えればどうでもいい
その言葉は、キースが聞きたくなかったと同時に、待ち望んでいた言葉でもあった。
リエラにとっては未だに金が全てであるという嫌悪感と同時に――彼女を手に入れる口実も手に入るのだから。
「金で身を売るとは、まるで売女だな」
「なんとでもどうぞ」
目の前の男の胸中を知る由もないリエラは、冷静さを失っていない。
そんな彼女を突き落とす準備を、キースは着々と進めていた。
「・・・金さえ貰えれば、と言ったな」
暗く静かな室内では、キースの低い声がやけに恐ろしく感じる。
リエラの体は、無意識の内に震えた。
答える声音も、先程のような余裕を感じさせない。
「・・・えぇ、いいわ」
「相手は誰でもいいんだな」
リエラの薄青の瞳が、一瞬凍りつく。
これから何を言われるのか、気づいてしまっているのかもしれない。
だが、キースは知っていた。
『金のために生きる』という信念がある限り、彼女は彼の申し出を断れない。
「・・・ええ」
リエラの声は、ひどく小さく響いた。
キースの言葉を恐れるように、体を硬くして身構えている。
「なら、俺があんたを金で買おう」
今日何度目かの、最も長い沈黙が部屋を支配した。
リエラもキースも、全く微動だにしなかった。正確には、リエラの方は動けなかった。
埃が舞う古ぼけた部屋で、時間が本当に止まってしまったかのようだ。
「・・・本気で言ってるんですか」
ようやく絞り出したリエラの声には、ひどく苦しげだった。
否定の言葉を切望しているのは、簡単にわかった。
しかし、キースは彼女の望む台詞を言うつもりは全くなかった。
「本気だよ」
「なぜですか。あなたに何の利益があるというんです」
リエラは声こそ荒げなかったものの、驚きを隠せないようだった。
拳を握って震える彼女を見つめ、キースは用意しておいた台詞を流麗に口に乗せた。
「・・・実家関係以外との貴族との間にも、パイプが欲しい。それに、あんたとできてるっていう噂のせいで、からかわれることも多くてしゃくにさわる。正式に妻に迎えれば、兄の婚約者への横恋慕も多少は美談になるんじゃないか?」
「あれは、あなたが勝手にやったことでしょ」
リエラの非難に、キースも刺刺しい口調で返す。
「あんたが兄貴の幸せの邪魔をするからだ。・・・まぁ、それは今はいい。なぁ、返事は?」
リエラは眉根を寄せ、唇をきつく噛んでいる。血が滲み出すのではないかと、キースが心配になるほどだ。
だが、彼女は顔をあげると、キースを見据えて決然と告げた。
「わたしは、あなたなんか嫌いです」
その言葉は、予想以上にキースの胸をしめつけた。
だが、倒れたコップから水が零れるように、リエラの言葉は止まらない。
「ロレントも、エルゼも、手紙を書いて寄越した孤児たちも、みんなみんな嫌いです」
そこで言葉を切った後、リエラは堪えるように目をつぶった。
彼女の脳裏に、エルゼの柔らかな微笑みと居士たちからの手紙の束が浮かび、消えた。
最大限の蔑みを込めて、リエラは言い放った。
「あなたも、あなたの大切な人たちも、嫌いです、大嫌いです」
それはまるで、自らに言い聞かせているかのようだった。
追い詰められたリエラの心に、キースの言葉が突き刺さる。
「それでも、金のためなら身を差し出すんだろ?相手がジジイだろうが、嫌いな男だろうが関係なく」
「その通りよ、わたしは金が欲しいもの」
キースの予想通り、リエラは彼の求婚を断らなかった――断れなかった。
十一年間貫いてきた信念が、彼女に他の選択を許さないのだ。
「俺は、兄貴と結婚した場合よりも金を出すと約束する。金だけが目当てなら、この上ない優良物件だろ?」
キースは商売の才に長け、莫大な財産を持っている。その手を取れば、何よりも輝く金銀が待っている。
それだけで、リエラの答えは決まる。
己の信念を揺るがせる感傷など、付け入る隙間はない。
「・・・その通りよ、わたしは・・・金が欲しいもの」
虚ろな目で呟いたリエラは、衣服の下のペンダントを握りしめていた。
絶対の淵にいる者が、十字架を握りしめて神に救いを求めるように。
閲覧ありがとうございました<(_ _)>