追章 母として、女として
もう、どれぐらい前になるのか。
――十年。そう、十年も経つ。彼に出会い、恋をして。
そして――彼をこの手で殺してから。
もう、十年だ。
「……そういえば、今日は詩音が来るのでしたか」
読みかけの本を閉じながら、確認するように呟く。平静を装ったつもりだが、声が僅かに弾んでしまった。やはり、どうにも弱い。
あの子はもう、自分を『母』と呼ぶことはない。一生そんな機会はないだろう。
それでも、あの子の成長は本当に嬉しい。母と呼ばれずとも良いと――そう思えるくらいに。
「言い訳ですが、ね」
理由はどうあれ、事情はどうあれ。
ここにいる、《女帝》とまで呼ばれた女は……あの子を捨てたのだから。
我が子と思うことさえも、罪深い。
それが、ここにいる私が背負った業。
「ねぇ、清心」
写真立てへと視線を送る。木枯に譲ってもらった、『彼』が笑った姿で写っている写真だ。出会った時よりも少しだけ若い彼の姿――その写真を見ると、いつも心がざわめく。
「今の私を見たら、あなたは何と言うのでしょうか?」
その答えは、きっと一生自分にはわからない。《女帝》と呼ばれ、『人の心が読める』とまで謳われた自分でも、彼の心だけは最後まで読めなかったのだから。
時計を見る。――詩音が来るまで、まだ時間があった。
目を閉じ、椅子に深々と座り込む。
待つ時間は嫌いではない。こうして何も考えず、ただただ時が流れるままに過ごすのは気分がいい。
風が頬を撫で、冬の冷たさが肌に触れる。
……いつしか、微睡みへと堕ちて行った――……
◇◆◇◆◇
その日は、酷い雨の日だった。事情によって一人で行動していたために雨に振られ、散々な目に遭っている。
「……運が悪いですね。日頃の行いでしょうか」
叩き付ける雨の中を歩きながら、そんなことを呟いてみる。正直、心当たりがあり過ぎた。両手も身体も、これ以上ないくらいに汚れてしまっている。日頃の行いの悪さが理由と言われれば頷くしかないだろう。
ただ、今行っている戦いだけは善悪の観点では判断し辛い。大義名分があるとはいえ、その根底にあるものは私的な理由なのだから。
「まあ、なるようになるでしょう」
そう軽く結論付ける。悩んだところでろくな答えが出ないのであれば後回しにした方がいい。賽は投げられたのだ。もう《七神将》とも激突したし、藤堂玄十郎とも戦闘を行った。退くことなどできない。
冷たい雨の滴で全身を濡らしながら、天音は道を歩いていく。その途中で、一つの建物が見えた。
「こんな場所に寺院……?」
雨のせいで気付かなかったようだが、道の先には古びた寺院が建っていた。別に宗教など信じていないしどうでもいいのだが、雨露を凌げるのなら十分だ。
門のところまで足早に辿り着くと、周囲を注意深く見渡す。寺院である以上、普通な坊主なり何なりがいるはずだ。更に今は自分が率いる『吉原』が叛乱を行っている最中だ。ここは『吉原』からも近い。僧兵の一人や二人、下手をすれば軍人ぐらいはいそうだが……。
「……無人、ですか」
もう随分長い間手入れがされていないのであろう。木製の腐りかけている門を一瞥しながら呟く。この近隣に人里はない。おそらく、この寺院は訪れる者がいなくなったために閉鎖されたのだ。
宗教の弱点――というより欠点はこれだ。神だの仏だのと言ったところで、結局信者がいなければ成り立たない。人がいなくなれば、神の慈悲も仏の恵みもありはしないのだ。
滑稽なものである。神も仏も、結局人間がいなければ意味などないというのだから。
寺院の中へと入っていく。中は一部が雨漏りしてこそいれ、一夜の宿としては問題なさそうだった。
「朽ちた寺院……まるで人の心のようですね」
ポツリと呟く。今でこそ人は神も仏も信じているが、歴史が進めばおそらく人は神も仏も信じなくなるだろう。己の力を過信し、世界を我がもののように扱うようになっていく。
この寺院のような場所は今後どんどん増えていく事になるだろう。本当に、人とは愚かな生き物だ。
まあ、自分が言えたことではないのだが――……
「――その意見には同意するけど、キミの格好には同意できないな」
不意に聞こえてきた第三者の声に、慌てて振り返る。人の気配はなかったはずだ。それなのに、何故。
声の主は本堂の奥にいるらしい。そちらから、靴の音が響いてくる。
「警戒しなくても別に怪しい者じゃないよ。……ちょっと証明の手段はないけど」
現れたのは、一人の青年だった。苦笑を浮かべた全体的に温和な雰囲気を纏うその少年はこちらを見ると、手に持っていた大きめのタオルを投げ渡してくる。
「……これは?」
「雨宿りだよね? ずぶ濡れだよ? 拭いた方がいい。風邪を引くから」
「よろしいのですか?」
「ずぶ濡れの女性を放置するような神経はしていないよ」
青年の口調は穏やかだが、どこか芯の通ったものがあった。別に断る理由もないので、礼と共にタオルで体を拭き始める。
「……ありがとうございます」
「いえいえ、どういたしまして」
青年はにこやかな笑顔を浮かべたままだ。その笑顔からは今のところ悪意は感じられない。とりあえず悪意があるものではないと判断した。
「僕は少し京都に用があって向かってる途中でね。雨に降られてここに避難してきてたんだよ」
「成程……私も似たようなものです。流石に京都などという遠いところに向かってはいませんが……」
「そっか。なら、一緒に雨が上がるまで待とう。袖擦り合うも他生の縁だからね」
にこやかにそう言った青年が、こちらへ手を差し出してくる。私は戸惑う自分を自覚しながらも、その手を握り返した。
「ええ。奇妙な縁ではありますが」
握ったその手はこちらの手が冷えていたからか……温かかった。
それが、出会いだった。
この時の出会いが正しかったのか、それとも間違いだったのか。それは今でもわからない。
ただ、言えるのは。
――彼に出会えたことを、後悔はしていない。
そう、胸を張れるということだけだ。
◇ ◇ ◇
微睡みから目を覚ます。体を揺り動かされる感覚。目を開けると、生真面目そうな顔つきをした少女がこちらを覗き込んでいた。
「ようやく目を覚まされましたか、義姉上。詩音様がお待ちになられています」
「……おや、氷雨。もうそんな時間ですか?」
姉妹杯を交わした義理の妹――出木氷雨に対し、微笑を浮かべながらそう言葉を返す。氷雨が頷いた。
「義姉上、お疲れですか? お疲れのようでしたら――」
「大丈夫ですよ。少し微睡んでいただけですから」
立ち上がり、白衣を纏いながらそう言葉を返す。新しい軍服――『心』の文字が描かれた漆黒の服もあるにはあるが、やはり白衣の方が落ち着く。昔からずっとこれを着ていたのだから当然だろうが。
天音は詩音に会う準備をしながら、氷雨、と義妹に呼びかける。
「付き添いは誰が?」
「護・アストラーデです。今は席を外しておりますが」
「おや。少年が吉原で遊んでいるのですか?」
「陽の昇っている間、吉原はただの街です。あの男は訓練場で部下たちと共に訓練をしています」
「吉原に来てやることが訓練とは、色気も何もあったものではありませんねぇ」
笑みと共にそんなことを言ってみる。だが、同時にそれは仕方がないことだろうとも思う。彼には想い人がおり、同時にああ見えて一途な人間だ。愛する人間を守るためにこちら側に来るほどなのだから、まず女遊びなどはしないだろう。
もう一人の方については色々と読めない部分が多い上に氷雨と何かがあったらしく吉原へと寄りついて来ないのでわからないが、まあいい。それは追々だ。
「詩音がいるのは客間ですか?」
「はい。それと義姉上、今日は他に予定もございませんので……ごゆっくりお過ごしください」
「ふふっ。そうさせて頂きます。優秀な義妹を持つと楽ですね」
「そう言っていただけると幸いです。……では、私は訓練場に向かいますので」
こちらの言葉にそんな返答を返し、氷雨は一礼と共に立ち去って行った。今日の分の仕事は代わりにやっておく――そういうことだろう。本当によくできた義妹だ。
微笑を口元に浮かべ、客間へと入る。そこではすでに客人が席に着いていた。その少女に対し、天音は微笑を向ける。
「すみませんね、詩音。お待たせてしてしまったようで」
『いえ、先生が忙しいのは知っていますので……。むしろこちらこそ、いつもすみません』
声を発せぬ、齢十の少女――神道詩音はスケッチブックにそんな言葉を懸けながら頭を下げてくる。そんな詩音に対し、天音は苦笑を返した。
「親友の娘の助けになれるのです。断る理由はありませんよ」
『ありがとうございます』
「どういたしまして」
一礼に対し、微笑と共にそう言葉を返す。本当に礼儀正しい子だ。木枯と虎徹――あの二人に託したのは正しかったのだと、そう思わせてくれる。
感謝と、同時に少しの寂寥感を感じた。しかしそれは言っても仕方がないことだ。故に天音は詩音の正面に座りながらさて、と言葉を紡ぐ。
「今日は何の講義をしましょうか。前回は何でしたか……」
『前回は『宗教』の形態についてでした』
「ふむ。ならば今日はその復習を含めて少し詳しくやりましょうか。現在ガリアへ派遣されている第九次〝レコンキスタ〟と、イタリアを中心に起こっている宗教運動……その辺の理解も含めて」
『はい』
詩音が頷きを返してくる。彼女にこうして世界の情勢を絡めた勉強を教えるのは、こちらに帰ってきた三か月前から始めたことだ。詩音はその立場から学校にも通い難く、更に武の才能のみならず頭脳についても相当なものがあった。それを聞いた時天音は『血』というものを感じたが……それを含め、天音が色々と教えることとしたのだ。
もともと国を出る前から似たようなことをしていたし、『吉原』でも反乱を起こす前、起こした後も幼い子供たちに教育はしていたのでこの辺りはお手の物だ。
……まあ、詩音に教えていることがこの国の大人でも理解しているかどうか怪しいような事柄であることはどうかと思うが。
「さて、それではまず『聖教』について――……」
こちらの言葉に、真剣な表情で頷く詩音。その表情を見ると、思わず微笑が零れてしまう。
生涯で唯一愛し、あの人のためならば全てを――文字通り自分自身の人生を捨ててもいいとさえ思えた人。
その人との間にできた子は、本当に立派になっている。
それが、ただただ嬉しくて。
口元から、微笑が消えないでいた――……
◇◆◇◆◇
服を脱ぎ、体にタオルを巻き付ける。肌寒いが、ずぶ濡れの服を着ているよりはマシだと割り切った。服を着たままでは間違いなく風邪を引く。それは避けたい。
どこかで乾かさなければ……そう思っていると、煙が目に入った。見れば、本堂の外、屋根の下で青年がたき火をしているらしい。
丁度いい。そう思い、青年のところへ歩いていく。青年は振り返ると――急に顔を真っ赤にした。
「ちょっ、何で服を脱いでるの!?」
何かと思えば、こちらの姿に顔を赤くしていたようだ。そんな青年の態度に、思わず苦笑を零してしまう。
「このずぶ濡れの服を着たままでは、折角タオルを頂いたのに風邪を引くところでしたので……たき火、私も当たってもいいですか?」
「そ、それは勿論いいけど……ってそうじゃなくて! さ、寒くないの!?」
「あのまま濡れた服を着ていた方が寒いです。……隣、失礼しますね」
動揺する青年の隣へ腰を下ろす。人肌の温かさを欲しての行動だったのだが、それが青年にとっては想定外のものだったらしく、青年は飛び退くようにこちらから離れた。
「ちょっ、何してるの!?」
「何、と言われても。やはり肌寒いので、隣で温まろうとしただけですが……駄目でしたか?」
「えっ、いや、その……キミは女の子で、僕は男なんだよ? あまりそういうことは……」
「この状況ですし。それとも、私を襲ったりするおつもりですか?」
「そんなことするはずがない!」
「なら問題ないではありませんか」
力強い青年の言葉に、静かにそう返答する。青年は言葉を詰まらせたが、結局折れて隣に座ってきた。
しばらく、無言の時が流れる。パチパチと、薪が燃える音だけが鳴り響く。その中で、呟くように私は言葉を紡いだ。
「……温かいですね」
「……そうだね」
青年の返答からは動揺が消えていた。おそらく彼の中である程度の整理をつけたのだろう。
動揺する姿をもう少し見てみたかった気はするが……まあ、別にいい。
揺らめく炎を眺める。炎の温かさと、人肌の温かさ。この二つが、体に染みる。
「……何故、京都に?」
気が付けば、そんな問いを口にしていた。こういう場所においては暗黙のルールとして互いの素性について探りを入れてはいけないとはわかっている。実際、青年の素性について聞く気はなかったのだが……気付けば口にしてしまっていた。
――らしくない。
内心でそんなことを呟き、気にしないで欲しいという旨を伝えようとする。だが、こちらが否定の言葉を口にする前に青年が口を開いていた。
「ある人に、呼ばれてね」
「……ある人?」
「うん。ある人。……本当はね、関わるつもりはなかったんだ。関係がないわけじゃない。むしろ、深く繋がってしまってる。でも、だからこそ関わるつもりはなかったんだけどね」
苦笑と共に、そんなことを言う青年。言葉の意味は解らない。ただわかるのは、彼が彼の思うように生きることができていないということだけ。
思うように生きることができない――その言い回しに、自分自身で苦笑する。それは正に今の自分だ。
どうにもならない場所で足掻こうとして、その結果としてもう退けぬ場所にまで来てしまった自分……そのままだ。
「断ることは……できないのですか?」
「できないわけじゃないと思う。けれど……何て言うのかな。僕が会いに行く人は口が上手くてね。多分、丸め込まれる」
「わかっているのに、ですか?」
「うん。そういう人なんだ。尊敬はしているし、恩もある。けれど、時々空恐ろしくなる。……そんな人だよ」
「…………」
青年の言葉に対し、無言を返す。話を振っておいて無言で返すのが失礼だとはわかっているし、普段の自分ならすぐに適当な文句が口を衝いて出るような場面であることは間違いない。
けれど……できなかった。
何故か、この青年に対してはいつものような文言を口にできない。自分の言葉で応えなければと思ってしまう。
ただ、その言葉が浮かばないのだが――
「キミは、どうしてこんなところに?」
ずっと黙っているこちらをどう思ったのか。不意に青年がそんなことを聞いてきた。青年の表情は見えない。見ていない。ただ、揺らめく炎を見ている。
ぼんやりとした視界。その中で、私は、と言葉を紡ぐ。
「少し、仕事で失敗しまして。部下もいたのですが、彼女たちは先に帰し……私だけは別行動をとっているところです」
「失敗?」
「思っていたよりも相手がしたたかだった……そんなところです」
戦いが始まって結構な時間が経つが、その中で討ち取れた《七神将》はたったの一人だ。しかも、その直後に《剣聖》と交戦……正直、旗色は悪い。今のところ沈黙している『神道家』が本格的に参戦してきた場合、一気に潰される可能性さえある。
最悪の場合、大日本帝国の誇る三強――《剣聖》、《極東無双》、《鬼神》の三人を相手取ることにさえなりそうだ。本当に頭が痛い。
本来なら、こんなことになる前に交渉事へ持ち込むつもりだったのだが……。
「予定通りいくとも思っていませんでしたが、ここまで予定から外れると……どうも。来るものがありまして」
「……そっか。でも、だからといって一人でこんなところを歩いているなんて危ないよ? 白衣を着てるってことは医者かい? 医者の不養生なんて実際に起こったら笑い話にもならないよ?」
「医者……まあ、そんな側面もあります。本業ではありませんが……」
医者としての技術はあるが、それだけだ。これは必要だから身に着けたことであり、周囲の者たちからは『先生』などとも呼ばれているが……本質は違う。
本当の自分はどうしようもなく薄汚れた――売女なのだ。
「……本当は、私の正体にも気が付いているんじゃありませんか?」
「……正体?」
青年が疑問の声を上げる。その中で、私は静かに言葉を紡いだ。
「この国の情勢と、この場所……私が『吉原』の人間であることぐらい、わかるはずですよ」
顔は見ない。見てはいけない。
彼がどんな表情をしているか……どうしてか、見たくなかった。
「『吉原』の女がどういうものか、知らないなどとは言わないでしょう?……汚れているんですよ、私は。この体は、どうしようもなく汚れているんです。この身体は……」
思わず身を小さくしてしまう。どうしてだろうか。何故、こんなことを口にしているのだろうか。普段の自分なら、決してこんな弱音は吐かないはずなのに。
ただ、言葉は止まらない。
止まらないままに――紡がれていく。
「薄汚れた娼婦。それが私です。……たとえ襲われたとして、変わりませんよ。まただ、とそう思うだけです」
貞操などという言葉は、とっくの昔に忘れてしまった。
奴隷として生きてきた過去。それは消すことのできないモノで、だからこそ今も尚こうして自分を責め苛む。
「気持ち悪いでしょう? 自分自身でさえ、どれだけの数の男に抱かれたかも覚えていない女など」
自嘲の笑いと共に、そう呟く。見知らぬ他人であり、この場だけの関係だからだろう。普段じゃ決して口にすることのできない弱音が、次々と出てくる。
自分を信じてくれる彼女たちの前では決して紡げない言葉が、いくつもいくつも。
どうして、と。
そんな、言葉を――
「…………えっ?」
不意に感じたのは、全身を包む温かさだった。抱き締められている――そう気付くのに、時間はかからない。
全身に感じる温かさ。そして、その温かさをくれた相手は静かに告げる。
「――綺麗だよ」
一体、何度男から紡がれたかわからないありきたりなその台詞。
聞き飽きているはずのその言葉はしかし……何故か、胸にしみ込んだ。
「汚くなんかないよ。薄汚れてもいない。キミは――綺麗だよ」
「……慰めて、くれるのですか」
「うん、そうだね。そうできたらと思う」
彼の真っ直ぐな台詞に思わず苦笑する。女心のわからない男だ。
「こういう時は、嘘でも『違う』と言うものですよ?」
「……ごめん」
「謝らないでください。……ねぇ、一つだけお願いしてもいいですか?」
彼の首筋へと、手を伸ばし。
触れ合うほどの距離から、彼を見つめる。
「これも娼婦の技術かもしれません。同情を誘って抱いてもらう……もうどこまでが本心で、どこまでが違うのかさえわからなくなってしまいました。それでも、それでも私を抱いてくれますか?」
「――僕で、いいのなら」
唇が、ゆっくりと重なる。
今まで感じたことのないくらいに、それは温かなものだった。
◇ ◇ ◇
「――つまり、宗教というのは結果として一つの経営組織と考えることもできるわけです。そもそも『寄付』という行為によって名前だけで資金を集められるのですから通常の組織よりも遥かに安定度は高いでしょうね」
『それが『宗教団体のメリット』ということですか?』
「その団体におけるトップ――教祖次第ではありますがね。資金ももちろん重要ですが、それよりも『信者』を重要視する教祖もいますし」
齢十の少女に対してする話ではない――そんなことを心の片隅で思いながらも、天音は講義を止めるつもりはない。詩音はまだ幼いが、しかし『神道家』の跡取りでもある。次に大きな戦いが起これば、十という若さであろうと初陣を飾ることとなるだろう。
無知とは罪ではない。だがそれは罪悪ではない代わりに怠慢である。
戦場に生きていると度々思い知らされるのだが、『知識』というのは何よりも大事だ。無論、戦闘力という意味での『強さ』も重要ではある。しかし、それはごく一部の例外を除けば結局『個人が生き残るための手段』に過ぎないのだ。
それに対し、知識とは個人ではなく集団を生き残らせる術となる。取れる手段があったとして、それを打てる人間が撃つべき時に打てなければ意味がないのだ。
……この子を死なせることだけは、絶対にしません。
それは己の信念にさえ自分自身で背き、寄る辺の全てを喪いかけた英雄の誓い。
例え一生母と呼ばれることが無かろうと。この子がそれを知った時、こちらを憎むことがあろうと。
それでも、出木天音は神道詩音の母親だから。
「……宗教というのはね、詩音。随分と楽なのですよ。教祖が右を向けと言ったなら右を向く。そうすれば、まるで自分が神様とやらに選ばれた特別な人間のように思えてくる。人間とは弱い生物です。だからこそ『特別』になろうとする。宗教というのはつまり、『信じるだけで特別にしてくれる場所』なんですよ」
かなり厳しい言い回しだが、間違ったことは言っていないつもりだ。宗教というのは根本的に人が『救い』を求めて信じるものである。そして人は己を『特別』だと思いたい生物だ。新興宗教というのは全てとは言わないがそんな人の弱い部分を衝いてくる。
だからこそ面倒なのだ。人は『信じたい』からそれを信じるのであり、信じたいという願望のせいで裏側が見えたとしても見なかったことにしてしまう。大日本帝国でもその手の話については事例がいくつもあり、天音自身も『吉原』の女たちがその被害に遭ったとして何度か事件解決に参加している。
「ただ勘違いしないで欲しいのは、私自身は別に『宗教』という概念そのものを否定するつもりはないということです。例えば私や……あなたの両親である虎徹に木枯。暁などは困難にぶつかっても自分自身の力でどうにかしようとします。しかし、全ての人間にそんなことができるわけではない。わかるでしょう?」
『何となくですが』
「別に深く理解する必要はありませんよ。そんな考えもある、というぐらいで十分です。……さて、それでは以上の点を踏まえて現在欧州で荒れに荒れている『聖教』の話に入りましょうか」
欧州地図と世界地図を引っ張り出しながらそう言葉を紡ぐ。前置きがかなり長くなってしまったが、元々これが本題だ。さっさとこちらの話を進めなければ。
「まず『聖教』というものが約二千年前に産まれたとある男の教えを元にしているとされています。『汝、隣人を愛せ』など多くの教えがあるわけですが……まあこれは正直そこまで重要ではないので今日は省略します。大事なのはこの『聖教』が現在の情勢においてどういった立ち位置にいるかですからね」
『『十字軍』ですよね?』
スケッチブックにその文字を書きながら詩音が問いかけてくる。天音は頷いた。
「十字軍は重要な単語ですね。一言で言えば宗教の軍隊なのですが……その形に問題があります」
『問題ですか?』
「そうです。この十字軍はEU諸国の軍隊――イギリスは『清教』といって違う形をとっていますから例外なのですが――によって構成されています。つまり、ある意味では国家連合軍なわけです」
『国連軍、ということですか?』
国連軍――それは合衆国アメリカの大統領が提唱した『国際連盟』より派遣される軍隊の名称だ。とはいっても国際連盟そのものが抑止力を持たない上、提唱した合衆国アメリカが議会の反対によって参加していないことや、事実上聖歌最強国家である大日本帝国が参加していないために意味を持たない機関でもある。
国連軍とはその国際連盟に参加している国々によって構成されるものなのだが、実際にそれが組織されたことはなく、おそらく今後もないであろうことが想像できる。
十字軍は確かにEU諸国の連合軍であるし、国際連盟の主要国はEU諸国であることからある意味で詩音の言葉は間違いではない。だが、やはり真実の面においては大きな間違いなのだ。
「そういう認識が完全な間違いとは言いませんが……しかし、十字軍は国連軍とは別物です。何故なら彼らは『宗教』による軍隊であり、同時に『異端狩り』を行う軍隊だからです」
そう、この部分が一番重要であり、それと同時に厄介でもある。
「戦争にはルールがあり、守られているかどうかは別として条約もあります。しかし、十字軍には守るべき規律などない。彼らは邪教の信者たちを狩っているのであり、邪教の教徒は彼らにとって人間ではないからです」
詩音が絶句したような表情を浮かべる。少々、刺激が強かったか。
しかしこれが『聖教』の真実だ。彼らにとって異教徒とは『人間ではない存在』である。家畜に等しいその存在に対し、どうして慈悲など抱けるというのか。
「流石に各国の兵士たち全てがそういう考えではないと思いますが……指揮を執る人間がそういう考え方をしているのは間違いありません。そうなると倫理も何もありませんよ」
おそらくガリア連合と十字軍の戦闘は本当の意味で地獄の光景だろう。どちらも相手を殲滅するつもりで動いており、それ故に躊躇がない。後方でその状況を静観している虎徹や精霊王国イギリス、合衆国アメリカの判断は至極正しい。わざわざそんな泥沼に足を突っ込む意味がない。
十字軍が侵攻を開始してから三か月。未だにガリアの三割をようやく制圧できた程度だというのだから、戦況がどれだけ泥沼化しているかは想像に難くない。
「まあ、十字軍についてはこの辺にしておきましょう。歴史まで解説するとなると一日かかります。流石にそれは手間ですしね。……さて、では次に奥州で主流の『聖教』とイギリスが宗教革命によって打ち立てた『清教』の違いですが――」
精霊王国イギリス。地図に描かれたその国を指し示しつつ、天音は言葉を紡ぐ。イギリスを含め、欧州は何度も訪れている場所だ。紙の上の知識以外にも使える知識はある。
そうして、言葉を語ろうとした瞬間。
――ガラスを叩き割るような、凄まじい音が響いた。二人は反射的に顔を上げる。
「……何事でしょうか?」
呟き、天音は立ち上がる。氷雨ではない。彼女はこの後訓練場に向かうと言っていた。今頃護辺りと本気で訓練でもしているだろう。あれも大概な戦闘狂だ。
ならば誰か――厄介事の気配がすると思いながらも、天音は入口まで歩いていく。その後を詩音がついて行く形だ。
天音は吉原の頭領であると同時に《七神将》の一角を預かるほどの人物である。ならばその住まいも豪勢なものとなると思いがちだが……実際の彼女は非常に質素な家に住んでいる。
曰く、『どうせいる時間の方が短いのだから豪奢である意味がない』とのこと。上に立つ者が豪奢な振る舞いをするのにも相応の意味があるのだが、彼女にとってはどうでもいいことだ。そういうことは他の人間がやればいいと思っている。
そして、決して広くない廊下を歩き、扉に辿り着いた瞬間。
「……あなたは」
天音は、一人の女性が玄関に座り込んでいるのを目撃した。その女性は目に涙を一杯に溜め込み、頬を腫らした状態でこちらを見る。同時に。
「……せ…ん……先生……」
その女性の側に屈み込んだ天音を『先生』と呼び、同時にその瞳から大粒の涙が溢れ出す。
「先生! 先生ぃぃっっ! 私っ、私ぃ……!」
「落ち着きなさい。どうしたというのです?」
目の前の女性の頭を軽く撫でながら、そう言葉を返す。吉原では『困ったことがあれば天音か氷雨に頼ればいい』というルールがある。今回もそれだろう。ここを去る前も、戻ってきてからも、多くの人に頼られてきた。
ただ、今回は少々厄介そうではあるが……。
……勉強はここまででしょうかね。
内心でそんな言葉を呟きながら、天音は優しくその女性を抱き締めた。
◇◆◇◆◇
彼に寄り添うようにして座りながら、私はぼんやりと外を眺めていた。夜になっても雨の勢いは変わらず、叩き付けるような雨が降り続いている。
「はい。熱いから気を付けてね」
「……ありがとうございます」
熱が残る身体と、そのせいで微妙にぼやけている思考の中で差し出された温かいインスタントスープを受け取る。なるで自分の身体ではないような、微妙な感覚が調子を狂わせる。
「大丈夫?」
隣に寄り添うようにして座る彼が、優しげな言葉を紡いでくれる。私は、はい、と頷いた。
そして、沈黙が流れる。染みるような温かさだけが手から伝わり、同時にそれだけが『生きている』ことを実感させてくれる。
どれくらいそうして黙り込んでいたのか。気が付けば、私の方から言葉を紡いでいた。
「……幻滅、したでしょう? こんな不浄な女……」
「そんなことないよ」
自嘲するように言った私の言葉。それに対し、優しげで、それでいて力強い言葉が返ってきた。思わず、その顔を見つめてしまう。
「キミは綺麗だ」
ありきたりな台詞だ。正直、何度そんな言葉を紡がれたかはわからない。
けれど――嬉しかった。
思わず、涙が零れる程に。
「――ありがとう、ございます」
涙を見られないように、目を伏せる。寄り添うように、体を預ける。
心地良い微睡みに落ちるまで、私はずっとそうしていた。
その日、私は久し振りに夢を見た。
本当に幸福な、夢を――……
◇ ◇ ◇
泣きながらここに来た理由を語る女性と、それを厳しい表情で聞く天音。そんな二人の様子を詩音はぼんやりと眺めていたのだが、不意に天音が立ち上がり、こちらを見た。
「すみません、詩音。勉強会はここまでです。あなたもついて来てください」
その言葉に詩音は頷く。ぼんやりとはいえ話は聞いていた。天音はこの女性を助けるつもりだろう。
天音は女性に手を貸すと、さあ、と言ってその体を抱き起した。
「とりあえずあなたの家に行きましょう。車を出しますので、案内を」
白衣を女性に着せながら、テキパキと動き始める天音。詩音も靴を履くと、その二人の後をついて行く。
天音が車――軍用車だ――を出してくると、詩音は女性と一緒に後部座席へと座った。女性はずっと俯いている。何かを言うべきなのかと思ったが、言葉を発することができない自分には今の女性に言葉を届けられないと思い、断念した。
「距離は近いですね。行きますよ」
エンジンを稼働させ、天音がアクセルを踏み込む。一見すると荒い運転だが、何度も天音の運転する車に乗っている詩音にはわかる。かなりの安全運転だ。
おそらく、女性を気遣ってのことだろう。本当に優しい人だな、と詩音は内心で呟いた。
しばらくすると、女性が言っていた場所に着いた。小さな木造のアパートだ。天音は車から降りると、無言のまま階段を昇って行く。詩音は女性の側を歩きながらその背を追った。
そして、女性が言っていた部屋の前に着く。その扉を見て、詩音は思わず眉をひそめる。扉の前に書かれた文字や、貼られた紙。その多くが、借金の催促状だった。
扉を開け、天音が部屋に入っていく。その後に続くようにして詩音が中に入ると、そこにはへたり込むように座り込む男の姿。だらしない服装の男に、思わず表情が険しくなる。
「入りますよ」
いつも自分に向かってかけてくれる優しげな口調とは全く違う、冷たさを纏った声色で天音が男に声をかけた。男は天音の言葉に驚いた調子で顔を上げる。
「な、何だよテメェ」
「何だ、と言われましても。この子に助けを求められたしがない女ですが」
「はぁ!? テメェ紅里!! どういうつもりだよ!?」
紅里、というのがこの女性の名前なのだろう。男が声を荒げた瞬間、女性が体を怯えたように竦ませる。ふう、という息を吐く音が聞こえた。
「やかましいですねぇ……ぎゃあぎゃあと。私は別にどうでもいいんですよあなたの事なんて。借金で追い込まれていようが薬をやろうが他に女を作ろうが人殺しだろうがね。しかし、です。――そんなクズであるあなたの側にいる女を……殴るな」
「…………ッ!! ふざけんな!! 関係ねぇだろうが!!」
男が激昂し、天音の胸倉を掴む。思わず飛び出し出しそうになったが、それを天音が手で制した。
「まあ、確かにそうでしょうね」
平然と天音は言い、彼女はそのまま詩音たちの方を振り返る。
「詩音、私は少々この大馬鹿者と下で話し合いをしてくるので……ここでその子と一緒に待っていていただけますか?」
「はあっ!? 何でテメェなんかと……!」
男が詩音を見る。だが、齢十の少女の姿を見るとその言葉を詰まらせた。その男に対し、天音が静かに告げる。
「――子供のいる前でする話でもないでしょう?」
男は言葉を詰まらせたまま、天音と共に外へ出て行く。そして二人が出て行くと共に扉が閉まると、女性がその場に座り込んだ。膝を抱え、俯いた状態だ。
詩音は少し考えた後、その女性の隣へと座り込んだ。女性がこちらへと横目で視線を送ってくる。そんな女性に対し、詩音はスケッチブックの言葉を向けた。
『あの男の人が、好きなんですか?』
「……あなた、どうして……」
『声が出ないので。見苦しいと思いますが』
このやり取りも久し振りだ――そんなことを思いながら、詩音はスケッチブックを女性に見せる。女性は、そっか、と呟いた。
『それで、どうなのですか?』
「……わかんない」
返ってきた返答は、そんなものだった。詩音は首を傾げる。好きだから一緒にいるのではないのだろうか?
そんな詩音の疑問が伝わったのだろう。女性は、でも、と呟くように言葉を紡いだ。
「多分……そうなんだと思う」
蚊の鳴くような声で。
震える声で、女性はそう呟いた。
そして、沈黙。その中で、女性が詩音にねぇ、と言葉を紡いだ。
「もしかして……先生の娘さん?」
『いえ、教え子です』
両親のことは言うべきではないと判断した。言ってもいいが、メリットがない。下手をすれば驚かれるどころでは済まないだろう。
まあ、天音のところにその身一つで助けを求めに来るぐらいだから、存外驚かないのかもしれないが。
「私、ね。先生と一度しかお話したことないんだ。それも先生がママに仕事について話をしに来た時に他の子と一緒に紹介されただけで……、だから、さ。先生、私のこと名前で呼ばないでしょ?」
その笑顔は、見ているこっちが悲しくなるほどにボロボロだった。
馬鹿だよねぇ、と女性は言う。
「私、本当に馬鹿だ。住所もね、本当に困ったら……どうにもならなくなったら、ってママから聞いたの。先生は自分のことを話す人じゃないし……。私、私ね、頼れる人がいなかったんだ。……一度挨拶しただけの人にしか頼れないなんて、本当に馬鹿だよねぇ……」
ごめんね、と女性はもう一度謝ってくる。それが誰に対しての謝罪なのかは……わからなかった。
「キミ、さ。どうして先生がここに連れて来たか……わかる?」
その言葉に、どうしてだろう、と思った。あの男と話をするだけならば、自分は必要ないはずなのに。
女性は、それはね、と呟くように言葉を紡ぐ。
「あのまま置いていかれたら……きっと、気分は最悪だったでしょ? それにね、図々しいんだけど……私もね、今、一人じゃなくて良かったって思ってる」
成程、と思った。確かにあそこに置いていかれていたら、自分は決していい気分ではなかっただろう。
改めて、天音の――先生の凄さを思い知った。
「ありがとう、ね」
呟くように女性が言い、彼女は膝を抱えて顔を埋める。その言葉が今度は自分に向けられたものであるということは、何となくわかった。
ガチャリと、扉が開く音が響く。見ると、そこには男を引きずるようにして入って来る天音の姿があった。
「『話し合い』は終わりましたよ」
男の顔には明らかに打撲の痕があり、身体にも服の隙間から痣が見える男をこちらへ放り投げながら天音が言う。天音自身は無傷で、一方的な『話し合い』であったことは容易に理解できた。
「全く、くだらない大人ですね」
壁に寄りかかるようにして座り込む男に、天音が冷たく言い放つ。
「子供にあまりみっともない大人の姿を見せないでください。……くだらない」
言い捨てる天音。男は唸るような声を上げ、右手をその顔に当てた。呻き声のようなものが聞こえてくる。
「ま、正樹……」
女性が、ゆっくりと男の方に近付く。
「正樹ぃ……」
「うっ、ううっ……!」
男が女性を抱き寄せ、女性は男を抱き締めた。その光景を見、ふう、と天音が息を吐く。
「それでは、私たちは帰ります。行きましょう詩音」
こちらの手を握りながら、この場を立ち去ろうとする天音。詩音は一度、二人に視線を向け……天音の隣を歩いて部屋を出た。
車に乗り込む二人。今度は詩音が助手席に座る形だ。シートベルトを締めながら、詩音は天音へと問いかける。
『あの二人はどうなるのでしょうか?』
「さあ、どうでしょう。とりあえず男の方は更正しないでしょうねぇ」
どういう意味かわからず、詩音は首を傾げる。天音に説教されたのだ。これからは真っ当に生きていくのではないのだろうか?
そんな詩音の考えを読み取ったのだろう。天音は微笑を浮かべ、エンジンに火を入れながら言葉を紡いだ。
「男が馬鹿であるのはよく言われることですが、実を言うと女も大概愚か者ですからね。……大人になればわかりますよ、あなたにも」
そうなのだろうか、と思った。ただ、言えるのは。
――出木天音という人は、間違いなく尊敬に値する人間だということだけだった。
◇◆◇◆◇
結局、彼の名を聞くことはしなかった。名を聞けば、こちらも名乗らざるを得ないからだ。
ただでさえ自分は『忍』に『神道家』の襲撃を依頼した身。単身でいるところを知られれば、厄介なことになってしまう。
それ故に、互い名を知らぬままその場は別れた。――再会の約束と共に。
「また会えるといいですね」
「信じていれば会えるよ。僕は信じる」
最後まで、心を揺さぶる人だと思った。本当に……厄介な人だ。
「じゃあ、僕は行くよ」
「本当に歩いて京都まで? どれだけ時間がかかるか……」
「少し、時間が必要でね。ちょっと考えなくちゃいけないことが増えたから」
苦笑しながらそんなことを言う青年。全く、と私も息を吐いた。
「道中、お気を付けて」
「僕よりもキミだよ。女の子なんだから。本当に送って行かなくてもいいの?」
「『吉原』まではそう距離もありませんから。大丈夫ですよ」
そう、雨で足止めされていただけで『吉原』まではそう距離はない。女の足でも今日中には着けるだろう。
青年はそっか、と頷くと、それじゃあ、と荷物を背負い直しながら言葉を紡いだ。
「僕は行くよ。またね」
「ええ、また」
商売の上で何度も紡いできたその言葉。しかし、今度ばかりは仕事のそれではなく……本心からのものだった。
そして、青年がこちらに背を向ける。それと同時に。
「ああそうだ。一つだけ、今度会う時までに直しておいてほしいことがあるんだ」
「……何でしょう?」
眉をひそめる。いきなり何だろうか。一体、何を直せと――
「――無理に笑う必要はないよ。笑いたい時にだけ、笑えばいい」
ドクン、と心臓が高鳴った。言葉を紡ごうとして、声が出ないことに気付く。
青年はその言葉だけを残し、立ち去って行く。私はその背中が見えなくなるまで呆然とその背を見送り、そして、思い出したように呟いた。
「……『笑え』と言われ続けた私に『笑うな』とは……」
どんな時も笑顔を浮かべるようにしてきた。それが『娼婦』として生き残る道であり、同時に自分自身の心を保つために必要なことだったから。
なのに、あの青年は――
「……本当に、また会いたくなりましたよ」
そう呟いた、私の表情は。
きっと、どうしようもないくらいに冷たかった。
◇ ◇ ◇
詩音と護を送り出し、一人、天音は自室に佇む。
月明かりに照らされた室内。そこで彼女は彼女の想い人たる男が写った写真立てを手に取った。
「ねぇ、清心」
囁くように呟く。きっと今の表情は酷いものだ。だけど、これでいい。
彼の前では、造った笑顔はしないと決めたのだから。
「私たちの子供は……詩音は、本当に立派になりました」
だから、と天音は言う。
だからこそ――
「もうあの子は一人で大丈夫。私は、あなたに誓ったことを果たします」
彼を殺した、あの日に。
彼の亡骸へと誓った、その言葉を。
「――あの子の未来は。必ず私が守ります」
だから、待っていてくださいと。
静かな表情で、《女帝》と呼ばれる女は呟いた。
というわけで、何気にほとんど語られていなかった詩音と天音の絡みと、天音と彼女が愛した男、神道清心の物語です。
天音と詩音のリクエストを頂いたので書いてみましたが……あの二人のことを語るにおいて、清心は外せないと。
とりあえず、天音と詩音の距離は微妙な感じです。ちなみに天音は詩音が生まれた時に訪れて以来、一度も『神道家』を訪れてはいません。虎徹との約束を守っている形ですね。だから彼女にとっては詩音が来てくれる時が一番うれしい時間だったりします。
ちなみに時間軸はエピローグ直後。一つ前の話のほぼ直前です。
さてさて、感想やご意見お待ちしております。リクエストもあれば是非。
次は《七神将》に加わり、九州地方を任された護とソラの二人を描くつもりです。
ありがとうございました!!
……クリスマス?
ふっ、会社説明会ですが何か?