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カウンター * cake

「なーんかイヤなことでもあったんですかぁ?」


 急に視界に現れた顔に僕はぎょっとして、上半身をのけぞらせた。円い大きな黒目が楽しそうに煌めいて、にやりと口元が笑う。


「別に、なんもないよ」


「ホントですかぁ?」


「ホントホント、なんもないって」


「えー? この間はニヤついてたし、最近芳樹さんおかしいですよー?」


 そういって彼女、三島由希はずいとさらに顔を近づけてきた。昔からよく知っている相手だが、あまりの近さに僕は思わずドキドキしてしまう。

 由希の性格からすれば、僕をからかってわざとやっているであろうことはわかっているのだけれど。


「そんな顔に出てた?」


「えぇ、それはもう。あ! もしかして、彼女ぉ?」


「違うよ」


 僕は肩を落としてくたりと笑った。由希の目が不満そうに見つめてくるが、気にしない。


「僕なんかかまってないで、ほら、お会計行ってきな。五番テーブルのお客さん、そろそろ立つよ」


「はーい」


 由希はつまらなそうに唇をとがらせて、くるりと背中を向けた。肩口まで伸びた茶色の髪がさらりと揺れる。

 そんなことをいっている間に、五番テーブルにいた若い女性の二人組が席を立った。由希はレジへ、僕はテーブルを片付けるべく布巾と盆を取りにカウンターの奥へ下がった。


 さっきまで使っていて汚れ始めていた付近を軽く水で洗い、シンクに水を貯め漂白剤を入れた中に浸ける。そこから新しい布巾を取り出して、片手で軽く握り水気を取る。白いその布巾をいつもより少しだけ強く握って、ため息をついた。

 そんな顔に出てたかな。しかもそれを、あの由希にに指摘されるとは。


「へーい。やっときまーす」


「ケイ、返事!」


「はいっ! わかりました!」


 厨房へ向かって不満たっぷりといったようにそう叫びながら、東城慶太が両手に汚れた調理器具を抱えて入って来た。

 シンクと冷蔵庫、横に長いテーブルが並んだ細長い部屋だ。厨房とホールを区切るようにこの部屋があって、ここでは洗い物とデザートを作ったりもする。


「あ! せんぱーい、助けてくださいよっ」


「どうかしたのか?」


「滋樹さん、人使い荒いっすよー。俺、干からびそー」


「はは、気に入られてるんじゃないか」


「イヤッすよ、あんな愛情表現」


 そうやってむくれた東城は、大学を卒業する今年からこの店に就職してくれることになった。


「しょうがないさ、喜んでるんだよ、あれで」


 もちろん僕だって嬉しいと思っている。

 東城の仕事ぶりには、目を見張るものがある。バイトとして入ってきたその日から、親父は楽しそうだった。それが、うちに就職を決めてくれたのだ。


「そっすかー? あぁもう、なんで先輩に似てないんだよ、滋樹さんは!」


「それは僕が似てないっていうんじゃないか? でも、あんな親父には似たくないなぁ」


 くすりと笑いながら、東城が不満そうに調理器具をシンクへ入れるのを見ていた。


「まぁ、昼のピークは過ぎたし、しばらくゆっくり洗い物でもしてればいいさ」


 肩を軽く叩いて、僕は背中を向けた。出入り口付近に並べられた盆を一枚手に取って、カウンターからホールへ向かう。


「先輩の鬼ぃ!」


 しっかり押し付けた食器洗いという仕事へ文句をいわれた気がしたが、ここは気にしないでおこう。


 時刻はもうすぐ二時。そろそろシフォンセットが始まる時間だ。三時から五時までの二時間。これをめがけて来る主婦や昼の休憩がずれ込んでか、会社員も意外に多い。

 うちの店のシフォンケーキは、母親が近所の評判からメニューに付け加えたもので、ちなみに今は僕意外に作る人はいない。作れる人がいない、というのか。

 それは嬉しいことなのだが、僕には少しだけプレッシャーだ。

 料理ができる親父もお菓子となると駄目らしく、母親も作り方を教えるということはしてこなかった。

 幼い頃から隣に立って、シフォンケーキを作る母親を見ていた僕としては、難しいことなど何もないのだが、他の人が作ったものは出せない、と親父はいう。

 僕が初めて作った時も、親父は一口食べてまだ出せないな、といった。問題は慣れていなかった材料を混ぜる作業と手際の悪さだろう、と思っている。


 空いた五番テーブルの食器を盆に乗せ、テーブルを綺麗に拭く。お客さんが綺麗に使ってくれていたようで、大して汚れてはいなかった。盆を左手に持ち、最後に吹けなかった部分を綺麗に吹いてカウンターへ下がる。


「由希」


「はーい」


「この辺、綺麗にしておいてくれるかい? 僕は奥でケーキ作り始めたいんだけど、吉沢さんと二人でまわせる?」


「わかりました! 大丈夫ですよー、ねー、吉沢さーん」


 由希は後方を見てにこりと笑った。吉沢さんはつい最近入ったばかりの若いアルバイトだ。大学一年生、まだ十八歳で、バイト自体初めてだと面接で恥ずかしそうにしゃべっていたのを思い出す。


「じゃあ、頼んだよ。あ、吉沢さん、ショーケースの電源わかった?」


「あ、はい! つけて、あの、終わりました」


「そう、ありがとう。由希、優しくしてあげてよ?」


「わかってますよーだ! 生憎私には芳樹さんみたいにイジメてよろこぶような性癖ありませんから」


「おいおい、変な言い掛かりつけないでくれよ。僕にだってそんな趣味は……って、性癖っていうと余計に如何わしいだろ」


 軽く手の甲で由希の頭を叩く。柔らかい髪の毛の感触、由希はいつまでもどこか子供っぽい。行動そのものに何か少女らしさを感じるのだ。見た目はきちんと女性だし、考え方だってしっかりしている。行動と見た目、そのアンバランスが好印象を与えているのだろう。


「とにかく、頼んだよ」


 いいながら意図的に笑ってみせた。由希はともかく、吉沢さんが緊張しないようにと思ったからだ。何せまだ店で働くのは二回目なのだ。

 二人の返事を聞いてから、僕はカウンターの奥へ引っ込んだ。


「終わった?」


 丸まった背中に、僕は笑いを堪えながら声をかけた。


「終わる訳ないじゃないっすか!」


 東城が洗い物をしていた手を止めて、横に立った僕をきっと睨んできた。東城は俺より背が低いし、今は腰を屈めているから見上げるような視線だ。

 あまりに素直な反応を返してくれるものだから、ついからかいたくなって、それがまたおかしくて笑ってしまう。


「悪かったよ、そう怒るなって。東城がよく働いて、しかも親父の相手もしてくれるから僕はとっても助かってるんだ」


「それ、遠回しに俺にイヤな役目を押し付けてるっていいたいんすか?」


「さぁね」


 東城という奴は本当におもしろい、と僕は思う。


「先輩、俺のことからかってるだろ」


「気のせいだよ、さ、仕事仕事!」


 今月はノーマルとストロベリーのシフォンケーキだ。とりあえず二つずつ作っておけば問題はないだろう。僕は早速作業に取りかかった。


「先輩」


「何?」


「疲れてませんか?」


 東城がそう聞いたことに僕は驚く。

「お前でも人の心配するのか」


「ちょっと、いくらなんでも失礼っすよ。なんすか、その本気で驚いたような顔。心外です」


 だって、本当に驚いたんだ、という台詞を呑み込んだ。心配してくれたというより、それを指摘されたことに。代わりに小さく苦笑いをしていた。


 自覚はしているけれど、少しばかり落ち込んでいることを。けれど、顔や態度にそれを出してしまっているなんて、この僕が。


「そんなにわかりやすいかな?」僕は首を傾げてしまう


「まぁ、ぱっと見気付かないっすよ? なんすかね、長年の付き合いから来る勘?」


「知り合ってどれくらいだ?」


「一年とちょっと?」


「どこが長年の付き合いだよ」


「はは、ホントだ。結構短いっすね」


 二人してくすくすと肩を揺らして笑った。


 ここは、あまりに居心地がいい。東城も、由希も、親父も、料理長も、他のアルバイト達も、コーヒーの香りも、オーブンから香るシフォンケーキの甘い匂いも、お客さんの声だって、この店のすべてが僕を癒して、やさしくしてくれて、このまま他に何もいらないと思った。

 だけど。


「もう走れないからかな」


 結局僕は諦めて、平穏なこの場所から動けないだけなのだ。そんなこと、もうずっと昔から理解している。


 また明日来ると、名前も知らない彼女はそういった。それが、来なかっただけのこと。もうすぐバレンタインデーから一週間経つ。

 ただ、それだけのことなのだ。


 朝七時、僕は彼女のために店を開ける。彼女を待っている。それがいつの間にか当たり前のように思ってしまっていた。

 彼女はただの常連客の中の一人にしか過ぎなかったのに。


「先輩?」


「東城が心配することじゃないよ」


 僕は笑って、東城が何かいいたそうにした言葉を遮った。これは、他でもない僕自身の問題でしかないのだ。


 それから黙って、シフォンケーキ作りの作業を再開した。顔と、心と違って、手はいつも通りに手際よく作業をしている。

 甘いお菓子は、食べる人を幸せにするためにある。たとえ作り手がぼろぼろに泣き崩れていたとしても、ケーキにそんな感情はいらないのだ。


 食べる人が幸せな気持ちになれるように、僕は右手を動かした。



***

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