第十四話 救世の形
アリス・クラフトマンは、焦る気持ちを必死に抑え込んでいた。今頃、あの絶という女性と共に護が朱里の救出に動いているはずだ。その成否について知る術は現時点では存在しない。故に信じるしかなく、信じているからこそ不安になる。
ヴァチカン市国中央広場――世界最大宗派『聖教』の総本山とも呼べるその場所に、たった二人で乗り込もうというのだ。事前連絡をしたソフィアからは、「死ぬなよ」という言葉を貰ったが……正直、そんな簡単な言葉で済ませていいものではないだろう。
まあ、いずれにせよソフィアは護とアルビナ、この二人と電話越しに何やら言葉を交わし、二人はそれに納得していたので気にすることではないのだと判断する。
「咲夜さん……!」
今の彼女が気にすべきなのは、あの英雄が「頼む」という一言を自分に残し、任せてくれた一人の少女のこと。
自惚れてもいいのなら、『友達』だと……そう思える、その相手。
「あそこです……!」
咲夜がいる病室の扉が見えたところで、アリスは声を上げる。周囲の人たちがこちらを見て怪訝な表情を浮かべているが、気にしている余裕はない。
「ッ、待ちなお嬢ちゃん」
だが、扉の前に辿り着く前にアルビナがアリスに制止を呼びかけた。ヒスイは変わらずの無言と無表情を浮かべており、一歩後ろをついて来ている。
アリスはアルビナの言葉を聞くと同時に足を止める。そのまま咲夜の病室の前にいる一人の男性――白衣を纏っていることから、おそらく医者なのであろう男へ視線を向けた。医者の方もこちらに気付き、視線を向けてくる。
「……キミは、朱里さんと一緒にいた」
ポツリと、何かを確認するように医者の男が呟いた。アリスは拳を強く握り締めると、震える声で言葉を紡ぐ。
「どいて、ください」
たったそれだけの言葉を絞り出すのに、凄まじい力と勇気が必要だった。そんなアリスの様子をどう見て取ったのか、医者の男はゆっくりと頷く。
「……元より、邪魔をするつもりはありません。咲夜さんに付けられていた装置は外しました。今の彼女は、病院から連れ出すことができます」
「どういう、ことですか?」
「咲夜さんを連れ出しに来たのでしょう?」
アリスの言葉に、医者はそう応じる。アリスは、はい、と頷いた。
「……止めますか?」
自分たちがしようとしていることの意味を理解しているからこそ、アリスの口からはそんな言葉が漏れた。咲夜・アスリエル――『聖教』が中心であるこの国において、最悪の反逆者とされた『異端者』朱里・アスリエルの妹。朱里意外に身寄りのない彼女は、本来なら彼女もまた『異端』と呼ばれてもおかしくはないのだ。
そんな咲夜の病室へと向かう目的があるとすれば、二つしかない。一つは朱里と同じ『異端』として彼女を捕らえに来た場合。しかし、これはまずありえない。そもそもそのつもりがあるのであれば、朱里を連行した際に咲夜も連行したはずだ。
そしてもう一つ。それが、咲夜を救出しに来たという目的。
朱里・アスリエルは本人が思っている以上に民からの信頼は厚い。そういう行動に出る者が現れることは、予測できない事態ではなかった。
もっとも、来た人間が僅か三人であり、それがほとんど他国の者だということには医者も驚いただろうが。
そんな風に多くの意味を込めたアリスの問いかけに対し、医者はゆっくりと首を左右に振った。
「止める理由も、意味もない。……私はもう、医者ではないのだ」
「どういう意味さね?」
「では、問おう。医者とは何だ? そうだ。命を救うことを使命とする存在だ。だがね、私は私にとっての患者を救わなかったのだよ」
そう言って、病室へと視線を向ける医者。その医者の様子を見て取り、アルビナが眉をひそめた。
「……ふん。腐った国ってのはどうしようもないね」
「……私には、子がおりました。妻に先立たれ、どうにか育ててきた息子です。あの子の命を盾にされては、逆らうことなどできなかった――……」
拳を握り締め、呟くように医者が言う。アリスが、ぽつりと呟いた。
「……いた……?」
「二年前に、病でこの世を去りました。その葬儀には、朱里さんも参列して下さって……私は、私は、本当に何をしていたのか。咲夜さんがここへ運び込まれた日。あの日、私が医者としての使命を果たしていれば。そうしていれば。そうすることさえできていれば! 彼女は今頃、陽の当たる場所に立っていたのに!!」
それは、医者としての信念を捻じ曲げられ、常に迷い続けてきた男の絶叫。
この医者が、朱里や咲夜とどういう関係にあったのかはわからない。しかし、そんな彼の想いも理由も、今は知ることさえ許されない。
「……よくある話さね。特に《赤獅子》の力は強大だ。飼い犬――いや、獅子か。その首に鈴を着けておきたい気持ちもよくわかる。そこの病室にいる少女は『首輪』であり、あんたが『鈴』だった――そういうことだろう?」
アルビナのそんな問いかけに、医者はゆっくりと頷いた。ここまでの言葉を並べられれば、どういう意味を持っての会話なのかは咲夜にもわかる。
――人質。
おそらく、咲夜の病気は本来なら治せるレベルの病だったのだ。しかし、朱里が――《赤獅子》が持つ、当時からそのスペックのすさまじさだけは認知されていた神将騎〈ブラッディペイン〉を扱える者を手放さないために、彼女の病を根本的に治癒することをしなかった。
その結果が、これだ。
この、どうしようもない……現実。
「そんな……ことって」
ポツリと、アリスが呟く。そのアリスに向かって、不意に医者は手に持っていた資料を差し出した。
「咲夜さんのカルテだ。私には、私のような人間にはもうどうすることもできないモノ。……キミに、託そうと思う」
――どうして、とアリスは思った。
自分がシベリア人であることに、この医者は気付いているはずだ。それも、左腕を分厚い手袋で覆い、欧州ではまず見かけない真っ白な髪をした自分を、不審に思わないはずがない。そもそもこの場にはアルビナがいるというのに。
だが、医者の瞳は真剣そのものだった。故に、アリスはおずおずとそのカルテを受け取る。
「――ありがとう」
まるで重い荷物から解放されたかのように、医者は呟いた。どう答えていいかわからず、黙り込むアリス。その背に、軽く掌が当てられた。
「行くよ、お嬢ちゃん。坊やもだ。あんたたちには時間がない。そうだろう?」
「は、はい」
アルビナの言葉に、どうにか頷く。そのまま、アリスは病室の扉を開けた。
そこにいるのは、一人の少女。その少女は全てを理解していたのだろう。車椅子に座り、小さな――年頃の少女とは思えないほどに小さなバックを一つだけ抱えている。
「……兄様は、来て下さらないのですね」
「大佐は、私の信頼する人が助けに行っています。だから、咲夜さん」
右手を差し出し、俯き気味な少女へ。
かつてあの人がそうしてくれたように、アリスは優しい言葉を紡いだ。
「――行きましょう。私が生まれ、幸いを見つけた国へ」
…………。
……………………。
………………………………。
咲夜を連れ、出て行った三人組。おそらく純粋な欧州の人間は、最後まで一言さえも話さなかったあの少年だけであろう。
通常なら、信頼などできないメンバーだ。しかし、ここにいる自分は彼女たちに――あの、白い髪の少女に咲夜を託した。
治せたのに治さなかった。患者を、託したのだ。
……いや、託したというのは欺瞞だ。逃げたのだ、ここにいる愚か者は。任務を休んでまで会ったこともない自分の息子の葬式に参列してくれたあの英雄は、ずっと信じてくれていたのに。
「……情けない男だよ、私は」
バタバタと、激しい足音が聞こえる。病院だというのに、迷惑なことだ。
白衣の中へと、手を入れる。硬く、冷たい金属の感触。医者――命を救う存在であるはずの自分が、決して持ってはならぬモノの感触が――そこにある。
……息子を人質に取られ、救える命を見ようとしなかった。
妹を救ってくれ――あの英雄は、自分のような存在に土下座までしたというのに。それなのに。
「――〝最善を尽くします〟、か……。ようやく、あなたに告げたその言葉を実際にできそうだ」
部屋に、イタリア軍の軍服を纏う男たちが入り込んでくる。何事かをこちらに喚いているが、聞く気はない。
まあ、自分がいる場所が『咲夜・アスリエルの病室』であり、そこに本来いるべき病人がいないのだから内容など聞く必要もないというのもあるのだが。
「……なあ、カインツ。父さん、ダメな父親でごめんな。でもな、一つだけ、一度だけ……お前に自慢できるように、自分を通すから。だから――」
白衣のポケットから取り出した、護身用の拳銃を手に取った。
引き金を――引く。
――銃声が、響き渡り。
後には、何も残らなかった。
◇ ◇ ◇
そこに座していた者は、見覚えのある人物だった。威圧感があるわけではない。ただただ、底の知れない不気味さを纏う少女。
大日本帝国最高位――帝。
艶のある、晴天の空かあるいは海の蒼を思わせる長髪。姿勢も美しいというわけではなく、どちらかといえば砕けた調子だ。だというのに、その居住まいには気品が溢れている。
「世界で最も神様に愛されている人間が座る場所だというから、期待してたんですけどねー。座り心地の悪いこと悪いこと。座布団の方が遥かにマシですねー」
あははっ、と楽しそうに笑う少女。その少女へ、護は鋭い視線を向ける。
「……テメェは」
「ふむ。懐かしい顔が三つ。あれ? 見覚えがある、の方が正しいのでしょうか? まあ、どちらでも変わりませんか。互いに忙しい身ですし、要件は手短に済ませましょう。……そこの紅い人。見事な演説でしたよ? 凄い凄い、立派です」
ぱちぱちと、帝が軽く手を打ち合わせる。紅い人――そう呼ばれた朱里が、ふん、と鼻を鳴らした。
「俺は俺の思うままに言葉を紡いだだけだ。それを聞いたあの場の者たちか、もしくは貴様が何かを思ったのであれば……それは俺の関知するところではない」
「ふむ、成程成程。これはまた面白い意見ですねー。自身の言葉に責任がないと?」
「ない、とは言わない。だが、俺が言ったように全ては『選択』と『自由』だ。俺の言葉を聞き、何らかのこと思うこともまた自由であり、その先の行動も選択に過ぎない。だからこそ、俺は石を投げられた」
そう、あれも選んだ未来の結果だ。最善ではなかったかもしれないし、あの選択を後悔する者も出てくるかもしれない。しかし、その全てが〝人〟に与えられた『権利』なのだ。
そんな朱里の弁論を聞き、帝は笑みを濃くする。思わず背筋に寒気が走るような笑みだった。
「面白い。本当に面白い。では問いましょう、人間。――本当に、〝自由〟は必要ですか?」
「……どういう意味だ?」
「言葉通りの意味ですよ。答えのわかっている問いをわざわざするのは感心しませんねー。有史以来、人は様々な争いを続けてきました。その根底にあるのは、いつだって〝自由〟という言葉です。だから私はこうも考えるのですよ。――〝自由さえなければ、争いは起こらないのではないか〟、とね」
それは凄まじい暴論だった。その言葉を聞き、思わずといった調子で護が声を上げる。
「ふざけんなよ。そんなもん、ただの結果論だろうが」
「結果論? ただの事実をベースにした『真実』ですよ。……そもそも、人間。あなた達は少々調子に乗り過ぎですよ。最早あなた達は、この『地球』という世界において害悪でしかない」
ため息さえ交えて、帝は言う。その口調は本当に呆れからくるもののようで、冷たい視線には欠片も『温かさ』というものが込められていない。
「有史以来――いえ、人類という存在が知恵を持つようになってから、一体どれだけの月日が流れましたか? そしてその間、たとえ一時でも『平和』という時代を享受することができましたか?
答えは、否です。何百、何千、何万という世代と月日を越えようと、人間は僅かの前進さえもできていない。
でもね、人間。それだけならまだいくらでも取り返しがついたのですよ。争い続けるだけならいずれ人類が滅びるだけなんですから。……でも、この世界に最悪だったことに人類には〝知恵〟があった。
最低も最低ですよ、本当に。この星が何億という時間をかけて溜め込んだ大切な資源を、まるで自分たちが溜め込んだかのように我が物顔で浪費する。それどころか、他のありとあらゆる動植物に危害を加え、住処を奪い、絶滅させていく……この世界に『悪』がいるなら、それはもう人間以外にありえないとは思いませんか?
動物保護? 環境保護? ふふっ、あはっ、あはははははははっ!! ここまで滑稽な言葉もありませんよ!! ええ、ええ、本当にそう思います!! いつから人類は――この世界の〝神〟になったのです!?」
笑い声と共に、叩き付けるような糾弾の言葉を並べ立てる帝。その糾弾に対し、朱里に紡げる言葉は存在しない。当然だ。彼女の言葉は、彼もまた心のどこかで感じていたことなのだから。
戦争の続く世界。手の取り合うことのできない世界。
――何故?
多くの戦場に立ち続けてきた朱里だからこそ、その疑問を抱き続けてきた。
しかし。
……コイツは、何だ?
彼自身は知らないが、かつて『英雄』と呼ばれる何人もの猛者たちが帝を前にした時に抱いたのと全く同じ感想を、彼は抱く。それは本能的なものであり、論理的な理由はない確信。
――違う。
何が違うのか、と聞かれると答えは出せない。しかし、悪意がある言葉や言い回しだというのに一切それを感じない――否、別次元の何かを感じさせる。
「ならば、問うぞ。貴様の言が正しいというのなら、その現状をどうするという? 〝自由〟に対し、貴様はどんな言葉を紡ぐ?」
「――〝役割〟。徹底的に管理された、全ての人間が己の才能のみを生かし続ける世界。世界平和を紡ぐ手段は、最早それしかありません」
帝は断言した。暗に、『自由は認めない』と。
故に、朱里は言葉を紡ぐ。
彼自身が語った言葉が、信念が。その論理を認めることができないものであるが故に。
「俺たちに奴隷となれとでも言うつもりか? 自由の一つさえなく、何が〝人間〟だ」
「歯車となれと私は言っているのです。今日、人間以外のありとあらゆる生物がやっていることですよ? むしろ、人間だけがその役割から逃げている現状こそが異常です」
そもそも、とため息を吐きながら帝は言う。
「いい加減この世界も迷惑しているのですよ、人間。それを最後の慈悲として生き残らせてあげようと言っているんです。従ってください。いえ、違いますね。――従いなさい」
帝の表情から笑みが消え、絶対零度を思わせる冷たい視線が朱里たちを射抜く。
嫌な汗が噴き出す。それでも懸命に声を絞り出し、朱里が言葉を紡ごうとした瞬間。
「悪いけど、そういう話嫌いなのよ」
刀を抜き、言葉と共に絶が飛び出した。へぇ、と帝が声を上げる。
「懐かしい顔ですね。どうでもいい顔です」
「その顔に殺されるのよ。――死になさい」
振るわれるのは、達人の一撃。《武神》や《剣聖》には及ばずとも、十二分に研ぎ澄まされた一撃が帝に迫る。
――しかし。
「……技のキレはありますが、この程度では届きませんよ?」
その言葉と共に、如何なる技か絶が投げ飛ばされていた。絶を追い、追撃を仕掛けようとしていた護が動きを止め、絶を受け止める。
おそらく、投げ技。それもカウンターの類であろうことは容易に想像できた。しかし、どうやったのかはわからない。
帝を睨み据える三人。その三人へ、ふふっ、と帝が笑みを向けた。
「王が弱い道理はありませんよ?……それなりに楽しい時間でしたよ、《赤獅子》。そして、《氷狼》。あなたとは、今度じっくり話し合いましょう」
立ち上がり、この場を去っていく帝。それを追うことも考えたが、朱里は断念。舌打ちと共に、二人へと言葉を飛ばす。
「――急ぐぞ。俺の相棒は、近くにある」
◇ ◇ ◇
広場の喧騒は、いつの間にか止んでいた。
いや……いつの間にか、というのはおかしいだろう。止んだことには理由があり、その原因は今も広場に立っているのだから。
「……大将が全部やっちまったから、俺たち出てくるだけ無駄ッスねぇ」
目の前の惨劇を目にし、人相の悪い青年――大日本帝国《七神将》第五位、本郷正好は呟いた。マタイに逆らった、本来なら彼を守るべき立場の教皇親衛隊の隊員たち。その全てが、血の海に沈んでいるのだ。
そしてその中心に立つのは、全身に返り血を浴びながら傷一つない姿の少年。少年は血の付いた黒髪を掻き揚げると、彼を見守っていた全員に視線を向けた。
「これで落ち着いて話ができる。陛下はまだか?」
「さっき、『先に行っててください』と伝言があったぞ大将」
少年――《七神将》第一位、《武神》藤堂暁の言葉。それに応じたのは禿頭の老人だ。《七神将》第六位、紫央千利。その老人の言葉を受け、ならば、と別の者が声を上げる。
「〈風林火山〉へ急ぐぞ。陛下の計画通りならば、戦闘が起こる」
「は、はい」
隻眼の女侍、《七神将》第二、第三位《剣聖》神道木枯の言葉と、それに同意の声を上げる《七神将》第四位、水尭彼恋。彼らの口調と物腰こそ世間話をしているかのようだが、隠し切れない――そもそもから彼らは隠す気がないようなのだが――威圧感が、周囲の者たちを圧倒している。
不意に、宮殿から轟音が響き渡った。広場の者たちが、一斉にそちらへと視線を向ける。
――〈ブラッディペイン〉。
イタリアの英雄《赤獅子》が駆る神将騎が、大きく跳躍していく。このまま国外へ脱出する腹積もりだろう。まあ、もうこの国に――というより、EUに彼の居場所はないのだから当然かもしれないが。
そして、その彼を逃がすつもりは暁たち《七神将》にはない。
「……帝の理想において、朱里・アスリエルは障害と成り得る。味方に引き込めればいいが、あの男は味方に引き込めるような相手ではない。ならば、排除するだけだ」
言い放ち、暁が歩き出す。その背を、彼に従うようにして《七神将》たちが追って行く。
人垣が、割れていく。
朱里・アスリエルを庇い、送り出した時とは明らかに違う。《武神》と呼ばれてこそいれ、その姿など知らない広場に集った者たち。その全員が、齢二十に達さぬ少年を前に道を開けざるを得ない。
――〝覇〟。
意味などわからぬ、少年が背負うたった一文字を前に。
逆らうことが、できない。
「ガリア連合は虎徹さんに任せている。俺たちの任務は、ただ一つだ」
潮が引くように割れた、人垣の中。
最早彼の声しか響かぬその場所で、《武神》と呼ばれる少年が宣言する。
「――《赤獅子》を、始末する」
◇ ◇ ◇
辿り着いた、目的の場所。アリスたちと合流するその場所に朱里たちが到着した頃には、すでにアリスたちも到着していた。朱里はすぐさま〈ブラッディペイン〉から飛び降りると、車椅子に乗った彼の妹――咲夜の下へと走り寄る。
「咲夜!」
「……お兄、様」
呼びかけると、咲夜はどこか迷ったような表情を見せた。しかし朱里は、安堵からその体を強く抱き締める。
「良かった……! 無事で良かった……!」
「……それは、私の台詞です……!」
抱き締められた咲夜は、震える手で咲夜を抱き締め返す。その声は震えており、涙色に染まっていた。
「処刑、されると……異端審問にかけられると、そう、聞いて……、私、私はッ……!」
今までずっと気丈に振る舞っていたからだろう。溢れ出る涙が止まらず、朱里はそんな咲夜を強く抱き締める。たった二人の家族。もう頼れる者がお互い以外に誰もいない二人にとって、どちらかの死は到底受け入れられないモノだ。
「すまなかった。本当にすまない、咲夜。俺がもっと、もっと上手く立ち回ることができていれば。そうしていれば……」
「それは言いっこなしですよ、お兄様。……話は、アリス様からお聞きしました。お兄様と一緒なら、私はどこでだって……生きていけます」
「……すまない」
呟くようにそう口にし、咲夜を抱き締める力を強める朱里。そんな朱里へ、咲夜が静かに言葉を紡いだ。
「そんなことを、言わないでください。……私は、お兄様のそんな言葉を聞きたくなど……ありません」
「だが、咲夜。俺のせいでお前は……」
「だから、もういいのです。お兄様」
咲夜が、儚げな……それでいて『強さ』を孕んだ微笑を浮かべる。
「――私にとって、お兄様が全てなのですから」
目を閉じ、静かに告げる咲夜。それは歪んだ言葉であり、本来なら正すべき言葉だ。
「そうか……。ありがとう、咲夜」
――しかし、朱里にはそれを正すことができない。
彼もまた、その全てを咲夜に依存しているが故に。
「――ちょっといいかい、《赤獅子》殿?」
そんな二人のやり取りを見守っていたアルビナが、不意にそんな言葉を紡いだ。朱里は昨夜から手を離すと、ああ、と頷く。
「咲夜の件は本当に感謝する。俺をあの場から救ってくれたことにもだ。――ありがとう」
周囲を見回し、朱里はゆっくりと頭を下げた。そんな朱里に、いいさ、と護が言葉を紡ぐ。
「テメェとはまだ色々としこりが残ってるが……この際、それは忘れる。そんな場合じゃねぇしな。それに、礼を言うのは早ぇだろ? ここからシベリアに行くまでは距離もある。どんな強行軍でも丸二日はかかる距離だ。それに、病人もいるんだぞ。本当に大変なのはこっからじゃねぇのか?」
「そうねぇ。ここは郊外だけど、〈ブラッディペイン〉での逃亡は見られてるだろうし……急いで移動した方が良くないかしら?」
護の言葉を受け、絶が肩を竦めながらそんなことを言う。朱里たち六人は予めの作戦として、イタリア北部の郊外へと出ている。国境から出るのは容易いが、他国へ移動したとしてもそこはまだ『EU』だ。EUにおいても最大宗派たる『聖教』に逆らった朱里が、そう簡単にシベリアに辿り着くことは難しい。追手が来ることは当たり前として、下手をすれば待ち伏せの危険性さえある。
「……普段なら、EU内部の派閥争いもあるから国境さえ抜ければ何とかなるさね。《赤獅子》を敵に回してまでイタリアに忠義立てする義理もないわけだから。けど、最悪なことに――というより、こうなった原因がまだこの国にいることが問題だ」
アルビナが、どこか険しげな表情でそんなことを口にした。
その言葉に対し、誰も疑問を挟むことはしない。彼女が口にする原因、その心当たりは一つしかないのだ。
「――大日本帝国」
ポツリと、アリスが呟いた。アルビナが、ああ、と頷く。
「時間もないし、隠すのも面倒だから言っておくよ。今回の《赤獅子》処刑の裏には、大日本帝国が関与してる。アタシは興味もないし知るつもりもないから知らないが、朱里・アスリエル――あんたが大日本帝国にとっては邪魔になるそうだ」
「……俺が? 何故?」
「さてね。知ろうとも思わないよ、今のところは。単純に戦力的な意味でなのか、それとも他に理由があるのか。……いずれにせよ、あんたは自覚した方がいい。大日本帝国にとって邪魔になってるってね」
「それで、処刑と? だが――」
「――あの国がどうして世界最強国家なんて名乗ってるか、理解しているかい? その戦力は勿論、こうした搦め手にも長けているからだよ。《帝国の盾》っていう、碌でもない男がいてね。あの男を敵に回すと、謀略で殺される。それに……いや、いいさね」
最後の言葉は口にせず、アルビナは首を振った。朱里はそれを疑問に思うが、状況が状況。追求することはせず、本題に入る。
「ならば、追撃には大日本帝国――下手をすれば《七神将》が出てくるというのか?」
「下手をすればどころか、むしろその可能性が高い。……だから、あんたたちはシベリアじゃなくエトルリア公国に向かいな」
「エトルリア……? 永世中立国ですか?」
声を上げたのは咲夜だ。アルビナはゆっくりと頷く。
「あそこは自国の領土内でのどんな戦闘も許さない国。厄介はあるだろうけど……振り切るには、それが上策だ」
「……本当にそれだけか?」
「行けば解る。アタシにはこれしか言えないさね」
肩を竦めるアルビナ。朱里はしばらくそんな彼女を見据えていたが、確かにそれが策として成り立っているというのも事実として受け入れる。
「エトルリア公国までなら、全力で動けば半日もかからない。……俺の〈ブラッディペイン〉なら、万一の時でも停止はないだろう」
半日――神将騎の稼働時間としては有り得ない長さであったが、しかし誰も疑問は挟まない。
――『Unlimited』。
護の〈毘沙門天〉のモニターにも刻まれているその文字の意味が、彼らもなんとなくわかっているのだ。
もっとも、戦乱が終わってから護は一度も自身の僚機にその表示を見ていなかったりするのだが。
「なら、行こう。護、咲夜を頼む」
「わかってる。……アリス、車の後部座席でフォローを頼む」
「あ、は、はい」
護に呼びかけられ、アリスは咲夜が乗っている車椅子を押し始める。咲夜が一瞬、不安げな表情を見せてきたが、朱里は笑みを返した。
「大丈夫だ。お前のことは、必ず守る」
その言葉に、咲夜は不安を浮かべながらも頷く。そのまま車に乗る彼女を見送ると、朱里は絶へと無線を手渡しながら言葉を紡いだ。
「咲夜を頼むぞ」
「貸し、一つよ?」
「いずれ返す。広場の分も合わせてだ」
そう言うと、朱里は〈ブラッディペイン〉の下へと歩き出した。彼とずっと共に戦ってきた、相棒の下へ。
しかし、そこで朱里は気付く。アルビナが、その場から動こうとしないのを。
「どうしたんだ? あなたも――」
「……アタシは、一緒には行けない」
苦笑を交えたアルビナの言葉に、一瞬、反論の言葉が浮かぶ。しかし、彼女の表情を見て、朱里は首を左右に振った。
「あなたにも、必ず恩は返す。だから……また、いずれ」
「そうさね、またどこかで会いたいねぇ……。妹さんを、大事にしなよ?」
「ああ」
頷き、朱里は〈ブラッディペイン〉に乗り込む。そうしてから一度大きく息を吸うと、操縦桿を握り締めた。
「――頼むぞ、相棒」
紅蓮の獅子が、その体躯を震わせ。
そして、走り去って行く。
始まるのは、絶望の逃亡劇。
敵は――世界最強の、軍隊。
…………。
……………………。
………………………………。
「……鈍い男かと思えば、意外とそうでもないねぇ。英雄の坊やも、アタシのことは何となく察してたみたいだし……本当に、あの二人はその察しの良さを向ける相手を間違えてるさね」
車で走り去った護たちと、それを守る形で移動を始めた朱里の〈ブラッディペイン〉。その姿を見送り、アルビナは苦笑を漏らした。
本当に、愉快なものだ。あの女が――〝先生〟が興味を抱くのもわかる。
その察しの良さ……向けるべき相手が、間違っているだろうに。
「さて……私の仕事はここまで、ということでいいさね?」
「ええ。ご苦労様です、アルビナ」
背後から、笑みを含んだ声が届く。振り返ると、そこにいたのは七人の人間。
大日本帝国最高位、帝を筆頭とした《七神将》の者たちだ。
「彼らはどちらへ?」
「エトルリア公国に向かう、だってさ。……それ以上は知らないよ」
「十分です。本当にご苦労様でした」
実用性よりも明らかに装飾としての意味合いを強くした甲冑を身に纏う帝が、微笑と共にそんな言葉を紡ぐ。戦装束……これは、本気ということだ。
……本当、〝先生〟には恐れ入るさね……。
今回の件、伝えると同時にすぐさま彼女は動いた。シベリアを巻き込み、『策』まで用意して。
本当に、あの人は〝怪物〟だ。
「もう、いいさね? アタシは――」
「――ええ。残念ですよアルビナ。本当に残念。……ご苦労様でした」
腹部に、激痛が走った。眼前、帝が何かを投げたような構えをしている。
腹部に走る、最早痛みに近い熱。見れば、一本の脇差しが深々と突き刺さっていた。
投擲による刺突を受けたのだと理解するのに、時間はかからない。
「ぐ、あ……ッ!?」
「策謀だろうと陰謀だろうと一向に構いませんが。少々、冗談が過ぎますよ? 誰にも付かぬ『蝙蝠』が、誰かに肩入れするなんてルール違反じゃないですか」
あははっ、と帝が笑う。《七神将》たちは動かない。いや、動く必要がないのだろう。
帝もまた、一種の『怪物』なのだから。
「くっ、あ……アタシを、殺す気、かい……?」
「私にそういう口を利ける相手が減るのは寂しいですけどねー。……あなたは色々知り過ぎています。蝙蝠のままならいざ知らず、どちらかに属するというなら無視はできません」
ヒュン、という風切り音が響いた。帝の背後に控えていた暁が、刀を抜いた音だ。その構えには隙がなく、逃げる余裕などないことは容易に理解できる。
アルビナは脇差しを抜くと、周囲に視線を巡らせた。そして、鈍い汗を掻きながらも言葉を紡ぐ。
「アタシを、消すのかい?」
「それはあなた次第だと言いたいところですね。虎徹があなたを評価しているように、私個人もあなたを評価していますから。けれど……答えはもう、聞くまでもないでしょう?」
「ああ、そうさね」
口元から血を滴らせ、彼女では到底かなわない絶望を前にしながらも。
伊狩・S・アルビナは、退かなかった。
「アタシは、賭けたくなったのさ。あんたの理想は、どうしようもない程に合理的で、現実的で、だからこそ綺麗で反論のしようもないさね。アタシの言葉なんて、精々二十、三十年生きた程度の言葉だ。この世界の全てを見てきたあんたには、到底及ばない」
「ならば、何故?」
「人生ってのはね、陛下。一度きりなんだ。たった一度しかないんだよ。もう一度なんてありえないんだ。だから、アタシは後悔しない道を選ぶ。それだけさね」
「ここで、殺されても?」
「後悔することがわかっていて、それでも生きながらえる道を選ぶほど……無様ではないつもりだよ」
言い放つ。帝は、わかりました、と頷いた。
「残念ですよ、アルビナ」
「私もさね。――陛下」
アルビナが応じたその直後、暁が動いた。刀を振り上げ、一瞬でアルビナの懐へと入り込む。同時、アルビナも懐から何かを取り出すと、周囲にばら撒く。
「――閃光弾か!」
声を上げたのは、状況を見守っていた木枯だ。彼女の言葉通り、周囲を眩い閃光が包み込む。
同時、凄まじい量の煙が周囲を支配した。明らかに過剰な量の発煙弾に、閃光弾。さしもの《七神将》たちも暁という『最強』が踏み込んでいたということもあり、動きが遅れる。
そして、閃光で潰された眼と煙が晴れた頃。
「――逃がしましたか、アキちゃん?」
「一太刀、袈裟斬りに入りました。あの傷なら、まず助からないはずです」
「それは上々」
暁の刀に付いた血と、彼の言葉を受けて帝が頷く。そのまま、帝は《七神将》に号令を出した。
「参ります。EU最強の英雄、《赤獅子》……彼の者は、必ず私たちの障害となるでしょう。エトルリアに向かっているというなら、是非もない。挟み撃ちで潰します」
その宣言に、その場の全員が同時に臣下の礼を取る。
追撃者が――野に放たれる。
◇ ◇ ◇
激痛と、失血。あまりにも致命的な傷のせいで、体が上手く動かない。
「……しくじった、さね……」
苦笑と共に、小さく呟く。いつものように蝙蝠を演じれば、こんなことにはならなかっただろうに……本当に、どうしてしまったのか。
多くの事を見てきた自分は、常に傍観者だった。今回も、そのつもりだったのに。
「……〝一緒に〟って、誘われてしまったからねぇ……」
上からや下から。今まで自分に協力を依頼してきた者は、全て一定の距離を取ってきていた。それは当然のことだろうし、むしろ自分で望んだことだ。
だが、あの人は……自分に、対等な立場から提案をしてきて。
……頷いて、しまったさね……。
いつも通り、ビジネスライクな付き合いをすればよかったのに。なのに、『友』と――あの日、そう呼ばれてしまって。そう、呼ぶようになってしまったから。
だから、これで良かったのだ。
後悔は、ない。
「…………疲れた、さね……」
路地裏に、ズルズルと座り込む。血を吸った服が、嫌に重い。
まだ、やり残したことは随分多いが……もう、十分だろう。
ゆっくりと、目を閉じる。
その時の、表情は。
酷く……穏やかだった。
――――音が、聞こえた気がした。
というわけで、第二部のラストスパート開始です。おそらく大日本帝国の皆さんが大暴れしてくれるはず……!!
とまあ、それはさておいて。今回はアルビナです。
彼女は世界中を旅してきた人間であり、それ故に様々な文化や事情、情報に触れています。それをその時々で求める人に与えていたため、蝙蝠――コウモリと呼ばれているわけですね。
そんな彼女のテーマは、『合理とそれでは割り切れないモノ』という『葛藤』がテーマだったりしました。私はキャラクターを描く時、必ず何かしらのテーマを用意します。ちなみに主人公である護のテーマは『振り返ることさえせず、前だけを見る歪み』というもの。まあ、彼とヒロインたるアリスについてはこれからなのですが。
そして帝の論理。あれはまあ、正直反論の余地ないかなー、と書いてる私自身が思ったり。
棚に上げて物事を言う、っていうのは人間の特権……でいいのか、本当に? という論理です。暴論ですが正論。面倒臭いお人です。
まあ、個人的には帝の案もアリかと思っています。自由が基本の現代では受け入れられないかもしれませんが、『それが当然として育った人』には疑問の余地もないわけですし。
『自由には相応の責任が付きまとう』――朱里の言葉でも暗にあったように、それもまた作品のテーマです。作品的には、『選択』なわけですが。
さてさて、混迷を極めるEU動乱編。如何でしょうか?
感想、ご意見お待ちしております。
ありがとうございました!!