追章 正統なる血統
時間軸は、本編より十二年ほど前。一応、主軸は木枯です。
前話より二年ほど前ですね。
ではでは、どうぞ~
朝というのは、総じて静けさが環境を支配する。特に、ほとんど使う者がいない寂れた道場なら尚更だ。
「――――」
沈黙、とは少し違う。一見すればただ黙して目を閉じているだけにしか見えないが……身に纏う空気が違うのだ。
その少女――年齢的には明らかに少女であるし、外見的にも間違いなく少女なのだが、何故かその表現が躊躇われる雰囲気を纏っている――が身に着けているのは白と黒の袴だ。大小二本の刀を己の体の前に置き、正座したまま微動だにしない。
静かだ。だが、本来静寂に支配された空間には『静けさ』という名の音がある。しかし、この道場にはそれさえもない。
簡素な道場だ。板張りの床。多少汚れた壁。ガラスのない木組みの窓。少女が正座する場所の背後に達筆で『武士道』と書かれた掛軸があるが、それ以外に飾りらしい飾りは一切ない。
無駄を排除した、と言えば聞こえはいい。しかし、実際は別だ。ここは、『持ち去られた』場所なのだから。
時代とは移り変わる。八百年、極東の島国大日本帝国において『魔境』と呼ばれ続けた奥州で『最強』を担い続けた一族でさえ、変わっていくしかなかった。
天下に覇を唱えし無双たる一族――藤堂家。
正しく『最強』と謳われていた奥州筆頭――神道家は、その一族と戦う前から手を結んだ。理由は単純だ。神道家とは確かに絶対的な力を持つ。しかし――王ではないのだ。
王ではなく、侍。西の大陸欧州に生きる騎士たちとは違う、侍という求道者。
神道家とは、侍を束ねる一族ではなく――王を戴く侍の一族。
故に、四百年の昔、時の神道家当主は藤堂家に仕えることを決めたのだ。力においてはこちらでが上でも、藤堂家とは『王』たる一族の器であるとして。
その時交わされた盟約は、今も形を変えずに続いている。
――そう。
大日本帝国の象徴たる帝を守る七人の《神将》、その第二位を、その実力を以て守り続けるという形で。
そして、ここにいる少女も。
それを受け継ぐ、侍だ。
「…………」
不意に、少女がゆっくりと目を開いた。鋭い視線。表情を変えず、ただその少女は道場の入り口を見据える。
――そこに。
「いや、悪ぃ悪ぃ! 寝坊した!」
どたどたという粗雑な音を響かせながら、今までこの道場を包んでいた静寂を全て打ち破るように一人の青年が現れた。額に汗が浮かんでいることから、相当急いでここまで来たことがわかる。
「……道場ではお静かに願います、虎徹さん」
対し、少女は静かに答えた。凛とした居住まいに相応しい、静かで、それでいて相手を圧倒するような声色だ。普通の人間ならその鋭い視線と合わせて委縮するかたじろいてしまいそうな迫力があるが、虎徹、と呼ばれた青年はそんな少女の態度について気にした風はない。
「そう堅ぇこと言うなって。あんまり頑固が過ぎると、嫁の貰い手なくなんぞ?」
「…………ッ、そ、それは」
「まあ、オメェなら『そんなものは必要ありません』とか言うんだろうがな」
何かを口にしようとした少女に気付かず、虎徹はそのままヤレヤレと肩を竦める。虎徹の言葉を聞いた少女は一瞬、泣きそうな顔をしたが――すぐに表情を平静に戻し、鞘に納められた刀を手にした。
「……では、始めましょう。まずは、殺陣からです」
「おう。まあ、殺陣っつっても実際は本気の殺し合い……刃引きはしてあるがな」
確認するように呟き、虎徹は鞘から刀を抜き放つ。鈍色のそれは人を斬るための機能を奪われており、刃がない。
しかし、ここにいる二人は理解している。刃引きなどというのは万が一のための保険であり、気休めだ。この二人ならば、たとえ刃がなかろうと刀であれば相手を斬れる。
すぅ、と少女がゆっくりと息を吸った。
これは鍛錬の前に行われる準備運動のようなものだ。しかし、同時にこれは咄嗟の戦闘を想定したものでもあるため、全力で殺し合うことが習わしになっている。
故に――二人は互いに名乗る。
「神道流師範代、神道木枯」
「神道流師範代、辻堂虎徹」
そして、互いに発する言葉は一つ。
「――推して参る」
◇ ◇ ◇
「事前に連絡してくだされれば、迎えの者を出しましたのに」
突如、神道家の本家を訪れた二人の客人を前に、その青年――優しげな、怒る顔など一切に合わない、むしろ苦笑や微笑を浮かべているイメージしか浮かんでこない容貌をしている――が苦笑を零した。それに対し、あはは、と客人の片方が笑い声をあげる。蒼い髪の、十五、六程度の少女だ。
「いえいえ、そちらも忙しいでしょうしね。それに、優秀な護衛もいますし」
「ほっほ。年寄りに無茶を仰りますなぁ」
その少女の言葉に対して応じたのは、もう一人の客人だった。こちらは顔に深い皺が刻まれており、その髪もほとんどが白くなっている老人だ。しかし、その体は筋骨隆々。身に纏う気風からも、まだまだ現役であることが伺える。
大日本帝国最高位、帝。
大日本帝国《七神将》第一位、《剣聖》藤堂玄十郎。
文字通り、この国の頂点に立つ二人だ。本来なら多忙で奥州に訪れている暇などないはずなのだが……それなのにわざわざここへ来たということは、相応の理由があるということ。
そしてその理由に、青年は心当たりがある。
ゴホン、と玄十郎――藤堂家の当主として、《七神将》の筆頭として。長きに亘ってこの国を支えてきた老人は咳払いをすると共に、その言を語り始めた。
「お主ならもう察しがついておると思うが、今回ここへ来たのは返還のためじゃ」
「……返還」
「もう、五十年近くも前になるのう。変革していく世界、揺れる現実……この国をまとめ上げるために、儂はお主らからこの名を奪うようにして貰い受けた。じゃがな、もう儂も歳じゃ。千利はまだまだ現役と吹いておるようじゃが……奴とは違い、儂は最前線に立ち、刀を振るうしかない愚か者でなぁ。それを思い知らされた。――もう、この名は背負えん」
苦笑を零し、玄十郎がその上着を脱いだ。青年が目にしたのは――包帯。
血が滲んだ、《剣聖》の体を包むもの。
「油断もあった。慢心もあった。嘲り、見下し、相手を見ようとしなかった。……その代償じゃよ」
――藤堂玄十郎。その男の武勇は、今も尚色褪せない数々の伝説を持って語られる。たった一人で数十人からなる賊の集団を撃退した初陣に始まり、世界の変革によって揺れていた大日本帝国、その各地で反乱が起こった時も、彼はその武勇を以て悉くを鎮めてきた。
そんな彼が、負傷。それも、明らかに敗北と受け取れるような負傷をした。相手は――やはり。
「――出木、天音ですか」
「《吉原最後の女帝》……所詮は井の中の蛙と侮ったのが全ての過ちじゃよ。お主らの忠言に耳を貸すべきじゃった。本当に、情けない」
苦笑を浮かべているが、玄十郎の表情には無念が滲み出ている。当然だ。おそらく、玄十郎は軍隊を率いてあの……《女帝》とまで呼ばれる怪物と戦ったのだ。散っていった者たちは、きっと少なくない。
「神道家がこの世に産み落とし、私たち大日本帝国が育て上げてしまったこの国の闇。それが出木天音です。――ただ、流石にあなたの敗北は想定外でしたが。老いましたね、玄十郎」
「耳が痛いですなぁ。……帝の仰られる通り、儂はもう限界じゃ。武に生きる者として、武士道を往く者として……儂は、最もしてはならぬことをした。相手を侮り、戦友を死なせる――最早、儂に《剣聖》は背負えんよ」
「だから……返還を?」
「そうじゃ。元々は、神道流において最強と認められた者のみが名乗る称号が《剣聖》。全盛期ならいざ知らず、今ではもう、お主の方が強かろう?」
のう? と玄十郎が青年を見据える。
「――大日本帝国《七神将》第二位、《極東無双》神道清心よ」
「…………」
言葉を向けられ、清心は一度目を閉じた。これは彼の癖だ。彼の妹もそうだが、考え事をする時に思考の邪魔になるものを視界に入れないよう、目を閉じるのである。
沈黙が流れる。普段はチャチャを入れまくる帝も、今回ばかりは黙して見守っている状態だ。……まあ、二人が真面目な話をしているのだ。如何に帝とはいえ、口を挟むのは憚られるのであろう。
そしてそんな状態が数分続いた後、ゆっくりと清心――神道家の当主たる男は頭を下げた。
「折角の話ですが……お断りさせて頂きます」
「ほう」
「それはまた、何故です?」
玄十郎がどこか楽しそうに息を漏らし、帝もまた、楽しげに問いかけてくる。清心は頷いた。
「そもそも《極東無双》という呼び名自体、自分には身に余るものです。他に該当者がいないために消去法で神道家の当主を務めているだけだというのに」
「それがお主の美徳じゃな。しかし、困ったのう。お主は……やはり、戦えぬのじゃろう?」
「……はい」
迷いを浮かべながら、清心は頷く。出木天音――その存在に秘密を知るのは、今のところ帝や玄十郎、虎徹とここにいる清心のみだ。そしてそれを知るからこそ、清心は《吉原最後の女帝》とは戦えない。
「あの者は、我が父の不徳故に反旗を翻しました。責められこそすれ、自分の方から攻め込むことは……できません」
「それなら仕方ありませんねー。言いたいこともわかりますし」
「――それに」
「?」
清心が続けた言葉に、帝が首を傾げる。清心は、頷きながら言葉を作った。
「《剣聖》なら……自分などより、よほど優秀な侍がいます」
楽しそうに清心はその言葉を口にする。その瞬間だった。
「おい清心! オメェ接着剤とか持ってねぇか!? 思いっ切り道場の床吹っ飛ばしちまったんだが!?」
廊下を走る音と共に、勢いよく襖が開け放たれた。現れたのは、清心にとっては昔からの馴染みである親友だ。清心は騒々しく現れた親友――辻堂虎徹に対し、ため息を零す。
「虎徹。客人の前だよ?」
「あん? 客?――って、陛下と大将じゃねぇか。ども、お疲れ様ッス」
「お疲れ様ですー♪」
「お主は相変わらず軽いのう」
「気にしない気にしない。陛下がいいって言ってるんだし」
「虎徹はそのままでいてくれた方が、色々やり易いですしねー♪」
「……陛下の言う色々って、物凄ぇ嫌な予感しかしねぇんだが」
「あはは、まあ色々企んでますしねー。また、この間の『アレ』やりますか?」
「――陛下。マジでお願いしますから《台所の黒い彗星殲滅作戦》だけは勘弁してください」
一瞬で真面目な顔になり、土下座までする虎徹。《台所の黒い彗星殲滅作戦》とは即ち、一匹見たら三十匹は現れるという例のアレだ。御所で頻繁に出るようになったという苦情を受け、帝主導で何故か《七神将》の二角である清心と虎徹が狩り出されたのだ。
最初の方は良かったのだが、後半になるとGたちが全力で抵抗してきて飛び回り始め、色々と涙な展開になった。ちなみに虎徹がその被害を一番受けていたりする。
「……真面目な空気がぶち壊しだね」
誰にも聞こえないよう、清心は小さな声で呟いた。その彼の耳に、小さな足音が入り込む。
「こ、虎徹さん。床なら後で私が直しておきます。あそこは私以外に使う者は誰も――へ、陛下!? 玄十郎様!?」
虎徹を追ってきたのだろう。若干慌て気味に部屋へ顔を見せた木枯が、客人である二人を見て慌てて膝をつく。
「も、申し訳ありません! お越しになられていると知らず、挨拶もせずに……!」
「構わぬよ。こちらも事前の連絡をしておらんかったしのう」
「木枯は真面目ですねー。良いことですが」
苦笑を零す玄十郎と、楽しそうに笑う帝。先程までの張り詰めた空気は、いつの間にかすっかり霧散してしまっていた。
その中で、清心は小さく笑う。
「……一度、休憩にしましょう。お茶を用意します」
その場の全員が、賛成した。
◇ ◇ ◇
「……で、戦況はどうなんスか、大将?」
「情けない話じゃが、順調とはとても言えんのう。儂もこの様じゃし、今は本郷美鈴が前線の指揮を執っておるが……膠着状態、というところかの」
「本郷美鈴……《鬼姫》をもってして、ですか?」
「無茶苦茶だな」
「だからこそ、お主らにも参戦して欲しいのじゃが……」
夜。昼間に清心が帝と玄十郎を迎えた客室で、三人の男が言葉を交わしていた。その場に集まった三人の立場を考えると、その談合が相当重要であることがわかる。
三人が、それぞれ共に大日本帝国において《七神将》を預かる存在。
大日本帝国《七神将》第一位、《剣聖》藤堂玄十郎。
第二位、《極東無双》神道清心。
第三位、《狂神》辻堂虎徹。
大日本帝国軍を束ねる七神、その上位三人。後の時代においては神格化されることを半ば約束された三人だ。
「……俺は参戦することについてはどうも思わねぇよ、大将。本家の嬢ちゃんが参戦してて、分家の俺が出ねぇ理由もねぇしな」
言ったのは、虎徹だ。辻堂――虎徹の生家であるその一族は、『御三家』の一角である『本郷家』の分家だ。それも筆頭格の一族で、場合によっては御三家とも同格に扱われる。
とはいえ、所詮は分家。それも本家である本郷家のサポートを義務付けられているような一族だ。その本郷家の現当主でもある女性――本郷美鈴が戦場に出ているというのなら、虎徹に出陣しない理由はない。
――しかし。
「…………」
「やっぱり、オメェは出ねぇのか?」
沈黙する、己の親友――神道清心に、虎徹は確認の意味も込めて問いかける。清心はいつものように目を閉じてしばらく黙した後、そうだね、と頷いた。
「やっぱり、どうしても……僕は、出木天音に刃を向けることはできそうにない」
「ふぅむ、やはり父親か?」
「……吉原で子を作る。そのこと自体が神道家の当主としてはやってはならぬことですが、それ以上にあの男はその子供を捨てました。その事実を、死の間際まで我々に伝えることさえせずに。……彼女がどれほどの地獄を見たか、自分には想像もできません。しかし、だからこそ――敵には回れない」
「相手は反逆者だぞ、清心」
「反逆の理由がすべて悪とは限らないよ、虎徹。それに……今回ばかりは、どうしたって僕たちが〝悪〟だ。それは覆しようのない事実だよ」
言いつつ、清心は刀を手に取った。ゆっくりと、その鞘から刀身が半ばまで見えるように抜いていく。
「侍は、その刃を振るうための〝大義〟を求める。いいかい、虎徹。僕たちはヒーローじゃない。西洋の騎士でもない。僕たちは、その背に背負った者たちに希望も正義も、見せることはできない業深き生き物だ」
ヒーローと騎士に共通するものが、一つある。それは、弱者を背負い、守り、その背に背負った者たちに希望と正義を体現することだ。
正義とは決して綺麗なだけのものではない。その相対する敵からは憎悪を受け、結果としてその手を汚さなければならない業深き存在だ。ヒーローも騎士も、自身の前面を血に染め上げて生きている。
しかし――その背を見る者たちは、その背に正義を見る。希望を見る。世界の優しさを……目撃する。
故にこそのヒーローであり、英雄であり、騎士なのだ。彼らは敵に鬼よ悪魔よヒト非人よと蔑まれようと、その背を見つめる者たちからは誇りとして扱われる。それこそが彼らの矜持であり、正義であり、存在価値。
しかし――侍は違う。
彼らは確かに弱者を守る立場にある。だが、彼らは国のため、人のため――そう、時にはその背負った人々のために味方さえも斬り捨てる。故にこそ、その背中が語るのだ。
武士道とは……死ぬことと見つけたり。
その生き様、死に様、抱いた大義。希望を与えるわけでもなく、正義を騙るわけでもない。ただ、主君のために。大義のために。そのために刃を振るうからこその――侍だ。
「無論、我が民たちに仇名すのであれば容赦はしないよ。けれど、こちらから殺しに行くことはできない。それだけは、してはならないんだ」
「後手に回るぞ、それじゃあよ。こう言っちゃあなんだが、《女帝》相手に後手に回ってたら勝てるもんも勝てやしねぇんじゃねぇのか?」
「その時は、その時。武士道とは、死ぬことと見つけたり――僕の死に様が、全てを語ってくれるはずだよ」
キンッ、という澄んだ音と共に、刀が鞘へと収められる。その様子を見て、玄十郎がほう、と楽しげに口元を歪めた。
「隠居も考えておったが……中々どうして、年寄りに火を点けるのが上手い」
「……何乗せられてんスか、大将」
「そう言うな、虎徹。儂ももう歳じゃ。先日、久し振りに儂の孫を見てのう。何もしてやれなんだが……随分と強く、成長しておった。これから先は、お主らの時代。それを強く実感させられたわ」
「……玄十郎様」
どう言ったらいいのかわからないだろう。清心が、少し戸惑った口調で玄十郎の名を呼んだ。藤堂玄十郎……大日本帝国における武の象徴と呼んで差支えない彼の弱音など、聞いたことがない。虎徹も少し戸惑った表情で玄十郎を見ていた。
しかし、そんな二人の心配は杞憂だった。一度目を閉じ、そうしてから目を開けた玄十郎の瞳は――まるで獲物を見つけた肉食獣のように輝いていたからだ。
「そうじゃな、侍とはその戦いの果て、合戦の果て、殺し合いの果てにこそその答えを得るどうしようもない生物じゃ。くっく、いつしか『最強』などと呼ばれるようになって、久しく忘れておったわ」
「……楽しそうだな、大将。いや、ジイサン」
「お主にそう呼ばれるのも久し振りじゃのう。……さて、まあ今回はお主らの意志確認が主な目的じゃ。清心、お主が戦場に出ないというのは少々残念じゃが、致し方なかろう。迷いを抱いたままに戦場に立てば、如何なる強者とて潰されるのが道理。ましてや相手があの《女帝》ならば尚更じゃ」
「……申し訳ありません」
「構わぬ。面を上げよ、清心。むしろお主が侍として誰よりも高みにある存在と知れて良かったと儂は思っておる。その想い、違えぬことを期待するぞ」
「我が名に誓って、違えぬと約束します」
深々と清心が頭を下げる。それを見届けてから、玄十郎は一度大きく息を吐いた。
そして。
「――さて、この話はここまでじゃな」
空気が――変わる。
張り詰めた空気。三人共が、側にある刀を手に取った。
「無粋じゃのう。儂らの談合を盗み聞きとは。――痴れ者が。その姿を見せよ」
――直後。
壁を打ち破る音と共に、部屋の――屋敷中の灯りが、同時に消えた。
◇ ◇ ◇
「……また……虎徹さんと上手く話せませんでした……」
「よしよし。木枯は可愛いですね~」
俯き、心の底から落ち込んでいる木枯の頭を、帝が撫でる。二人の立場の違い――片や御三家の直系とはいえ現時点ではあくまで一兵卒である木枯と、大日本帝国の頂点である帝がこうして一対一で会話をしていることは普通ならあり得ないのだが、そこはそれ。帝は幼少期から木枯を知っているので、問題はない。
木枯と虎徹の付き合いは、決して短くはない。彼女にとっての兄である清心、天才と呼ばれたその侍と並び立つ才能の持ち主として神道流を修めに来てからの付き合いで、もうすぐ出会ってから十年近くになる。
木枯は武の一門である神道家の直系だ。それ故に幼き頃から女性としての嗜みよりも武芸を主として叩き込まれた。それにより、達人しかそもそも基礎さえも学ぶことを許されないという神道流を、僅か十歳の頃から修め始めるだけの力量を示すに至る。
――〝最強〟。
木枯が、父から聞いた言葉の中で一番記憶に残っている言葉だ。最も強いこと。如何なる敵も薙ぎ倒し、斬り伏せる――圧倒的にして絶対的な力を。
今でも、何故それほどまでに父が自分を最強にすることに拘ったのかはわからない。一度だけ言われた、『お前には決して敗北してはならぬ存在がいる』という言葉が未だに引っかかっていて、答えは出ていない。
ただ、一つだけ確かなのは。
――友など……作れはしなかった。
自身の才能が他と隔絶していることを、自惚れではなく自然に『そうあるもの』として木枯は幼少期から受け入れていた。外れている、ズレている――そう感じたのは、いつが最初だったのか。
自分自身の中で他人と明確な線引きをしてしまっているのだ。当然、そのズレは歳を重ねるごとに大きくなり、気が付けば一人きりだった。
木枯の兄である清心も、その才能は他と隔絶している。しかし、彼はそうでありながらも『普通』を演じ、仮面を被れた。故に、神道流とは別の、下位流派とでも呼ぶべき武術を門下生に教え、友人も多くいる。
だが、木枯にはそれができない。
ある意味で当然だ。自分と他者は違う――あまりにも当然で、むしろ、だからこそ普段は忘れる事実。それを、木枯は忘れることができなかった。
それが、孤独な日々の始まり。立場も相まって、真っ直ぐに会話ができる相手などいなかった。
――それを。
「……でも、木枯。それでもあなたは、虎徹が好きなんですよね?」
「……はい。好き、です」
未だに、その言葉を口にするのは抵抗がある。恋だの愛だの……小説の中だけの話で、自分には関係ないと思っていたが。本当に、わからないものだ。
自分が――恋を、するなどと。
「虎徹さんは、私の世界を変えてくれた人ですから」
「確か、いきなり道場に殴り込んできたんですよね?」
「はい。今でも覚えています」
苦笑を零す。虎徹とのファーストコンタクトは、決して良いものではなかった。今も虎徹と二人きりで鍛錬を積む道場……誰も使わないその場所で、刀をたった一人きりで振るっていた自分に、虎徹は言ったのだ。
〝何だ、サボろうと思ってたんだが……先客がいるじゃねぇか〟
最初はいきなり何だ、と思った。粗暴で、礼儀を弁えているようには見えず。
――けれど。
その人が、初めて言ってくれたのだ。
〝オメェ、名前は?――へぇ、良い名前じゃねぇか。俺は虎徹。よろしくな?〟
名前を聞いて。
手を、差し出して。
あまりにも当たり前なことのはずなのに――自分にとっては、全てが初めてで。
泣いてしまった、記憶がある。
「……思い出すと、恥ずかしくなってきました」
「ああ、確か泣いたんですよね?……そんなに嬉しかったんですか?」
「はい。あの時はどうして泣いてしまったのかがわかりませんでしたが……今ならわかります。私は、初めて名を呼んでもらえました」
それがきっかけ。それ以来、虎徹は毎日来てくれるようになった。それから、自分をこの神道家から連れ出し、多くのことを教えてくれた。
虎徹が兄と共に《七神将》となった時は、本当に嬉しかった。けれど、忙しくなって会えなくなるのは残念で……一人で泣いた記憶もある。
いつからそうなったのか。
最初からそうだったのか。
今の自分にはわからないし、わかる必要もない。個の想いを自覚しているだけで、十分だ。
――けれど。
「まあ、想いを自覚しているかどうかと現実に上手くいくかどうかは別ですしねー」
「……心を読まないでください」
結局、そういうことだ。あの人のおかげで変われたのだ。変わっていきたいと、心からそう思う。けれど、行動が伴わない。
どうすればいいのかが――わからないのだ。
「別に木枯は十分魅力的ですし、そう構える必要はないと思うんですがねー」
「……私は見ての通り武術しかできない女ですし……料理の一つもできない女など……」
「そういえば、虎徹って料理上手ですよね。というか、家事全般が。人は見かけによりません」
「そ、そうなんです。虎徹さんは料理どころか家事全てをこなせて、だから、その……私……は……」
「ほら、落ち込まない落ち込まない。何も虎徹が『家事のできない女は嫌いだー』などと口走ったわけではないでしょう?」
「……………………」
「……まさか」
「……今朝、『嫁の貰い手がなくなる』と、言われ……て……」
「ああ! 泣かないでください木枯!――というかあの馬鹿。これはきっちりお灸を据える必要がありそうですねー……!」
「わ、私……私、やっぱり、駄目、なのでしょうか……? こ、こんな私じゃ、虎徹、さんとは、つ、釣り合わない、から……」
「落ち着きましょう、木枯。……後で虎徹はオシオキですね」
「……う、うう……」
いつもの凛とした雰囲気はどこへやら。見た目なら自分よりも幼い帝に縋り付くようにして泣く木枯と、それをあやす帝。少し離れた客間では真面目な話が行われているというのに、こちらは緊張感皆無だ。
「わ、私は……他人に、誇れる、ようなところは……少しも、なくて……」
「そんなことはあまりませんよ、木枯。あなたにはあなたの魅力があります。……とりあえず、顔でも洗ってきてはいかがです?」
「…………はい」
よろよろと立ち上がる木枯。普段の彼女ならこんな姿はまず見せないのだが――虎徹のことが絡むと、彼女の心は驚くほど弱くなる。帝としては、その背中を苦笑して見送るしかない。
廊下を歩いていく木枯。情けないと思いつつも、しかしその右手にしっかりと刀を握っているところは流石というべきか。習慣というのは恐ろしいものである。
「……帝に、また情けない姿を……」
自己嫌悪に陥りながら、しかし、木枯は内心で帝に多大な感謝をしていた。《七神将》である兄や虎徹ならともかく、帝にとって自分は取るに足らない一兵卒。名前を覚えてもらうことさえあり得ない相手だ。それが、こうして恋愛相談までしてくれるとは……主君として、申し分ない相手だと思う。
無論、木枯は気付いていないが帝にも思惑はある。木枯は近い将来、間違いなく《七神将》の一角を担うことになるほどの実力者だ。その彼女と親交を深めておくことは、帝にとってメリットしかないのである。信用、という言葉は重要だ。それも木枯程の才能を有する人間から得られるのであれば……これ以上のことはない。
まあ、ギブ・アンド・テイクである。帝が悪いとか、そういう次元の話ではない。
「……ふぅ……」
冷水を被り、頭を冷やす。最近の自分はどうにも不安定だ。昔はこんなこと、なかったのに――……
「――――ッ!?」
過去へと飛ぼうとしていた意識は、一瞬にして停止した。濃密な殺気。張り詰めた空気。これは――戦場の匂い。
神道家の屋敷には、必要最低限の使用人しかいない。それも夜になれば大抵が町へと帰っていく。普段はよく泊まっていく虎徹と清心、そして木枯しかいないこの屋敷の夜は非常に静かだ。今日は帝と玄十郎がいるとはいえ、たった二人ではそう変わるものでもない。
だが――この空気は。
濃密な殺気。それでいて、未だ人の気配はしない。勘が正しければ、十や二十ではくだらない数の『何者か』がいる。
「…………」
ゆっくりと、木枯は腰の刀へと手を伸ばした。そして、その手が柄に触れようとするその瞬間。
「――――!」
その右手が振り上げられ、何かを掴んだ。金属の冷たい感触が指先から伝わる。これは――手裏剣? それも、一般にイメージする十字型の手裏剣ではなく、ナイフのような形をした手裏剣だ。
隠密。〝忍〟とも呼ばれる存在が使う道具だ。諜報、暗殺を得意とし、歴史の裏側にあり続けた存在。
そして、手裏剣に刻まれている印は――
「――甲賀忍軍か」
「如何にも」
聞こえた声に反応して顔を上げると、いつの間に現れたのか、二十人近い黒装束の集団に囲まれていた。木枯の正面、おそらくこの集団のリーダーであろう男が、その鋭い視線をこちらに向けてくる。
「神道木枯とお見受けする。その命、奪わせてもらおう」
「理由を聞いても、答えないのだろう?」
「無論」
返される返答は簡潔だ。当然である。忍とは、文字通り耐え忍ぶモノ。相手に何かを悟らせるような愚は犯さないだろう。
木枯は腰に鞘を括りつけると、その刀の柄をしっかりと握り、鋭い視線を自身を取り囲む忍たちに向ける。
「伊賀忍軍と同じく、陛下によって滅ぼされたと思っていたがな」
「我らは滅びぬ。神道家、我らが怨敵よ。貴様らに蹂躙されし同胞の仇、討たせてもらうぞ」
「……同胞、か」
忍――戦国の世において名を馳せ、現代でもつい最近まで存続していた集団だ。甲賀と伊賀。二つに分かれていたそれらの忍を、大日本帝国は広く利用していた。しかし、今より数年前、突如帝による大粛清が行われ、その歴史に幕を閉じる。
その理由は、『知ってはならぬことを知った』とのこと。木枯とてその真意は知らないが、帝が率いる軍隊による伊賀・甲賀攻めは記憶に鮮明に焼き付いている。
何しろ――木枯にとって、それが初陣だったのだ。
その時、神道家が担当したのが甲賀忍軍。甲賀の隠れ里だ。そういう意味で、成程確かに敵討ちという道理はわかる。
――しかし。
「――温いな」
月明かりしか頼れるものがなく、敵の姿さえはっきりと見えない闇の中。
それでも、神道木枯という侍は崩れない。
侍は、この程度では揺るがない。
「貴様らの滅びの理由は一つ。陛下に仇なしたがため。我ら侍も、貴様ら忍も主君のために滅私を行い散るのが道理。主君に滅べと命じられれば、誉れと滅びに向かうが道理だ」
「納得の出来ぬ滅びを、受け入れられるものか」
「納得? それこそ『私事』だ。我らは納得の必要はない。陛下のお言葉が全てなのだからな」
滅私とは、そういうこと。
全てを懸けて、仕える。使い捨ての道具だということは、とっくにわかっているのだ。それこそ、今更に過ぎない。
侍と忍。その在り方に大きな違いはあったが……そこだけは、同じであっただろうに。
先程まで帝と話していたからこそ、木枯は一瞬で思考を切り替えることができた。あのお方を守る。理由は、それ以外に必要ない。
「私怨を抱いた時点で、貴様らは走狗にすらなれていない。かかってこい、『何者でもなき存在』よ。我が名は木枯。神道木枯。走狗にすらなれぬ貴様らに名乗るのは少々惜しいが、せめてもの礼儀だ。この名を手向けに持っていけ」
「――殺せ」
言い終わると同時、男が周囲にそう命じた。
音もなく、暗殺者たちが四方八方より迫り来る。逃げ場はない。退く場所もない。
――退けないのであれば、前に進むのみ。
思考はいつだってシンプルだ。それも、今この場所は戦場。考えることは、たった一つでいい。
見敵、必殺。
ここにいる者たちは敵だ。それも、陛下に正面から仇名す隠者たち。
ならば――容赦は欠片も必要ない。
「――推して参る」
言葉と同時。
一番最初に木枯へと刃を突き立てようとしていた男の首が――飛んだ。
「一つ」
呟くような木枯の言葉が、静かに響く。
噴き出す鮮血。迫り来る白刃。その中で、まるで舞姫のように優雅に、侍は刀を振るう。
「二つ、三つ、四つ、五つ」
煌めくのは、閃光。神速――居合の技がそう呼ばれる理由は酷く単純だ。『鞘走り』という、刀の鞘を利用した抜刀速度が最早人の目には追えない速度を実現するという、酷く単純な理由。
しかし、それでもここにいる者たちは百戦錬磨の隠密。それも戦国の次代から脈々と続いてきた忍の集団だ。居合に対する技術も当然のように修めている。
「六つ、七つ、八つ」
しかし――現実において、その集団はたった一人の少女に斬り伏せられている。その体を夥しい量の血液が濡らしているが……それは全て返り血だ。
「九つ、――十」
ヒュン、という静かな風切り音が響き渡った。そこに展開されていたのは、惨劇の場所。
神道木枯という、見た目だけならばまだ年若き少女を中心とした、血の海と死体の散乱した地獄。
「この程度か、忍共」
確認するような問いかけ。しかし、その言葉には僅かな落胆が込められていた。
忍については、兄や帝――虎徹などから何度か聞かされたことがある。大日本帝国の闇を常に支えてきた影の存在であり、集団戦においては時に侍さえも討ち取るほどの力量を有しているらしい。
しかし――弱い。
別に、自分は強者と戦うことに喜びを見出すような――いや、違う。これは、〝神道家〟という呪われた一族の性だ。
最強たれ。
無双たれ。
天下に、その武を以て君臨せよ。
神道家が伝える流派、神道流の理念だ。木枯も、幼き頃から病気のようにそれを繰り返された。故に、彼女の中には自然とその理念が息づいている。
最強たれ。
誰よりも、誰よりも。
決して屈せぬ、強き力を。
「……いずれにせよ、陛下にとっての敵は我が敵だ。逃がすつもりはない」
刀の柄を強く握り締める。残るは十人。殺し尽くすのはそう難しいことではないはずだ。
しかし。
「……成程、流石は音に聞こえし神道流。傷一つつけることさえ叶わぬとはな」
笑み。集団のリーダーであろう男はそう呟き、僅かに笑った。
そして、だが、とその男は口にする。
「――我らの勝利だ」
直後。
いくつもの轟音が、屋敷中で響き渡った。
◇ ◇ ◇
「…………ッ、痛ぇな……」
身を起こしながら、辻堂虎徹は小さく呻いた。あの時、屋敷の灯りが消えた瞬間、暗闇の中を無数の襲撃者たちが襲いかかってきた。流石にいきなり暗くなったために苦労したが、そこは三人が三人共、達人と呼ばれる武芸者である。撃退は問題なかった。
そして、ある程度襲撃者たちを蹴散らした後、三人は別行動をとることにした。この時間、屋敷にいるのは自分たち以外に木枯と帝だけ。虎徹自身が大きく実力を評価している木枯はともかく、帝はその言動や仕草、立ち振る舞いから忘れがちだがまだ年若い女の子である。一刻も早く助けに行かなければ。
――今の爆発で死んでやしねぇだろうな……!?
探そうとした矢先の、屋敷中の爆発。玄十郎によると、甲賀の忍――一度滅ぼした隠密共が相手とのこと。何故このタイミングで、しかも神道家の本家に直接攻撃を仕掛けてきたのかはわからないが、攻めてきた以上は後悔させるだけ。
虎徹が参加したのは伊賀攻めだ。帝はその理由を『知ってはならぬことを知ったため』と言っていたが、正直虎徹にはどうでもいい。問題は、この状況を――
ぐちゅり。
生理的に思わず嫌悪感を抱かずにはいられない、そんな音が響き渡った。
「…………あァ?」
音が聞こえてきた場所――自身の腹部を見つめる。そこには。
――深々と、一本の柱が突き刺さっていた。
ごふっ。
反射的に、口から大量の血が溢れ出した。そのまま、ゆっくりと体が倒れ込む。
「……さっ…き、の……爆発、か……?」
この部屋に踏み込んだ瞬間、爆発に巻き込まれた。建物が吹き飛ぶような爆発だ。多少の手傷は覚悟していたが――これでは。
――体が、動かねぇ……!?
視界が揺れ、腹部が焼けるように熱い。このままではマズいと、本能が警告する。しかし、どうにもできない。
パキン、という音がした。視界の中に、黒装束の足が二人分、映り込む。
「……クソ、……がっ……!」
最悪のタイミングだ。平時であれば、負けるようなことはない。むしろ多少の手傷があっても勝てる自信がある。
しかし、今は。
刀を握るどころか――顔を上げることさえ、できはしない。
白刃が煌めく。武士道とは死ぬことと見つけたり――清心などはよくこの言葉を口にする。しかし、虎徹はこの言葉に頷けない。
侍などという生き物は結局、人斬り包丁を振り回すだけの殺人者だ。故に、その終わりは理不尽なものと理解している。
だが、違う。
ここはまだ――死ぬべきところじゃねぇ!
「…………お、おおっ……!」
拳をつき、起き上がろうとする。しかし、敵は待ってくれない。
振り下ろされる白刃。その刃が、虎徹の首を――
「――虎徹さん!!」
その刃が到達する直前、銀色の一閃が世界を薙いだ。
飛び散る鮮血。それらを全身に浴びながら。
侍が――現れる。
その、姿を見て。
どこか……安心した。
◇ ◇ ◇
虎徹の状態は、目に見えて最悪だった。とりあえず柱を斬り、虎徹の体を起こす。虎徹は自分を見ると、ははっ、と口元から血を零しながら苦笑した。
「……カッコ、悪ぃとこ……見られ、ちまったなぁ……。情け、ねぇ――がふっ!」
「喋らないでください! 今、手当てを……!」
まずは突き刺さった状態の柱を抜かなければならない。木枯はすぐさま虎徹に突き刺さった状態の柱を掴む。
しかし、そこで気付いた。
――これを抜けば、その場で間違いなく失血死する……!
「う……あ……ああっ……!」
手が震える。嫌だ。こんな、こんな形で。
目の前にいるのに。手が届くのに。どうして――どうして、ここにいる私は。
最強を目指しながら。
無双を目指しながら。
目の前の大切な人さえも――私は救えないのか!?
「……やっぱ、オメェ……いい女だな……」
不意に、虎徹がそんなことを呟いた。
「オメェ、綺麗で……でも、人が、苦手で……けどよ、やっぱり……優しいからよ。……俺のために、泣いてくれんのか……?」
「…………ッ!?」
そこで、木枯は気付く。
自分の頬を伝う……涙に。
「……オメェ、誤解されやすいから……貰い手がいねぇなら……、俺が、貰おう……なんて思ってたけどよ……」
――唇に、何かが触れた。
それが虎徹の唇だと気付くのに――時間がかかった。
「ははっ……奪ってやった。……やっと……奪えた……」
虎徹は笑っている。木枯は呆然として、何も言えない。
「なぁ、木枯……オメェは、良い女だ。だから、だからよ……俺ァこの様だから……オメェが、倒せ」
震える手で、虎徹が一本の刀を差し出した。それは普段、虎徹が使っているものではなく。
木枯には見覚えのある――神道家の〝神剣〟だった。
「ここで、拾ったが……俺ァ、この様だから……」
木枯は、震える手でその刀を受け取る。その様子を見て。
最後に……静かに、辻堂虎徹は微笑んだ。
「……後、任せた」
そして――その目が、閉ざされる。
その手が――地に堕ちる。
「…………あ」
呻き声のようなものが漏れた。
目の前にいるのは、自身にとって誰よりも大切な人。
それが、今。
ジャリッ。
背後から音が響いた。それが忍びたちのものだとは、容易にわかった。
「――――」
それは、声だったのか。
それとも――吐息だったのか。
こんな時でも。
刀を抜く自分は。
やはり――狂っているのだろうか?
「――――――――!!」
咆哮が、大気を揺らす。
抜き放たれた刀の刀身は、血のように紅い――朱色。
名を、〝血桜〟。
血を吸い過ぎたが故に朱に染まりし刃が、月光の中で煌めく。
◇ ◇ ◇
「……《剣聖》の後継者の覚醒。これを仕組んだ《女帝》には感謝しなくちゃいけませんねー」
あはは、と笑い声が響く。月明かりの中、血の海と化した部屋にいるのは帝だ。その視線の先には、目を閉じ、沈黙している虎徹がいた。
腹部を貫く、木の柱。成程、あれでは抜いた瞬間に失血死する。木枯が暴走するように戦っているのも、これが理由か。
「正直、あなたには随分と働いてもらいましたから。ここでお疲れ様、と言って眠っていただくのも十二分にありなのですが。――少々、勿体ない」
そう、勿体ない。
――辻堂虎徹。その力をここで失うのは、少々惜しい。
「私の計算が正しければ、あと十年もしないうちに戦争が起こる。そう、戦争。世界を巻き込む大戦争です。そこにはおそらく、私の同胞たちが現れる。……正直、あのバケモノたちを相手取るのに、力ある者は何人いても足りません」
言って、帝は一気に虎徹の腹部に突き刺さった柱を引き抜いた。
鮮血が噴き出す。それを眺め、まあ、と呟く。
「全て元通りとはいかないでしょうが……命ぐらいは、繋ぎましょう」
その全身を血に染めながら。
どこかつまらなさそうに――帝は、そんなことを呟いた。
◇ ◇ ◇
甲賀忍軍による、神道家襲撃事件。その報は大日本帝国を駆け巡り、様々な憶測を呼んだ。
しかし、実際のところ重傷者こそ出たもののこちら側の死者は零。対し、甲賀忍軍はそのほとんどが討伐され、僅かな残党が逃げたのみ。結果を見れば、完全な勝利だ。
それに、大日本帝国は過去の残滓に関わっている余裕はない。
最悪の反逆者、《吉原最後の女帝》――出木天音。
彼の者の勢いは凄まじく、戦いが長期化しているのだ。人々の関心はすぐにそちらへ呼び戻される。
それは、当事者たちにとっても同じだった。
「……生きてて、良かった、です」
泣きそうな顔で、それでも必死に涙を堪えながら、木枯はそんなことを口にした。そんな木枯の様子を見て、ベッドに横たわった状態の虎徹は苦笑を零す。
「ああ。心配かけたな」
「……心配、しました」
「だから悪かったって」
今にも泣き出してしまいそうな木枯に、虎徹は苦笑するしかない。木枯もこれではいけないと思っているが、正直どうしようもない。
虎徹は苦笑のまま、そんな木枯の頭を撫でる。そうしながら、なぁ、と言葉を紡いだ。
「申し訳ないついでによ。……俺の頼み、受け入れてくれねぇか?」
「虎徹さん、それは……!」
「――もう、な。俺の体は、痛みを感じねぇ」
木枯の頭から手を離し、自身の右掌を見つめる虎徹。そう――あの襲撃によって重傷を負った虎徹は、その感覚神経をやられた。主に痛覚の機能が潰されたらしく、体が一切痛みを感じなくなったのだ。
幸いというべきか、触覚は失われていなかったため、日常生活は問題ない。
しかし、しばらく戦いは無理だ。刀とは、非常に繊細な感覚を必要とする。それを奪われては……まともに戦うのは、正直難しい。
「妙な感覚だ。痛みだけがねぇ。……こんなんじゃ、帝たちに迷惑をかけちまうからよ。――頼む」
「……わかりました。お預かりします」
差し出されたものを受け取り、木枯が頭を下げる。受け取る、ではなく預かるという辺りが……木枯らしい。
「ああ。頼んだぞ」
その言葉に頷き、木枯は受け取った者――《七神将》のみが着ることを許される軍服の上着を羽織る。
純白の軍服。その背に刻まれるのは――〝忠〟の一文字。
七神の一人として虎徹が背負い、改めて木枯が背負うと決めた……信念。
「はい」
その腰に、一族の神剣を差し。
静かに、木枯は頷いた。
とりあえず、リクエストいただいた木枯主軸の短編……のはずです。
ええと、今回は木枯が《七神将》に加わった経緯であり、同時に虎徹が何故《七神将》でないのかについての物語です。
正直、本編の彼ならもう一度《七神将》に戻れそうですが……まあ、色々あったということで一つ。
そして、清心ですが。
彼は本編においては既に故人です。天音の言う『あの人』です。
彼については、いつか語れればいいなぁ、と。……まあ、語れずとも問題ないのですが。
ではでは、もう一つほど短編を挟んでから、ようやく本編に移る予定です。
感想、ご意見お待ちしております。
ありがとうございました!!