グアテマラの香り * 01
「いらっしゃいませ」
カランカランと軽快なドアベルの音がした。僕は反射的に微笑みを浮かべると、入口へ体を向ける。今は朝の七時。この時間に来る人は一人しかいない。
視線の先にはやはり、スーツで身を固めた彼女がいた。
「お好きな席へどうぞ」と僕はいった。
彼女は僕に向かって小さく会釈をした。そうして着ていた真白いコートを脱ぎながら、いつもと同じ、窓際の隅の席へ向かってこつこつとヒールの音を響かせる。
今日のスーツはグレー。肩甲骨あたりで揺れる彼女の黒髪がよく映える。
年下だろうな、僕は思う。せいぜい二十五、六歳だと予想している。
もうすぐ二十八歳になる僕は結婚をしていない。何年か前に五年ほど付き合った彼女と別れてから、愛だの恋だのとは縁遠くなった気がする。
彼女が席についたのを横目で確認すると、お冷やとお絞りをのせた盆を左手に、右手にメニューを抱えてそこへ向かった。
この時間、ホールにいるのは僕一人だ。厨房では軽食の準備を、親父と東城という奴がやっている。
以前は僕も厨房にいたが、約一年前に東城が入ってからはホールの責任者に変わった。特に不満はない。むしろホールだけを見て、考えていれば良くなったことから、仕事面での負担は大分減ったかもしれない。
僕が席に近づくと、彼女は顔をあげた。目があってにっこり笑いかけると、彼女も笑ってくれた。
「失礼します」僕はテーブルの上にメニューを置く。「ご注文は?」
彼女はすべるように視線を動かし、「本日のコーヒーとクロックムッシュを」といった。予想通りだ。
はじめてこの店に来た日、食い入るようにメニューを見ていた彼女。その目がとても真剣で、僕は笑ってしまいそうになったのを覚えている。
それから彼女はこのメニューしか頼まない。よほど気に入っているらしい。
僕はまどろっこしいとは思いつつも注文を繰り返し、彼女が小さく笑ってうなづいたのを確認すると、メニューをふたたび脇へ抱え、会釈をしてカウンターへ戻った。
サンドイッチはホールの担当だ。最近は平日の朝に来る彼女のため、クロックムッシュ一人分の材料がほぼ焼くだけの状態で用意してある。焼く以外の時間はほとんどかけず、僕は注文通りの品を手に彼女の席へ戻った。
今日のコーヒーは彼女がはじめて来た日と同じグアテマラ。酸味はあるが、揺れる湯気からは甘い香り。本日のコーヒーは僕の気分で決めている。
「お待たせしました。クロックムッシュと本日のコーヒーです」
音がしないように気を使いながら、彼女の前へ並べる。
「お客様」
「はい?」
「甘いものはお嫌いですか?」
「え」
突然の僕の質問に、彼女は困ったように目を見開いた。一見、仕事ができそうなしっかりしている雰囲気を持っている人だ。それなのにきょとんとした表情で見つめられると、一気に幼く見えてしまう。あの日、メニューを見つめていた時もそうだった。
「もしよろしかったら、お礼にこれをどうぞ」
そういって僕は彼女の目の前にもうひとつ、小さなかごを置いた。中には数枚のアイスボックスクッキーが入っている。簡単で、昔よく母親が作ってくれたおやつの一つだ。僕はそれを焼くことを今日の朝一番の仕事にした。
「あの、お礼って……」
「毎朝通っていただいていますからね。今日はバレンタインデーですし、わたくしからのプレゼントです」
「え……あなたが作ったんですか?」
「僭越ながらわたくしが作らせていただきました。残していただいても構いません。勝手なプレゼントですからね。では、失礼します」
僕はもう一度会釈をし、彼女の顔を見ないようにして、わからないように若干足を速めてそこから去った。今頃になって心臓が騒ぎはじめたからだ。顔が熱い。
カウンターの中に戻った僕は、いつも通りにこれから来るであろう客のための準備をすすめる。厨房には厨房の、ホールにはホールの準備がある。バイトが入る九時まで僕は一人で店を仕切るのだ。
いつもだったらすぐにできる仕事も、今日はなかなかすすまない。さっきから彼女の席が気にかかる。味はよかったろうか。食べてくれるだろうか。迷惑に思ってないだろうか。明日から来てくれなくなったらどうしようか。
まずいことをしたな、僕は思う。
ここは小さな街角の喫茶店。もっとおいしい、居心地のいい店はたくさんあるだろう。
思わずため息が漏れそうになる。だが狭い店内では彼女の耳元まで届くだろう。そう思って息をとめた。
たったの三十分が、長い。
***