古ぼけたコイン
薔薇園を見物した後、キースとリエラの二人はまともに言葉を交わさなかった。いつもほぼ一方的に話しているキースが、やけに静かだったからだ。
彼が何を考えているのか、リエラには推し量ることができなかった。
複雑な心境のまま、リエラは屋敷に帰り着いた。
キースに送ってくれた礼を言うと、彼は小さな笑みを浮かべて手を振ってみせる。いつもの演技めいた甘い笑みとも、嫌味のこもった冷笑とも違うその表情に、リエラは密かに戸惑った。
(今日は、予想とは違う方向で災難な日だった・・・)
リエラはそう自らに言い聞かせ、わずに芽生えていた喜びを打ち消そうとした。
屋敷の廊下を歩く頃には、彼女は大方普段の調子を取り戻していた。
鉛のように重苦しい生家の空気も、キースといた時の妙な雰囲気よりマシに思えた。
「ただいま帰りました」
居間にいるリエラの父は、今日も一人で酒を飲んでいるようだ。薄暗い室内で、グラスにワインを注ぐ音が響いている。
一人娘が姿を現しても、彼は背を向けたままで振り向かなかった。
「・・・あぁ、おかえり」
その声は、名家の当主とは思えないほど弱々しい。病人のように気だるそうで、まるで覇気がなかった。
「部屋に戻りますね」
「あぁ」
義務的な態度の娘と、魂が漏れた抜け殻のような父。
互いに唯一の家族でありながら、彼ら二人の関係はずっとこの調子だった。十一年前のあの日から、親子らしい温かな思い出などまるでない。
「リエラ」
唐突に口を開いた父に、リエラは軽く目を瞠る。
父に名を呼ばれたのは、随分と久しぶりだった。
「はい」
「縁談は、本当にこのまま進めていいんだろうな」
「・・・はい?」
半ば反射的に、リエラの口から訝しげな声が漏れる。
縁談を持ってきた張本人が、この期に及んで何を言い出すのか。
それとも、最悪なことに、ロレントの家から何か言われたのか。
「お前は、この結婚で幸せになれるのか?」
いつもより、力強さを孕んだ声音だった。
娘の幸せを望んでいるかのような言い草といい、普段の彼女の父らしくない。
「縁談のお話を頂いた時に、言ったはずです。これでわたしの望みが叶うと」
淡々と答えた後、リエラは心が重くなるのを感じた。
本心を述べているつもりなのに、まるで嘘を吐いているような気分だ。
「新しい家族を得れば、そのペンダントを首からはずせるのか?」
父の言葉に、リエラは一瞬言葉を失った。
(この人は、意味をわかって言っているのか)
怒りとも悲しみともつかない感情が、リエラの心を駆け巡る。
しばらく押し黙った後、彼女は淡々と言葉を紡いだ。
「わたしの望みは、家族を得ることでも、これをはずすことでもありません。財産を手に入れることです」
「・・・そうか」
父のその声は、いつものように弱々しく響いた。
*
(本当に今日は最悪な日だ)
ベッドの中で縮こまりながら、リエラは眠れぬ夜を過ごしていた。
未だに残る戸惑いが、彼女を眠らせてくれないからだ。
(キースも、父様も、邪魔だ)
ひたすらにそう言い聞かせながら、胸元にさがる冷たい塊に触れる。
十一年間ずっと、寝るときですら身に付けたままのペンダント。
鎖の先で鈍く光っているのは、黒ずんだ銀色のコインだ。
掌が痛むほどそれを握りしめれば、耳元にあどけない声が降ってくる。
『姉様』
リエラはそれを待っていた。
その声が、自分の罪を思い出させてくれるのを。
心に芽生えた邪魔な感情を、全て消し去ってくれるのを。
『姉様』
天使のようなその声は、いとも無邪気に言い放つ。
『人殺し』
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