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疾走と弾丸  作者: 榊かえる
27 弱虫おおかみとおこりんぼうの赤ずきん
207/208

27-5

 涙が一筋、静かに頬を伝った。それを認識した瞬間に、椿はうつむいてしまった。

 日頃は闊達に喋る彼女が、言葉を必死に選び、そして言えずに黙っている。それでも、絞り出す。握りしめた手の中に、己の心を捕えて、力の限り絞ってしまえと。


「私、網屋さんが好きです」


 呼吸が止まった。網屋も、椿も。

 椿は無理に肺の中の空気を吐き出し、部屋の空気を思い切り吸い込んで、袖で涙を拭う。


「側にいてほしい。なんでもないようなことを話してたい。話なんてしなくたっていい。近くに、いてほしい。私、誰かをこんなに好きになるの、初めてで。網屋さんのこと考えると、本当に胸が苦しくなって。胸が苦しくなるって、比喩じゃなかったんだって思い知った。会いたかった。声が聞きたかった。顔を見たかった。毎日なんて贅沢は言わない。でも」


 ここで言葉は途切れる。いや、言葉を繋げようとしても、嗚咽がそれを阻むのだ。椿本人としては泣きたくなどない。それなのに、涙が強制的に流れてくる。理性を突き破って、感情がありとあらゆる方法で溢れ出そうとしている。


「でも」


 これは自分のエゴでしかない。分かりきっている。相手のことを考えるのなら言うべきではない。抑えるべきだ、堪えるべきだ。分かっている。

 そんなことは分かっている!


「でも! 私は、網屋さんの、隣にいたい! どこかに行ってしまうなら、私も一緒に行きたい!」


 もう駄目だ。止めることはできない。一度でも堤防が決壊してしまえば、濁流は全てを飲み込んで押し流してしまう。

 泣いているところなんて見られたくなかった。こんなみっともない姿など。それなのに、顔を上げて、正面から網屋を見据えて。

 椿は叫んだ。


「あなたが死ぬなら、私も死にたい! でもそれは嫌だ、生きて、私の隣で生きてほしい! 網屋さん、なんだか死にたがっているみたいに思えて怖かった。それが本当だったとしても、私がどうのこうの言う権利なんてないってのも分かってる。それでも、嫌だ。嫌なんだ……」


 己の感情が暴れまわるまま、まともな形を作ることもできず、言葉と涙がぼろぼろと漏れる。


「駄目ならいっそ、切り捨ててほしい。私のことなんて嫌いだって言ってほしい。網屋さんと一緒に生きていけないのなら、殺してほしい。そうでもしないと、私の心の中なんて、もう網屋さんのことでいっぱいで、消すことができないんだ。どうしていいか分からない、頭が真っ白になって……私は……」


 膝の上に乗せた拳に、何粒も涙が落ちて、その感覚すら分からない。椿にできるのは、思いを吐き出すということだけ。


「……だから、お願い……私から、私から、逃げないで……!」


 椿の言葉が網屋を真正面から殴りつけた。実際に殴られたような衝撃が、網屋を襲った。


 昔。父に、逃げろと言われた。その言葉を飲み込んだ時から、網屋は逃げ続けてきたのだ。何もなければ得ていたはずの、日常という幸せから。陽の当たる道から。それを望んでいたが故に復讐に走り、それに憧れていたが故に相田へと救いを求め、しかし、それら全てに最後には背を向けなければならないと。

 そう、網屋はずっと考えていた。無意識で。


 違う。父はそんなつもりで逃げろと言ったのではない。あの言葉は呪詛ではない。光のような、祈りである。


 死ぬべきだと考えていた。だらだらとその機会が伸びているだけだと思っていた。それに自分は甘えているだけなのだと感じていた。


 違う。違った。全部。


 夢遊病のように椿の下へと歩み寄り、儀礼を受ける騎士のように跪いた。固く握られた拳を、包むように握った。


「分かった。もう、俺は、逃げない」


 これは誓いだ。


「邪魔する奴は全て倒す。守るべき人は全部守る。俺が、自分で、やる」


 椿の涙をそっと指で拭って、彼女の肌の柔らかさを知る。


「だから、椿さん。俺を、あなたの隣に居させてください」


 見開いた椿の瞳が、星のように輝いている。涙のせいなのだろう。しかし、網屋は彼女ほど美しい人を知らない。だから、その星の輝きは彼女のものだ。


「こんなに泣かせちゃってごめんな。こんなに……」


 自分の手はすっかり汚れている。それでも、椿の涙を何度も拭う。手が届くのなら。もう恐れることはない。


「もう逃げないし、逃さないから。ずっと」


 冗談めかして告げる。己の眼からも涙がこぼれていることに気付いていながら。椿が薄く笑って、「私も」と返す。

 縋り付くように握り返される手。その熱が、あの日、網屋に降りかかった幾重もの雪を溶かしてゆく。


 今、生きている。それだけが、事実だ。

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