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獣王の牙

作者: 蒼親

 この『獣王の牙』は、ウィリアム・ブレイクの詩『虎よ、虎よ』から発想しました。

 また、S.アンドリュウ・スワン著のSF小説『獣人探偵ノハール』から受けた影響も大きいと思います。

 少し前の作品ですが、上手く獣人という存在を表現できているか、今でも悩みます。


 

‐1‐


 森の奥深く、木の洞の中に住む魔法使いが言っていた。


 鋭い牙を持つ者ほど臆病で、強靭な体を持つ者ほど弱く、深い知性を持つ者ほど愚かである、と。


 村の子どもたちは、その言葉を不思議そうな顔で聞いていた。それはそうだろう。鋭い牙も強靭な肉体も深い知性も、全て「良いもの」だ。有り体に言えば「強いもの」だ。しかし、賢者は言う。それらを持っている者は、実は弱いのだと。

 なぜだろう。子供はそんな風に考える。かく言う俺も、そんな子供時代を過ごした一人だ。だが、今は分かる。賢者の言っていた事は正しい。そしてそれは、年を経るごとに、実に身近な問題となって、自分の目前に現れてくる。


 強さとはなんだろうか。そして弱さとはなんなのだろうか……。


 俺は森の中を走っていた。風を切る音に混じって、森の生き物達の息遣いが聞こえてくる。もちろん、俺達の縄張りは大きいから全ての生き物を把握しているわけじゃないが、岩を飛び越え、木々の間を走り抜けるとき、そこかしこに鹿や狐の気配を感じる。

 俺は、なびく尻尾に風を感じながら、事前に取り決められた順路をひた走っていた。

 特別な事じゃない。いつもの見回りだ。一日に三回、受け持ちの場所を見て回る。無論、ただ見るだけじゃない。異常がないか確かめながら回る。警備隊の重要な任務だ。

 でも、今日はちょっと違う。何が違うかといえば、俺自身の気分だ。

 よくあることだが、気分が違うと景色まで違う。いつもと同じ場所のはずが、その日の気分で全く違うところに見えたりする。

 そう、いつもなら心を落ち着けてくれる清流が、今日はやたらと寒々しく見える。

 実につまらん。

 それもこれも、あいつ……、親父のせいだ。

 

 俺の親父は、マストラ山に住む牙の民の長だ。まぁ、長だなんていってふんぞり返ってはいるが、実際のところは、長老衆と若衆の間を取り持つ、橋渡しみたいなことをやっているに過ぎない。しかし、俺の所属している山岳警備隊の長でもあるから、それなりに権威はある。

 断っておくが、あくまでも、それなりだ。

 その、それなりの親父が言うには、数日前、戦女神の大神殿から通報があったという。

 通報の内容は、大体こんなところだ。

 ある日、ソマロアという村にある戦女神の神殿を預かる司祭から「村が盗賊団に襲撃されそうだ」という報告があった。王国の騎士団は曖昧な情報では動けない。だから「牙の民の山岳警備隊に様子を見て来てほしい」と大神殿の高司祭は言ったらしい。それを親父は、「山岳警備隊も曖昧な報告では動けない」という、それこそ曖昧な理由で突っぱねてしまった。

 確かにマストラ山岳警備隊は武力集団であり、自分で言うのもおかしいかもしれないが、大陸でも有数の戦力を持っている。大陸中の牙の民が集まりでもしたら、大変な勢力へと変わるだろう。そんな武力を、闇雲に使う事はできない。

 それは分かる。だが、だからといって、困っている人を見て無ぬ振りをしていいということにはならない。せめて、斥候部隊だけでも出すべきだった。それが駄目なら、俺だけでも行かせて欲しかった。だが、それは叶わなかった。

 親父の命令に逆らえないからじゃない。俺がこの話を知ったのは、この騒動が治まってからだったからだ。

 もちろん俺はそのことを親父に抗議した。しかし、やつからの答えはたった一言。

「お前に教えたが最後、飛び出していくに決まっている。放たれた矢のようだ、とはお前のためにある言葉だ」

 全く失礼な親父だ。俺だってそこまで分別がないわけじゃない。偵察という言葉の意味くらい分かっているさ。別に俺は、大神殿からの通報を聞かされなかったことに怒っているわけじゃない。

 大神殿からの通報の後、実際にこの村は襲撃されたが、そこにいた二人の剣士の働きによって村人は全員無事だったという。大変結構な事だ。その戦闘に参加できなかったからといって、怒っているわけじゃない。そこまで戦闘好きじゃない。まぁ、少しは残念だが……。

 気に入らないのは、村が盗賊団の襲撃を乗り切ったという報告を受けたときの親父の態度だ。

 あいつめ、こう言いやがった。

「うむうむ、やはり別の種族の揉め事に口を出すべきではない。草原の民の揉め事は、草原の民が解決する。我々には関係のないことだ」

 確かにそうかもしれない。

 他人の揉め事に、当事者以外の者が介入した結果、余計にこじれてしまう事もある。だから、揉め事が起きたら、それを起こした当人同士で解決してもらうのがいいのかも知れない。

 だが、その当人から助けを求められたら?

 自分では解決できないから助けてくれ、といわれたら?

 見てみぬ振りをしていいのか?

 今回の件では、通報の理由が曖昧だからということで、警備隊に対する援助の要求を退けた。しかし、村にいたという二人の剣士はどうだ。曖昧だろうとなんだろうと、困っている人達を見捨てられずに、依頼を受けたじゃないか。

 しかも、二人のうちの片方は鱗の民だという。種族を超えて助け合った結果、たった二人で四十人を超える盗賊団を退けた。そんな勇者達が実際にいるじゃないか。

 俺には同じことはできないかも知れない。だけど、種族が違うからといって、関係ないだなんて言えるのか。

「くっそぅ!!」

 俺は拳を固めて、目の前に現れた岩に叩き付けた。岩の上のあたりが、べこり、と吹き飛び、どこかへ飛んでいった。

 今朝からずっといらいらが収まらない。そのせいか、通常は見回りを一日で三回行えばいいところを、今日は午前中だけで三回やってしまった。

 やれやれだ。


 午後になっても気の高ぶりが収まらなかったので、四回目の巡回に出発した。

 仲間には、これが三回目だ、と言ってきた。一人だけ回数を多くこなしてしまうと、他の者が怠けていると思われてしまう。気をつけなければ……。

 無駄とも思える気遣いだが、そういうものが共同体を支えているんだ。間違いない。

 さて実際には、子供の頃から遊び場にしている森の中や山肌を、年に何回かある持ち場の交代を含めて、幾度となく巡回するのが俺達山岳警備隊の基本的な仕事だ。本能といおうか、何といおうか、自分達の縄張りを巡回する事は苦にならない。それどころか、自分でも理由の分からない使命感がふつふつと沸いてきて、どんなに疲れていようとも巡回に出発すれば元気になってしまうのだ。

 不思議なものだな。うん。

 いらいらが収まって、ようやく気分が落ち着いてきた頃、ふと足を止めた。何かのうめき声が聞こえたような気がしたのだ。

「なんだ?」

 俺は両手両足を地面につけて、鼻から大きく息を吸い込んだ。だがそれは、いつもと何も変わらない森の匂いだった。

「……」

 何か聞こえた。

 一層、耳を済ます。

「……、うぅん」

 今度はさっきよりも幾分かはっきり聞こえた。やはり何かが声を出している。森の動物ではない。

 もしや、草原の民でも迷い込んだか?

 たまにあるんだ。草原の民は、いまいち縄張りってものを理解していないからな。

 そんなことを考えながら、俺は声のした方向へ向けて走った。

 牙の民の耳と鼻は鋭い。一度聞いた音、かいだ匂いは長い間忘れないで覚えていられる。大抵の場合は音のした方向も正確に把握できるし、匂いの追跡もできる。

 草原の民は俺達を獣人だなどと呼ぶらしい。間違ってはいない。なにせ、草原の民にはない尻尾があるし、条件がそろえば変身も出来るわけだし。正直、身体の能力にかけては他のどの種族にも負けてはいない。

 まぁ、鱗の民は全身に硬い鱗を持っているし、翼の民はその名の通り背中に一対の翼を持っているしで、牙の民が一番強い、なんてことは間違っても言えないんだが……。

 そんなことを考えているうちに、昼前にも見回った清流へとやってきていた。

 ざっとあたりを見渡す。

「うぅ……」

 また聞こえた。

 今度ははっきりと分かる。女の声だ。血の匂いはしない。怪我をしているわけじゃなさそうだ。

「どこだ……」

 あたりまえだが、川の水は流れている。厄介な事に匂いも押し流されてしまう。

 匂いが駄目なら音だ。耳を澄ます。すると、清流の流れに一箇所だけ妙な抵抗が起きている箇所があった。

「そこかっ」

 右手にあった岩に飛びつくようにして、その向こう側を見る。

「え!」

 首筋から尻尾の付け根まで、電撃が走ったように感じる。

 人だ。

 人が倒れている。

 川の中に半身を埋めるようにして、無意識なのだろうが、岩にしがみつく形だ。

 まぁ、それはいい。声が聞こえた時から、人であることは分かっていた。

 問題は種族だ。

 金色の髪、白い肌、木の葉のような形の耳。

 森の民、それもライトリーフ族だ。

(森の民なんて始めて見た)

(なぜこんなところにライトリーフ族が?)

(金色の髪を持っているとは聞いてはいたが、これはもう金色というよりは白金色だな)

 などと、幾つもの考えが一瞬で頭の中を通り過ぎたが、もう一度小さなうめき声を聴いた瞬間に我に返った。

「いかんいかん……。お嬢さん、お嬢さん、大丈夫かい?」

 森の民は長命だ。この女性が「お嬢さん」なんて呼んでいい年齢なのか、そもそもこういった場合に「お嬢さん」と呼びかけるのは適切なのか、などと細かい事の一切合財を無視して、俺は森の民の女性を川から引き上げ、少し離れたところまで運んだ。

 ずぶぬれの森の民を抱えて、川からいくらも離れていない場所に移動した。それにしても、感覚が並外れて鋭いことで有名な森の民が、抱きかかえられて運ばれているのにも関わらず、目をあけることさえしないとは、よほど疲労困憊しているか、体のどこかに重大な傷を負っているか。

 俺は焦りで気力がそがれている自分を鼓舞しつつ、森の民の白い肌を点検した。

(あくまで点検だ。怪我がないかどうか。それだけだ。)

 情けないくらい、自分に言い訳していた。

 結局のところ、外傷はないようだった。となると、頭でも打ったか、川の中に長い間いたせいで弱ってしまったのか……。

 もう夏になるとはいえ、山から流れる川の水は冷たい。マストラ山は基本的に岩山なので、急流が多いせいだ。動きもせずに長い間水中にいた場合、体力を奪われて死んでしまうことさえあり得る。

 俺はいつも携帯している万能薬を取り出した。

 本当に万能かどうかは知らないが、牙の民、それも俺達マストラ山の人虎族に古くから伝わる秘伝の薬だ。見た目は軟膏なのだが、傷に塗れば治りが早くなり、水に溶かして飲めば毒消しや気付けの効果もある。また、あざや火傷の跡も軽いものなら消せる。

 川の水を汲んできて、薬を溶かし、森の民の口から少しずつ流し込む。一応、飲み込む力はあるらしい。続いて、体を点検している時に見つけた、ほほのあざに薬を塗る。薄いあざだ。すぐに消えるだろう。

 薬の上に薬草を貼る。乾かないようにするためだ。薬が効果を発揮する前に乾いてしまったら意味がないからな。

 処置が終わってから火を熾す。お嬢さんが寝返りをうったときに触らないように、でも火のぬくもりがきちんと届くように、距離を考える。

 自分でも何か変な事ばかり気にしているような感覚があるが、正直、こういった事態は初めてなので、もう何がなんだか分からなくなっていた。

 そんな風に慌しくしている内に、お嬢さんが目を覚ました。

「う……」

 うっすらと開く目を注視してしまう。

 真っ青な瞳だ。それに、今までは気がつかなかったが、びっくりするほど睫毛が長い。

「大丈夫かい、お嬢さん」

 できるだけ穏やかな声を出したつもりだが、どう聞こえたものか。こういう状況はなれていないからなぁ。

 開いたばかりで焦点の合っていなかった視線が、俺の顔に定まる。その瞬間、いままで青かった瞳が一転、深紅に染まった。

 一気に背筋が寒くなるのを感じた。瞬間的に、森の民は激怒すると目が赤くなる、という言い伝えが頭をよぎった。

 尻尾の毛が逆立つのを感じる。

「やあ!」

 お嬢さんの花びらのような唇から、鋭い気合が発せられた。

 瞬間、どこから取り出したものなのか、一本の短剣が、俺の首めがけて放られていた。

 今日この時ほど、自分が牙の民で良かったと思ったことはない。

 完璧に相手を仕留められる速度で放たれた短剣を、自分でも驚くほどの素早さでかわす。上体を翻し、宙返りを打って着地する。視線を転じると、なんとお嬢さんが二本目を投げようとしているじゃないか!

 一体どこに隠してあったんだ?

 俺は地面に四肢を張り付かせたまま、意識を集中させる。

 牙の民には特有の能力がいくつかある。

 感覚の鋭さや肉体の強靭さ、生命力の高さなどは身体的な特徴だが、それ以外に、技能として受け継がれているものがある。

 その中の一つに「深化」と呼ばれるものがあるのだが、これは精神力によって極度の集中状態を引き起こし、自分の意識を加速させ、回りの時間を遅く感じさせるというものだ。

 よく分からないかもしれないが、俺たち牙の一族には、意志の力で周りの時間を遅くする能力があると思ってくれればいい。

 この「深化」を使うと、視界から赤や黄色などの色が消え、輪郭が少しぼやけて白と黒の陰影だけになる。そして感覚が通常よりも鋭くなり、音や匂いがより鮮明に分かるようになる。その代わりと

いうわけでもないが、全身に負荷がかかったように感じる。まるで水中で動いているかのように、自身の動きが緩慢に感じられるのだ。

 自分の鼓動が、耳の裏で響く。どんどん、どんどん、と、うるさいくらいに響くんだ。

 そして、周りの匂いにも敏感になる。対峙する森の民のお嬢さんから、恐怖と混乱の入り乱れた匂いが漂ってくる。

 なるほど、俺のことが嫌いなわけじゃなくて、単に今の状況が理解できていないだけなのか。

 ほっとしている自分に気付く。俺はどうやら、このお嬢さんを気に入ってるらしい。

 お嬢さんの小さくて柔らかそうな手から、凶悪な鋭さを感じさせる短剣が放たれる。先に放り投げられた一本目が、背後で木に突き刺さる音が聞こえた。

 短剣を投げる速度が速い。かなりの修練を積んでいるのだろう。

 新たに放たれた二本目は、風を切って飛んでいるにも関わらず、「深化」の効果でひどくゆっくり動いているように見える。

 俺はその短剣を観察した。

 簡素な意匠の剣だ。細身で軽そうに見える。だが、その刃の輝きは鋭く、切れ味は良さそうだ。銀色の剣の身は、不思議な光沢を放っていた。おそらくはマイスレル鋼製だろう。

 俺自身、マイスレル鋼という金属を見たことはないが、短剣の材料となったものが今までに見たことのない金属であるらしいということと、相手が森の民であるということから、そう判断した。

 森の民と鉄の民は、「魔力を持つ銀」とも呼ばれるマイスレル鋼の扱いに長けているという。この金属で作られた武器や防具は、他のどんな金属で作ったものよりも優れているらしい。

 ゆったりとした速度で目の前を通り過ぎていく短剣を見送り、再びお嬢さんへと向き直ると、またしても驚かされた。

 三本目を取り出そうとしている!

 ぎょっ、としたのと同時に、一体どこに武器を隠していたのかという謎が解けた。

 上着の腹の部分が折り返しになっており、そこに隠し袋があったのだ。その位置はちょうど体の硬い部分と接触していて、服を脱がせて見ない限りは分からない。なるほど、よく考えられている。

 おっと、そんな悠長に構えている場合じゃなかった。

 俺は「深化」状態のまま、お嬢さんの脇へと飛び込んだ。

 周りの景色がゆっくりと通り過ぎていく。

 短剣を、今まさに隠し袋から引き抜こうとしていた細い手が、その動作を完了させないうちに着地し、その手を刃物の柄ごと押さえた。

 深化を解く。

 どういうわけか、深化したままでは、上手く話せないんだ。吼えることはできるんだが……。

「まてまて、落ち着け。俺は敵じゃない。怪我の具合を見ていただけだ。あんたは川で倒れていたんだよ。覚えてるか?」

 とりあえず一気にまくし立てた。頭痛がして、吐き気もあるが、それらをぐっとこらえる。俺たちが使う「深化」には、その状態だった時間と、どう動いたかによって反動が来る。意識的に体の限界を飛び越え、体に無理をさせるからこその反動だと、森の賢者が言っていた。

 相手が混乱していることは分かっていたので、まずはこちらの状況を一息に伝えたほうがいいだろうと思ったのだが、それでこの状況がどう転ぶか……。

 と、それまで険しかったお嬢さんの表情が、徐々に緩和され、一瞬眉をひそめた後に、理解の色に変わる。赤かった瞳も澄んだ青色へと変化した。

「ご、ごめんなさい。わたしてっきり……」

 色白のほほに朱がさした。

 状況を完全に理解してくれたらしい。

「いやいや、いいんだ。こっちこそ悪かったな。手は痛くないか?」

 内心、かなり安堵していた。

 勘違いで殺された、なんてことになったら、冥界のご先祖様に顔向けができないからな。

「手は大丈夫。……それよりも、ここはどこ?」

 思ったよりもしっかりしたお嬢さんのようだ。

 もう混乱から完全に立ち直っている。

「ここはマストラ山の麓、人虎族の縄張りさ」

 言いながら、俺は身を翻す。

 木に刺さったはずの短剣を取りに行くためと、自分自身、これまでの経緯を整理するためだ。

「マストラ山……。じゃあ、だいぶ遠くへ連れて来られたのね」

 お嬢さんがつぶやく。

 俺は木に突き刺さった短剣を見つけ、引き抜いたところだった。

 連れて来られた、という言葉が気になり、事情を聞こうと思ったが、その前にもっと気になるものを見てしまった。

 短剣を引き抜いた跡だ。

「跡がない……?」

 同じ木に刺さっていた二本目を引き抜く。

 やはり、跡がない。

 確かに短剣が突き刺さっていたはずなのに、傷跡が全く見られない。

「どうなってんだ?」

 俺はお嬢さんを振り返った。

 すると、森の民のお嬢さんは、にこりと微笑んで言った。

「森の民の作る武器には、基本的に木を傷つけないようにする魔法がかかっているの。マイスレル鋼で作った剣や矢尻に、特別な刻印を施すことでそういう効果を発揮させることができるのよ」

 俺は、へぇ、などと言いつつ、短剣を返した。

「ありがとう。……私は緑柱石の森のディアーネ。恩人の名前を知りたいわ」

 輝くような微笑を向けられ、少したじろぐ。

「お、俺は人虎族のガイ。マストラの山岳警備隊さ」

 どもってしまう。

「まあっ。山岳警備隊の話はよく耳にするわ。とても勇敢な人たちの集まりだって」

 俺も緑柱石の森の話はよく聞いている。まぁ、森の民が住んでいることと、特別な結界が張ってあって、許可のあるもの以外は通り抜けられないという程度だが……。

「ところで、連れて来られたって言ってたけど、何があったのか、良ければ話してくれないか?」

 ディアーネは、ころころと笑いながら答えてくれた。

 笑ったのは、俺の態度が控えめ過ぎたかららしいが、そんな些細なことで、なぜそんなに笑えるのか、と思うほど長い時間笑っていた。

 ともかく、ディアーネの話の内容はこうだ。


 ほぼ一日前の話になるが、ディアーネは森に施された結界の境にいたらしい。その理由は、巡回という意味合いが強かったが、実際のところは、境界から外へ出てみたいという欲望もあったという。

 緑柱石の森の規則では、王の許可がない限りは結界から外側へ行くのは禁止されており、無許可で抜け出した場合は、厳罰が下されるという。

 幼いころから森の外への憧れが強かったディアーネは、特に用がなくても境界に立ち、外の世界を伺っていたのだそうだ。もちろん、実際に出てみようとは思わなかったとのことだったが、機会があればいつでも行けるようにと準備を行っていたらしい。

 その時も、何か特別な事があったわけではなかったが、結界のすぐ傍で外側の世界を伺っていた。

 それは一瞬の事だった。

 目の前をさっと黒い影が横切ったかと思った次の瞬間、ディアーネの体は、大きな鳥のような生き物に鷲掴みにされ、すでに空中にあった。

 その鳥のような生き物については、詳しくは分からない。しかし、とにかく大きく、全身が真っ黒で、酷く不気味な気配があったという。

 鳥の背には一人の男が乗っており、呪文を唱えていた。その男は仮面をつけており、実際に男かどうかは分からなかったのだが、声は確かに男の声であったらしい。

 呪文が切れ、仮面の男がこちらへ指を向けたとき、首筋に炎を押し付けられたかのような痛みが走った。

 それまでは何が起こったのか分からずに呆然としていたディアーネだったが、その痛みのおかげで我に返り、持っていた警備用の長剣を巨鳥に投げつけ、そのまま落下したのだという。

 落下の間に気を失い、目が覚めたときに突然、見知らぬ男が眼前に現れたので、焦って攻撃をしてしまったという事だった。


「本当にごめんなさい。怪我はしなかった?」

 話を終え、上目遣いでこちらを見るディアーネ。

 青い瞳が光を反射してきらりと光る。

「い、いや、大丈夫さ。それより、こっちこそ手を力一杯掴んじまって、いたくないか?」

「うん、大丈夫」

 微笑むディアーネを見ると、もう何でもよくなってしまう。

 ……。

 いやいや、よくないだろ。

「あ、それより、首筋に痛みがあった、って言ってたろ。見てみるよ」

「そうね、お願い」

 ディアーネは長い金髪をそっと持ち上げ、うなじをこちらに見せる。

 さっきは気付かなかったが、そこには確かにあざがある。

 頬のあざとは違い、はっきりと分かる漆黒のあざ……。

「これはあざじゃないな……。何かの文字だ」

 円形に並べられた文字。

 しかも、全く読めない、異質な文字だ。

「文字……?」

 ディアーネは不安そうに俺を見る。

 その眼を見つめ返す。

 背筋に悪寒が走る。

「文字っていうより、これは……、魔法陣に似てるな……」

 もの凄く嫌な予感がした。



‐2‐


 いつまでも森の中に二人っきりでいるわけにもいかなかったので、村へと帰還した。

 マストラ山の牙の民は、山の中腹に集落を形成している。マストラ山は基本的には岩山だが集落のあるこのあたりまでは木々が茂っている。背が高く、太い針葉樹で、集落では主に建材として使用している。寒さにも湿気にも強く、いい木材になるんだ。

 山の麓にはデウル森がある。この森は数百年前から牙の民の縄張りだ。山肌に生えている針葉樹とは違う、実を多くつける木々が茂る豊かな森だった。この山は、上へ行くほど植物が少なくなる。頂上まで行くと岩しかない。両極端な性質を併せ持ったこの山は、適応できるもの以外を容赦なく排斥する、厳しい山だ。

「こんなところで暮らしているの……」

 ディアーネはため息とともに呟いた。

 その言い方と表情から、その言葉が嫌味じゃなく、純粋に感心しているという意味であることが分かった。少し気分が良くなる。

 俺にとってはいつもと変わらない、退屈なものであり、安心するものでもある風景だ。しかし、閉ざされた空間での暮らしが長かったディアーネにとっては何か別の意味がある光景なのだろう。無論のこと、森の民は、彼らにとって重要な理由があって結界を張っているのだから、そのこと自体に良いか悪いかという区別はない。しかし、ディアーネにとっては、結界の内側で暮らすことに不満があったに違いない。

 なんとなくだが、その気持ちはわかる気がした。

 ディアーネは村の連中に、おおむね好意的に迎えられた。

 中には、彼女が森の民であることを気にする者や、何者かに連れて来られたという彼女の話を訝しがる者がいたが、それはごく少数だった。

「ここが俺の家。とりあえず、警備隊の長である、俺の親父に会ってくれ」

 俺はディアーネを自分の家に案内した。

 あくまでも、警備隊の長に会わせるためだ。他意はない。

 家の中に入ったとき、いつもと雰囲気が違うことに気付いた。

 嫌な気配はない。

 ただ、いつもより片付いているように感じる……。

 俺は母親に目配せした。

(母さん、片付けたの?)

 すぐに視線が返ってくる。

(急だったから大変だったわよ)

 ぐっ、と親指を立てていた。……、やれやれ。

 親父はディアーネとの出会いを聞くと、まずはディアーネの身体を気遣い、そして、警備隊が(具体的には俺が)責任をもって故郷へ送り届けると明言した。

「よいか、ガイ。ディアーネ殿を必ず無事にお連れするのだぞ」

「言われなくてもそのつもりだ。けど、出発の前にマーリンのところにいきたいんだが」

「む、マーリンだと?」

「ああ、見てもらいたいものがあるんだ」

 俺は簡単に魔方陣らしきものの話をした。

「なるほどな。もとよりマーリンは我々の協力者にして一人の魔法使い。ディアーネ殿が会いたいというのであれば、何も文句はない。連れて行ってあげなさい」

 親父は平静を装っているようだったが、不自然に目を泳がせているところを見ると、俺と同じように嫌な雰囲気を感じ取っているのだろう。

 もとより俺たち牙の民は魔法に疎い。だから、いままでの生活で見たことのない、つまりマーリンから受けた教育の中に存在しない魔術というのは、基本的に畏怖の対象になる。いらぬ心配はかけないほうがいいと思った。

「マーリンというと、もしかして湖のマーリン?」

 家を出た後、ディアーネは驚いたように言った。

「そういえば、昔はそんな名前で呼ばれていたと聞いたことがあるな。知ってるのか?」

「もちろん。緑柱石の森では有名な魔法使いよ。邪竜と戦って、仲間を助けるためにやむを得ず禁呪を使ってしまい、罰として幽閉されていると聞いていたわ。まさかこんな形で会うことになるなんてね」

 ディアーネは瞳を輝かせている。

 俺達にとって、マーリンは子供の頃から知っている、そこにいて当然の存在だ。だが、考えてみれば、樹の洞に閉じ込められた魔法使いなんてものは、そうそういるものじゃない。

「ガイは、マーリンに魔法を教わったの?」

「いや、魔法を教わったことはないな。マーリンは世の中のいろんな事を教えてくれるけど、大昔の契約とやらで、牙の民に魔法は教えないことにしているんだそうだ」

 そう、大魔法使いであるマーリンは、牙の民にとって、とても身近な存在だ。だが、マーリンは俺たちに魔法を教えようとしない。

 元々牙の民には祭司がいる。精霊と話をする才能を持ち、それを先祖伝来の方法で鍛錬した、牙の民が種族として確立された頃からの伝統的な職業だ。この精霊使いは、牙の民の生活に深くかかわっている。

 子どもが生まれたときには祭司を通じて精霊の祝福を受けるし、季節の祭り、成人や結婚の儀式にも祭司は欠かせない。そしてもちろん、葬儀にも祭司の祈りが必要だ。

 対して、森の賢者マーリンは、俺たち牙の民がこのマストラ山に住み着いた直後に、森の奥深くにある一本の木に閉じ込められてしまった。牙の民は最初、マーリンを悪しき邪神の一角なのではないか、と疑ったようだが、結局は賢者の持つ英知を目の当たりにし、同盟関係を結んだのだという。こ

の同盟の内容は簡単で、牙の民はマーリンのいる森に害をなさず、マーリンは牙の民に害をなさず、というものだった。

「マーリンはいつごろこの土地へ?」

 ディアーネはマーリンと牙の民の関わりについて興味あるようだった。

「詳しいことは分からないな。でも、マーリンが禁呪の罰を受けたすぐ後だと言っていたから、もう三百年は経ってるんじゃないか?」

 マーリンについては、俺も詳しいことは知らない。

 なぜと言って、格別聞いてみたい話題でもないし、俺たちにとっては、マーリンがそこにいるということが全てであって、マーリンが過去に何をした人なのかということは重要ではない。

 過去の業績を知らなくても、マーリンが大賢者であることに疑いはない。それほど、マーリンは頼りになる。

「さあ、あそこだ」

 山の中腹、少し開けた台地に、こじんまりとした森がある。

 規模は小さいながら、木々が鬱蒼と茂り、動物たちの息遣いがそこかしこに感じられる豊かな森。

 俺達、警備隊が普段巡回する、麓の森とは全く雰囲気が違う。

 これこそが、賢者マーリンの住む森だった。

「マーリン、ガイだ。話がある」

 言いながら、森の中心へと入っていく。森の中に一歩足を踏み入れれば、そこはもうマーリンの知覚の範囲内だ。マーリンは、自分が閉じ込められた木が存在する、この小さな森の全てを感じる事ができる。

 賢者マーリンが閉じ込められたのは、森の中心にあって、もっとも古いとされる木の洞だ。

 ディアーネを連れて行き、事情を説明すると、大賢者はうなった。

「うぅむ……、なるほどな……」

 一見すると奇妙な光景だ。

 ディアーネは背中を晒して大木の前に立っているだけ。マーリンにはディアーネの背中が見えている。こちらからは、マーリンの眼や口が見えなかったとしてもだ。

 マーリンが封じ込められてしまった巨大な樫の木は、大人が両手を広げて、5人いないと一周できないような太さがあり、一番下の枝でさえ、大人の男の頭よりも高いところにある。とても高くて頑丈な木だ。

 この木が大きく育ったのは、マーリンがいるからだといわれているが、マーリン自身は、もともとの木の力で成長したと言っている。

「これは黒の印呪と呼ばれるものの一つじゃろう」

 マーリンは言った。

「非常に古い魔法によるもので、お前が想像する異常に危険なものじゃ」

 服を直すディアーネを横目に見つつ、マーリンに聞く。

「どういったものなんだ。その、黒の印呪ってのは……」

「ふむ……、いくつかあるのじゃが、今回のものはおそらく、マナドレインの印呪じゃろうな」

 マーリンは印呪の説明を始めた。

「マナドレインの印呪の効力は、その刻印を受けたものの体内に、魔力、すなわちマナを取り入れるというものじゃ。大きな魔法を使う機会が多い魔法使いが、自分の体に施す事が多かったと言われておる。ただ、危険なものであったためにすぐに禁呪に指定された」

 少し間があく。マーリンも考えている、あるいは思い出しているようだ。

「この世界に充満する万能の力、その名をマナといい、魔法使いの考え方では魔力とも呼ばれておる。

お主達もよく知っているように、常にこの世界を循環するものじゃ」

 これは何度も聞いた話だ。

 魔法の基礎として、実際に魔法を使うか使わないかに関わらず、マーリンはこの話をする。

「生き物の体内には常に一定量のマナが存在し、それは生命の営みの中で体外に排出され、減少した分と同じだけの量が、再び体内に補充される。これによって体内のマナの量は変わらずに保たれておる。ただし、この営みは通常、生き物の意思の通りに動かす事はできん」

 マナの循環というのは思い通りにならない。手を動かしたり、言葉を話したりするようにはいかないって事だ。

 例えば、眠っている時に呼吸が止まらないのと同じように、また、血の流れ方が俺達自身には分からないように、体内のマナの流れも何がどうなっているのか魔法使いではないものにはわからない。

「魔法使いというのは、この体内のマナの流れを、自然に任せるのではなく、自らの意思で制御する術を身につけた者達を言う。呪文と意志の力でマナを体外に放出し、力にかえる。それが魔法じゃ」

 マーリンは息をつく。

 村の子どもたちに話しをする以外でこんなに話す機会もないのだろう。少し疲れた様子が伺える。

「ガイ、魔法使いの素質について話したことを覚えておるか?」

「ああ、なんとなくな……」

 魔法使いの資質。その話しを聞いたのは、もうかなり前だ。警備隊に入る以前だから、少なくとも5年は前だろう。

 思い出してみる。

「まずは、体内のマナの最大量だ。これは生まれつき決まっていて、多い人も少ない人もいる。魔法使いになるなら多いほうが良い。次にマナの回復量。魔法を一回使って消費した魔力を一日かけて回復するか、瞬きするうちに回復するか。これも多いほうが良い。最後はマナの制御力、つまり意志の力だ。自分をどれだけ冷静に保てるか、どの程度集中できるか、いろいろあるが、これも強い方が良い」

 こうして挙げてみると、魔法使いってのは容易になれるもんじゃないな。

 何もかも、普通の人間よりは多い、あるいは強いことが求められるとは……。

「うむ、大体そんなところじゃな。よく覚えておった。良いぞ」

 マーリンの声には満足そうな色がある。

 悪い気はしない。

「さて、黒の印呪に話しを戻そうかの。このマナドレインの印呪は、先にも言ったようにマナを吸収するもの。つまりはマナの回復量を増加させるものじゃ。本来は、マナの回復量が少ない魔法使いが補助的に使用していたと伝えられておるが、問題はその威力じゃった……」

 マーリンは沈んだ声を出した。

「強すぎたのじゃ。マナを体外に放出する量と、体内に吸収する量が、どうやっても釣り合わないほどに強すぎた。印呪はマナを消費するかしないかに関わらず、問答無用にマナを吸収し続けた。本来であれば、体内のマナが最大量に達すれば、マナの吸収というのは穏やかになるはずじゃ。しかし、印呪にはそんなことは関係なかった。つまり、印呪の制御が効かなかったというわけじゃな」

 印呪の効果は、魔法使いにとっては便利なものだったろう。

 魔法使いの中には、体内のマナの最大量は優れていても、マナの回復が思うようにいかない者もあるという。最低級の発火の魔法を使って、消費したマナを瞬きするうちに回復できるなら問題はないが、一日かけて回復していたのではあとが続かない。いずれマナは枯渇する。

 マナの枯渇というのは魔法使いには一大事だ。そこへ、枯渇を防ぐ効果のある印呪があれば、鬼に金棒。誰もがこぞって使おうとするだろう。

 しかし、この印呪は禁呪、つまり、絶対に使ってはいけない魔法に指定されているという。

 なぜなのか……。

「うむ、何故かというとな。マナの器、すなわち生き物の体が崩壊するまでマナを吸収し続けるのじゃ。器の崩壊、それはつまり死じゃ。使えば死を呼ぶ暗黒の印呪。ゆえに黒の印呪と呼ばれるのじゃ

よ」

 雷に打たれたようだった。

 うすうす分かってはいた。この印呪ってやつが、見た目はただの入れ墨のくせに、とんでもない厄介者だということが。

 自分自身が、そして誰よりもディアーネが、凄まじく危険な何かに巻き込まれたという事が、なんとなくだったが、分かってはいた。

 だが、これはあんまりなんじゃないだろうか。

「それじゃ、なにか。このままだとディアーネは死んでしまうってことか!?」

「う、うむ……。そうなる。しかも死んでしまうだけではない。大きくなりすぎたマナというのは周りのマナを吸収していくのじゃ。通常はそれがマナの結晶となって、魔晶石などと呼ばれたりもするが、生き物の体内のマナが強くなりすぎると、空間の歪を生み、単純にマナを食らい尽くすだけの暗黒空間を生み出してしまう」

 それが、相手の狙いであろう。と、マーリンは言った。

 何者かが、暗黒空間を生み出すためにディアーネに黒の印呪を埋め込み、全世界のマナを枯渇させようとしている、と。

 しかし、俺にはそんなことはどうでも良かった。

「消してくれよ、今すぐ。消せるんだろ!?」

 マーリンは答えない。

「マーリン!!」

 俺は思わずマーリンに掴みかかろうとした。相手が大木に封印されていることなんて、吹っ飛んでしまっていた。

「ガイ!」

 耳に届いたのは涼やかな声だった。

「ガイ、落ち着いて。貴方がそんな調子では、マーリンは話しを続けらないわ。私の印呪が消せるものにしろ、消せないものにしろ、マーリンの話しを聞いておかなくては……」

 ディアーネの冷たい手が俺を止める。

「ディアーネ……」

 俺は目頭が熱くなるのを感じた。

 情けなかった。

 何がどうとかは分からないが、とにかく情けなかった。

「ガイ、ディアーネ。よく聞くのじゃ。実のところ、黒の印呪を消す方法はある。……、慌てるなまずは聞け。……方法はある。禁呪と言うのはな、極めて危険じゃ。しかし危険であるからこそ、古代魔法帝国では、禁呪への対抗策というのが様々な形で研究されておった。その中の一つが対抗呪文じゃ。禁呪を封印するために使用され、また既に発動してしまった禁呪を打ち消すためにも使われる、禁呪対策専門の呪文があるのじゃ」

 マーリンは言った。

「ただ、一つの呪文で全ての禁呪を打ち消せるわけではない。一つの禁呪に一つの対抗呪文。禁呪の数だけ対抗呪文がある。当然、マナドレインの印呪にも、対抗呪文がある」

 俺は息をつめてマーリンの話しを聞いていた。

 ぎゅっと服の袖が握られるのを感じた。ディアーネだ。不安なんだろう。当然だ。

「で、その対抗呪文ってのはなんだ、知ってるんだろ?」

「残念ながら、わしは知らんのじゃ。だが、その呪文を知っている者を知っておる」

「誰なんだよ、そいつは。もったいぶらないで教えてくれ!」

「慌てるな、慌てるな……。その人物とはな、何を隠そうホワイトリーフ族の王、そこにいるディアーネの父君じゃ」

 一瞬、何を言われたのか分からなかった。

 俺はアホ面を下げたまま、ディアーネを見た。ちょうど森の民の姫様もこちらを見ていた。綺麗な青色の目が、まん丸に見開かれている。

 まぁ、それもそうか……。

「な、なんだってぇぇぇぇぇ!!」

「どういうこと、私の父がこの印呪を消せる……?」

「うむ、そこに、ディアーネに黒の印呪を埋め込んだ者の考えがあったのじゃろう。おそらく、彼の者は黒の印呪を埋め込むためにディアーネをさらった。しかし、それは同時に対抗呪文を使わせないためでもあったのじゃ。どんなに優れた魔法使いであっても、眼に見えないものに対して使える魔法というのは限られておる。対抗呪文は、眼に見えない場所にある禁呪には効かんのじゃ」

 そういうことだったのか……。

 誰だか知らないが、随分と姑息なことをしてくれるぜ。

「じゃ、ディアーネの体がマナで満杯にならない内に……」

「うむ、故郷の森に帰れば、手の打ち様もあるじゃろう。何にしても急ぐ事じゃ。もともと魔法に素養のある森の民である上に、ディアーネは魔法使いの素質にも非常に優れておる。ぐずぐずとはしておれんぞ……」

 マーリンの言葉を最後まで聞かず、俺は講義場から村に向かって駆け出した。

「ディアーネ、後から来てくれ。先に行って準備をしている」

 文字通り風を切って走りだした、そのとき、後ろからマーリンの声が聞こえてきた。

「やれやれ、これだから『放たれた矢のようだ』などと言われるのじゃよ……」

 その言葉には、もう苦笑いを返すくらいしかないな。









‐3‐


 我が家に駆け込み、旅の準備を始める。

「緑柱石の森に行くには、このマストラ山から北西へ向かい、コルラ山脈を超える道が最も早いわけだが」

 親父が地図を広げて何か言っている。

「パンでしょ、干し肉に香辛料。あ、そうそう、ディアボロもいるわねぇ」

 母さんが、雑嚢にあれこれ詰め込んでいる。

「そんな遠足じゃないんだから……」

 俺はてんでばらばらなことをやっている家族を眺めながら、愛用の片手斧を研いでいた。この斧は牙の民に伝統的に受け継がれてきた武器の一つで、片側に幅の広い刃、反対側に太めの鶴嘴が付いている。武器としても使えるし、工具としても使える便利な道具だった。

 家族総出で進めていた旅の支度は、順調に進んだ。粗方の準備が終わった頃、ディアーネが帰ってきた。肩に大きなカラスを乗せている。

「マーリンの使い魔?」

「ええ、山を降りるまで見送ってくれるって」

 マーリンは、森の動物たちを使い魔として使役することで、森の外の様子を知ることができる。木の洞に閉じ込められているからと言って、外の世界のことを知らない訳ではないのだ。

 両親に見送られ、村を出た俺たちは、親父の言葉通り、北西に向かって歩き始めた。

 はじめ俺の両親は、これでもか、と言うほどに沢山の荷物を押し付けようとした。しかし、急ぎの旅であり且つ二人旅でもあるので必要以上の物は持たない事にした。

「いいか、ガイ。ディアーネさんを置いて一人で歩くようなことはあってはならんぞ。お前は護衛なのだからな。自分の立場をわきまえろよ」

 などと失礼な言葉を親父にかけられつつ、出発した俺達だったが、実際、親父の心配は杞憂といわざるを得なかった。

「ほらほら、ガイ。遅れてるわよ」

 微笑みつつ、先を行くディアーネが振り返る。軽快なその歩みは、険しいことで知られるマストラ山の傾斜をものともしていない。

 下り道であることも影響しているだろうが、基本的にはディアーネが健脚であることの証明といえるだろう。

 森の民であるディアーネは、牙の民と同じく、日常を自然の中で過ごしている。しかも、森の民は身軽な事で有名でもある。そんな人物を相手に歩く早さを心配するなどという事は全くもって無駄以外の何ものでもなかった。

 マストラ山からコルラ山脈に至る道は平坦で、よく整備された街道だった。町もいくつか有り、旅はおおむね快適と言ってよかった。もちろん、森の民と人虎の組み合わせは耳目を集めたが、俺がマストラの警備隊と分かると、面と向かって誰何するものはいなかった。

 旅の道行きで、俺は、ディアーネが非常に鋭い感覚の持ち主であることを発見し、また、マーリンが言ったように、魔法使いとしても優秀な素質を持っていることを確認した。

 ディアーネが得意としていたのはこの世界の万物を司ると言う精霊との交信であった。風や水を司る精霊と感覚を接触させることで、それらの精霊を使役し、一言かニ言、言葉をかけるだけで、そよ風しか吹いていない状態から突風を巻き起こしたり、穏やかな小川から激しい水流を呼び出したりした。まったくもって、森の民の力は凄まじいものだった。

 また、ディアーネには常に精霊の加護があり、その身に危険が迫ると、精霊たちが自主的に教えてくれるのだという。

「でも、精霊以上の力を持っているものは、彼らの目を欺くことができるわ。だから、万能と言うわけじゃないのよ」

 そう言って、少しほほを赤くして微笑むディアーネは、まさに森の民の姫君という存在を全身で表現しているようだった。

 さて、実際のところ、そいつの気配は巧みに隠されていた。相手が俺のような牙の民や、ディアーネのような森の民でなかったとしたら、もっと長く隠し通せていただろう。俺自身、そいつにどこから追跡されていたのかは分からない。マストラ山を降りた直後からかもしれないし、街道に出る途中で立ち寄ったゾラの町だったかもしれない。とにかく、そいつの気配に気付いたのは、コルラ山脈の最初の難関、ゲイロック渓谷に差し掛かる辺りだった。

 そいつのことを発見したのは全くの偶然、とは言わないが、半分くらいは幸運のおかげだった。

 旅に出て十日。半分を町で過ごし、半分を野宿で過ごしていたが、その間、常に俺とディアーネは一緒に行動していた。離れたのは天幕を張るときと、調理をするとき、そして水浴びをするときくらいだった。もちろんそれは、護衛という任務があったからだ。

 しかし、この日、まだ夜が明けないうちに目を覚ました俺は、少しばかりの運動をかねて、周囲の見回りへと出かけた。街道から少し離れた森の、木立に隠れるようにして張った天幕に帰ってくる途中、茂みに半身を突っ込んだまま天幕の様子を伺っている人物を発見したのだった。

 足音を消して近づくと、その人物も、忍び足が得意と見え、下草をかさりともさせずに体を翻すところだった。

 当然、俺と真正面で向き合うことになる。

「うげっ」

 蛙を押しつぶしたような声が、その人物ののどから漏れた。

 覆面をしている。背が高いが細身で、男のようにも見えるし、女のようにも見える。盗賊の経験が長いのだろう。服で体形を誤魔化す方法を知っているのだ。

 俺は下腹に力を込めて、一瞬だけ鋭く息を吐いた。その呼気は甲高い音を発する。人の耳に辛うじて聞こえるか聞こえないか、という微かな音だったが、天幕の中の姫君にはそれで十分に伝わった。

 天幕が一気にめくられ、ディアーネが例の短剣を振り上げながら構えを取る。完全に挟み撃ちの体勢だった。

 ぎょっ、として振り返った盗賊の、腰ベルトを引っ掴み、大きく振るようにして放り投げた。

「あっ」

 思わず声を上げてしまった。

 男を思いっ切り放り投げたことは間違いないのだが、思っていたよりも高く遠く飛んだことに自分で驚いた。もしや女か、とも思ったが、匂いで間違いなく男であることを確認した。服で隠れていて体形が分からなかったが、どうやら酷く痩せた男らしい。とにかく軽かった。

「げふぉっ」

 どさり、という音の直後、妙な声が聞こえた。

 背中から落ちたか、あるいは頭から落ちたのか、とにかく、天高く舞い、落下した男は地面でのた打ち回る。俺はディアーネと視線を交わし、ともに訝しがる表情になっていることを確認したあと、男に歩み寄った。

 無様に地面を転がる姿に、最初、演技ではないか、と警戒したが、真実、息が詰まって動けないのだと分かると、拍子抜けしてしまった。

「おい、あんた、大丈夫か?」

 男の脇に手を入れて助け起こす。やはり軽い。勢い余って、ひょいっ、と持ち上げてしまった。男はワアワアとわめき、やたらと手足を振り回した。胴体の細さとは不釣合いなほど長い腕と足が意外なほど的確にこちらへと伸びて来て、俺の体を打った。別に痛くはなかったが、邪魔だったので、望みどおりに開放してやった。とは言え、単に地面に下ろしただけなのだが。

「で、あんた誰なんだ?」

 俺は男の正面に回って言った。ディアーネが背後をとる。

 盗賊は観念したのか、おびえているのか、定かではなかったが、とりあえずはおとなしかった。覆面を取ってみると、ほほのこけた目つきの鋭い顔が明らかになった。

「草原の民ね」

 ディアーネが言った。その言葉どおり、盗賊は草原の民だった。忍び足の熟練具合から見て、相当に手馴れた盗賊であることは明白だが、問題はその目的だった。この男は、明らかに俺たちの様子を盗み見ようとしていた。それは何故なのだろうか。

「何のために俺たちの後ろをついて回っていたんだ?」

 腰に下げていた斧をちらつかせる。盗賊から怯えの匂いが立ち上ると同時に、その顔にひるんだ表情が浮かんだ。ただ、それらは全て極わずかの変化であり、この盗賊が自分の感情を抑える訓練をつんでいることの証明だった。

「別に言わなくてもいいわ。あなたの頭の中に直接聞いてあげる」

 ディアーネが冷たい声で言った。その表情は、完全に固定されており、何の感情も読み取ることができない。透き通るような白い肌を持ったディアーネの、冷徹な立ち姿は、氷の彫像のようだった。

「私たち森の民にはそういう魔法が伝えられているわ。ただ、問題があって、その魔法を使うと、使われたほうは心が壊れて一生治らなくなってしまうんだけどね」

 全く問題ないという態度をとりつつも、その言葉が指し示すことは死と同義だった。盗賊がたとえ死んだとしても、我々には情報を得る方法があるのだ。と、相手に思わせるには十分な演出だった。

 ディアーネは盗賊の頭に左手を載せた。

「うわっ」

 蒼白になった盗賊が声を上げ、その手を振り払おうとしたが、腕が上がらない。それもそのはず、いつの間にか盗賊の腕には無数の蔦が絡み付いており、完全にその行動を封じ込めていたのだ。

 ディアーネは目を半分ほど閉じて、口の中で呪文を唱えはじめた。

 盗賊の体が震えている。

 ディアーネが左手をゆっくりと上げ、再び盗賊の頭に下ろす。その手が、盗賊の髪に触れようとした瞬間、

「まってくれ!」

 盗賊が叫んだ。

「しゃべる、しゃべるから待ってくれ!」

 ディアーネは凄く不満そうな顔をした。

「別にしゃべらなくてもいいのに」

 その言葉に、盗賊は狼狽したが、ディアーネの手が離れたのを見て、あからさまに安堵していた。

「さて、じゃあ話してもらおうか」

 思っていたよりも上手くいったので、ほっと胸をなでおろしつつ、俺は盗賊に向き直った。

「俺は、カサラのグラッジ。見ての通り、盗賊だ」

 グラッジは、冷や汗をかいていたが、腕を拘束されているためにぬぐうことができない。

「俺は魔法使いに雇われた。名前は知らない。ただ、俺のところに使い魔が現れ、金を置いて、あんたたちを監視するようにと命令してきたんだ。……、そりゃ、断ろうと思ったさ。見るからに怪しい使い魔だったしな。俺だって盗賊ギルドに所属しているんだ、掟を破って下手な仕事に手を出せばどんな制裁があるかも分からない。だが、その魔法使いは俺のことをかなり調べたらしく。普通の状態では断れないような取引内容だった」

 グラッジと名乗った盗賊は、肩を落として話した。

 俺の鼻は、落胆と苦悩の匂いを嗅ぎ取っていた。実際のところ、牙の民にとって、相手の感情を匂いから読み取ることは難しいことじゃない。目よりも鼻を信じろ、という口伝まであるくらいだ。ただ、正確に相手の心情を読み取るには近付かなければいけない。離れていては匂いが混ざってしまうからだ。

「断れない取引だったら、どうして俺たちに話す気になったんだ?」

「はぁ? あんたなぁ、命を盾に取られて、他に手があるか?」

 俺の言葉に答えて、盗賊は呆れたように言った。それもそうか。我ながら馬鹿なことを聞いたものだ。とりあえず、そういうことになっているのだった。

「俺は孤児だったし、ずっとギルドで育ったから堅気の友人もいねぇ。魔法使いには以前しくじった仕事の件で脅されていたが。あんた達はその上を行ったぜ。まったく」

 盗賊は憮然とした様子で溜息をついた。

 仕事でしくじったというのは、ギルドに暴露されたら自分の立場が危うくなるような内容だったのだろう。

「まぁ、たしかに上を行ったな。いい芝居だった」

 俺はディアーネを見た。

「芝居?」

 グラッジは目を見開いて言う。

「まぁね。……、私たち森の民は滅多に生き物の命を奪うようなことはしないわ。いたずらは大好きだけどね。たとえば、脅して隠し事を聞き出すとか」

 ワイトリーフ族の姫は可愛らしく笑って片目をつぶってみせた。それを見たグラッジは、かくん、と顎を落とし、口と目を一杯に開いて呆然としてしまった。その顔があまりに面白かったので、俺はついにこらえきれなくなり、声を出して笑った。

「残念だったな。まぁ、命拾いしたと思っておけよ」

 そう言って、盗賊の肩に手を置いた。哀れな盗賊は、俺の手に気付かない様子で、しばらく座り込んだままだった。

 天幕を張り直して一晩過ごし、翌朝、日の出とともに出発した。グラッジはぶつぶつと文句を言いながらも、腹を固めた様子で着いてきた。

 俺とディアーネはグラッジに依頼したという魔法使いのことが気にかかっていた。俺が最初にディアーネと出会ったとき、彼女は巨大な鳥のようなものに持ち上げられたと言っていた。その「鳥のようなもの」というのが魔法生物の類ならば、森の民の結界を一瞬とはいえ破ったことも納得がいく。

「私に黒の刻印を埋め込んだ人物が、グラッジに監視を依頼した魔法使いと同じ者である可能性はかなり高いと思うの」

 ディアーネは言った。俺も全く同意見だった。そのことをグラッジに話すと、彼は震え上がった。

「あんたたち、あんな不気味なヤツと角を突き合わせようってのか? 正気の沙汰じゃないぜ」

 しかし、同時にこうも言った。

「まぁ、同行するってのは監視しているとも言えるからな。いざとなればそう言って逃げることにするさ」

 そういうわけで、旅の道連れは三人となった。

 ゲイロック渓谷は、切り立った断崖によって挟まれた場所だった。それは、この大地が生まれてから現在に至るまでの悠久の時の中で、風や雨によって少しずつ削られたことによって形作られたものなのだと、以前マーリンから聞いたことがあった。

「すごいわね……」

 ディアーネが言った。空をひとっ飛びしてやってきた異国の姫君には、大地の年輪が自然の作りだしたものではなく、奇跡の産物のように思えたのだろう。渓谷に入ってしばらくたっても、我らが森の姫は夢見心地のままだった。

 俺たちは渓谷を構成する断崖の真下にいた。空が石壁に切り取られ、細長い線になってしまったかのように感じる。これから、ケルラ山脈の登り口にたどり着くまでの間、ずっとこの狭い空を見上げ続けなければならない。

「気が滅入りそうだぜ」

 グラッジがぼそりと言った。

「気持ちはわかるけど、ここはまだ入り口だ。ついてくるのは構わないが、先は長いぜ」

 俺は痩せた盗賊に言った。

「ありがとよ。気分が明るくなった」

 盛大にため息をつきながらグラッジは言った。それを見て、ディアーネはくすくすと笑った。

 峡谷に入って二日。そろそろ谷間を抜けて山脈に入る辺りに差し掛かった頃、俺たちは一人の男と出会った。

 その男は、自分の背丈と同じくらいの、大きな剣を持っていた。他に荷物らしきものはない。明らかに旅人ではない。こちらを見る目が、野生の獣のようにぎらぎらとしていた。まさに獲物を見る目だった。殺気で尻尾の毛が逆立っている。俺は戦闘の経験がないわけじゃないが、こんなに鋭い気配は初めてだった。尋常ではない。

 次の瞬間、俺の脳裏に「刺客」という言葉が稲光のようにひらめいた。そう、目の前の男は俺たちを、特にディアーネを標的にしているのだ。俺は確信した。

「よう、いい天気だな」

 男はにやりと口元を歪めながら言った。その顔は美男子とは言えなかったが、適度に整っており、意志の強そうな瞳は、内側から溢れ出る活力を感じさせた。革製のレギンスに狼のものと思われる毛皮がごてごてとくくりつけられていたが、普通に考えればけばけばしい装飾も、金属製の胸当てや腰に差した探検などというあからさまな武具と相まって、実に「刺客」という言葉がしっくり来る装いだった。

「あの人、あなたの知り合い?」

 ディアーネがグラッジにささやいた。

「いや、しらねぇな……。あんな物騒なのがいたら真っ先に目をつけてるぜ」

 巻き添えにならないためにな、というつぶやきも聞こえた。グラッジが知らないとなれば、あの剣士は彼とは別の手段で雇われたのだろう。奇妙なことだが、俺はグラッジを完全に信用していた。まぁ、それに気がついたのはたった今なわけだが。

「俺ぁラギス。わかってると思うが、一般に言う刺客ってやつだ。一応、依頼主の要望でお前たちに選択肢を与えることになってる。要するに、そこのお嬢さんを置いておうちに帰るか、この俺に刃向かうか、ってことだ」

 ラギスは片方の眉を、ついっ、と上げた。

 俺はラギスの質問に答えるつもりはなかった。俺はディアーネを故郷に連れ帰ると約束した。牙の民は絶対に約束を破らない。俺自身、過去に破った約束は一つしかない。第一、友達を守れないようじゃ、山岳警備隊は務まらない。だから俺は、無言で腰帯から斧を引き抜いた。まさにその時、俺は自分がここにいる理由を強烈に意識した。ディアーネを守るために、ここにいるということを。

 背後でディアーネが愛用の短剣と、村を出るときに親父が渡したという細身の剣を引き抜くのが分かった。グラッジは足音を忍ばせて岩壁の方へと進んでいく。

「くふふ、そうこなくっちゃ面白くねぇ」

 ラギスがぎらつく視線を俺とディアーネに注いだのがわかった。

 そして言う。

「最初に言っておくが……」

 がっしりとした体躯を持つ剣士が、その身長よりも長い両刃剣を毛皮の鞘から引き抜き、正面に構える。

「俺は強いぜぇ……」

 その時、俺がラギスに勝っている点があったとしたら、それは、彼が風上に立っていたということだけだった。俺の嗅覚が、攻撃の瞬間のわずかな興奮を嗅ぎ取ったのと、ラギスの剣が俺の目前に現れたのはほぼ同時だったのだ。長剣の一撃を完璧に避けられたのは、風向きのおかげだった。

「ちぃ」

 ラギスは舌打ちしながら、恐ろしいほどの速さで剣を振るった。

 俺はと言えば、ほぼ初めてに等しい多種族との実践に舞い上がっている部分もあるが、おおむね冷静に対処できていた。やはり、初撃を無事にかわせたのが大きかった。

 ラギスの踏み込みは鋭く、攻撃は早くて正確だった。事前に「強い」と見栄を切っていたのは伊達じゃないらしい。剣士が持っているのは両手剣で、草原の民が戦争の時に多用するものだった。この剣の刃幅は、大人が指を三本か四本合わせた程度で、一般的な剣とは大きな差がない。特徴的なのはその長さだ。切っ先から柄尻までの長さは、大人の草原の民の身長とほぼ同じで、場合によってはもっと長いものもある。また、その刃は分厚く重く作られており、極めて鋭く研がれているので、敵を叩き切るには最適な武器だった。

 これに対して俺の武器である斧は、刃の鋭さは負けないものの、柄の長さは腕一本程度しかなく、明らかに不利といえる。しかし、それをここで嘆いていても仕方がないし、もとより嘆くつもりはない。武器の差は、戦い方でどのようにも覆せるのだ。一般に斧は、重量を生かして強引に振り回す武器だと思われているが、実態はそうではない。斧を正しく扱うには繊細で大胆な技術が必要になる。

俺たち牙の民は、常に斧の扱い方を考えている。それが既知のものであるか未知のものであるかにかかわらず。牙の民にとっては、毎日の生活の中で、どれだけ斧の扱いに関して考えたかが、一種の誇りであるかのようにとらえられているのだ。

 俺は時に前に出、時に後ろへ引き、また時に体を翻すことによって剣士の刃を交わし続けた。それは自分の牙たる斧によって、相手にとって最も重い一撃を与えるための最適な時期を待つためであるのと同時に、一方では、なかなか自分の間合いに入れず、相手に翻弄されつつあることの表れでもあった。

 ラギスは長大な剣を巧みに使って、横薙ぎ、切り下ろし、切り上げ、突き、を使い分けている。だが今は、その剣筋が予測できる。初撃を交わした余裕が生きているらしい。

 ふと、視界の端にディアーネが映った。短剣を構えている。一瞬、勝負にけちが付くことを憤る感情が芽生えかけたが、これは腕試しの試合ではない。殺し合いだ。勝つために手段は選べない。ディアーネは俺と瞬きする程度の間だけ視線を交わすと、にわかに殺気を噴出させ、直後に両手に持った短剣を、二本同時に投げた。風のうなりをあげて、短剣は剣士に迫る。ディアーネの投擲術は実に卓越したものだった。投げたのは確かに二本だったが、その軌道は全く同じ。つまり、二本の短剣は前後して一直線に並んでいたのだった。これならば正面からは一本にしか見えない。標的にしてみれば

一本目を弾いても、直後の二本目によって命を奪われてしまう、必殺の一撃。

 しかし、俺たちは剣士を見くびっていた。いや、そうではない。剣士の強さは初撃の時からわかっていた。だからこそ、ディアーネは拍を計って、必殺の一手を繰り出したのである。決して剣士を安く見積もっていたわけではなかった。

 ラギスは、ディアーネの手から探検が離れた直後、「ふっ」と微かに笑って、剣筋を俺からそらせた。そこに俺は反射的に攻勢をかけた。しかし次の瞬間、俺は背筋から尻尾の先まで抜ける異様な感覚にとらわれ、またしても反射的に上体を倒して前方へと転がった。その時、確かに俺は見た。ディアーネの短剣が、必殺の軌道を描いていた二つの刃が、双方同時に一条の剣光によって弾き飛ばされる様を。そして感じた。その光が、すぐさま自分の首を狙って返されることを。

 俺は地面に転がると、間髪を入れずに起き上がり、とんぼ返りを打った。頭の近くを、ぶぅん、と何かが通過する音を聞いたが、それが何かを考えたくはない。着地し、ラギスを見れば、彼の剣士は不敵な微笑みを浮かべ、両手剣を片手で持って、肩に担いで立っていた。

「なかなかやるなお前たち。そこの盗賊もいい仕事したぜ」

 と、剣を持っていないほうの手を見せる。その手には、一本の幅の広い短剣がおさまっていた。

 脇から、「くそっ」という悪態が聞こえてくる。グラッジの声だ。どうやらディアーネの投擲と合わせて、自分の剣を投げたらしい。最初に戦場を放棄するように、するすると岩壁に寄って行ったのは、目立たぬように攻撃するためだったようだ。さすがは盗賊、と言ったところか。まぁ、失敗したけれども。

「おもしれぇ。お前たち、おもしれぇよ。俺の剣舞が止められたのは今回で二度目だ」

 浅黒い肌をした剣士、ラギスは歓喜に身を震わせながらつぶやいていた。俺は、その表情に戦慄する。見れば、ディアーネ、グラッジも同様だった。

 と、そこへ、風を切り裂く音が聞こえた。

「避けろ!」

 それは矢が空を切る音だった。俺は叫ぶと同時に身を反転させ、地面を転がるように移動した。ディアーネは即座に反応し、俺とほぼ同様に身をかがめて地面を転がった。直後、数瞬前まで俺とディアーネの身があった場所に大振りの矢が突き刺さった。この時グラッジは、一瞬、何が起きたのか分からない様子で身をすくませ、背をかがめて辺りをうかがうようにしたが、その頭を下げる動作が功を奏し、矢は彼のこめかみをかすっただけだった。

「くっ」

 矢の飛来は新たな敵の出現を意味していた。

 俺は斧を構え、頭上をうかがう。

 厄介な状況になってきた。ラギスだけでも大きな問題だというのに、この上で増援とは。

「邪魔するな、ホルス!」

 意外な言葉をラギスが叫ぶ。その大音声の反響が峡谷から消える頃、一人の男が、岩壁の上から下りてきた。縄一本で絶壁を下るその姿に、この男も只者ではないと知れる。

「お前がいつまでも遊んでいるからだ、ラギス」

 静かに低い声で、弓使いが言った。ホルスと言うらしいその男は、長身で痩せていたが、肩から腕にかけての筋肉の発達具合からして、かなり強靭な狩人であることがうかがえる。

「遊んでいて何が悪い。牙の民と遊べるなんて、滅多にないぜ。なにせあいつらは自分たちの里以外にはまるで興味がないからな」

 くつくつ、と喉の奥で笑うラギス。その腕が、両手剣を勢いよく振り下ろし、その切っ先が俺を差す。

「さて、戦いは本気じゃなけりゃ面白くねぇ。というわけでぇ、そろそろ本気を出してもらおうか」

 ぎらり、とラギスがこちらを睨む。

「なんのことだ?」

 俺は油断しないように斧を構えたまま言った。

「知らないと思っているようだが、俺のような稼業の人間には有名な話だ。牙の民には特別な力があるってな。そしてそいつは本気で戦う時にしか見せない、って話だ。だろ?」

 率直に言って、俺は驚いていた。ラギスが言っているのは「深化」のことだろう。一族の秘伝ともいうべきものを、この剣士が知っているとは思わなかった。だがすぐに、そういうこともあるか、と思いなおす。

「ラギス、いい加減にしろ、私はお前の遊びに付き合っているほど暇じゃない」

 横からホルスが言うが、ラギスは耳を貸さない。

「うるせぇぞ、ホルス。本物の戦士ってのはなぁ、本気の相手を倒してこそ、本物でいられる生き物なんだよ」

 妙な話だが、その時の俺は、ラギスの言葉に共感していた。いや、さして妙でもないか。俺自身、本物の戦士であろうと思い、常日頃から、ラギスのように感じていたのだから。

「お前は、あの嬢ちゃんか、盗賊と遊んでな。こっちはこっちでやらせてもらうからよ」

 そう言って、ラギスは再び、俺に切っ先を向ける。その灰色に鈍く煌めく鋼の塊は、端々から剣士の闘気をにじませているかのように思われた。

 溜息をついたホルスがディアーネに向かって行った時、俺は焦燥にかられ、その後を追おうとしたが、当然のごとくラギスが立ちふさがる。

「おいおい、相手を間違えるなよ、若いの」

 横手からも声がかかる。

「ガイ、こっちは大丈夫。貴方は貴方の相手に集中して!」

 ディアーネは、いつの間にか、グラッジのそばへと移動していた。矢がかすった傷の具合を見ているらしい。

「ほれ、お許しが出たぜ?」

 ラギスは嬉しそうに言った。

 その時から、第二幕が始まった。

 ラギスは突進からの突き、切り上げてから瞬時に切り下ろすという見事な連続攻撃から、再び剣を縦横に走らせる形態に移行した。

 俺は目を見開いた。

(早くなってる!)

 ラギスの剣は明らかに加速していた。先ほどまでの彼の攻撃が、実は様子見に放たれていたものであったことを知る。俺の体を悔恨と憤りが駆け抜けた。表面だけを見て、剣士の実力を測ったつもりでいたのだ。

「さあ、どうした。見せてみろよ、牙の民の本気を!」

 剣がまた加速した。一瞬前まではまだ余裕を持って交わせていた刃が、明確な殺意とともに、首筋を掠めていく。よけきれなくなるのは時間の問題だった。

 仕方がない。別に今まで出し惜しみしていたわけじゃない。ただ、牙の民にとっても「深化」を使うことは非常時にのみ許されている。まぁ、今回は自分自身と仲間の命がかかっているんだ、十分に非常時か。

「いくぞ、ラギス!」

 叫ぶなり、俺は意識を自分の内側へと集中させた。少し間があって、その後は一気に、周囲の動きが遅れ始める。同時に、世界から色が失せ、自分が泥沼の中に飛び込んだかのように肉体の動きが規制される。ラギスの鼓動、ディアーネの息遣い、グラッジの恐怖、そしてホルスの困惑。それらの全てが、嗅覚と聴覚から流れ込んでくる。

「グアァ!」

 それが自分の雄たけびと分かるまでに一拍かかった。「深化」を使うと言葉を話せない。マーリンによれば、それも「深化」に必要な要素であるということだったが、俺にはよくわからない。言葉が話せない代わりに体中の感覚が研ぎ澄まされ、肉体の限界に極めて近い動きが可能となる。

 ラギスの剣がひどくゆっくりと動く。しかし、こちらの体もゆっくりとしか動かせない。俺とラギスの違いは、ラギスの速度は限界に近いが、俺の速度はまだ上があるということだ。首筋に迫ってくる刃を、目一杯に力を込めて交わす。筋肉と骨が軋んでいる感覚はあったが、「深化」に舞い上がっているので痛みは感じられない。

 先ほどの戦いと、今度の戦いとでは、決定的に違う点があった。それは、両者が初めから全力であるということだ。

 斧を持つ手に力が入るが、手首から肩にかけては力を抜く。長い鍛錬の結果として身に染み付いたものだ。この力の入れ具合が、斧を使うにあたって最も良い状態を作り出す。 

 もともと斧は剣と違い、一撃で相手を粉砕する武器だ。扱いには熟練を要するが、攻撃力には絶大なものがある。

 俺が狙っていた瞬間が訪れた。

 斬り降しから手を返さずに斬り上げ、頭上を旋回させて左右の斬り返し。ラギスが素早い連携攻撃を二重三重に繰り出す。しかし、ラギスの使う剣法にも、継ぎ目が存在する。すなわち、連携攻撃から次の連携攻撃へと移る瞬間だ。それこそが勝機だった。

(そこだ!!)

〈継ぎ目〉を見つけた瞬間、俺の体は反射的に動いた。無論、泥沼をもがいて進むような速度に変りはない。しかし、それは絶対的な勝機だった。

 甲高い、金属によって金属が断ち切られる音が鼓膜を揺らした。一瞬、その音でめまいが起きるがそれをこらえ、自分の斧が斬り飛ばしたものを確認する。

 白銀の長大な剣身が、空中をくるくると回転しながら舞っていた。


「深化」をといた俺の前に、ラギスが呆然と立ち尽くしていた。両手に握られた剣の柄を見つめながら、しかし、その目は、実は何も見ていないのではないかと思われた。

 緊張が俺の体を支配する。次はどう動く。そればかりが頭の中に浮かんでは消える。

「……」

 ラギスが何か言ったが、聞き逃した。

「すげぇよ、こいつはすげぇ、ははは」

 耳を澄ますと、ラギスはしきりに、すげぇ、すげぇ、と繰り返していた。

「あの、なにが?」

 恐る恐る話しかける。

「斧で剣を斬っちまうなんて、聞いたこともねぇ」

 俺はラギスの驚嘆の声を聞きながら、同時に「深化」の反動でぎしぎしと軋む自分の関節の音を聞いていた。全身が痛い。

「ラギス」

 ホルスが近付いてきた。

「よう、ホルス。見ろよこれ」

「ああ、まぁ、すごいな。で、どうするんだ?」

 ホルスはラギスほど驚いてはいないようだった。

「ああ、そうだな。まあ、契約分は働いたし、もういいんじゃないか」

「なんでお前はそう適当なんだ、いつもいつも」

 ラギスの言葉にため息をつくホルス。こちらは意味がわからない。

「どう、いう、ことだ?」

 息が上がって、うまく話せない。

「俺たちはな、足止めを依頼されたんだ。まあ、金もなくなったし、ちょいと分別をなくしてな。

あの怪しい魔法使いの頼みを聞いたっでわけさ」

 肩をすくめるラギス。そして、再びため息をつくホルス。

 なるほど、ラギスはディアーネよりも俺に興味があり、ホルスはどことなくやる気が感じられなかったのはそういう訳か。

「じゃ、初めから私たちに危害を加えるつもりはなかったというの?」

 ディアーネは不審そうな視線を二人に送っている。

「ないね。……、いや、そこのボウズとは本気でやりあおうと思ってたぜ。そのために依頼を受けたと言ってもいい」

 胸を張るラギス。

 いや、胸を張られても。

「魔法使いからの報酬は前払いでね。随分と気前が良かったので、少々怪しんだが、ラギスの言ったとおり、すこし事情があって引き受けざるを得なかったのだ」

 ホルスは少し表情を曇らせながら言った。それが俺たちに対する負い目からくるものか、またはその「事情」とやらを思い出したせいなのかはわからない。

「じゃ、なにか。俺はやられ損か?」

 こめかみに布を巻き、わき腹を押さえながらグラッジが言った。

「まぁ、仕方ないな。うん」

 ラギスは飄々としたものだった。

 俺たちの間に弛緩した空気が流れる。

 俺は忘れるべきじゃなかった。どんなときも、どんな場所でも、気のゆるみが決定的な失敗を招くということを。

 黒い影が、俺たちの間を通り抜けたことに気がついたとき、誰も動くことができなかった。恐ろしげな、俺たちを嘲笑うような鳴き声を上げて、そいつは巨大な体をくねらせて舞い上がった。それは真っ黒な鳥だった。いや、最初は鳥に見えた。舞い上がった姿を遠目に見て、ようやくそれが四本の足を持つ、翼のある生き物だとわかった。

「なんだあいつは!」

「ディアーネがさらわれた!」

 背後から乱雑な口論が聞こえてくる。しかし、なに一つ耳に入ってこなかった。

 俺の責任だ。一体どうしたらいいのか。

 俺は見た。やつにさらわれる瞬間、ディアーネは俺に向かって手を伸ばしていた。俺はその手をつかむことができなかった。動くことさえできなかったのだ。

 そのとき、激しく頭に衝撃を受けた。

「ばかやろう、しっかりしろ!」

 ラギスだった。目を血走らせて興奮している。

「あのお姫さんは大事なんだろう、何とかして助けないと!」

 その言葉を聞いて、ようやく思考が復活した。

「やつはどっちに飛んでいった?」

「随分と早いやつだった。北に向かって飛んでいったようだが、絶壁に阻まれて、正確にはわからない」

 俺の言葉にホルスが答える。

「どうする。行く先がわからないと追いかけられないぜ?」

 グラッジが言う。

「とりあえず北に向かって行くしかないだろう。どうせ下手人はあの魔法使いなんだ、やつを探し出せばいい!」

 ラギスが叫ぶ。

「魔法使いはどこにいるかわからないぞ。俺たちだって、最初の一回以来会っていないんだ」

 ホルスがなだめる。

 その時だった。グワァ、という鳥の鳴き声が聞こえた。声のした方向、つまり上空を見上げると、一羽のカラスが旋回しているのが見えた。

「なんだ、あれは……。やつがもどってきたのか?」

 見上げながらラギスが叫ぶ。

「いや、あれは大ガラスだ。しかし、こんなところにいるのは珍しい」

「大ガラス?」

 ホルスの言葉を聞いて、頭の中に稲妻が閃いた。

「あれは使い魔だ!」

「なに」

 俺が言うと、ホルスが矢を番える。

「待った待った、あれは味方の使い魔だよ。マーリンだ」

「マーリン? まさか、湖のマーリンか!」

「まあね」

 弓使いのホルスまでマーリンを知っていた。俺が思っていた以上に魔法使いのマーリンは有名だったらしい。

「マーリンはディアーネの居場所がわかるんだ!」

 半ば茫然とつぶやいた時、大ガラスがこちらに向かって降りてきた。黒いはずのその翼が、俺の目には、まばゆく輝いているように見えた。



‐4‐


 マーリンの大ガラスを追って、コルラ山脈でも最も高く険しい、ビスヒー山の中腹へと進んだ。

 ラギスの、およそ草原の民とは思えないほどの体力にも驚かされたが、グラッジの身軽さとホルスが持っていた魔法の綱にも驚いた。グラッジは身の丈を超える岩でもひょいひょいと乗り越えるし、ホルスの綱はその細さからは考えられないほど丈夫で、さらに、どんな悪所でも結んでしまえば絶対に解けなかった。

 大ガラスは、ビスヒー山の中腹辺り(といってもほぼ頂上だ)で旋回している。

 そこにディアーネがいるはずだ。急ごうとする気持ちをどうにか押さえつけ、一歩一歩着実に岩肌を登って行く。

 夜通し歩いた。カラスは足に光苔の入った大きな瓶を提げていて、それが照明になった。

 夜が明ける頃、俺たちがたどり着いたそこは、かなり大きな台地だった。自然にできたものでは無いらしい。山の岩壁に面したところに、長方形の石台が、いくつかすえられていた。上に蜀台や剣、水晶球などが置かれているところをみると、何かの儀式に使う祭壇のようなものらしい。

「いたぞ!」

 後ろで誰かが叫んだ。

 いた。

 確かにいた。

「ディアーネ!」

 森の姫は、黒い革の縄でがんじがらめにされていた。

「待て、飛び出すのは危険だ!」

 思わず体が動いた俺を、ホルスが止めた。

「なぜだ!」

 叫んだと思ったが、ノドの奥に何かが挟まったような、かすれた声にしかならなかった。

「見ろ、魔法使いがいる!」

 ホルスの指差した先に、漆黒のローブを着た魔法使いがいた。今まで気付かなかったのが信じられないほど禍々しい気を放っている。気のせいか、黒い霧のようなものが魔法使いの全身にまとわりついているようにも見えた。

「あいつが」

 誰ともなく呟きがもれる。

 風が吹いた。山の上の強い風が、顔に吹き付ける。

 そのとき、異様な匂いがした。

「この匂いは?」

「どうした?」

 俺だけが感じる匂いだ。かすかなものなので、他の者にはわからないらしい。

「死臭だ」

 魔法使いから漂って来る匂い。おそらくはあの禍々しい気の正体。

「さすがにいい鼻を持っているようだな、牙の民。いかにも、この体は半分方朽ちておる」

 ぜいぜいとえずく。

 何かを指し示すように上げられた腕は、血の気を失い、青白くなっている。ぽとり、と地面に何かが落ちた。目を凝らしてみる。蛆だった。

「死にぞこないが色気を出したか?」

 ラギスが挑むように言った。彼は、壊れた長剣の代わりに、幅の狭い剣を持っていた。不思議な光沢のある金属で造られたものだ。

 ぐつぐつ、と奇妙な音が聞こえた。

 それが、魔法使いの笑い声だと気がつくのに少しかかった。

「下賎の者は下種な考えしか持たぬ。我が目的はさにあらず」

 魔法使いが両手をゆっくりと差し上げる。

「我が肉体が腐り果てる前に、この姫の体に暗黒を呼び込み、世界を滅ぼすが我が望み」

 枯れ木のように細く、それでいてなにか邪悪な力にあふれているような奇妙な力強さを感じさせる腕が、虚空を掴む。一瞬間があり、再び手のひらを開いたとき、そこには青白い炎の玉があった。

「よけろ!」

 ホルスが叫んだ。その声が聞こえるか聞こえないかの拍子に、全員が動いていた。

 凄まじい爆音が響き渡った。

 魔法を見るのは初めてじゃないが、手のひらに乗るほどの小さな炎が、大岩を吹き飛ばし、地面に真っ赤な溶岩溜まりを作るなどという光景は初めてだった。

 魔法使いはぜいぜいと息をついている。

「邪魔は、ケハァ、させぬ」

 高ぶった魔力とは反対に、肉体は限界に近付いているようだ。自分で朽ちかけているといっていたことを裏付けるように、このわずかの間にも、魔法使いの体から生気が抜けていくのが見て取れる。

「ち、あのやろう。死に掛けの癖にとんでもねぇ力をもっていやがるぜ」

 グラッジが冷や汗をぬぐっている。

 心境としては俺も全く同様だった。背筋を冷たいものが伝っている。

 しかし、くじけるわけにはいかない。ディアーネを暗黒の塊になんかさせるものか。

 魔法使いがまた腕を差し上げた。

「まずいぞ、次は何が来るかわからん!」

 ホルスとラギスが身構える。

 俺も斧を掲げて臨戦態勢を取る。魔力が吹き上がるのを肌で感じる。

「消し飛ぶがいい!!」

 魔法使いの背後から、突然、大量の水が吹き出した。

 腐りかけた魔法使いを象徴するように青白く濁った水は、巨大な蛇となり、俺たち全員を飲み込もうと、その大顎を広げる。

 そのときだった。

 それまで上空を舞っていた大ガラスが、急降下し、蛇の頭に突撃を敢行した。

「お前の思うようにはさせぬ」

 大きく響く声とともに、大ガラスの体が閃光を発して砕け、羽が舞い散る。地面に落ちた羽は奇妙なことに一定の範囲を持つ円の形になっていた。

 黒い羽で形成された輪の中に、見知らぬ人物が立っていた。いや、立っているのかどうか、よくわからない。なにしろ、その人物というのも、全身が透けていて、顔はわかるものの、足は完全に見えなくなっているのだ。

「マーリンか。我が盟友よ、いまさらお前に何ができる!」

 魔法使いが両腕を広げると、その背後から黒い霧が噴出した。その霧が尋常のものでないことは、一目で分かった。何しろ勢いよく魔法使いを取り囲んで、周りの地面を腐らせているのだ。普通じゃないどころか今後数カ月夢に出てきそうなほど恐ろしい。

「くそっ」

 ホルスが矢継ぎ早に撃った。しかし、矢は黒い塊に届くことなく腐食し、跡形もなく消え去った。

「無駄じゃ。あれは暗黒の魔法。こちらから手を出そうとすればただでは済まん。しかし、あれは身を守るためのものであってこちらに直接害をなすものではない。何を企んでいるのかはわからんが、やつが次に現れた時に勝負を決するほかはない」

 マーリンが言う。

「霧が晴れるぞ!」

 ラギスが剣を握りなおしながら叫んだ。

 黒い霧が晴れ、俺たちの前に再び現れた魔法使いは、闇の獣に姿を変えていた。太い4本の足で立ち、背には蝙蝠のような翼を持っている。見た目は闇色の毛皮に、鈍く煌くたてがみを持った獣で、色を別にすれば噂に聞く南方の獅子であるかのように思われるが、よく見れば腹の部分から背にかけて、固そうな鱗がびっしりと生えている。その尻尾には先端に一房の毛があったが、しゅっ、と尾が振られた瞬間に、毛に隠された太く長い針が見えた。毒針だろうか。

「あれは……」

 誰かがつぶやく。

 それは伝説に聞く魔獣、マンティコア。

 魔法によって作られたとも、神に対抗するために邪神が生み出したともいわれる存在。

「なんてこった」

 ラギスのうなり声が聞こえた。

 たしかに、なんてこった、だ。魔法によって姿を変えただけならまだしも、世の中には自分の肉体や命そのものと引き換えに、特定の生き物を召還する術もあると聞く。

 どちらにせよ、伝説の魔獣が相手というのは荷が勝ちすぎているか……。

 いや、そんなことを言っていられる状況じゃない。あそこにはディアーネがいる。必ず助けると誓ったのだ。やるしかない。

 俺は斧を構えた。不思議なもので、その瞬間に恐怖が薄くなっていくのを感じた。目の前にいるのは恐ろしい外見をしてはいるが、実際、ただの獲物だ。いつものように狩ればいい。少なくとも、人間相手よりはいい。心情的に。

 空気を震わせ、魔獣が吼える。びりびりと頭の中に響いてくる。憎悪だ。激しい憎しみ。この世界そのものへの憎悪が、山全体を崩さんばかりに響き渡った。

「ガイ、よく聞け」

 マーリンの声がした。

「あの祭壇の上にいる限りディアーネの体には常にないほどの速さで魔力が蓄積されていく。太陽が真上に登るまで持つかどうかわからん」

「しかし、祭壇には近づけない。黒い霧が邪魔しているんだ!」

「やつを倒すしか、ディアーネを救う方法はない」

「あの魔獣を?」

 マーリンの瞳は、溢れんばかりの知性に満ちていた。そしてそれは、俺に、ある一つのことを示唆していた。

「獣化しかない、ってことか?」

「わしには決められん。牙王の血の力を使うには、牙の民自身が決めねばならん」

 牙の民の血には古来不思議な力が宿っている。それは牙王の血と呼ばれていて、牙の民であれば誰もが、その体の内側に秘めているものだ。

 俺にも詳しいことはわからないが、その昔、この大地には牙の王と呼ばれる4匹の獣がいて、生きとし生けるもの全てを支配していた。そのなかの一匹、白銀の剣歯虎「アロガダス」の子孫が、俺たち人虎であるといわれている。

 神話のなかのことなので、実際はどうだか分からない。しかし、現実に俺たち人虎族は、白銀の毛皮を持つ大きな虎に変化することができ、これを「獣化」と呼んでいる。

 この獣化には合言葉が必要だ。

 それは大昔から牙の民に伝わる古い言葉で構成された短い詩のようなもので、魔法で言うところの呪文に相当する。

 牙の民では、多くの者たちが、獣化のための合言葉を二節に分けて、自分が一節、自分が最も信頼する人物にもう一節を託す。

 他の種族から考えればややこしいことだろうが、自分で自由に獣化できる状況だと、必要もないのに変身して、無用の争いを呼ぶことになるかもしれない。そういう不利益を防ぐために、俺たちのご先祖様は、合言葉の分割を習わしにしてきた。

 俺の合言葉を知っている人物はこの世界で三人。親父、母さん、そしてマーリンだ。

 俺は祭壇に横たわるディアーネを見た。

 透き通るように白い肌も、輝く金髪も、変わりないように見える。だが、確かに彼女は死の淵にあった。溢れんばかりの活力が消えていたのだ。眠っていてさえ、森の祝福に満ちみちていたあのディアーネが、まるでただの蝋人形のようだった。

 ゆるせん。

 単純にそう思った。

 やつを許しておいたら、つまり、自分でこの状況に対抗しなかったら、俺は生きていく資格がなくなってしまう。

「やるよ。……、俺がやる!」

 マーリンを見つめ返す。

 始めてみるマーリンの顔。意識的にそうしているのか、定められたことなのかは分からないが、老人の顔だ。

 険しい年月が刻み込まれた賢者の顔。

 しかし、その表情がふと緩み、満足そうな微笑に変わる。

「よく言った。それでこそ勇猛なる牙の民」

 マーリンは両手を広げ、俺に頷く。

 俺は斧を地に置いて立ち上がり、目を閉じて精神を集中させる。

 すでに仲間達が魔獣と戦っている。

 グラッジが、ラギスが、ホルスが……。

 俺も後れてはいられない。


「虎よ、虎よ、燦爛と燃え闇黒々の夜の森に潜むものよ!」

「我は虎、鋼鉄の心筋、鉄の骨身を持ちて凶を砕く白銀とならん!」


 マーリンの詠唱に続いて、俺も合言葉を唱える。

 二節の詩が一つに合わさった時、俺は体が弾けそうな衝撃を受けた。

 獣化は初めてだったが、聞いていた以上の衝撃だ。一体何が起きたのか、訳が分からなくなる。

 もみくちゃにされたような感覚を受けながら、なんとか平静を保とうとする。めまいがして、体がよろけそうになる。反射的に一歩踏み出すと、そのとき両手に地面を感じ、初めて自分が両手両足で大地に立っていることに気付く。

 恐る恐る目を開けると、世界が、それまでとは全く違って見えた。

 まず、視線が高い。それまで少し見上げる位置にあったマーリンの顔が、ゆうに頭三つ分は下にある。そして、全体の色彩がおかしい。何とも言えない、実に奇妙な色に見えている。

 何がどうなっているのかわからず、マーリンに声をかける。

「グアァオウ」

 自分の発した声にびっくりする。

 野太い咆哮だった。

「むやみに吼えてはならぬぞ。お前の咆哮には邪を打ち砕く力があるのじゃ」

 マーリンは声を張り上げて言った。

 なるほど、これが獣化か。

 俺は漆黒のマンティコアを見据えた。

 さて、体の大きさは同じくらいになったが、どこまで力が通用するやら……。

(いくぞ!)

 気合いを入れた。

「グガアアアアアア!」

 大気を震わせて、大音量の咆哮を放つ。

 仲間が何事かと振り返り、茫然となる。

「みな、いったん引け! ガイが勝負を仕掛けるぞ!!」

 マーリンが言うと、仲間たちはこちら側に走ってきた。きっと、誰も意味がわかっていないに違いない。

 俺は彼らを飛び越えて、一息に魔獣との距離を詰める。

 体が軽い。四肢に力がみなぎってくる。これが太古の獣の力か。

 俺は魔獣の眼前に飛び込んだ。意識したわけではないが、魔獣と俺との距離は絶妙で、互いに一歩踏み出せば攻撃の間合いになる位置だった。

 魔獣はこちらの姿を目にすると威嚇の叫びを上げた。こちらの咆哮に比べれば甲高く、耳障りな響きがある。

 俺はそれに構わず、相手の出方を観察した。

 牙王の血が活性化している影響なのか、何も考えなくても、どんどんと気分が高揚してくる。目の前にいる黒い、品のない獣が敵であるというだけで、どうしようもなく叩き伏せたくなっていく。

「ガイ、長引かせてはならん。牙王の意識に食われてしまうぞ!」

 マーリンの声がどこか遠くから聞こえる気がする。

 そうか、わかったぞ。

 牙王の血を呼び覚ますということは、俺の体に牙王の魂を、一時的に乗り移らせることなんだ。牙王の肉体は遥か太古に滅びたが、魂はどこかわからない別の世界で生きていた。その牙王の魂を呼び寄せて力を発揮させるのが、血の活性化、獣化なんだ。

 そうとなれば迷っている暇はない。もともとディアーネを助けるために取った強硬手段なんだ。ご先祖様とはいえ、他者に体を乗っ取られるわけにはいかない。

 俺は魔獣を見すえて咆哮を放った。マーリンが言うには、牙王の咆哮には邪を打ち砕く力があるらしい。それが一体どんなものなのかは分からなかったが、とにかく力一杯吼えた。

 すると、声と一緒に、喉の奥から光の束がほとばしった。

 驚いて一瞬、口を閉じたが、それが破邪の力だと気付き、再び、今度は腹の底から絞り出すように吼えた。

 光の束が盛大に噴出し、魔獣を直撃する。

 魔獣は苦悶の声をあげ、大きくのけぞる。そして、魔獣を取り囲む黒い霧が消失していく。

(いける!)

 迷っている暇はない。少しばかり無謀でも、前足の爪をやつに突き立ててやらなければならない。

 後ろ脚に力を溜め、上ではなく前に飛ぶ。攻撃の方法はすでに学んでいる。いつもどおりにやればいい。

 魔獣は尻尾を振った。先端に太い毒針を持った恐ろしい尻尾だ。

 俺は体をひねった。実際、苦し紛れであり、咄嗟の行動だった。しかし、それが功を奏し、俺の尻尾が毒針の付け根にあたり、魔獣の尻尾自体を弾き飛ばした。

 勝機だった。

 俺は渾身の力を込めて、魔獣の頭と胸に両前足の爪を叩きこんだ。

 魔獣がひっくり返る。

 俺は喉笛に噛みつき、夢中で力を込めた。

 牙が折れても構わない。とにかく、こいつの息の根を止めなくては。

 その一心だった。

 魔獣は叫び声をあげた。俺の牙によって突き破られた喉から、黒い霧が噴出してきた。それは俺の喉に勢いよく飛びかかり、焼けるような痛みが走った。

 意識が遠くなっていく。

 霧の毒がまわってきたのだろうか。

 目蓋のうらで、闇に閉ざされていた視界が、だんだん白く濁っていく。

 負けるか。

 俺は負けない。

 ディアーネを助けるまで。


 真っ白な視界の中、遠くで声がした。

「やれやれ。我が子孫ながら、無鉄砲な奴よ」

 声の主が誰なのか、すぐに分かった。だから俺は叫んだ。

「余計なお世話だよ、ご先祖様!」

 自分の声が白い霧に溶けてなくなってしまったころ、ふと、誰かに呼ばれたような気がした。

 絶対にもう一度聞きたいと思っていた声に、確かに呼ばれた気がした。

 目を開くと、そこには緑柱石のように輝く瞳があった。

 雪のように白いが、活力に満ちた肌。金というよりは銀に近い髪。

「ガイ……」

 鳥のさえずりよりも美しい声。

「やあ、ディアーネ。おはよう」

「おはよう、私の虎さん」

 俺は体を起こした。

 辺りを見渡すと、すぐ近くに仲間たちがいた。無論、半透明のマーリンも。

「よう、みんなどうした、鶏が自分の足をつついたような顔して……」

 とりあえず声をかけてみた。

 すると、ラギスの顔が真っ赤になり、魔獣の咆哮もかくやというような大声で言った。

「この阿呆、いきなりばかでかい虎に変身したかと思えば、今度は突然ぶっ倒れやがって、こっちの身にもなりやがれよ!!」

 そのまま噛みつかれるかと思ったが、ホルスがなだめてくれた。

「みんな心配していたのよ」

 ディアーネがほほ笑みながら言った。

「魔法使いは?」

 頭がぼうっとしていたが、いま一番肝心なことを聞いた。

「あそこさ」

 グラッジが、自分の後ろを親指でさした。

 それまで気が付かなかったが、辺りには強烈な腐敗臭が漂っていた。

「あやつにかけられていた<腐れ>の呪いが一気に進行したのじゃ。もう跡形も残っておらんよ」

 そう語る、マーリンの声は、失意の響きがあった。

「やつは何者だったんだ?」

「やつはもともと森の民の魔法使いじゃった」

「なんだって? 森の民が自分たちの王女を狙ったって言うのか?」

「やつは優れた魔法使いであったが、暗黒の魔法に魅入られ、ついには禁呪を発動させた。わしはその対抗呪文を使った。まぁ、その咎で木に封ぜられたのじゃがな」

「暗黒の魔法を封じたのにか?」

「その対抗呪文も禁呪だったのじゃよ」

 マーリンの幻影が笑う。

 やつは優秀だった。禁呪を自在に操れるほどだった。

 だけど、周りの者たちはそれを妬んだ。

 妬みは迫害を生む。そして、やつは狂っていった。

 俺は立ち上がり、地面に崩れ落ち、呪いの効果で一気に腐敗した魔法使いを見ながら思った。

 みんな同じだ。自分にとって理不尽と思えることに、反抗することしかできなかった。考えることも、悩むことも、精一杯やってみたけど、結局、噛み付くしかなかったんだ。

 俺とあいつに違いはない。

 強さとはなんだろうか。そして弱さとはなんなのだろうか。

 善とはなんだろうか、そして、悪とは……。

 答えを出すことはできない。だけど、答えられないからといって、考えなくていいというわけじゃない。

 この世界のこと。種族のこと。そして、未来のこと。俺たちには考えるべきことが沢山ある。

 ただ、俺にとって、一つ幸運だったことは、一緒に考えてくれる人がいるってことだ。

 振り返ると、そこには大きな瞳一杯に涙を溜めた森の民の少女がいた。

 少女は泣いていた。麗しい森の王女が、哀れな同胞のために泣いていたのだ……。

「この世界には、絶対に正しいことなどない。しかしな、それでも、自分が正しいと思う道で生きていくしかないのじゃよ」

 かつて湖の魔法使いと呼ばれた、大賢者マーリンは、山頂から新緑の森を見渡しながら言う。

 つられて、俺たちも山の麓へと目を向けた。

「お、どうやらお迎えが来たみたいだぜ」

 ラギスが指をさす方向から、森の民の一団がやってきた。

 気が付くと、ディアーネが隣にいた。

「ガイ、今度は私が故郷を案内するわ。誰がなんと言おうと私がね。秘境の森の民は今日で終わりにするわよ」

 その目に、もう涙はなかった。




 ダルコラム・ストーリーズ 第二章『獣王の牙』 終


 今回は「牙の民」という、いわゆる獣人が主人公だったわけですが、いかがだったでしょうか?

 獣人と言って、一番多くの人がイメージするものは、「狼男」ではないかと思います。

 この「狼男」というのは、御存じのように、地方によってライカンスロープとか、リカントロープなどと呼ばれたりもします。これはどちらも同じ綴りの言葉を、読み方を変えただけのもので、意味はどちらも「狼男」となるそうです。

 その性質は、人間が獣(多くは狼)に変異するというものですが、古い伝承では、現代の創作物に見られるような、半人半獣の姿ではなく、完全な獣に変異する場合が多いとのこと。

 今回、主人公のガイは、普段も尻尾が生えていたり、耳が人間のそれと違ったりしていて、身体的な特徴のある(上手く表現できているかどうか)人物なわけですが、変身すると完全な獣になります。これは一応、古典に従った結果であります。



 ダルコラム・ストーリーズなるものは、Web専門文芸サークル「若高亭」のHPにて掲載してあります。

 興味をもたれた方がいらっしゃいましたら、是非、一度お立ち寄りください。

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