終末世界の中で
このサイトでは初投稿となります。至らぬ点も多いと思いますが、ご指摘いただけたら幸いです。
この小説、一応ファンタジーに分類されているのですがスパイス程度のものなので、そっちに期待されると悪い意味で裏切られると思います。きっと。
99%エンターテインメント性はないと思われますので、娯楽目的の方にはお勧め出来ません。
拙い作品ですが、評価ご感想のほど、よろしくお願いします。
プロローグ
「神様っていると思いますか」
黄金色に輝く夕陽がベンチを照らしていた。時々髪をすく秋風が、上着越しに僕の肌を震わせる。
僕は自殺するつもりで家を出て、バスを待っていた。
「ねえ」
隣に座る女の子が僕の顔を覗き込んでくる。見知らぬ女の子にいきなり話し掛けられて、僕は動揺して言葉を出せずにいた。
女の子は僕よりも二つ三つ下、恐らく十二、三歳くらいだと思われた。この寒空に季節外れの袖無しワンピースを着て、見ているこっちの肌寒さを加速させる。ふっくらしたお餅のような頬、まだ未発達な体格。しかし、あらゆるパーツが幼さを醸し出している中で、その瞳だけがどこか淀んでいるように見えた。
「どうしてそんなことをきくの?」
僕は取り敢えず聞き返す。何か言わなければ事態は進みそうになかったけれど、僕は何を言うべきなのか判断がつかなかった。
「分からないの」
少女が応えた。
「ずっといると思っていたのに、分からなくなったの」
少女は俯いて、悲しそうな顔をした。
最近よくいる宗教者の類いか。現実から逃れるために、空想話やありもしない幻想に捕われた人間。こんな幼い子まで影響されていることに少し驚く。なにかに縋っていなくては明日の希望も見出せない世の中を惨めだと思った。こんな時、慰めの言葉でも言えばいいのか、その通りだと気休めでも言ってあげればいいのか。色々な未来が浮かんでは消えたけれど、結局僕はそれに対する答えを持っていないのだということに気がついた。
そっとしておこうと思って、僕は無言で真っ赤に燃え上がった空に目を向けた。
何かが変わるのを待った。夕陽が沈むのを、バスが来るのを、お腹が空くのを、冬になるのを、寿命が尽きるのを、世界が終わるのを、待った。
女の子と僕は、それから一言も言葉を交わさないままベンチに座っていた。
とても静かだったけれど、それは妙に安らぐ時間だった。
やがて消えていく太陽の輝きに包まれながら、ただ時が流れるのを待つ。今の風景を写真に撮ったら賞でも貰えるんじゃないか、などと下らないことを考える。
数分後、陽が沈むと少し寂しい気持ちになる。曇り空が、夜の闇を一層際立てていた。僕は暗いのが嫌いだ。
わずかに不安を覚える中、さらに十五分くらいしてバスが来た。
バスの乗車口に足を掛けてから、ふと思って振り向く。
「きみはこのバスに乗らないのかい」
何も言わずにこの場からいなくなるのは、少しずるい気がした。
それまで地面を見つめていた少女が顔を上げた。
「っ……」
少女は迷ったように視線を逡巡させ、三十秒ほどして小さく頷くと下を向いたまま、とてとて歩み寄って来た。それを確かめてから僕はバスに乗り込む。
車内は閑散としていて、乗客はやつれたサラリーマン風の男一人だけだった。背広はよれよれになっていて、着ている当人はそれに気を配る余裕もないほど気力を削がれているらしかった。
それを横目で見遣りながら後方の窓側の席に座る。幾分か疲れていたので少し眠ろうかと思い、窓枠に肘を乗せた。
と、その時隣の席に誰かが座ったのが分かった。見ると、さっきの少女だった。
「し、失礼します」
僕が目を丸くしていると、少女は少し恥ずかしそうに頬を赤らめた。
なんだこの子は……。他に席は山ほどあるのに、どういうつもりだ。
不可解な行動に、僕は警戒心を抱く。
隙をうかがって僕から財布でも盗むつもりなのだろうか。この辺りは最近過疎化が激しいから、目撃者なんてそうそういないかもしれない。それに僕がそれに気付いても、警察はこの程度のことに構ってくれたりはしないだろう。最近は特に忙しいようだし。
ふむ。一応、サラリーマン風の側に席を移すか。
腰を上げかけて思い直す。
……いや、別にそんなこと、気にかけなければいいだけの話だ。どうせ僕は死ぬのだから、物を盗られようがなにをされようが、そんなことは些細なことだ。いっそ殺されたって構いやしない。
「ご迷惑でしたか」
「いや、全然」
目下の所、問題があるとすれば今のやり取りで徐々に蓄積していた眠気が消えてしまったと言うことだ。現実問題、なにかに直接影響することなんて今はないだろうけど、単純にストレスが溜まる。面倒くさい生き物だ、人間というのは。
バスはカタツムリみたいにのろのろと走り出す。最近また速度を下げたように思う。道の至る所に埋まったある物を、うっかり轢いてしまわないように気を付けるためだ。
と言っても、あれは戦車に轢かれても傷一つ付かないって噂だけど。
車窓から外を覗くと、案の定ぽつぽつと白いドラム缶のようなものが道路の至る場所に見える。もう見ても驚かなくなったが、あれはミサイルである。
ここだけじゃない、世界各国に降り注いだ四千万発のミサイル。あの騒動が始まってから、既に二ヶ月が過ぎていた。
人類は突きつけられた、冗談みたいな滅亡の危機に対処する術もなく……ただ自身の喪失を待つだけの、脆く儚い霧のような存在に成り下がった。もっとも、最初からそうだったのかもしれないが。
一見なんの変化もない、よく見る代わり映えのしない景色。
だが世界は着実に、ゆるやかに消滅へと向かっているのだった。
第一章
あれは確かに、ちょうど二ヶ月前の、八月十一日のことだった。
夏休みで、雲が高く昇っていた。ここ数年の最高気温を更新する猛暑日で、僕はクーラーの効いた部屋で、宿題の読書感想文を書くために小説を読んでいた。
最初から小難しい言葉ばかり並べられていらいらしつつ、ようやく登場人物が何をしてるのか理解できるようになってきた頃、轟音と共に大きな揺れが体を伝った。
「地震っ?」
壁にかけられた絵が揺れ、本棚からバサバサと本が落下し、衝撃で身動きが取れない中、僕の目がそれを捕えた。
両親が僕の名前を呼んでいるのがどこか遠くに聞こえた。僕は窓の外で街に降り注ぐ、無数の流星群に目を奪われていた。
どこからともなく、世界のあちこちで同時に落下してきた無数のミサイル。人類滅亡へのカウントダウンの始まりだった。
誰が何の目的でこんなことをしたのか把握出来る者はなく、この異常事態に世界中が大混乱に陥った。
もちろん指をくわえて黙っている事はなく、すぐ始めにアメリカのどこかの州で解体が試みられた。だけどそれは失敗して、ミサイルは爆発した。その瞬間、爆発の影響がなかった場所の、いくつかのミサイルまでもが共鳴するように同時に炸裂し、地図の上からその州は消滅した。どうやら一定範囲内ごとにリンクしたミサイルが存在するらしい。謎のミサイルは既存の構造と大きく違うらしく、その後解体に挑んだ地域がことごとく失敗し、消滅していった。そのせいで今や、ミサイルを物理的になんとかしようとする積極的な国などほぼ皆無で、内部構造すら不明のまま既に二ヶ月が過ぎている。失敗した際の爆破圏内が広すぎるのだ。
ところでミサイルの側面には液晶パネルがついており、そこにデジタル表示で爆発までの残り時間が記されている。この残り時間は場所によって異なるらしく、一番早いものは北極で、そこからアメリカ大陸に続き、そのまま世界地図を西回りに爆発して行き、最初のリミットから実に二ヶ月の間隔を経て最後はアフリカ大陸で爆発する。
しかし最初は、果たしてこれが爆発までの時間なのか不明で、ミサイル落下からおよそ一ヶ月が経った頃からわずかではあるが徐々にパニックは収まっていった。だが二週間前にとうとう、北極にあるミサイルがリミットを迎えて爆発した。
これによって世界は今、人類史にはなかった前代未聞の危機を自覚した。
パニックは今度こそ収まる所を知らず、日夜新手の宗教や犯罪者を増やす一方だ。自殺者数も増加している。
国は国に責任を押し付け合い、国家としての機能を失いかけている。法も正義も、圧倒的な破壊の前では何の力も持たなかった。
爆発の遅い西洋諸国へ避難する人間で昼夜空港はいっぱいになり、いよいよ実感を持って人々を恐怖に陥れている。
ちなみにこの地域にあるミサイルのリミットはあと、三五〇時間弱。およそ、二週間だ。日本全国のミサイルは数分程度の時間差しかないらしいので、
あと二週間で、この国は滅ぶ。
バスに乗って、三十分くらい経っただろうか。
唯一このバスについて褒める点があるとすれば、窓枠で頬杖を突いてもあまり震動がないことくらいだ。
自転車の方が速いと思える程の、安全第一の低速運転で走行し続け、やることもないのでその間ぼーっと外を見ていた僕であった。とはいえここは丘陵で、行けども行けども景色は緑一色の森林ばかり。全く面白みなどなかった。
隣の少女と話でもしようかとも考えたけれど、バス停での会話を思い返すに面倒なことになりかねないと思い、ちょっと憚られる。
代わり映えのしない風景を目に映しながら、試しに眠ろうと目をつむってみたり羊を数えてみたけれど全然眠気なんてやって来ない。退屈の極みだ。
そんな時唐突に、肩に重みを感じた。
「っ!」
びっくりして振り返ると、隣の少女が頭をもたれていた。
一体、何を……。
「……すぅーっ、すぅ」
穏やかな呼吸音がやがて鮮明に聞こえる……眠っていたのか。
どうしたものか。
「うぅん……お母さん、布団とらないでぇ」
少女が怪訝そうに顔をしかめる。一瞬何事かと思ったが、寝言か。
夢でも見ているのだろう。さっきまで終始緊張していた表情が、今は年相応の不満顔になっていて、僕は少し安心した。
その無防備な寝顔が微笑ましかった。
少女の体が小刻みに震える。腕には鳥肌が立っていた。寒いのかな。
その姿を見ながら、しばし逡巡。
僕は上着を脱ぐと、少女の肩にかけてやった。
仕方ない。この子が起きるまで、乗車しておくか。
「次は、雪見〜、雪見です」
運転手のアナウンスで目を覚ます。いつの間にか僕も眠っていたようだ。
聞いたことのない地名で、とうに見覚えのない景色が車窓の外に広がっていた。時間は……およそ一時間半も経過している。
木しかなかった緑一面の風景が、山なんて見当たらない開けた土地になっていた。ぽつぽつと民家の灯りが点り、空は真っ暗闇に包まれていた。
ふと隣をうかがうと、少女が自分の腕を抱くように両手を交差させ、口を固く結んで僕を見ていた。頬にはわずかに朱が差し、体はぷるぷると震えていた。だがまあ、今度のは寒さじゃないだろう。
「よく寝れた?」
僕の問いに少女は応えず、俯いてそっと僕の上着を脱ぐと、ゆっくり僕へ差し出した。
「これ……ありがとうございました」
余計なお世話だったかな、と今更思ったが、まあ仕様がない。
「次は、大浪〜、大浪です」
上着を受け取ると、車内アナウンスが耳に入った。窓の外に目を遣ると、バス停の近くに小高い山が一つそびえているのが目に入った。バス停周辺はあまり建物がなくて、数百メートル離れた所に集合住宅らしき団塊がぽつりと見えている。なかなかどうして、この土地は僕の計画に適っているように思えた。
ここで降りよう。
「ごめん。いいかな」
少女に、前を通ると手で示す。僕は筋肉の強張った重い腰を上げて少女の前を通り過ぎた。
「あっ……」
「ん?」
少女が僕の背中に何か言いかけたので振り向く。
「い、いえ……」
僕と目が合うと、少女は恥ずかしそうに目をそらした。言葉がそれ以上出て来ないようだったので、さっさと下車しようと改めて乗車口に足を向ける。
少し、我ながら調子に乗ったかな。思春期の女の子相手に。
「あのっ」
下車すると、まだ後ろで戸が閉まる前に、今度ははっきりとした声が届いた。
振り返るとあの女の子が、どこか必死さを感じさせる形相でバスの乗車口に立っていた。
「この辺りの人じゃ、ないですよね?」
じりじりと距離を詰めるように、少女がバスから降りた。
「ああ、うん。ちょっと野暮用でさ」
本当は、知らない場所ならどこでも良かったのだが。
僕が答えてから、少女は下を向いてずっと何かを考えているようだった。構わず行ってしまいたかったが、その様子を見てそれじゃ少し申し訳ないと思い、足を止めて反応を待つ。
その内に、バスの扉が閉まった。
「きみ、このバスに乗らなくていいの?」
「は、はい。わたし、ここで降りる予定だったので」
口から言葉を発した事で後押しされたのか、少女が意を決したように言葉を続けた。
「わたしの家、あそこにあるんですっ」
と、少し離れた集合住宅の一角を指差す。
今日は小さな驚きを沢山くれたこの少女が、ここで更なる一言を投げて来た。
「だからっ、今日わたしの家に泊まりませんかっ」
夜道を、少女と並んで歩いていた。
「どうしてここに来たんですか?」
どうして僕は、この子と一緒に歩いてるんだろう。あんな誘い、断ってしまえばよかったのに。こんなことしたって、目的を先延ばしにするだけだ。
だけど僕の胸の内には、後悔よりも安心に近い、ほっこりしたものが確かに居座っていた。
一体何を喜んでいるのやら。まあ、別に今じゃなくてもできることだ。少しくらい寄り道してもいいだろう。そんな風に自分に言い聞かせる。疲れていたから魔が差したのだ、と別の自分がさらに言い訳。
「ちょっと、家出しちゃってね」
「家出!」
真ん丸の瞳が、さらに丸くなって僕を見上げた。
「何か嫌なことでもあったんですか」
「まあ、ちょっと……ね」
なぜか、少女が少し悲しい顔をして俯いた。
「そうなん、ですか」
とぼとぼと、歩く。街灯が少ない場所だった。暗い所を歩いていると、少し不安になる。
「あっ。あそこです」
ぱっと顔を綻ばせると、少女は数十メートル先の一階に灯りの点いた、二階建ての一軒家を指差した。
「大きな家だね」
素直に感想を呟く。僕の家は手狭なマンションだったからな。
「うんっ。お父さんが待ってるの」
きらきらと眩しい、純粋な笑顔だった。なんだ、こんな顔もできるんじゃないか。
と思った矢先、何かを思い出した様な表情を経て、また少女は暗い面持ちで俯いてしまった。
よく分からない娘だ。
「ただいまぁ」
少女が鍵を開け、玄関を開く。明るめの声で帰宅を告げていた。
「『マイ』! どこ行ってたんだ、心配してたんだぞ!」
ドタドタと足音がして、リビングと思われる空間から父親らしき中年の眼鏡男が娘を出迎えた。
「ごめんなさい。ユミちゃんと公園で遊んでたら遅くなっちゃった」
父親の安堵の表情も束の間、突然の来訪者である僕を目に留め、警戒の態度を露にする。
「君は……?」
「バスで一緒だったんだ。わたしの面倒見てくれたの。今日うちに泊めてもいい?」
「えっ?」
一瞬、理解できないといった風に困惑する父親。そりゃそうだ。僕にも分からん。
「すみません。そんなつもりはないのですが」
「いいの! お願いお父さん」
ねだる娘に、父親は参った様子で、
「ま、まあ取り敢えず上がって下さい」
と促した。
リビングに通されて、取り敢えず詳しい説明をすることに。
「一人旅か……こんな遅くにどちらまで」
「近くにある山に登ろうかと」
「ふうむ。夜は危険だ。やはり、よかったら泊まって行って下さい」
僕が家出していることは隠して、大体の事情を説明したらこんな感じに。
「いえ、ご迷惑になりますし、大丈夫です」
「いや、もしなにかあったら大変だ。大丈夫、こんなこと迷惑の内に入りませんよ」
という感じになって、結局泊めてもらうことになった。全く予期しない展開になってしまった。
まあ、一日二日遅れても大して差はない、か。
夕飯に、簡素だが美味い鍋を一緒に突かせてもらった。正直、もう少し警戒されると思っていたのに父親も娘も快くもてなしてくれて、柄にも合わず泣きそうになった。というか本当に大丈夫なのか、この家の防犯意識は。
夕飯を御馳走になった後、マイちゃんとテレビゲームをして遊ぶ。十年くらい前の機種だったが、古いゲームの方が案外面白く感じられた。
そんな調子でまったり過ごさせてもらった後、夜の九時頃。明日は休日だと言うのに僕には信じられない程早い時間にマイちゃんは就寝した。習慣ってすごい。僕も数年前はこんな風に利口だったのかと思うと信じられない。
余っている部屋に布団を用意してもらったが、バスの中で居眠りしたせいで一向に眠気がやって来ない。そんな時、マイちゃんの父親(長いので、次からはおじさんと呼ぶことにしよう)に呼ばれたのでリビングに向かった。
「炭酸は飲めるかい」
「はい」
夕飯を御馳走になった食卓テーブルの席に着かされる。
「私はこれがないと禁断症状が出るらしくてね」
どんな禁断症状だ、と訝んでいた僕の前に、ペットボトルのドクターペッパーが差し出された。僕は咄嗟に顔をしかめないよう、ポーカーフェイスを装った。
炭酸は飲めるし、むしろ好きな方だが、これが出されると知っていたら断っていた。これはジュースの内に入らないと僕は思っている。
「マイが世話になったね」
「いえ」
「山には明日登るのかい」
「日取りは決めていませんが、できれば明日登りたいと」
「ふむ」
ふと、おじさんが影のある表情を見せる。
「この辺りに来るのは初めてかい」
「はい」
「……一つお願いしたいことがあるんだが」
おじさんは間を溜めると、真剣な面持ちになって言った。
「またここに、この家に来てくれないか」
「……無理だと思います」
正直に答える。本当は、僕は今日命を絶つつもりだった。それが訳の分からない展開で、今のんきにドクペをすすっているわけだが。それでも明日にはこの世にはいないだろう。なぜか分からないが、おじさんは至極真剣に訊いているし、誤魔化したくはなかった。
「……マイには、先週まで母親がいたんだ」
「はあ」
「私の妻、だな。詳しくは言えないが、ミサイルの件で離婚騒動に発展してしまってね。とうとう先週離婚して妻は家を出て行った」
なんだ。急にどうしてこんな打ち明け話をする。
「どうしてそんな話を、僕に……?」
「突然母親がいなくなって、マイはひどく傷付いている。学校の友達にも言ってないようだし……本来親である私がもっとあの子の側にいなくてはならないのだが」
おじさんが、悄然を多分に含んだような重い溜め息をついた。その表情は夕方、バスの中で見た疲れ切った様子のサラリーマンと同じだった。
「私は小さな会社の社長をしていてね。昔は家族の幸せと、会社の発展だけを望んでいた。それが、まさかこんなことになるなんて……なんて情けないんだ、私は」
おじさんは意気消沈した表情で項垂れた。歯軋りや腕を微細に震わせていたりしたが、やがて我に返ったように、はっと顔を上げた。
「す、すまない。いい歳した大人が、こんな姿を」
僕はその姿に見覚えがあった。
「いえ。僕の両親もそんな感じです」
こんなご時世では真っ当な商売が存続する筈がない。
理不尽な被害を被り、やり場のない怒りと自身の無力さに苛まれ、常になにか縋る対象を捜している。ここ数ヶ月で社会は混乱と悲劇に満ちていた。
「そうか……君も」
おじさんは哀れみの表情を浮かべると、柔らかい眼差しで僕を見つめた。
「もし……もしよかったらこれからもマイと仲良くしてあげてくれないか。あの子は君をすごく信頼している。どうか頼む、この通りだ」
おじさんが僕に頭を下げる。やめて欲しい。
「……できる限り、そうしたいです」
絞り出すように僕は応えた。だが直後、おじさんが涙を浮かべて相好を崩す様に、僕は無理だと、率直に言うべきだったと激しく後悔の念を抱いた。
そんなポジションは、僕には到底不可能だった。僕の内から活路を見出すなんてあり得ないことだった。
なぜなら僕は、ただ死を望むようなみじめな人間に過ぎなかったからだ。
第二章
翌日。昨日は長距離を移動したので疲れていたのか、昼過ぎまでぐっすりと眠ってしまった。代わりに起きた時には、昨日の疲労感はすっかり拭い取られていた。
目を覚ますと同時に耳に入って来るノイズ音。どうやら外では強い雨が降っているみたいだ。
枕元に置いたケータイを確認すると、母親からのメールが三件。いずれも帰宅を促す内容だった。まさか僕が今、こんな大胆な行動をしているなど夢にも思わないことだろう。
起きて、借りた布団を畳んでからカーテンを開く。外は煙が立ちこめた様な薄暗闇で、案の定大雨だった。
たまに落雷の音が響く曇天を見上げながら、僕は幾分か憂鬱な気分になった。死ぬことすら面倒臭くなりそうだったが、これじゃあいかん。ゲンコツで軽く二回こめかみを叩いて意識をはっきりさせる。別に天候など気にせず実行してしまえば良いのだ。
部屋を出ると、おじさんがリビングで新聞を読んでいた。今日は休みの日らしかった。
「おはようございます」
声をかけると、おじさんは新聞を下げて顔をのぞかせた。
「ああ、おはよう。よく眠れたようだね」
そう微笑むおじさんの顔は昨日より一層やつれたように見え、目の下には濃いクマが刻まれていた。社長ともなれば気苦労も絶える事がなさそうだ。あれから眠ってないのだろう。
「夕飯を御馳走になった上、寝床まで貸していただいて……」
「ははは。遠慮するな。今日は生憎この天気だしね。今日もゆっくりしていくといい」
「いえ。これ以上ご迷惑お掛けする訳にはいきません」
「大丈夫大丈夫。君のことは全然迷惑だなんて思っちゃいない。むしろマイと遊んでくれて感謝しているよ。ほら、ご飯を用意するから食べなさい。今日一日くつろいでもらって構わないから」
と言って、おじさんは冷蔵庫を開けて卵とベーコンを取り出すと、簡単なベーコンエッグとトーストを作ってくれた。
「すみません」
「遠慮は無用だよ。自分の家だと思ってくれていいんだから」
その言葉に、素直に頷くことはできなかった。
「そういえばマイちゃんは?」
「ああ。部屋で遊んでるんじゃないかな」
と、コーヒの入ったカップを差し出してくれた。
昼食後、こっそりとこの家を出て行くべきか考える。あまり先延ばしにしているとアクシデントが起こりやすいからだ。
僕は静かに死にたかった。誰にも見られず、寂しくないけど素朴な場所で。それが僕の理想と思えた。
バス停の側にあった山の中なら、僕はこれ以上ないくらい安心して死ねるだろう。遠くに見える民家。周囲を覆う木々。さえずる小鳥。豊かな自然の中で眠るように意識を失う。これ以上ない死に方だ。
そう思っていたのだが、この大雨の中では視界が遮られて目的が達成できない気がした。どこに何があるか分からない場所で、孤独に死を迎える。それは想像すると恐ろしかった。
僕は死が怖くないわけじゃない。自分が消えて世界が消えて、完全な無になることを考えただけで涙が出る。もう娯楽による快楽も感じられず、逆に精神的あるいは肉体的な苦痛も感じることができない。そもそも感じられないという認識すらない。死んだと思うこともできない。考えれば考えるほど混乱する。死は常に人間を支配して来た。その脅威は嫌と言う程理解している。この世に生まれて来て早十五年。僕を形成して来たもの全てが、僕が積み上げて来たもの全てが、呆気なく消滅する。意味のないものに変わる。それは言葉で言い表せない程に恐ろしいことだった。
何度も死ぬことについて自問自答を繰り返した。嫌だと思った。怖いと感じた。だけどやらなければならないと決断した。
だから、僕が死から逃げ出さない様な状況を作り上げなくてはならない。気を抜けば生への執着が出て来る。
暗い景色をリビングの窓から見つめながら思考の末、今日は決行しないと僕は決めた。
だけど極力早く実行しなければいけない。次に晴れたら、もう誰とも顔を合わせずにあの山へ向かおう。
夕方になった。ずっとマイちゃんが二階の自室から降りて来ないので、流石に心配になったおじさんが、
「マイー。そろそろ夕飯にするから降りていらっしゃい」
と階下から呼びかけたが、返事がない。
おじさんが直接上に行って、マイちゃんを呼びに行った。
僕も少し胸に違和感を覚える。そういえば、今日は二階から少しも物音がしなかった。ずっと考え事をしていて、今更になって思い当たる。何かあったんじゃないかと胸が騒いだ。
その時、ドタドタと慌てて階段を駆け下りる音がした。
「どうしたんですか」
おじさんは息を切らせながら、僕の目を縋る様な調子で見つめた。その顔がみるみる青くなっていくのが、僕の不安を増した。
「マイがいないんだ」
「マイちゃんが?」
もう一度、今度は僕も一緒に行って、マイちゃんの部屋の中を確認する。本当に、部屋はもぬけの殻だった。
おじさんがふらっと壁に、倒れるようにもたれかかる。
「どこに……マイ、マイ」
「しっかりしてください。取り敢えず落ち着いて状況を確認しましょう」
おじさんの肩を背負って、階下まで行く。おじさんはショックで力が抜けていた。
その後三十分をかけ、マイちゃんが午前中に家を出ていった、という結論にたどり着いた。朝、おじさんは一時間程会社からの連絡で家を出ていたらしい。その隙にマイちゃんは外に出たのだろう。僕はその時間、まだ眠っていた。
「マイちゃんの携帯電話は?」
「だめだ。マイには携帯を持たせてないんだ」
では、この大雨の中一人で外に出て行ったマイちゃんと、連絡を取る手段はないというのか。
「とにかく急がねば。私は交番に行って捜索願を出して来る」
「僕はこの辺りを捜してみます」
「いやだめだ。マイが家に帰って来た時に誰もいないと分からなくなる。それにこの大雨だ。君まで危なくなる」
僕は大人しく家で留守を預かることになった。
おじさんはレインコートを着ると、ふらふらのまま外へ出た。あの状態で大丈夫だったのだろうか。
リビングで一人、椅子に座って時を待つ。雨音は増々強くなっているように思う。
それにしても、マイちゃんはなぜ出て行ったのだろうか。好奇心か、いやあの子の性格からそれはなさそうだ。何か確固たる目的があって外へ出たに違いない。
じっと待つこと二十分、おじさんが帰って来る。
「マイは帰って来たか」
「いえ、まだです……」
おじさんは今にも死にそうな顔をしていた。精神的、肉体的にも限界なのだろう。
「一度休んだ方がいいですよ」
「いや、警察から連絡が入るまで待つ」
「電話は僕が取ります。いざとなった時、その状態じゃ動けませんよ」
と、何とか説得しておじさんに仮眠を取らせる。本当に、見ていられない。
すぐに電話が取れるよう、電話機の前に一人座る。またノイズだけを耳に、緊張する時間を過ごす。
あの子に何かあったらどうしようと心配だった。もし事故や怪我があったら、などと考えると寒気がする。
どれくらいの時間が経っただろう。不意に家の電話がけたたましく鳴った。
僕はすぐさま受話器を取って耳に当てる。
「あ、安西さんのお宅ですか」
安西はこの家の名前だ。
「はい」
「先程捜索届けを出されたマイという娘さんなんですが、自動車と接触事故を起こして、先程大浪総合病院へ運ばれました」
衝撃が、身体を貫いた。
第三章
マイちゃんが病院に運ばれたと聴いた後、すぐさま僕はおじさんを起こして聴いたことを伝えた。
おじさんは寝起きで多少顔色が良くなっていたものの、また青くなって立ちくらみを起こしかけた。おじさんは一人で病院に行くと言っていたが、僕は放っておけないと言い張って、一緒に行くことを許された。
「マ、マイ!」
病院の受付で教えてもらった病室に入ると、ベッドに横になったマイちゃんが目に入った。隣には女性の看護師が立っている。
「お父さん……」
おじさんを見ると、マイちゃんは申し訳なさそうな顔をした。
「マイ、大丈夫なのか」
「うん。全然大丈夫」
声音はやや弱く聞こえたが、マイちゃんは本当に元気そうに見えた。その顔色に、おじさんはその場で大きな安堵の息を吐いた。
「良かった……良かった」
「ごめんなさい。お父さん」
「一体、どこに行っていたんだ」
おじさんが問いかけると、マイちゃんは答えるのを少し躊躇った。
「マイ……?」
マイちゃんが、おじさんから顔を背けた。僕の視点からはマイちゃんの表情がうかがえた。マイちゃんは拗ねた顔をして、目には涙を浮かべていた。
結局、おじさんがいくら訊いてもマイちゃんは頑なに答えようとしなかった。
病室を後にすると、担当医師からの説明があった。
「走行中の車の前に飛び出したようですが、相手の車が速度を出していなかったのが幸いしました」
初老の眼鏡をかけた医師は、仏頂面で説明を続けた。視線は常に手元の資料に向いている。
「雨が降っていたのでよく見えてなかったんでしょう。今日のは霧のようでしたからな」
「マイの怪我の具合はどうなんですか」
「ああ、全然問題ありません。本当に大丈夫ですよ。車に驚いて尻餅をついた拍子に出来たかすり傷が手に少しあるくらいです。娘さんがびっくりしてその場で泣き出してしまったのでここに運ばれたのですが、無事で何よりです」
おじさんはそっと安堵の溜め息をついた。今のできっと本当に安心できたのだろう。
「そういえば、マイはどこで事故を起こしたんですか」
おじさんが思い出したように訊いた。
「えーと確か……」
資料をめくって、医師がおおまかな場所を伝える。無論、僕は分からなかったが、おじさんの表情は凍っていた。
簡単な検査を終えればすぐにでも退院できると言うことで、その間僕はおじさんに連れられて、近くのファミレスに入った。また奢ってくれると言う。
おじさんの表情が思い詰めた感じだったので、僕は言われるまま御馳走になることにした。
「大丈夫ですか」
メニューを見ながら探りを入れる。
「ん? ああ、まあ」
おじさんは食事を終えるまで終始上の空で、全くと言っていい程会話がなかった。目が死んだ魚のようだった。
「マイちゃん、良かったじゃないですか」
病院に戻る途中、信号待ちをしている時のこと。
おじさんと二人、傘をさして立っていた。
「ああ」
「……なにかあったんですか」
「なにかって?」
「さっきの医者のセリフ、思う所があったように感じられました」
僕の言葉に、おじさんは目を伏せた。
「……きっと、マイは母親に会いに行ってたんだと思う」
「お母さんに?」
「ああ。マイは最後まで離婚に反対だった。当然だ、私達はマイの親なのだから。でも、私達はマイに恐ろしいことをしてしまったんだ」
おじさんは懺悔するように呟いた。
「私は会社で帰りが遅いから、平日はたまにしか家で会えないが、マイはきっと毎日母親に会いに行ってたんじゃないかと思う。マイは私のことも母親のことも愛していた。ずっと元の家族に戻れるように必死だったんだと思う……今気付いたよ、そんなことに」
信号はとっくに青になっていて、僕達を何人かの通行人が抜いて行った。
おじさんはこれ以上喋ろうとしなかった。雨のせいか濡れた頰を闇に輝かせて、声を殺して呻いていた。
その日、夜の八時頃。無事退院したマイちゃんを連れて病院から帰って来て、ちょうど一時間が経った。
家まで徒歩で帰ったが、その間おじさんとマイちゃんは一言も言葉を交わすことはなかった。おじさんは申し訳なさそうに。マイちゃんは拗ねたままで。
帰った後、僕はベッドで横になって、目を閉じていた。
親子、ねえ。
正直、昨日の離婚話を聴いて、おじさんのことを悪い人じゃないけれどもどうしようもないな、と思った。確かにおじさんは情けなさ過ぎる。
そしてマイちゃんはどうしようもなく可哀想だと思った。そして、ひどくみじめだと感じた。
離婚なんて仕方のないことじゃないか。親は人間であって神ではない。いくら子供が頑張った所で空回りするのは目に見えている。そして場をさらにぎこちなくする。
どうしようもないのだ、人間だから。諦めるしかない。
ほんの、二週間前のできことだった。
「学校に行かないだと。どういうことだ!」
会社から帰って来た父が、着替えもせずに僕の部屋に飛び込んで来ると、僕の胸倉を掴んだ。
その日、僕の学校は閉校した。仕方のないことだった。
ミサイル事件のせいで、あらゆる行政機関が麻痺し出していた。学校も例外ではない。次々と教師達が辞めるようになり、この頃になると教育委員会も尻拭いする気がなくなったらしく、他の教師を派遣することもなくなり、匙を投げていた。
もうじき世界が滅びると言うのに、教育に何の価値があると言うのだろうか。そう思っていた人間は沢山いて、生徒側で退学するやつもいた。本当に教育に命を懸けている人間なんて極一部なのだ。
教員不足に陥り、僕の学校は閉校することになった。
この時僕に与えられた選択肢は二つ。このまま別の学校に転入するか、転入しないかだ。
僕は転入するつもりはさらさらなかった。僕も、この期に及んで勉強したいだなんて思わなかったし、第一、転入先の学校だって閉校しない保証はなかった。
閉校日が迫ったある日、父と母、そして僕の三人で家族会議が開かれた。
父は何が何でも学校に行くべきという意見を貫き、母は僕の自由だと言った。
僕は行かないと言う主張を曲げなかったので、後日父が勝手に他校へ転入届を出した。
だから僕は転入日にテコでも家から出なかった。そして会社から父が帰って来て殴り合いの喧嘩になった。以下ダイジェスト。
「なぜ行かなかったと訊いているんだ!」
「僕は最初から行かないと言った」
「ふざけるな。そんな自分勝手が許されると思っているのか」
「自分勝手はそっちだろ。この期に及んでまだ世間体のために家族を利用するのか。最低だ」
「貴様! 父親に向かって何たる言い草!」
「父親だろうが息子だろうが、同じ人間だろ」
「俺に養われないと生きて行けないクズのくせに。お前なんか死んでしまえ!」
父のこの言葉が、今回の自殺旅行の発端だった。
普段から父はなにかと僕を貶していたので、いい機会だと思った。それに僕自身、自分が必要のない人間だと悟っていた。
学生時代は勉強もできず、これと言った趣味もなかった。友人もほとんどいなかったし、僕は社会的なクズと呼ばれておかしくない存在だった。
別に趣味がないから死ぬべきだとか、友人がいないから貶される必要があるとか、そんなことは思ってはいないが、人間社会が、この日本という民主国が作り上げてしまった社会的地位が僕を決めつけた。
僕は人間社会で必要とされていなかった。それはつまり、人間というカテゴリーの中に僕の価値は存在しないということだった。
だから僕は自殺することに決めた。大人達がハリボテのような胸を張っているこの世界が、いかに狂気じみていて無意味なものなのかを知らしめる為に。
世界が滅亡する前に自分の意志で命を絶つ。ここに意味がある。
僕の命は、人間の愚かさを照らし出す光となるのだ。
第四章
「お兄さん、お兄さん」
「んぅ……」
目を開けると、入って来た照明の光が眩しく感じられた。
いつの間にか眠ってたのか。
「お兄さん」
「マイちゃん」
ベッドの傍らにマイちゃんがいた。
「どうしたの?」
「夕ご飯だから呼んで来なさいって、お父さんが」
「もうそんな時間か」
「寝てたんですか?」
「ああ。ちょっと考え事してたらいつの間にやら」
ふと、そこでマイちゃんを見つめてみる。
寝起きだからか、マイちゃんの表情は病院で見たときよりも幾分か柔らかくなったように感じられた。
「どうしたんです?」
マイちゃんが首を傾げる。
「マイちゃん」
「はい?」
「お母さんとお父さんと、また一緒にいたいって思う?」
僕の唐突な質問に、マイちゃんが目を丸くした。
「も、もちろん! お兄さん、お母さんのこと知ってるの?」
「あー、うんちょっとね」
「ふーん」
「なんで戻って来て欲しいの?」
「だって、お父さんとお母さんは、わたしのお父さんとお母さんだからです」
なんだそりゃ。どうしようもなく穴だらけで、稚拙な理屈だ。
「もしどっちかが嫌いだって言ったら?」
「好きになってくれるまで会いに行きます」
「もしそれも嫌だって言ったら?」
「毎日お願いしに会いに行きます」
それは実話だろう。僕は何故だか、無性に腹が立ち始めていた。
「もし会いたくないって言ったら?」
「会ってくれるように努力します」
マイちゃんの口調がだんだん強くなる。
「それでも、マイちゃんの知らない場所に行っちゃったら?」
「捜しに行きます!」
マイちゃんの目が潤んできたのが分かる。
「マイちゃんの知らない場所なんだよ?」
それでも僕は、マイちゃんに質問をやめなかった。
「それでも捜します!」
「じゃあもし、マイちゃんが捜してる間に死んじゃったら?」
最低な質問だ、と心の中で思った。最低な人間だ、と自分に嫌気がさした。
マイちゃんは明らかに戸惑った。そりゃそうだ。死んでしまったら人間は何もできない。
「どうしてさっきから、ひどいこと言うの……」
マイちゃんの目から、ぽろっと涙が零れた。
「あ……」
その瞬間、僕は今度こそ今までの自分に殺意が湧いた。
「なんでお兄ちゃんがそんなこと言うの!」
ぽかぽかとマイちゃんが僕を叩く。
叩かれた胸は痛くなかったけど、心がすごく痛かった。
「どうした」
マイちゃんの泣き声が聞こえたらしく、おじさんが部屋に入って来た。
「おいマイ。なにしてるんだ!」
おじさんはがばっと後ろからマイちゃんを抱えて、部屋を出て行った。その時の、マイちゃんの泣き崩れた顔を見て、僕はつくづく悪党なんだな、と自嘲した。
しばらくベッドに腰掛けて、色々なことに落胆する。特に自分のことに。
こんな風に後悔することなんてしょっちゅうだが、今度こそ僕は自分が許せなかった。
項垂れていると、開いたドアをノックする音。おじさんだった。
「大丈夫か」
「ええ、まあ。マイちゃんは?」
「部屋で泣いてるよ。全く、しょうがないね」
おじさんは明るく笑った。
「いえ、しょうがないのは僕の方なんです」
というよりどうしようもない。手遅れ中の手遅れ。
「大丈夫さ。誰でもそんなことを考える。飯ができたから食べよう。食べたら元気になる」
おじさんに引かれてダイニングに行く。
「さあ遠慮せずにたんまり食べろよー」
というか、前日と同じく鍋だった。なに。鍋好きなのおじさん。
席に着いたのは無論、僕とおじさんの二人だけ。マイちゃんはいない。
悪いことをしたな、なんて言い訳がましく思う。
食欲のない僕を見かねてか、おじさんが取り皿に僕の分を入れてくれた。
「……今日な、さっきのことなんだがマイと話したんだ。再婚のこと」
「えっ……」
思わず顔を上げた。
「マイ、やっぱり母親に会いに行ってたんだよ。離婚した翌日からずっと。あんまりしつこいから母親が家に入れてくれなくなっちゃって、マイのやつこの寒いのに夏物の服着て母親の家の前でじっと正座したんだと。そしたらさすがの母親も次からきちんと家に入れて話をするって約束してくれたらしい」
上機嫌におじさんは話す。
「マイの母親は頑固者でね。しばらく私の顔もマイの顔も見たくないって出ていってしまったから、私は顔を合わせられないのは仕方のないことだと自分に言い聞かせていたんだ。だけどそれはただ怖かっただけなんだ。自分が傷付くのが」
おじさんは心から嬉しそうに言葉を放つ。
「それでさっき、マイに再婚するよう頼まれた。母親は会ってもいいと言っているって。ほんと子供はすごいな。大人の下らないプライドなんか簡単に粉々にしてしまうんだ」
おじさんが笑う。
「マイは自慢の娘だ。本当に、どんなことがあってもそれは変わらないよ」
そして最後に一言。
「マイは言ってた。挫けそうにもなったけど、そんな時君に出会ったんだって……君がマイに勇気を与えて、私達家族に希望をくれたんだ」
おじさんは僕の手を握った。
「本当に、心から君に感謝しているよ」
夕食は結局ほとんど食べられなかった。おじさんの話が、僕にとってとてもショックだったのだ。
早々にダイニングを後にして、部屋のベッドに倒れ込む。もう限界だった。
だって僕は、この家族をみじめだと馬鹿にしていたのだ。どうしようもない人間の本性だ、とこの家族の末路を悲惨なものだと決めつけていたのだ。
「それなのに……僕が希望だと……!」
悔しさが込み上げた。憎しみが溢れ出た。悲しみが僕を支配した。
涙が溢れた。
今更……今更! 今更になってこんな屈辱を味わわされるなんて。
あり得なかった。人間はどうしようもない程に堕落していて、だから酷いことされても仕方ないんだと思って来た。それなのに。
早くこの家を出て行きたかった。僕にとっては最悪の絶望がここにあった。
世界など早く滅べば良かったのに。人間なんて存在しなければ良かったのに。僕の両親が結婚しなければ良かったのに。
僕が……生まれなければ良かったのに。
第五章
翌朝。まだ日が昇らない夜明けに、僕は誰にも気付かれないように安西家を出た。
空は昨日の大雨が嘘みたいに晴れ渡っていて、僕への嫌みにしか受け取れなかった。
山へ向かう所を誰にも目撃されてはいけなかったので、細心の注意を払って移動した。
山に向かう途中の開けた通路は、まるで僕を人間社会と断絶する為の境界線に見えた。境界線に足を踏み入れて、少し振り返る。この時間、まだ起きている者は誰もいないらしく、家の形をしたオブジェクトが、無数に捨てられているようだった。
見送る者は誰もいない。僕の存在に気付く者は誰もいない。
僕は今日、死ぬ。
山の中は、想像していたよりも暗く不気味で、前日の大雨のせいで酷くぬかるんでいた。
「くそっ……」
履いていたスニーカーでは滑って登りにくい。近くの木の枝に掴まって、よじ登るようにして慎重に進んで行く。
少し登っただけで息切れする。その度にストレスが溜まる。理想の死のイメージが、下らない負の感情に汚されていくのを感じた。
流石にそれでは元も子もないので、途中に休憩を挟むことにした。そうだ。焦らなくても、もうこの山に入ったのだから問題ない。余程ちんたらしない限り邪魔は入らないだろう。ゆっくり確実に登ることを意識すると、いらいらも治まった。
頂上に着く頃には日が高く昇っていた。体中泥まみれにして、最後に目にする太陽をしっかりと見つめる。目がひりひりと痛み出し、やがて焼ける様な感覚を覚える。そこで僕は限界だった。
痛む目を押さえながら僕は満足した。自分は死ぬのだと、その特別な感覚を実感したかった。
頂上からこの町を見下ろす。視界のあちこちに太陽を直視した際特有の緑やら黄色のフィルターが現われては消える中、ちらほらと虫のようなサイズの人間が忙しく動き回り、社会の歯車になっていた。
この社会の縮図を今まさに目視しながら、僕は声高らかに宣言する。
「今、僕はこの醜い人間社会の犠牲となろう。人類の歴史が作り上げた集大成を、その結果を目に見える形で現わそう」
唇が……ぷるぷると震えていた。
「僕は人間の愚かな末路をこの身で示す!」
声は町に届かず、歯車となった大人達が、僕の方を見向きもせずに動いていた。
「いいんだ……これで」
僕はリュックサックの中から、家出する時に持って来た父のベルトを取り出した。それを近くにあった丈夫そうな枝に引っかけて、ベルトのバックルを一番内側の穴で固定した。その下にプラスチックの小さな子供用の椅子を置くと、それに乗った。
ベルトが作った空間に頭を通す。途中、手が汗で滑って焦る。
「落ち着け、落ち着け」
と、呪文のように呟きながら、ついに頭が穴に通る。
いよいよだ。
父に罵倒されたこと、母に無視されたこと、十数年の自分という人間が体験した強い記憶が一瞬で頭に浮かぶ。
見てろ人間。僕は今、最初で最後の革命家として、命を賭して社会に訴える……!
足下の椅子を蹴り飛ばした瞬間、とてつもない圧力が首に圧迫をかける。
「グェォ! グむ……! ぎ、が」
涙が止めどなくあふれた。光が明滅して、視界から遠退いて行く。
そうするつもりはなくても、凄まじい死の恐怖から逃れようと、空中で必死にベルトを引っ掻く。爪が割れ、剥がれ、血が空中にまき散らされる。
(君は希望なんだ)
光を失いかけた瞳に、おじさんの幻影が映る。最期、逃れることのできないこのタイミングでの出現は、果たして誰の願望だったのか。
体から急速に力と熱が抜けていく。恐怖と寒気が一瞬で体中を駆け抜けた。
(た、すけ、て……いやだ……ぼくはしにたくない。死にたくない……!)
ありったけの想いを心で叫び、僕は意識を失った。
エピローグ
僕は、死にたくなんてなかった。
人間がどうとか、革命だとか、本当はそんなのどうでも良かった。
ただ、必要とされたかったんだ。
誰かに。
身体全身が金属になったかのように重い。
水面へゆっくりと浮かび上がって来るように、僕は自分の意識が戻って来るのを感じた。
「おい。おい!」
まぶた……開けなくていいかな。まだ眠いよ。
そんなことを考えていたら、頰をベチベチと叩かれた。仕方なく目を開ける。
「っ……」
目の前で死人でも蘇った様な驚き顔で、おじさんが僕を見つめていた。
「おはよう……ございます」
仰向けに寝かされていた僕の挨拶を無視して、おじさんがガバッと、僕を抱きしめた。
僕……そっち系じゃないんだけどなあ、などと思ったけど、不思議と嫌ではなかった。
「よかった……よかった」
とおじさんが何度も耳元で呟く。
「お兄ちゃん!」
と、そこにマイちゃんの声が聞こえた。
「マイ。お兄ちゃん、助かったぞ」
次の瞬間身体に衝撃が来る。マイちゃんが僕に突進して来たのだった。
「お兄ちゃん……死んじゃったらどうしようかと思った……」
僕の腕にしがみついて、マイちゃんは泣いていた。
「マイ。お父さんは一度山を降りて、病院と捜してくれてる人達に連絡して来る」
と言って、おじさんは猛ダッシュで行ってしまった。
どうやら、迷惑を掛けたらしい。
「どうして、助かったんだろう」
独り言のつもりだったのだが、隣のマイちゃんが答えた。
「わたし、昨日泣いてたら疲れちゃって。起きたらちょうどお兄さんが家を出て行こうとしてたから、すぐにお父さん起こして捜しに来たんです」
「……ごめん。昨日は」
「いいんですよ。お兄さんが生きていたから、許します」
目を真正面に向けると、お昼なのかちょうど僕の真上にあった太陽が僕の身体を照らす。
まだ山の中で、僕は普通に泥の中に寝かされていた。すぐさまじめじめした嫌な暑さが皮膚を伝う。マイちゃんに突進されて赤くなった肌を日光が刺激して、まるで日焼けのようなひりひりとした痛みがある。暑苦しい上に、つらいったらありゃしない。
「……でも、生きてる」
自然と涙が溢れた。目に映る全てのものが、とても愛しく思える。
「ははっ……生きてるって、なんて素晴しいんだろう」
笑いが、後から後から込み上げてきて、僕は大声で笑った。
しばらく笑っていると咽せて、その咳が治まったのと同時に気分も治まる。
「神様っていると思いますか」
唐突にマイちゃんが、いつかの問いを繰り返す。
「ねえ」
上から顔を覗き込まれて、僕はただこの状況が可笑しくてたまらなかった。
「どうしてそんなことをきくの?」
僕もまた繰り返す。前は戸惑い、今は清々しく。
「少しでも、お兄さんに伝えたくて」
優しい笑顔で、少女は言う。
「やっぱり神様は、わたしたちを愛してるんです」
「わたしたち?」
「そうです。わたしも、お父さんもお母さんもお兄さんも」
「……僕は、愛されてるのかな」
言ってから、その言葉がじんわりと染みて来る。ああ、そうか。僕が求めていたものはきっと、これだったのだ。
「愛されてますよ。だって、生きてるじゃないですか!」
「そう、だね」
試しに手のひらを握ってみる。そこには自分の熱が、確かに存在していた。
僕の全て。僕が十五年間生きて来た証が今ここにあった。言いようのない解放感に包まれて、僕はその後しばらく言葉を発する事もせず、ただ晴れた青い空を見つめていた。小鳥がさえずり、落ち葉が体の上に舞い落ちる。それだけで満足だった。
名誉もプライドもポリシーも、今僕にとってはどうでもいいことだった。ただ、生きてる喜びを体全体で噛み締めたかった。
やがて、誓うように僕は呟く。
「やってみるよ」
「え?」
マイちゃんが顔を上げる。
「僕も、家族と仲直りしてみるよ。きみのように」
そして、やり直してみる。これからの人生を。
マイちゃんはにっこりと笑って、
「はい。できますよ、お兄さんなら。私にも希望をくれましたから」
「希望……か」
ドクドク、と心臓の鼓動が聞こえる。僕の内にも、ちゃんと希望は残っていたみたいだ。
僕はまだ痺れを残した体を動かして立ち上がった。
「大丈夫なんですか」
マイちゃんが言う。
「うん。このくらい、どうってことない」
立ち上がるとそこは、ちょうど僕が死を宣言した場所と同じ位置で、店の準備やら工事の資材運びやら、汗水流して働く大人の姿が見下ろせた。
みんな、一生懸命生きていた。
さっきは嘲笑ったその姿に、今は鳥肌を感じるくらい尊敬の念を抱く。
僕も、まずはやってみよう。そして、正面からぶつかろう。
世界は確かに残酷で混沌としていて、だけどみんなが精一杯その中で助け合っている。それなら世界は、いくらでも優しく綺麗になれると思った。
だから、踏み出そう。きっとできる。活路はある。
世界の果ては、まだここじゃない。人類の最期は絶望で終わらない。きっとなにかができるはずだ。
僕達には、まだ未来という希望があるのだから。
お読みくださりありがとうございました。
いかがだったでしょう。
「時間の無駄」と感じた方は本当にごめんなさい。よろしければ悪い点だけでも教えていただければ幸いです。
作者としては読者のあなたに、できれば「払って得をした時間」であったことを願っています。