月ノ介さん
月ノ介さんは、街や雑踏の中で、時々ひょっこり現れる。痩せていて背が高く、長い髪を後ろでゆるくまとめている。
りん子は月ノ介さんと知り合いというわけではなかったが、スーパーのレジで前後に並んだり、散歩の途中ですれ違ったりするうちに、言葉を交わすようになった。
「ムカデってどうしてます?」
駅前のパン屋で食パンとおやつ用のパンを選んでいる時、月ノ介さんがそう言った。りん子は六枚切りのイギリスパンをトレイに乗せ、あんパンをトングで取った。
「ムカデなんて見たことないわ」
「本当ですか」
「ええ」
子どもの頃に絵本で見たムカデは、茶色っぽくて足がたくさんあり、全部の足に靴を履こうとして大変な思いをしていた。実際はかなり凶暴で毒があり、刺されると危険なのではなかったか。
「じつは、僕の弟がムカデになってしまって」
月ノ介さんはライ麦食パンの袋を手に取り、会計へ向かった。りん子は、月ノ介さんにきょうだいがいることを初めて知った。
「どんな弟さんなの?」
「それはもう、小さい頃からやんちゃで手がつけられなくて……今は学校にも行かないで庭を這い回っています」
「あら。じゃあ全然似てないのね」
りん子は月ノ介さんの弟に会ってみたくなり、家までついていくことにした。お土産にあんパンを二つ買い足し、駅の裏側の道を一緒に歩いていった。月ノ介さんは、通りにある木や花を嬉しそうに見ていた。うちの庭は狭いので、と言う。
着いてみると、本当に狭い庭だった。
玄関を入ってすぐ居間があり、右手に縁側があった。そこから下りると、洗濯物を干したらいっぱいになってしまいそうなスペースに、背の低い植え込みが並んでいる。まだ色づいていない、葉牡丹だろうか。
「風太、帰りましたよ」
月ノ介さんの声に、植え込みががさごそと動いた。大きな角を生やした、蛇のような生き物が顔を出す。
這い出してきた体は半透明で、太い節が長く連なっている。先の尖った足が、数え切れないほどたくさんうごめいている。
「ほら風太、りん子さんが来てくれたよ」
ムカデは体の前半分を持ち上げて、くにゃっと曲げた。その姿はグロテスクなようで、なかなか愛嬌もある。こんにちは、とりん子は言った。
「ずいぶん大きいのね。二メートルはあるんじゃない?」
「そうなんですよ。僕より背が高くなってしまって」
月ノ介さんが悔しそうに言い、りん子は笑った。ムカデは角を左右に揺らし、土の上に丸くなった。足を上手に曲げ伸ばしして、絡まらないようにしている。
「それにしても、どうしてこんなことに?」
「さあ。ムカデにいたずらでもして、刺されて毒が回ったのかもしれません」
そういえば、とりん子は思い出した。蜂に刺された人が、緑茶で治ったという話を聞いたことがある。緑茶には解毒作用があり、冬場に毎日飲んでいると、確かに風邪をひきにくくなるのだ。
「飲むんだったかしら、それとも塗るんだったかしら」
「同じようなものですよ。さっそくやってみましょう」
月ノ介さんは台所へ行き、急須に熱湯を注いで戻ってきた。そしてそれを、縁側からどぼどぼとムカデの上にかけた。
湯気が立ち上り、ムカデは苦しそうに動き回った。体が赤みを帯び、しゅうしゅうと音を立てる。やがて静かになったが、姿はムカデのままだった。
りん子は頭をひねり、キンカンを垂らしてみたり、おろし生姜をまぶしてみたりしたが、どれも効果がないようだった。ムカデはりん子に慣れてきたようで、上半身を縁側に乗り出してじっと見ている。どこに目があるのかわからないが、親しげな視線を感じた。
「母が早くに他界したせいか、わがままに育ってしまって。僕がしっかりしてれば良かったんですけど」
「そんなことない。風太くんはいい子だわ」
「ムカデになってからは大人しいんです。このほうがいいのかもしれませんね」
月ノ介さんはりん子に座布団をすすめ、弟の小さい頃の話をしてくれた。いたずらをして物を壊したり、近所の子を叩いたりして、しょっちゅう父親に叱られていたこと。一人で勝手に出かけては、泥だらけで戻ってきたこと。そのくせ女の子の前ではいい顔をしていたこと。
「とにかく僕とは正反対で。ちょっと羨ましいくらいでしたよ」
「月ノ介さんは、いつもいい子だったのね?」
「いい子というか……何もしない子でしたねえ」
月ノ介さんはムカデに向かって手招きをした。ムカデはずる、ずる、と部屋に這い上がってきた。
「風太、お客さまにお茶とお菓子を」
「まあ、そんな」
お構いなく、と言おうとしたが、ムカデがどうやってお茶を運ぶのか見たかった。ムカデは縁側で泥を落とし、畳の上を速やかに移動していった。おびただしい数の足が、タイピング名人の手のように動いていた。
しばらくして、行きよりは慎重な足取りで、ムカデが戻ってきた。二本の角の上にお盆を乗せ、湯飲みとお菓子の箱を運んできた。ぐらぐら揺れて、あわやという感じになりながらも、どうにか座卓まで運びきる。
「ありがとう風太。りん子さん、どうぞ」
青い蔓草模様のついた湯飲みに、きちんと緑茶が注いである。りん子は一口飲み、おいしい、と言った。
月ノ介さんはお菓子の箱をりん子の前に置き、これも、と言ってふたを開けた。
箱の中には、死んだ小鳥が横たわっていた。
月ノ介さんはものすごい勢いで座卓を叩き、立ち上がった。りん子は箱の中身よりも、その顔と様子に驚いてしまった。
「風太! よくも、お客さまにこんな穢れたものを……!」
月ノ介さんはムカデを蹴り上げ、上から三番目くらいの節をつかんで揺さぶった。
「今すぐ生きたのと取り替えてきなさい!」
ムカデはぐったりして動かない。月ノ介さんは、どこから出してきたのか、大きな鉈を持って振り上げた。研ぎ澄まされた刃が、白く光っている。
落ち着いて、とりん子は言った。
「そんなもので切ったら、風太くんがソーセージになっちゃうわよ!」
月ノ介さんはムカデを床に叩きつけ、足で踏みにじった。りん子が何を言っても、聞こえていないようだった。人が変わってしまったように、夢中でムカデを痛めつけている。
「言うことを聞かないなら、こうですよ!」
止めるりん子を突き飛ばし、月ノ介さんは鉈を振った。何度も何度も、ムカデの上に振り下ろした。弾力性のある音を立て、ムカデは切り刻まれていく。黒ずんだ液が飛び散り、月ノ介さんの顔も汚れる。毒だ、とりん子は思った。毒を浴びたら、月ノ介さんもムカデに変身してしまう。
しかし、そうはならなかった。切られたムカデはどろどろに溶け、断片同士がくっつき合って別の形になっていった。初めは泥人形のようだったが、徐々に目鼻がはっきりして、黒い液も体に再吸収された。指ができて関節もでき、完全な人間の姿になると、それは起き上がった。
「やっべ! 今何時?」
体格の良い、見るからにはつらつとした少年だった。ムカデだったのが嘘のように、真っすぐな姿勢で立って時計を見る。
「はあ? もう昼過ぎてるし。今日から学校っつったじゃん!」
「いくら起こしても起きなかったのは誰です?」
「やっべー、マジやっべー」
少年はばたばたと部屋を走り、硬そうな髪を手で撫でつけ、学生服に着替えた。鞄を拾い上げ、また走り回る。
月ノ介さんは鉈を鞘に収め、傍らに置いた。
「騒がしくてすみません。りん子さん、それ食べてくださいね」
りん子が箱の中を見ると、いつの間にかそこには、小鳥の形をした和菓子が入っていた。練り切りだろうか、淡い緑の体に細かい羽の模様が描かれている。手にとってみると、まるで生きているような柔らかさと重みを感じた。
「なんだろう。この感じ、すごく懐かしいわ」
りん子は小鳥を頭から食べた。冷めたお茶を飲み、ゆっくりと息をつく。
懐かしい。そして、肩の力が抜けたような、まっさらな気持ちが染み渡っていく。そういうことってありますよね、と月ノ介さんは言った。
「生まれ変わったような、もう一回生まれたような」
「そうそう」
「不思議ですよねえ」
風太が部屋に戻ってきて、知ってるよ、と言った。
「デジャヴっていうんだ」
「それとはちょっと違います」
「じゃ、輪廻転生。前世のどっかで出会ってるんだよ」
風太はりん子を見て、目尻を下げて笑った。顔立ちや骨太な輪郭は、確かに月ノ介さんとは似ていない。それでも、声や表情に、やっぱりきょうだいだと思わせるところがあった。
風太は月ノ介さんを指さして言った。
「この人、変わってるでしょ? 何考えてんだかわかんないっしょ?」
「そうね」
「でも悪い人じゃないから。また来てやって。絶対来てやって」
早く行きなさい、と月ノ介さんが言い、風太はりん子が持ってきたあんパンをひっつかんで出ていった。
「ああもう、あいつは……すみません」
「お土産だからいいの。月ノ介さんも食べてね」
りん子は立ち上がり、縁側に出た。心地よい風が吹いて、葉牡丹が揺れている。土の上には、ムカデの這ったあとがまだ残っていた。
「本当に不思議。ここから見る空は、いつもより濃いみたい」
「小さい庭ですからね」
月ノ介さんはりん子の隣に立った。雲が流れ、鳥の影が重なる。胸が温かくなるような空だった。ムカデになっていた風太も、この空が好きだったんじゃないかとりん子は思う。