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英雄譚―名も亡き墓標―  作者: アマネ・リィラ
美しき日々―追憶―
47/85

追章 壊れた世界と乞われた世界

時間軸は本編より十年前。途中でそこから四年後になります。

メッセージで頂いたリクエスト、『出木天音の過去』、その断片です。

というわけで、始まり始まり~


 コツン、という鹿威しの音が響き渡る。奥州に座す、大日本帝国御三家が一角、『神道家』の本家。一説によると、四百年前にこの日ノ本に覇を唱えし一族『藤堂家』よりも古い歴史を有するとされる彼らは、文字通り『最強』の一族である。

 奥州という厳しい環境を生き抜くために必要とされたのは、絶対的な力だ。神道家はそれを実現したからこそ、奥州をまとめ上げ、統治し続けてきた。

 その神道家に、一人の客人が訪れていた。白衣を纏い、眼鏡をかけた年若き美女だ。

 対し、その客人と向かい合うのは二人の男女。神道家の当主とその夫である。

 コツン、とまた鹿威しの音が響く。先に挙げた三人がいるのは小さな和室だ。彼ら以外に人影はない。客人の身分や素性を考えれば護衛の一人さえいないのは有り得ないことだったが、神道家の当主たる神道木枯とその夫、神道虎撤は共に一騎当千を数えられる英雄である。故に、相手が大日本帝国最大の反逆者である《女帝》であろうとも、護衛を付ける必要はない。

 むしろ、護衛が邪魔になりかねない相手だ。

 コツン、と再び鹿威しの音が響く。向かい合いう影は三つ。しかし、その全てが面を上げているわけではない。


「……オメェ、正気か?」


 声を発したのは、この中で唯一の男である虎徹だった。彼にしては珍しく、厳しい声色の中に困惑が込められている。その隣に座る木枯も、厳しい表情をしていた。


「正気であるならば、私はここにはいません」


 対し、頭を下げ、両手を畳へと付いた状態の女性――俗に言う土下座の姿勢で、客人たる女性は言葉を紡いだ。その言は常の彼女らしからぬ硬質さを孕んでおり、それがより一層、虎徹を苛立たせる。


「……とりあえず、顔を上げろ」


 吐き捨てるように虎徹が言うと、客人たる女性――出木天音はゆっくりと顔を上げた。その顔には如何なる戦場においても崩れることのなかった世界全てを嘲笑うような微笑はなく、どこか生気のない顔をしている。


 ――いや、一度だけ泣いたことがあったか。


 今から約半年程前。大日本帝国史上においても類を見ないほどに大規模となった《女帝》率いる『吉原』が中心となった叛乱。それを収束させるため、すでに《女帝》によって二人も討たれていた《七神将》から一人の怪物が戦場に出た。

 神道、清心。

 木枯の兄であり、神道家先代当主。木枯以上に期待され、事実、その期待に応えていた男は――《女帝》と一対一で殺し合い、その命を落とした。

 その時、最早物言わぬ死体となった彼に、彼を殺したはずの《女帝》――出木天音が延々と心臓マッサージを繰り返していたのだ。

 降りしきる雨の中。

 背に、自身が背負ってきた者たちを。

 正面に、自身が敵対してきた者たちを前に。

 ただただ泣きながら――繰り返し、心臓を叩き続けていた。

 その後、帝より《女帝》へ休戦の申し出が出され、事実上、戦乱は止まったのだが――


「オメェ、どうして……どうして俺たちのところへ来た」

「…………」

「信用できる奴なら他にいるはずだ。オメェは《女帝》なんだからよ。……それに、俺ァ未だにオメェを許せちゃいねぇ」


 拳を握り締め、吐き捨てるように虎徹は言う。


「アイツを殺したオメェを……許せる気がしねぇ」

「…………許されるつもりはありません。私の罪は、全てこれから雪ぎます。しかし、あの子は関係ありません。生まれてきた命に、罪はない」


 変わらず硬質的な口調で、天音は言う。その言葉はあまりに重く、同時に……聞かされた内容から、二の句を継ぐのが難しくなる。

 出木天音という女性は天才であり、天災だ。その頭脳は虎徹などよりは遥か上位に位置する。そうでなければ、大日本帝国を敵に回して休戦にまで持ち込むなど、正気の沙汰ではない。

 しかし――だからこそ。

 だからこそ、わかるのだ。

 ――その答えが、天才が出した『たった一つの冴えたやり方』なのだと。


「天音」


 不意に、木枯が口を開いた。右目を失っている彼女は、その残された左目で天音を見つめている。


「我が神道家は、お前に対して多大な罪がある。それ故に、私も虎徹さんも……兄上も、極力お前と戦場で向かい合うことは避けるようにしてきた。今回の件も、お前の頼みであるというのなら――」

「――私と神道家の間にあった確執は、既に清算されています」


 木枯の言葉を遮り、天音は首を左右に振った。苦笑のようなものを浮かべながら、天音は言葉を紡ぐ。


「『あの人』も、最後までそのことを気にしていましたが……もう、良いのです。あの男をこの手で殺すことが叶わなかったのが心残りですが、あなたの右目と、あの人の……あの人の命で全ては清算されました。だからこれは、私個人としての――出木天音としての頼み事です」


 お願いします、と天音は言った。


「迷惑をかけることは重々承知です。しかし、あの子はあなた達にとって決して不利益にはならないはず。どうか、お願いします」

「……確かに、俺たちには子供がいねぇよ」


 ふん、と鼻を鳴らして虎徹が言葉を零す。


「だがな、あの子はオメェが腹を痛めて産んだガキだろうが。それも、アイツとのガキだ。……オメェ、それを手放すってのか?」

「あの子の未来のためです」

「本当の親から引き離されることが――そのガキにとって幸せだってのか?」

「あなたたちならば、あの子を幸せにしてくれると信じています」

「――――ッ、オメェは――……」


 言い募ろうとした言葉は、最後まで紡げなかった。隣では、木枯も息を呑んでいる。

 ――鮮血。

 天音の口元から、一筋の鮮血が滴っていた。おそらく、食い縛り過ぎたが故に零れたものだろう。

 それだけではない。

 血涙。

 天音の右の瞳から流れるそれが、どうしようもなく――彼女の心の中を示していた。


「……私とて、この手で育てられるのなら育てたいのです」


 俯き、体を震わせながら。

 天音は、血を吐くようにそう言った。


「けれど、私は……! 私は、出木天音なのです! 大日本帝国最大の反逆者であり、神道家が生んだ不義の子供! こんな私の下にいて、あの子が笑えると思うのですか!?」


 その慟哭は、あまりにも痛々しく。

 同時に――切ない。


「利用され、その果てに笑顔を失う! そんな未来は認めません! 認められやしない! それに私は……私はっ、吉原の《女帝》なのです! あの子一人のために、私について来てくれている全てを犠牲になどできない!」


 その慟哭に対し、木枯は瞳を閉じ。

 虎徹は――唇を噛み締めた。

 ――そして。


「……言いてぇことはわかった」


 顔を上げず、俯いた状態の天音。そんな彼女に対し、居住まいを正して虎徹は言葉を紡ぐ。


「これから牢獄に入る馬鹿の――義妹の頼みだ。聞いてやる。だが、条件をいくつか呑んでもらうぞ」

「……はい」

「まず、一つだ」


 残酷なことを言うことはわかっている。しかし、虎徹は敢えてそれを口にした。

 それが――ケジメだ。

 親となる者として。

 子を手放す者として。

 それが、最低限の線引き。


「あの子に、本当の親のことを一切口にするな」

「……言われずとも、そのつもりです」

「ならいい。二つ目だ。……自分からは決して、あの子の前に現れるな」

「……虎徹さん」


 木枯が僅かに声を上げるが、それを虎徹が睨むことで黙らせた。そして、三つ目、と虎徹が言葉を紡ぐ。


「親としての最後の仕事だ。――名付けぐらいは、してやりな」


 天音は一瞬、驚いた表情を見せ。

 はい、と深々と頭を下げながら頷いた。



◇ ◇ ◇



 古都・京都。

 大日本帝国の西方に位置し、古き時代より大日本帝国の絶対的な王である『帝』が常に座していた場所。

 その最奥に聳え立つは、帝が座す『御所』と呼ばれる建物だ。広大な敷地に建てられたいくつもの建物は豪奢であることは間違いない。しかし、西洋の建物に比べるとどうにも質素だ。そういうところで、この極東の島国の文化が現れている。

 風流。金銀財宝ではなく、四季の移り変わりを始めとする『そこにある美』を大切にする文化。

 出木天音は、大日本帝国という国が嫌いだ。この国は彼女からあまりにも多くのものを奪ってきた。得たものもあるが……しかし、やはり失ったものの方が多い。

 本当に、失ってばかりの人生だ。愛する人も、愛する者も。信じた友も、信じてくれた者たちも。

 ――しかし、それももう終わり。

 今日ここで――一つの決着を着ける。

 そのためだけに、ここへ来た。



「よく来ましたね、《吉原最後の女帝》――出木天音」



 御所の最奥。文字通りの『頂点』が座すその場所に、そんな声が響き渡った。年若い少女の声だ。しかし、油断してはならない。そこにいるのは、大日本帝国を束ねる象徴であり〝神〟。

 神より与えられたという三種の神器、その所有権を有する存在――帝だ。


「それとも、神道天音とお呼びした方がいいですか?」


 美しい蒼の髪を揺らしながら、豪奢な衣装を身に纏ったその女性が微笑む。天音は見上げる形になるその少女の瞳を見据えながら、硬い表情で言葉を紡いだ。


「私の姓名は出木です。木より出ずる、天より堕ちた音。神道の名など、名乗る権利もなければつもりもありません」

「そうですか。それはそれは……木枯と和解したと聞きましたが?」

「神道木枯個人との和解が、そのまま彼の一族との和解には繋がりません。私は今も尚、神道家という一族を許してはいない」

「あなたを捨てた男はもう死んでいるのに?」

「だからこそです」


 言い合う二人の間に、一触即発の空気はない。しかし、温い……停滞するような淀んだ空気が漂っている。

 笑い声が響いた。帝の声だ。彼女は自身の玉座から降りると、楽しそうな表情で天音を見つめる。


「私の印象では、あなたは酷く聡明で、冷静で、冷徹で、冷酷で……目的のために手段を選ばないある種の機械兵器のようなイメージだったのですが。中々どうして。随分、熱いではありませんか」

「手段など選べはしませんでした。我々は女子供の叛乱から始まった逆賊。今でこそこうしてあなたが休戦を申し入れ、立場を保証されるまでに至りましたが……それは結果論。私があなた達に何と呼ばれているかぐらい、十分承知です。外道、鬼畜、人でなし――それを生んだのは、あなたたちでしょうに」

「あはは、耳が痛いですねー。確かに、吉原を放置していたのは私たちの欲望から。私自身はどうでも良かったのですが、他の人たちが必要というので。まあ、確かにああいう欲望の捌け口というのは必要です」


 くるりと、豪奢な衣装を纏いながら帝が一回転する。その口調や立ち振る舞いからは威厳というものが感じられないが、しかし、天音は踏み出せない。


 ……怪物、化け物と呼ばれてきましたが。私などより、余程『コレ』の方が怪物じゃないですか。


 大日本帝国が誇る、天才たちの集団《七神将》。帝国議会の老人たち。天音はこの叛乱においてその怪物たちとも互角以上に渡り合ってきた。帝国議会に関しては最終的にこちらへと協力を取り付けたし、《七神将》に至っては三人も討ち取っている。

 故にこそ、天音は怪物と呼ばれ、化け物と呼ばれてきた。天音自身、自分の能力がそう呼ばれるに値するものだと自己評価していたため、むしろその流言を利用していたのだが――


 ……何ですか、『コレ』は……?


 いつもの笑みなど浮かべる余裕がない。アレはこちらの手札がない状態でも、相手に『まだ何かがある』と思わせるポーカーフェイスのようなものだ。それはこの場面でこそ用いるべきであり、そんなことは先程からずっとやろうとしている。

 しかし――できない。

 圧倒されている。別に自分がこの世界において最上の存在などと思い上がっているわけではない。例を挙げるならば、《七神将》第一位《剣聖》藤堂玄十郎などその最たる例だろう。一度だけ戦場で向かい合ったが、殺されないようにするだけで精一杯だった。

 そんな男が戴く存在だ。帝というのも相当なものだろうと予測はしていた。けれど。

 いくらなんでもこれは――無茶苦茶だ。


「どうしました?――震えていますよ?」

「――――ッ!!」


 滑るようにしてこちらとの距離を詰めた帝が、無造作にこちらに触れようとしてくる。天音は反射的にその手を振り払い、懐から銃を抜いた。

 ガチリと、撃鉄を起こす。額に銃口を押し付けられ、十五、六程度の少女はしかし――微笑んでいた。


「撃ちますか? そういえば、前回はトラちゃんが庇ってくれたおかげで撃てませんでしたからね。丁度いいです。見せてあげますよ。――本物の狂気を」



 銃声が響いた。

 鮮血が、床を濡らした。


「――――ッ」


 ただ――それだけだった。



「……化け物が」

「あはは、らしくない言葉遣いですねー」


 額から流れ出る血を舐め取りながら、酷薄な笑みを帝は浮かべる。

 正確に額を撃ち抜いた。普通ならどんな人間でも殺せているはずだった。

 しかし――無意味。

 殺すことは、できない。


「さて、それでは断罪の時です」


 ベキン、という鈍い音が響いた。天音が持っていた拳銃が、帝によって握り潰された音だ。


「吉原は自治区とし、その統治を現吉原頭領である出木氷雨――あなたの義妹に預けることにします。まあ、税金はきっちり納めて頂きますが」

「…………」

「しかし、吉原はそれで良くともあなたは駄目です。流石にあなたは色々とやり過ぎたんですよ。あなたを庇ったのは、新たに《七神将》に席を連ねた神道木枯ただ一人。それさえ負い目からです」

「……わかっています」


 両手を下げ、そこで初めて天音は微笑を浮かべた。


「助命の代償は、この命。――そういう契約でしたね」

「覚えていたようで何より。あはは、危うく取り立てに伺うところでしたよ」

「怖いですねぇ」


 言いながら、嗚呼、と小さく天音は内心で呟く。

 心残りは全て清算してきた。あの子のことも、義妹のことも――義妹は最後まで反対していたが――全て、なるようになった。自由を、自分について来てくれた者たちへ与えることができた。

 もう、十分だ。

 これ以上は、生きていることが重荷になる。


「さて、私の処遇は如何様に?」

「銃殺刑か切腹か。頭の悪い議会の坊やたちはそんなことを口にしていましたが……私はそれでは足りないと思いまして」


 無邪気。一見するとそんな風に感じる笑みを帝は浮かべ。

 その罰を、言い渡した。


「――死ぬまで一筋の光さえも見れない牢獄行きなど、どうでしょう?」



◇ ◇ ◇



 両手足を拘束され、放り込まれた場所は漆黒の空間だった。

 気配はない。あるのは、自身の息遣いの音だけ。


「ああ、そういえば。あなたを取り返しに出木氷雨がここへ来ましたよ。もう一人、鼠が紛れ込んだようですが……そちらについてはアキちゃんが深手を負わせたようなので、どうでもいいです。ああ、殺していませんよ? それは契約違反ですから」


 もう、どれくらい前か……最後に聞いたその言葉を思い出す。帝、大日本帝国。その二つを信じることはできない。あれはどうあろうと敵だ。

 しかし、その敵に容易く喰われる程に自分の仲間たちは弱くない。ならば、できることは信じることだけ。


 ――信じるとは、しおらしいものです。


 昔の自分は、自分一人で全てを成さなければならないと思っていた。吉原に囚われていた女たちは誰もが非力で、頼ることなどできなかったから。

 けれど、多くの戦いと悲劇を越えて。

 どうにか――ここまで来て。

 今は、彼女たちを信じきっている自分がいる。


 ――変わったものですね、私も。


 一人だった昔。一人きりで、涙を流す女たちを救おうと立ち上がった。

 一人で泣いていたあの日。偶然出会った男に慰められ、初めて自分が〝女〟だということを自覚した。

 二人きりでお互いの身分を明かした日。どうしようもないほどに泣き続けた。

 また一人になった日。もう戻れぬのだと自覚した。

 愛する人を殺した日。何もかもが、どうでも良くなった。

 命を宿していると知った日。――生きようと、そう誓った。


 出木天音は、大罪人だ。

 だからこれは、因果応報。絶対応報。


 良い人生だった。捨てられ、拾われ、背負い、背負われ、出会い、失い。

 何よりも大切なあの子を――得ることができた。


「…………」


 笑おうとして、声が出なくなっていることに気付いた。本当の意味で何も見えない漆黒の世界。言葉を発することがあまりにも少なすぎて、声が出なくなったか。

 人は二十四時間以上、文字通りの闇に放り込まれれば精神を壊されるという。帝が言う、『それでは足りない』というのはこういうことか。

 心を壊し、緩やかに肉体を死なせていく。

 そういう――絶望を与えると。


「…………」


 だとしたら――お笑い草だ。


「………………は」


 掠れた声が漏れる。結局、あの怪物は自分のことを理解していなかった。

 出木天音は、とうの昔に壊れている。


 壊れた世界。

 乞われた世界。


 そんな場所で生きていて、まともでいられるはずがない――……


 ――さあ、差し当たっては何を考えようか。

 そうだ、あの人は『笑って欲しい』とそう言った。

 そして、あの子に私は『笑って欲しい』とそう願った。


 ならば、どうすればいい?

 どうすれば、笑っていられる?

 考えろ。

 考えろ考えろ考えろ。

 奴らの目的を。あの怪物の行き着く先を。

 考えろ考えろ考えろ考えろ考えろ考えろ考えろ考えろ考えろ考えろ考えろ考えろ考えろ考えろ考えろ考えろ考えろ考えろ考えろ考えろ考えろ考えろ考えろ考えろ考えろ考えろ考えろ考えろ考えろ考えろ考えろ考えろ考えろ考えろ考えろ考えろ考えろ考えろ考えろ考えろ考えろ考えろ考えろ考えろ考えろ考えろ考えろ考えろ。

 時間は――いくらでもあるのだから。



◇ ◇ ◇



 陽の光を見たのは、いつ以来か。

 もう死んでいるのか生きているのかさえわからなくなっていた自分。そこへ、その言葉が届いた。


「――ここから出たいですか?」


 聞こえてきた声で、思考を途切れさせた。丁度いい。もう何回検証したかわからなくらいだったのだ。


「帝国議会が反旗を翻してきました。最悪なことに、本郷家までもが向こうに付いてしまう体たらく。情けない話ですが、猫の手も借りたい状況でして」


 どれぐらいの時間をここで過ごしたのかはわからない。しかし、そこに立つ少女は最後に見た日と変わらぬままだった。

 やはり――怪物か。


「まあ、あなたが『生きていれば』の話ですが。――死にましたか?」

「………………ははっ」


 どれぐらい振りに、言葉を発したのだろうか。

 乾いた笑い声は、まるで聞いたことのない他人の声のように思えた。

 だが、その笑い声が何よりの証拠だ。

 本来ならば、生きているはずがない。それほどの長い時間、彼女は囚われていた。

 ――しかし。

 日の出ずる帝国に牙を剥きし反逆の英雄は、未だ死していない。


「人望がないのですね、帝とあろうものが」

「こうなるように仕込みをしていたあなたに言われたくはありません。まあ、色々と間に合わなかったようですけど。あなたがここにいるのが、何よりの証拠です」

「……それで、私に何を求めるのです?」


 掠れた声ながらも、しっかり言葉を紡げていることに驚く。帝は、クスリと微笑を零した。


「我が帝国の覇道、その障害となるモノを全て排除していただきます。容赦も情けも慈悲さえも必要ありません」

「《七神将》は?」

「彼らはどうも、高潔に過ぎまして。それは必要な要素ではありますが、今回はあなたのような人間の方が都合がいい」


 手を差し伸べながら。

 その少女は、酷薄に笑う。


「見敵必殺、サーチ・アンド・デストロイ。陳腐な言い回しですが、手段を選ぶ必要はありません。あなたが背負ったもののため、何より――あなたが大切に想うあの子のために、その身を粉にして働きなさい」

「…………」


 その時、自分はきっと酷い表情をしていたのだと思う。

 こうならないように、こんなことにならないように――あの二人に、頼ったのに。

 それなのに。

 どうして――この怪物が。


「あなたには、《七神将》の席を用意しました。第三、第四位――二つの席を同時に襲名するのは歴史上においても例を見ない暴挙ですが、あなたならば背負えるでしょう?」


 眼前の、十五、六程度にしか見えない少女が浮かべた笑みに。

 背筋が凍るのを――感じた。


「私からのプレゼントもあります。さあ、どうしますか? 断る、という選択肢もありますけど」


 微笑を浮かべた、その少女の言葉に。

 逆らうことは、許されなかった。



◇ ◇ ◇



 九州地方。古くより『御三家』の一角である『本郷家』が治める地域で、現代においてもその地位を剥奪された元《七神将》第四位、本郷美鈴(ほんごうみすず)が預かっていた地域なのだが、今そこは叛乱軍の本拠地となっている。

 叛乱――一度、吉原の女たちを率いてそれを行った自分に、思うところがないわけではない。だが、それは昔のことだ。全てが今更である。

 今、天音が――というより、彼女が率いる部隊の者たちがいるのは、九州地方と中国地方の間にある『流浪島』と呼ばれる島が伺える海上だ。そこは叛乱軍にとっての最前線拠点であり、大日本帝国にとっては最初に攻略しなければならない場所でもある。

 何故なら、ここに長く逗留されることは即ち、本土攻略の拠点を築かれることと同義なのだ。


「――出木将軍」


 夜間。十分な距離を取って軍艦の上から流浪島を眺めていた天音に、背後から声がかけられた。振り返る。そこにいたのは、一人の青年――いや、少年だ。雰囲気からはそれなりの修羅場をくぐってきたことをうかがわせるが、その容貌はまだ若い。

 確か、名を蒼雅隼騎といったか。枢密院――現在はほとんど形だけの存在である帝の補佐機関であるそこに父親がいるという少年。

 まあ、言ってしまえば……監視役だろう。


「宣戦布告は行わないのですか?」

「宣戦布告?」


 隼騎の言葉に、天音は眉をひそめた。まだ齢十四程度であろう少年が、はい、と頷く。


「我々は陛下のご命令により、流浪島の奪還に参りました。そのためには現在不当にあの島を占拠している叛乱軍との戦闘は避けられません。戦闘が始まる以上、一般人の避難のことも考え、宣戦布告を行わなければ」

「……何を言い出すかと思えば。その若さで特務官になった天才と帝から聞いていましたが、ただの青臭い子供ですね」


 艦の柵に背を預け、天音がため息を零す。隼騎が、じろりと天音を睨んだ。


「どういう意味ですか?」

「若いですね。ええ、本当に青い。羨ましいくらいに。私はあなたくらいの歳で叛乱を起こしましたから、余計にそう思います。――何故、奇襲の芽を捨てるのです?」


 両手を広げる。視線を巡らせると、隼騎以外にもこちらを窺っている姿がいくつも確認できた。


 ……丁度いいですね。時間もありますし、私の『やり方』を理解してもらいましょうか。


 大日本帝国。そこは騎士に並ぶとされる高潔な精神を持つ『侍』という存在と、騎士道と並ぶ『武士道』という理念が浸透した国だ。故にこそ、天音は思う。

 くだらない、と。

 清廉さも潔癖さも高潔さも、戦場においては邪魔なだけだ。こちらに与えられた任務は『勝利』と『敵の殲滅』。そこに誇りなどというものを持ち出して、何になるというのか。


「向こうは流浪島を手に入れたことで舞い上がっています。奇襲を仕掛ける上ではこの上ない好機。違いますか?」

「しかし、あの島には一般人が――」

「一般人?――当事者の間違いでしょう?」


 ざわりと、周囲に動揺が広がった。天音は微笑を崩さぬまま、隼騎に――帝によって天音に従うように指示された者たちへと言葉を紡ぐ。


「あそこにいる者たちには、本土へ逃げるという選択肢もあった。それをしないということは、即ち『叛乱軍に従うことにした』ということ。立派な反逆ですよ、帝に対する」

「し、しかし、それは仕方がなかったのかも――」

「――〝仕方がない〟という言葉は、戦場において意味を為しません」


 一歩、隼騎に詰め寄り、天音は言い放つ。仕方がない――それは諦観による言葉だ。そして天音は聖人ではない。諦観に囚われた人間に手を差し伸べるつもりなどないし、余裕もない。


「無知であるとするなら、それはこの国の罪です。そうなることを知らなかった――知る機会を与えられなかった。それによってあの場所にいる者たちが死ぬのなら、それは教育を施さなかったこの国の罪悪。私には関係ありません」

「――あなたは……!」


 拳を握り締め、隼騎が天音を睨む。その表情には義憤が張り付いており、それがより一層、天音の心を冷え込ませていく。

 くだらない。

 つまらない。

 正義で、善意で救えるほど――人は強くはないというのに。


「あなたはそれでも《七神将》の一人か! 民を救うのが陛下直属の将軍たるあなたの仕事ではないのか!?」

「それこそ戯言でしょう? 言っていてわかりませんか?」


 わからないのでしょうね、と呟き、ため息と共に言葉を紡ぐ。


「陛下直属、と言いましたね? ならば七神にとっては民草よりも陛下の御身の方が大切であるというのが道理。あそこにいる者たちは誰ですか? 本郷家の者たち? 帝国議会の者たち? 一般人? 民草?――違いますよ、陛下に仇名す反逆者共です」


 諸手を広げ、微笑さえ浮かべて天音は言う。


「慈悲も容赦も必要ない。必要なのは戮殺のみ。見敵必殺、サーチ・アンド・デストロイ――説明などこの言葉のみで終わりますよ」

「…………ッ、しかし、私たちはその命令には従いません」


 絞り出すように、隼騎は言った。それは明確な上官に対する反逆であり、命令違反となるわけだが――今の天音の立場を考えると、それを適用するのは難しい。彼女が《七神将》の二角を担うことについては、多くの反対意見が出ているのだ。

 故に、天音は構いませんよ、と肩を竦めた。


「どの道、今回の作戦においてあなたたちは必要ありませんから」


 言い放つ。それと同時に。



 ――――――――!!



 凄まじい轟音が鳴り響き、海面を揺らした。流浪島――天音たちの艦隊から少し離れた場所にあるそこで、連続的に無数の爆発が起こる。

 響き渡る轟音と、警報の音。天音は微笑を浮かべた。


「あの子たちは上手くやったようですね。では、参りましょうか」


 振り返り、指示を出す。しかし、誰もが動かない。呆然と、燃え上がる流浪島を眺めている。

 天音はため息を零すと、流浪島を見た。あそこでは、文字通りの虐殺が行われているはずだ。ここに来る前、懐かしい者たちに連絡を取っておいたのだ。こういう作戦は、やはり彼女たちに向いている。

 ――女子供ばかりで、非力な者たちしかいない中、出木天音はそれらを率いてきた。故に、彼女は何度も考えた。

 非力な者たちで勝つ術を。

 正面から戦わなくても済む方法を。

 考えて考えて考えて――実践してきた。

 故に。


「火は良い。実にいい。容易く皆殺しにできます。伊勢を思い出しますねぇ。後は、西方焼き討ちですか。敵だけでなく、怨恨を含めて焼き払うことのできる火というのは、実に効率的な道具です」


 ガチャリと、背後で音がした。

 視線を向ける。……隼騎が、こちらへ銃を向けていた。


「子供のようですね? それで特務官、そして私の監視役というのですから聞いて呆れる」

「……あれは、あなたの仕業か?」

「作戦立案、仕込み、指示……すべて私の案ですよ。――気に入りませんか?」

「あそこには一般人もいるんだぞ!?」

「それがどうした、と……もう一度言わなければわかりませんか?」


 微笑を消し、蔑むような目で天音は隼騎を見据える。そのまま、更に言葉を重ねた。


「大体、殺す気だったのでしょう? あなたたちが手を汚さずに済んだのですから、感謝されこそすれ、貶される道理はないと思いますが」

「あなたは……! あなたは私たちの武士道を馬鹿にしているのか!?」

「別に? それなりに有用だとは思いますし、人が縋るモノとしては立派ですよ。十分十分。興味はありませんが」


 パンパンと、渇いた拍手の音を天音は響かせる。それが、より一層隼騎の――周囲にいる『侍』たちの神経を逆撫でした。


「ふざけるな! こんな卑怯な……! あなたに誇りはないのか!? こんなっ、戦いを汚すような行為をよくも!」

「……あなたたち侍は――騎士もですが、いつもそうですね。戦いがさも高潔で尊いものであるかのように扱い、相手を殺すという現実から目を背ける。あなたたちの目は、耳は、脳は飾りですか? 私たちと争った動乱より、僅か四年しか経っていません。四年前に見た戦場は――それほどまでに美しいものでしたか?」


 そんなはずがない。戦場というのはいつだって陰湿で、暗愚で、どうしようもないほどに残酷だ。

 憎しみと、怒りと、殺意と――どうしようもない負の感情が渦巻くだけの場所。それが、戦場だ。


「焼き殺せば外道ですか? 銃で殺せば下等ですか? 斬り殺せば上等ですか? ふふっ、欺瞞ですね。どうしようもない欺瞞です。魂など存在しない。人は死んだらゴミになるのですよ。そしてゴミに祈りは必要ない」

「…………ッ、死者を侮辱するのか!」

「侮辱も尊敬もしていませんよ、私は。私にとっては、生きている人間の方がずっと怖い。……死んだ人間との思い出は、大切な人たちとの思い出は、ずっと私の心にある。ならばそれでいい。それ以上は必要ありません」


 歩み寄り、隼騎の胸倉を掴み上げる。真っ直ぐにその瞳を睨み据え、言葉を紡ぐ。


「文句があるなら、木枯の下にでも身を寄せなさい。転属届けは出しましょう。彼女の下ならば、『名誉のために死ぬ』ことができるでしょうし」

「将軍を愚弄するか!」


 別のところから声が上がった。天音は隼騎から手を放すと、あははっ、と壊れたように大声で笑う。


「愚弄? 私が? この私が、木枯を愚弄? ありえませんね、そんなことは。彼女を私は尊敬しています。『武士道』などという窮屈なものを実践しながら、それでもその武勇で戦場から生還する姿は、確かに『侍』の名に相応しい。しかし、しかしですよ?――あなたたちにそれができるとは、私は思えません」


 神道木枯。《抜刀将軍》と呼ばれる天才である彼女は、おそらくこの大日本帝国において最も高潔な侍だ。そしてその実力ゆえに、ありとあらゆる戦場において手柄を立て、生還してきた。

 しかし――ここにいる者たちは?

 木枯程の才能がない彼らは、いつか必ず戦場で倒れる。その時、彼らは本当に満足して死ねるのか?


「――キミよ、悔いなく死ねるのか?」


 答えは――否だ。


「私が一番好きな問いかけです。あなた達はこう言うのでしょう。この場所で、安全なこの場所なら〝悔いなどない〟と。ですが――実際の死を迎えるとなると、それはありえない」


 何故ならば。

 木枯の兄として、彼女と並び立つ侍であった『あの人』でさえ、言ったのだ。


 ――〝死にたくない〟


 そんな言葉を。

 あまりにも当たり前な――その台詞を。


「人は死にたくないものなのです。それは否定できない事実です。……木枯の下へ行けば、正々堂々、清廉潔白に死ねるでしょう。ただし、私のところにいるならば、泥に塗れ、罪悪に身を浸し、しかし――生きる意志さえあれば生かすことを約束します」


 ドンッ、と。

 大きな衝撃と共に、艦が揺れた。全員が、目を見張る。

 ――神将騎。

 椿の紋を両肩に染め抜かれた一機の神将騎が、天音の背後に現れたのだ。


「――義姉上」


 その神将騎から、一人の女性が現れた。氷のように冷たい瞳と美貌を携えた美女だ。

 ――出木氷雨(いずるぎひさめ)

 天音と義理の姉妹としての杯を交わし、天音が囚われていた間、ずっと吉原を守ってきた女性だ。今回、天音の出陣に合わせて彼女の指揮下に入り、今まで流浪島で部下と共に裏工作をしていた。

 そう――島の強襲という行為を。


「久しいですね、氷雨」

「……姉上は、少々痩せられました。美貌が台無しです」

「四年間、何も口にしていませんのでね。――頼んでおいたものは?」

「ここに」


 氷雨が、小脇に抱えていたものを天音に手渡す。天音はそれを――漆黒の軍服を、白衣の上からその身に羽織った。


 ――『心』と『理』。

 合わせて――〝心理〟。


《七神将》となる者は、その心が抱く信念を一文字にしてその背に背負う。しかし、天音は二つの席を同時に襲名した。故に、二つの文字を背負う。


 心とは――人。

 理とは――自然。


 合わせて――〝世界〟。


 想い人の一文字へ、『理』という文字を加え。

 出木天音は、世界を背負う。


「では、参りましょうか。――来なさい」


 燃え盛る戦場をその目で見据え。

 出木天音は、宣言する。


「我が刃よ」


 響く轟音は、二つ。

 現れたのは、二つの神将騎。

〈毘沙門天〉と――〈金剛夜叉〉。


 片や、共に戦場を駆け抜けた彼女の愛機と。

 片や、彼女が愛した男の愛機。帝から――与えられたもの。


「我が身は一つ。どうやって、二つも使えば良いのやら」


 苦笑を零し、呆然とする者たちを置き去りに。

 出木天音が――《女帝》が、四年ぶりに戦場へと躍り出る。


「見せて差し上げましょう、侍などという幻想を抱くあなた達に。――侍でなくとも、人は人を殺せると」


 これは、僅か半年で決着を見せた叛乱の序章。

 怪物と呼ばれた女の、誕生の瞬間。


「さあ、参りましょう」



◇ ◇ ◇



「……本郷正好、ですか」


 帝から手渡された書類に目を落としながら、天音は小さな声で呟いた。先日、流浪島を奪還した彼女に、帝からの使いが寄越され、急いで京都に戻ると渡されたものだ。本郷家――その一族は御三家の一角でありながら反逆を企てた一族であり、殲滅の命令が下されている。

 しかし、この青年は本郷家の反逆の際、それを察知して本家から逃亡。反逆のことを帝に知らせ、一族の助命を願ったのだそうだ。無論、助命は却下されたが……その代わりに、戦場に出て説得する許可は貰ったらしい。


 ……帝の考えそうなことです。


 殲滅の命令が出ている以上、降伏しても未来は望めない。帝国議会と本郷家に残された道は、戦い続けることだけだ。

 故に、帝の思惑は一つ。

 ――いつまで耐えられるか、計ること。

 本郷家の直系である少年だ。その才能は捨てるに惜しい。しかし、手放しに引き入れることができるようなものでもない。そこで、自分の下に入れることで見極めようというのだ。

 厄介な話だが、考えても仕方がない。命じられれば引き受けるだけだ。

 そんなことを思いながら、御所の中を歩いていく天音。その視界に、不意に一つの人影が映り込んだ。


「…………」


 椅子に座り、真剣な表情で本を読んでいる少女だ。何故かその傍らにはスケッチブックがあるが、それよりも気になることがあった。

 ――桔梗の紋。

 桔梗の花は、神道家の家紋だ。それも本家の者――現在では、当主である木枯とその夫である虎徹しか身に着けることの許されない紋を、その少女は髪飾りにしている。

 誰だ、という疑問は一瞬だけ。

 すぐに――『答え』に辿り着く。


「………………まさか」


 呟いた声が掠れていたことに、天音は気付いていなかった。ありえない。いや、ありえてはならないのだ。こんなことは――


「こんなところで……何を、しているのです?」


 震える声で、問いかけた。その少女は一瞬、驚いたように身を竦ませた。本に集中していて、こちらの接近に気付かなかったのだろうか。

 顔を上げた少女を見て、絶句する。黒い瞳。黒い髪。そして――その、目つき。

 やはり、と。

 自分の中で――何かが、噛み合った。


『父上を待っています』


 齢四歳程の少女は驚いたようだったが、天音が羽織っている黒い軍服――《女帝》のみが愛用するそれを見て正体に気付いたらしい。どこか慌て気味にスケッチブックに文字を書き、天音に見せてきた。

 可愛らしい字だ。しかし、ここで疑問が浮かぶ。


 ――やはり、言葉を……。


 元より、そうではないかと思っていた。生まれた時に、泣いていながらも声を出せずにいたのだ。

 やはり、そうだ。

 この子は――


「あなたの、名は?」


 声が震えていたことは、自覚していた。

 しかし――どうしようもなかった。

 その少女はスケッチブックのページを捲り、自身の名を示す。



『神道詩音』



 その名を見た瞬間、涙が零れそうになった。今すぐ泣き出して、抱き締めたくなった。

 けれど――できない。できるわけがない。

 そんなことは、許されない。


「……そう、ですか」


 絞り出すように、言葉を紡いだ。大丈夫だ。声を出せる。

 誤魔化すのだ。この子のためにも。

 だって、この子の両親は……


「木枯の、娘でしたか。私は、天音。出木、天音です」

『天音様ですか? 母上から聞いたことがあります。親友だと』

「木枯がそんなことを……」


 いけない。視界が歪んできた。駄目だ、泣くな馬鹿者。

 覚悟していたことではないか。納得したはずではないか。納得して、覚悟して、受け入れて。

 そうして――この様に成ったはずではないか。


『お会いできて光栄です』


 四歳とは思えないほどに利発的な対応を見せる詩音。その姿を見て、微笑が零れる。

 ――やはり、間違っていなかった。

 あの二人は、この子をちゃんと育ててくれた。

 だから。

 だから――


「私もですよ」


 ――泣くなよ、バケモノが。

 子を捨てたバケモノが、泣くんじゃない。


 この子に〝母〟と呼んでもらえぬことは――とっくに理解していただろう?


『天音様と、お呼びしてもいいですか?』


 小首を傾げ、そんなことを聞いてくる。

 滲む視界。歪む口元。

 それらを必死に堪え、天音は言う。


「先生と、呼んでください」


 それは、彼女の中で区切られた一つのケジメ。

 自分は母としてどころか――名を呼ばれる資格さえ、ないのだから。


『はい、先生』

「ふふっ、ではまた。いつでも会いに来なさい。色々と……教えてあげましょう」


 それだけの言葉を紡ぐのに、どうしようもないほどの力が必要だった。

 ――〝自分からはあの子の前に現れるな〟。

 虎徹との契約だ。だから、この子から現れてくれれば……会うことは、できる。


 もし、神様という生き物がいるのなら。

 それぐらいの幸せは――許してくれないだろうか?


「それでは、また」

『はい。また会いに行きます』

「待っていますよ」


 顔が見れない。目に焼き付けたいのに、それができない。これ以上見ていたら、もう、止められなくなる。

 だから、背を向けた。背を向けて、歩き出す。

 歩いた。

 歩いた。

 歩いた。

 歩いた。

 歩き、続けた――……



「我が子との再会は――どうでしたか?」



 逃げるように歩き続けたその先に、その存在は佇んでいた。

 その表情はこちらを憐れんでいるように見えるが……錯覚だろう。


「こんなものが……あなたの望んだ幸福ですか?」


 突きつけられた問いかけ。それに対し、ええ、と頷く。

 涙が一筋。

 血涙が――地面を染めた。


「あの子の幸せだけが……私の幸福です」


 もう、どうしようもない。

 ここまで来てしまっては、どうしようも――……


「良い覚悟です。実にいい」


 対し、怪物は――笑う。

 酷く楽しそうに、笑っている。


「興味がわきましたよ、人間。天音――あなたを私は認めます。私に迫る者として。ふふっ、楽しいですねー、これはいい。やはりいい。ねぇ、天音?」


 世界を変えるなどという戯言を口にする怪物は。

 酷く楽しそうに――天音を見据える。


「私を――今でも殺したいと思っていますか?」


 その問いに対する、答えは一つ。


「無論」


 対し、怪物はそれでこそ、と微笑した。


「ならば、待ちましょう、あなたが殺すか私が殺すか……私とあなたは主従であり、戦友であり、友であり、しかし――怨敵です。殺せるものなら殺してみなさい、出木天音」


 その言葉だけを残し。

 怪物が――立ち去っていく。


「…………ッ、ふ、ふうぅっ……!」


 しかし、そんなことよりも。

 今の天音に残るのは――言葉では表せない、感情だけ。


「――――――――」


 声を殺し、膝をつき。

 泣き続ける。ただただ、泣き続ける。


 立ち上がるまで――時間がかかりそうだった。

……正直、書いていて相当疲れました。難しいですね、心理描写って。

とりあえず、天音を中心とした大日本帝国の物語です。今回名前が出てきた『神道清心』なる男については、次回の神道木枯の過去話で活躍する予定です。


天音の歩んできた人生、帝という存在との関係、その信念……そういったものが、少しでも伝わると幸いです。

彼女は壊れた人間であると同時に、完全にぶっ壊れる手前で立ち止まっている存在でもあります。偽悪的でもありますし、破壊的でもあります。ある意味でどうしようもなく不安定な彼女は、だからこそ色々な面を見せてくれるものだと思います。


そんなわけで、次回は木枯です。その後に二つほど短編を入れて、第二部に突入したいな、と。


感想、ご意見お待ちしております。

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