不機嫌な休日
その日はすこぶる調子が悪かった。
まるで水のような、さらさらとした鼻水が気を抜けばたらりと垂れてくるし、頭の中ではどこかで道路工事でも始まったかのようなあの鈍い音が、一定のリズムで僕を攻めたててきた。
風邪でもひいたかな。
そう思ってまだ日の昇らない、暗くて静かな台所でいつだか買ってあった薬を探した。ところがこういうものは、必要なときに限って見つからないのだ。
大の男がひとり立つには充分なスペースがあるが、決して広いとはいえない古びた台所で、僕は改めて大きなくしゃみを一発かました。
先程よりも多少は粘りのある鼻水がだらっと出てきたのを感じて、思わず
「ずずーっ」と音を立てて鼻をすすった。
自分のくしゃみの音にすら視界がぐらりと揺れるような衝撃を味わっていたためか、勢いよく空気を吸ったせいでそのまま後ろに倒れそうになる。
まいったなぁ。
それでも今日は土曜日だから、店は絶対に開けなくてはいけない。折角の稼ぎ時だ。店さえ開けてしまえば、後はどうにでもなるだろう。親父だって起こせば使いものになるはずだ。
僕はふらふらする体をなんとか動かしながら、薬を諦めて自室へ戻ることにした。
それから僕が開店準備をはじめたのは、二十分程後のことだ。その間に三回くしゃみをして、箱のティッシュをひとつ、使い切ってしまった。
あっという間に、朝日は昇る。室内にいるせいでどこに太陽があるとか、どれほど昇ったとかいうことはわからない。だが、喫茶店ということもあって窓の多いそこでは、電気をつけなくても新聞を読めるくらいには日の光が入ってきていることに気が付いた。
「だりィ……」
誰ともなく、そういった。それはいつもと違うくぐもった鼻声で、まるで他人の声のように思えた。誰もいなくて静かな店内では、余計に響いて気持ちが悪かった。一体僕はどこに行ったんだ。
今は五時三十分を少し過ぎたところ、店を開けるのは七時ちょうどでいい。今日は、彼女は来ないだろう。平日なら七時に来る彼女のために十分前に開けるけど、土曜日は彼女の仕事も休みらしい。めったに店に来ない。
あれから僕たちは、朝の時間、少しだけ会話をかわすようになった。世間話も仕事の話もする。
僕は大抵聞く側だけれど、自分が入れたコーヒーを彼女と一緒に楽しめることが嬉しかった。たまにクッキーも焼く。僕は久しぶりに、朝ごはんというものを楽しんでいる。
簡単に掃き掃除をして、テーブルやイスを丁寧に拭いてまわる。開店前と閉店後に必ずする仕事のひとつだ。途中で思い出して、この三日間で溜まっていたゴミ袋を外に出した。ゴミ収集車が来るのを店の中で待つ。多分、来るのは六時だ。それまでに、今日のコーヒーを落としておこう。
本日のコーヒーは昨日届いたばかりのモカ。それからブレンドは、酸味を強めにして、残っていたブラジルとグアテマラを使ってしまおう。
そうだ、それから今日は、新しいシフォンを出すんだったか。なんだっけ、マンゴー。あぁ、イヤだ。あれ、嫌いなんだよなぁ。なんで今の女の子って、あぁいうのが好きなんだろうか。
「……、仕事しろよ、僕は、なにやってんだ」
考えながら、ちょうどフロアの真ん中でぼーっと突っ立っていることに気が付いた。
本当に、何をやっているんだ僕は。ちっとも開店準備が進まないじゃないか。
ようやく最後のテーブルを拭き終えたところで、車の音がした。ゴミ収集車だ。一応、外に出て挨拶をする。いつものおじさん二人組みだ。適当に世間話をし、ぺこりと頭を下げて収集車に乗り込んだところまでを見届けて、店に戻った。
今、何時だろう。そう思ってふと時計を見た。五時三十分だ。五時三十分? おかしい、確か、僕がここに来た時間も五時三十分だった。よく見たら、秒針が動いていなかった。
「、マジかよ……」
いつから止まっていたんだ。ついさっき、止まったってことか? どちらにしても、今の時間は何時なんだ。多分、さっき収集者が来たばかりだから六時過ぎだけど、このままじゃ確実に困る。この店に時計は、あれひとつしかないのだ。予備の電池なんて、ない。あっても、場所がわからない。
どちらにせよ、仕事が増えたことに変わりはない。なんだっていうんだ。今日は、ついてない。
ため息をつこうと思ったのに、途中で盛大なくしゃみに切り替わった。手近なところにティッシュはない。しょうがなく、テーブルの上にセットされている紙ナプキンで鼻を拭いた。痛い。
「コンビニ、行くか……」
もしかしたら、風邪薬とかも売ってるかもしれない。最近、コンビニでも売れるようになったとか、なってないとか。とりあえず行ってみないことにははじまらない。
一度店の奥の階段を上り、自分の部屋へ戻った。携帯を探す。黒の二つ折り。サブ画面で時刻を確認する、六時十三分。カーデガンを一枚羽織り、これまた黒い、三つ折りの安っぽい皮の財布を持って、急いで店を出た。階段は昇るときよりも下りるときの方が頭に響くことがわかった。
駅の近くのコンビニまで、歩いていく。店から駅まで、実は五分もあれば着く。意外とうちの店は、便利な場所にあるのだ。そのわりに人通りはそんなに多くないけれど。
ドラッグストアが開いていないかな、なんて小さな期待を抱きながら、カーデガンのボタンを掛ける。大きな道路に面した交差点に出て、右へ曲がった。駅のホームが見える。その右下方に、赤いNの看板。改札をはさんで反対側にあるドラッグストアは、残念。シャッターが降りていた。
ため息をついて、とりあえず僕はコンビニを目指して歩いた。
「いらっしゃいませー」
ピロロンだかピンポーンだか音がして、どこからか店員に声をかけられた。風邪薬と、電池。忘れないうちに電池を掴む。単三でよかったよな。それから、剃刀だとかマスクとかが置いてあるところで、風邪薬を探してみた。ない。代わりに冷えピタなるものを手にとった。熱は測ってないが、頭が痛いんだからいいんだろう。あと、ポケットティッシュ、買っておこうかな。そう思って、ティッシュが五個ほど入っている袋に手を伸ばした。
「田端さん?」
「うあ、」
驚いて、冷えピタの箱を落とした。在庫の補充をしていた店員に睨まれる。誰だ、声のした自分の左後ろに首をやる。
「き、城戸崎さん、」
「ごめんなさい、驚かせてしまったみたいで」
声が少し、裏返った。変な声だ。かっと体が熱くなったのがわかった。
緑のパステルカラーのトップ。そのシンプルな生地は、白いレースで胸元と裾が装飾されて、上からそれとお揃いの、丈の短い羽織を着ている。下は、青いタイトジーンズだ。思った通りに、足が細い。彼女の私服、はじめて見たな。髪も、ひとつに縛っている。ポニーテールってやつか。いつも下ろしているけど、こうしているとやっぱり少し幼く見える。
そんなことを考えているうちに、彼女がしゃがみ込んで僕が落としたものを拾ってくれる。
「あ、すみませんっ」
「いいえ、私が悪かったですもん。田端さん、風邪ひいてるの? 鼻声、」
「ああ、やっぱり変ですか、声」
「少し。あ、私、薬持ってるかも。風邪薬じゃなくて、頭痛と発熱に効くやつだけど、いりますか?」
「ああ、お願いします。……とりあえず、これ買ってからでもいいですか?」
カバンから薬を取り出そうとしている彼女を見て、僕は苦笑いを浮かべながらそういった。ぱっと動きが止まり、彼女の頬がほんのり赤くなる。
「そう、ですね」
それから、二人でコンビニを出た。寒いなあ、ぼんやりそう思った。三月に入ったが、朝はまだまだ冷え込んでいる。忘れ雪、降るかな。
「城戸崎さんは、こんなに早くから何してたんですか?」
何気なく、となりを歩く彼女へ話しかけた。あまりこうして並んで歩くような機会はないから、改めて彼女は背が小さいんだな、と思った。一五五センチくらい、だろう。僕は、一七九センチはある。親父に似たんだろうけど、これでも六センチほど、親父の背には足りない。
「友達の家で、飲んでたんです。気が付いたら終電なくって、泊まって来ちゃったからこんな時間に帰宅してるんですよ。今日も買い物行こうねって約束したから、一度家に帰って服とか、着替えようと思って」
小さく、彼女が笑った。うつむき気味だったけれど、確かに笑っているような声がした。それになんだか僕まで嬉しいような気持ちになった。
「いいですね、いってらっしゃい」
「田端さん、もしかして今日もお店、仕事、してるんですか?」
「え、はい。休日は、稼ぎ時ですからね」
僕がそういうと、彼女は困ったように眉を寄せた。何か、考え込んでいるようだ。
「、なんですか?」
「ダメです」
「は?」
「ダメですよ、風邪ひいてるのにっ」
「いや、大丈夫ですよ。大したことないし。僕がやらないと、店は開かないし」
さっき曲がった道を、曲がる。今度は左に。曲がったところで、彼女が立ち止まった。つられて僕も二、三歩先で立ち止まる。
「? どうしたんですか――うわ、」
「ほら、熱ある! 絶対ダメですってっ」
急な接近にドキドキして、元からあった頭痛が激しさを増したような気がした。ヤバイな、そうは思えど、冷たい彼女の手はとても気持ち良いし、体もだるいのでそのままにしておいた。
彼女は少し、怒っているようだ。
「でも、仕事ですから」
僕は苦笑いをしながら、彼女の眉間の皺が消えないかなあと思う。この人は、こんなに感情豊かだったのか。僕なんかの心配までしてくれて。でも、普通の人なら誰でもする気遣い、だろうか。
とりあえず、僕は早く帰って開店準備をしなければならない。もう、あまり時間はなさそうだ。
「そんなこといって、田端さんっていつ休んでるんですか?」
「……水曜日、とか」
「それでも毎朝、お店を開けるのは田端さんでしょう?」
「まあ、あそこは僕の家だし、」
「たまにはちゃんとした休養とらなきゃダメですって!」
「そういわれてもなぁ、」
誰かが代わりに仕事をしてくれるわけではないし、僕は困って鼻の頭を掻いた。もしかしたら彼女は、まだ酔っているのかもしれない。でもそんなこといったら、ますます怒りそうだ。
「とりあえず、店に行きましょう。寒いでしょう?」
僕がそういうと、彼女は少しむすっとしたまま、歩き出した。彼女の歩調に合わせるように、僕もとなりを歩く。その場の空気はあまり居心地のいいものではなかったけれど、彼女がそうしていってくれたことが僕は嬉しかったから、多分、笑っていただろう、と思う。
店まで行くと、僕は彼女を中に入れた。
「何か、飲みますか?」
「いいです、」
「じゃあ、適当に座っててください」
僕はとりあえず、止まった時計の電池を入れ替えようと適当なイスを動かす。
「、何してるんですかっ」
「何って、電池、換えるんですよ」
「危ないですよっ」
「平気ですって、」
僕がくつを脱いでイスの上に乗ろうとすると、彼女が慌てたように近づいてきた。その姿にまた苦笑い、ただの風邪なのに。
「わ、私がやりますから、田端さんは他のことしてくださいっ」
「でも、」
断ろうと考えて、止めた。彼女はなんだか、とても口煩い。ここでいい合うよりも、素直に代わってもらった方がよさそうだ。僕は乗せていた左足を下ろして、またくつを履いた。
「じゃあ、お願いします。気を付けてくださいね」
「はいっ」
やっぱり、酔っているのかもしれない。嬉しそうに笑って返事をした彼女は、いつもとはまるで別人だった。本当に子供のようだ。もしかして、彼女の方が不安定な高い場所に上るのは、危ないかもしれない。
僕は心配になって、彼女がイスへ昇ろうとするのを見守る。カタ、と少し揺れたが、彼女は無事にイスの上に上がり、時計に手を伸ばした。
「芳樹、おめぇ、さっきどこ行ってたんだ。店ほったらかしにしてよー」
「――っ、あ」
「うわ、」
声に驚いてか、彼女がバランスを崩して倒れてきた。僕は慌てて彼女の体へ手を伸ばす。すっぽりと腕に収まった。けれど、僕の足は勢いに耐え切れずに呆気なく倒れてしまう。背中からフロアに落ちた。嫌な、大きな音が店中に響く。
「……なにやってんだ?」
「――っ、てぇ」
目を開くと、天井が見えた。肩を打った、背中も。こんな痛い思いをしたのは何年ぶりだろう。視界がぼんやりしている。
「ご、ごめんなさいっ」
腕の中で、声がした。彼女だ。首を少し動かして、どうなってるのか見る。とりあえず、怪我はなさそうだな、時計も割れていないし、良かった。そう思って、寝転んだままさっきの声の主を探した。
「んだよ、親父。めずらしく早起き」
「おめーのくしゃみがうるさくて起きちまったんだよ、で、何やってんだ?」
僕はため息をついて、腕の力を緩めた。「立てますか?」
彼女は何もいわず、僕の体に手をついて起き上がった。それを見て、僕も起き上がる。彼女は相当驚いているらしく、僕の足の間に収まったまま、動かない。
「ああ、ごめんなさい、私、」
「怪我は?」
「ダイジョブです……」
頭が痛いな、そう思ったけれど、倒れたせいなのか元々の頭痛なのかはわからなかった。
「きれいな人だな、お前、朝から何やってんだ」
「別に、」
とても説明する気にはなれない。面倒だ。とりあえず僕は立ち上がって、腰でも抜かしたみたいにぺたんとフロアに座り続ける彼女を立たせた。腕を引っ張って、腰に手を回す。さっきも思ったけれど、彼女はとても軽い。
「この人はうちの常連さん。朝来る人だから、親父は知らないだろ。城戸崎さん、この人、一応この店の店長」
「はー、どうも。なんだ芳樹、彼女じゃねーのか?」
「起きたなら開店準備手伝ってくれよ」
「なんだおめぇ、風邪か?」
「まぁね」
僕は親父を睨む。この人は、とても勝手な人だ。気まぐれで、奔放。その上頑固だ。
「はー、そうか。じゃあお前、知里姉妹に電話しろ。一時間早く来てもらえ。それからそっちのお嬢さん、城戸崎さんか? なんか悪いことしたみたいだな。その上悪いんだが、暇ならそこのバカ息子の面倒見てやってくんねーかね?」
「なにいってんだよ、いきなり。仕事ならやる――」
「あ、はい。よろこんでっ」
「――っ、城戸崎さん?」
驚いて彼女を見る。「だって、予定、あるでしょう?」
「いいんです、」照れたように顔を伏せて、彼女は笑った。
「風邪は甘くみちゃいけませんよ。それに、今日の約束はどうしてもって訳じゃないし、いつもおいしいコーヒーいただいてますからね」
「……っ」
「、どうかしました? 顔、赤いですよ。もしかして熱、上がりました?」
「なんでもないです、」
視界の端で、親父が笑って僕を見ているのがわかった。くそ、声には出さず、小さく罵る。あとで、絶対からかわれる。こういうときの人間はしつこいのだ。
僕は彼女の腕から時計を受け取って、親父の顔の前に突き出した。
「電池、換えとけよな」
「怖いねー、うちの息子は」
けたけたと嫌な笑い声を発する親父を極力視界に入れないようにしながら、奥の階段へと向かった。
「今日は頼まれたって店には出ないからな、」
「あ、待ってください。田端さんっ」
「お姉さん、俺も田端だよー」
「あ、そうですね。えと、芳樹さん、待ってくださいっ」
律儀に親父のからかいに答えながら、慌てたように彼女が追いかけてくる。その足音を聞きながら、思わずにやけてしまう自分。
「あんまり泣かせるんじゃねーぞ」
「うるせーよ、なんで泣かせるんだ。意味わかんねー」
階段を昇りながら、今の自分の部屋の様子を思い出す。問題はないはず、だけど。
「あの、芳樹、さん? 私は、どうしたら……」
自分の部屋の前まで来て、立ち止まる。ずいぶんと久しぶりだ。部屋に女性を入れることは。そのことにひどく動揺している自分。いや、熱のせいだ。僕は今、風邪をひいているんだ。
「着替えるんで、少し、待っててもらえますか?」
「、はい」
急いで部屋の中に入って、一気にしゃがみ込む。ため息。これからどうしよう。痛む頭を両手で抱え込みながら、これからの時間を一体彼女とどう過ごしたらいいのか、必死になって考えていた。
=END=