カウンター * koffee
午後七時のラストオーダーの時点で客は二組あった。会社帰りと思われる女性と、近所の老夫婦。どちらもよく見る顔で、老夫婦は必ず月に一度、二人で仲良く訪れる。
「由希、吉沢さん、今日はお疲れ様。奥で休んでおいで」
「えっ、でも」
「うわ、イイにおーい! 行こ、吉沢さん。慶太ァ、二人分よそってー」
奥から、反響しているためか、くぐもった男の声が何かをいった。聞き取れず、由希が
「なーにー」といって奥に歩いていく。戸惑う吉沢さんと僕だけがカウンターに取り残される。
「しょうがないな、由希は。ほら、吉沢さんもいっておいで」
「でも、」
「いつもこうなんだ、やることあるしね。ここは僕一人で平気だから、冷めない内に食べておいでよ」
「あ、はい。すみません」
「気にしないで。じゃあ、お疲れ様」
「お疲れ様ですっ」
ぺこりとお辞儀をして、吉沢さんも奥へひょこひょこと歩いていく。小さな背中に、ひとつに結んだ髪の毛がさらさらと揺れていた。彼女の背中に、少しだけ似ている。もう少し背が高かったら、きっと。
ぼんやりとカウンターに立ちながら、器具やカップを丁寧に拭いていく。グラスは傷がないか、曇っていないかよく見て、さっと濡れた布巾で棚を吹いてからしまう。
七時二十分を過ぎた頃、窓際の奥の席に座っていたスーツの女性が席を立つのを、視界の端で確認し、僕は静かにレジへ先回りする。
「失礼します」
上着を片手に、スーツの女性はレジのカウンターに伝票を出した。僕はそれを受け取り、レジを打つ。いつもと同じ、ホットのカフェオレ。それから、
「いつもありがとうございます。お会計、五四〇円になります」
女性が財布を取り出す間に、レジに出された『スノーボール』と呼ばれる、粉砂糖をふんだんにまぶした、丸いナッツのクッキーが五、六個入った透明なビニールの包みを、紙袋に入れた。
このクッキーはランチが始まるのと同じ十時から、レジに置いて販売しているものだ。この女性は店に来ると必ずといっていいほどこのクッキーを買っていってくれる。
「五五〇円、お預かり致します」
袋を差し出し、僕はまたレジを打った。
「一〇円のお返しです」
女性がお釣りをしまい、財布を鞄に戻すのを見てから、僕はありがとうございましたと頭を下げた。
「ごちそうさまでした」
小さな声でそういい、すぐにベルの音が静かな店内に響く。律儀な人だ、思って静かに笑った。窓の外を見ている顔は、いつも眉間にしわがよっているけれど。
顔を上げると、老夫婦が小さく談笑している声が聞こえた。この時間、僕はいつも笑いたくなる。微笑ましいというのか、とにかく、とても幸せな時間だと思える。
一日が終わる、急いでいる人もいない。わからないけれど、それはほんの僅かな違いなのだろうけれど、お客さんとこうして同じ場所を共有している。それが閉店間際のこの時間だと、より一層近くに感じられる、というのだろうか。
カランカランとベルが高らかに鳴り、僕は驚いて入口を見た。確かに入口のプレートは『closed』にしたはずだ。先程の女性が忘れ物でもしたのだろうか、思ったけれど、視線の先には違う人がいて、僕は言葉をなくしてしまった。
こんな時間に、来るなんて。
「え、と……閉店なんですが」
僕は戸惑いながらも、そう口にした。僕がしゃべらなくてはきっと、沈黙のままだと思ったからだ。
「あ、あ、知ってます。いや、あの、注文したいわけじゃなくて、」
彼女は寒さのせいか頬を真っ赤にさせて、挙動不審に目を泳がせる。あぁ、朝見るときの彼女と変わらない、同じ人だ。そんな彼女の様子に、僕は何故だか落ち着いてきて、じっと彼女を見ていた。
「……久しぶりです、タバタさん」
そういって、彼女はにこりと笑った。こっちまで力が抜けそうになる、そんな笑顔だった。
「お久しぶりです。どうぞ、カウンターにでもお座りください」
僕はさりげなく彼女を店内へ促し、カウンターの中に戻った。彼女も歩きながら羽織っていたコートを脱ぎ、カウンター席に腰掛ける。隣の椅子にいつもの小さな鞄を置き、背もたれにコートを掛ける。
いつもより距離が近い。そう考えるとやはり、ドキドキしてしまう。
「どうしたんですか、こんな時間に」
「いや、あの、今仕事の帰りで」
「それはそれは、お疲れ様です。コーヒーでいいですか?」
「えっ、でも時間が」
「内緒ですよ」
くすりと笑い、カップを取り出した。その時ちらりと窓際の席に座る老夫婦のテーブルを確認し、そろそろだ、と思う。
僕は三人分のコーヒーを用意すると、彼女の前にひとつそれを差し出した。
「すみませんが、ちょっと待っていてくださいね」
彼女がどこかぼうっとしながら頷いたのを確認すると、僕は盆に二つのコーヒーカップを置き、老夫婦の元へ向かった。
「失礼致します。食後のコーヒーをお持ちしました」
カチャ、と小さな音を立ててテーブルに二つのコーヒーを置く。老夫婦はにこにこと笑い、ありがとう、と小さな声で呟いた。
「お済みのお皿はお下げしますね」
そういって、僕は空になったオムライスとピラフの皿、コンソメスープの器を下げる。
「失礼致しました。ごゆっくりどうぞ」
小さく礼をし、ゆっくり、けれど大股でカウンターへ戻る。まだそこに彼女の背中があることを確認して、口許がゆるんだのがわかった。
簡単に下げた食器の片付けをし、彼女のちょうど前になる位置へ戻る。
「今日は、どうされたんですか?」
「あ……すみません、あれから来れなくて」
「いえ、お元気そうで何よりです。クッキーに当たったのかと思いました」
「まさか!」
そういって、僕も彼女も笑う。久しぶりの感覚に僕は、感動しているのだと思う。
「なんか、すみません」
「なんで謝るんですか?」
彼女は僕の目を見てからすぐにうつむいてしまう。指先でカップの淵や取っ手をなぞるように動かしながら、ぽつりぽつりと話し始めた。
「あの、私、突然来なくなって……感じ悪かったな、と思って。今日は早く帰れたんでもしかしてと思って、こっちの道来たんですけど、そしたら灯りがついてて……もう、本当にすみません! なんか、押し掛けたみたいになって……忙しいですよね。やっぱり私、帰りますっ」
席を立とうとする彼女を見て、僕は焦りから心拍数が早まるのがわかった。もう少し話がしたい、そう思っているのは僕だけみたいだ。
「そんなに、急いでますか?」
「いや、そういう訳では、」
「でしたら、僕の話し相手になってくれませんか? やることもなくて、退屈していたんです」
困ったように彼女は僕を見上げる。
「あの、お邪魔じゃないですか?」
「そんな訳ありませんよ。まぁ、僕の話が退屈かもしれませんね」
「そんな、」
安心させるように、僕は意図的に笑った。仕事以外の人と、こんな風に余裕を持って話すことなんて、最近はほとんどない。
「すみません……」
「なんで謝るんですか?」
「いや」
彼女はほんのり顔を赤くして、カップを見つめながら息を吐いた。
「なんか、カッコ悪いなぁと思って。私、」
うつむいた彼女はまたカップを指先でなでまわし始めた。逆に僕は言葉の続きが気になって静かにグラスを置いた。
「その、バレンタイン、私、彼氏とかいなくて、女友達でその、飲みに行って、その後もなんか、仕事でミスしたりで……集中しろって上司には子供みたいな説教されるし……ホント、カッコ悪い」
ほぼ一週間だ、彼女が来ない朝を、僕は五日間過ごした。土日は大抵来ないから、少なくとも三日だ。それをとてつもなく長く感じた。
常連だったから、彼女だったから、僕は気になって仕方なかった。なれないことは、恋愛ゴトはするものじゃない、何度思っただろう。
「僕も」
彼女がゆっくり、顔を上げるのを待った。大きなガラス窓にくっつけられた白い『koffee space』の文字。母ちゃんの名前は桐子だからな、という理由でコーヒーの頭文字が『k』らしいが、お陰で中学校で恥を書いた記憶がある。
「僕も、同じです。バイトに、何かあったのかって、いわれました。僕個人の問題なのに、それを仕事に、顔に出すなんて、カッコ悪いですよね」
ゆっくり、彼女に視線を戻す。うるさいくらいに周りが静かに鳴ったような錯覚が、僕の鼓動をおかしくする。
ようやく視線がぶつかった。カウンターを隔てた向こう側、まるで隔絶されているような気分になる。踏み入れてはいけない壁のようだ。
それでも、そのカウンターの向こう側で、彼女は笑った。くたりと、見ている僕までもが力の抜けそうな、やさしい顔で。
「タバタさん」
「はい」
「タバタさんの名前、教えてください。あ、漢字も」
お菓子みたいだ、と思った。彼女はとてもやわらかくて、見ているだけでそれこそ幸せな気持ちになれる気がする。香りで酔わせる甘い焼き菓子のような。
「タバタは、田んぼの田に隅という意味の端です。名前は、芳樹といいます。ヨシは芳香の芳で、キは難しい方の木ですね」
「ホウコウ……芳香剤?」
「それです」芳香剤か、思ってくすりと笑った。
「失礼でなければ、僕からも名前をお伺いしてもよろしいでしょうか」
「あ、城戸崎です。城戸崎美紀。城の戸に、よくある山崎とかの崎、美紀は美しいに、糸偏に己って書きます」
美紀さん、唇だけで名前を呼ぶ。忘れないように、刻むように。美紀さんはカップを右手で持ち上げると、こくりとコーヒーを飲んだ。美紀さん、もう一度呼んでみる。彼女は気付かない。
「田端さんは、店主、店長さんなんですか?」
「あぁ、違います。店長は奥で料理作ってる、僕の父親ですね。僕は接客専門です」
そうはいっても、親父は滅多にホールに顔を出さないから、お客さんから見たら毎日開店から閉店まで店を仕切っている僕が店長に見えているかもしれない。
実際、経理だとか、とにかくこの店に関わるすべての金銭と雇用関係のこと、シフトを決めるのは僕の役目だ。親父は料理を作るくらいしか能がないから。
「そうなんですかー、それは大変……って、そろそろ帰らなきゃ」
腕時計を見て、美紀さんはそういった。僕は壁に掛けてある時計に目を向ける、七時四五分。
「……そうですか」
僕は少しだけ寂しいと思った。けれど急いでコーヒーを飲み干す彼女に、まだいてくれなんていえない。そんな権限も、僕にはない。美紀さん、喉の奥で名前を呼んだ。思いがけず目が合う。
「家で待ってるんです、犬が」
「犬? 飼ってるんですか」
「えぇ、そろそろお腹空かせてるだろうから」
「すみません、引き止めてしまって」
「いいえ、楽しかったです」
にこりと笑った、それを見て、今度は心臓が掴まれたみたいにぎゅっと苦しくなった。
彼女がおかしいんだろうか、僕がおかしいんだろうか。わかっているけれど、考えずにはいられない。考えて自制していないと、それこそおかしなことを口走ってしまいそうだからだ。
「あの、」彼女はカウンター席から立ち、カバンを持つ。すでに上着は着込んだ後のようだ。
「何か?」
「明日も来て、いいですか? えと、朝に」
見上げたままそういった彼女に、僕はしたしたと何度かまばたきをした。明日も、か。
「もちろんです。いつものメニューで」
「はい、いつものメニューで」
そういって、僕と彼女は笑い合った。明日は定休日だけれど、それは秘密だ。
「お気をつけて」
ドアから出る直前、そういった僕に美紀さんは振り返って笑った。
「また」小さく手を振る右手が見える、それだけで僕の口許がゆるんだ。また、会える。それだけだ。
見回した店内には、まだ一組の老夫婦がコーヒーを飲んで談笑する姿があった。
この場所は、あたたかい。
=END=