追章 幼き日々の追想
二か月程前に新たな王が立ち、復活を果たしたシベリア連邦。かつては合衆国アメリカと肩を並べるほどの大国だったが、大戦における敗戦はその栄華を奪うことになる。
今は統治軍の横暴により荒れ果てた国を立て直すため、各地でシベリアの者たちが奮闘しているという現状だ。
その中には統治軍と解放軍の戦いの最中にその正体が発覚した大日本帝国先代《七神将》が一人、《女帝》出木天音の姿もある。
シベリア国王たるソフィア・レゥ・シュバルツハーケンは彼女にも要職を用意しようとしたが、それは彼女が友と呼ぶ女性、伊狩・S・アルビナ共々丁寧に断られた。ちなみにその時の台詞は、
『利害の一致による契約関係。それが一番ですよ、お互いにとって』
というもの。だが、シベリア各地を旅して回っているアルビナはともかく――彼女は彼女で各地の復興作業を行く先々で手伝っているらしいが――天音は復興において相当な活躍を見せている。特に、技術面における彼女の知識は以上といって差し支えない。
そんな彼女の助手をしているのは、解放軍においても終盤に軍備を支えた義賊集団《氷狼》のメンバーであるレベッカ・アーノルドや、神将騎〈スノウ・ホワイト〉の奏者でもあるアリス・クラフトマンだ。しかし、流石に彼女たち二人では手が回らない。そんな中、彼女たちの手伝いをすると言い出した一人の少年がいた。
ヒスイ・アストラーデ。
便宜上、護の養子という形でシベリア人国籍を得た少年だ。親はおらず、冷たい実験室で生み出された《名無し》と呼ばれる存在である彼は、しかし、どうにか『人間』として生きていこうとしている。
戦うために生み出された、人工的な〝奏者〟。
感情を持たない〝人形〟。
その事実と過去を置き去りに、ヒスイという一人の少年はここにいる。
◇ ◇ ◇
「……先生、これ」
「はい?――ああ、ありがとうございます。いやはや、あなたは本当に優秀ですね」
コーヒーを持ってきてくれたヒスイに、天音は微笑みながらそんな言葉を紡ぐ。ヒスイは、小さく首を横に振った。
「……ドクも、よく飲み物頼んでいたから」
「それはそれは。あの人格破綻者はどのような飲み物を好んでいたのですか?」
お前が言うな、というツッコミが聞こえてきそうな台詞だが、近くに何人も作業員がいるとはいえ誰も彼も忙しい。結果、誰も天音の言葉にはツッコミを入れない。
「……ドクは、苦いコーヒーが好きって言ってた」
「…………」
「……先生も、苦いの好き?」
「ヒスイ。次回からは煎茶かほうじ茶に……いえ、そうですね。紅茶でお願いします」
コーヒーを飲み干すと、天音は笑みを浮かべてそんなことを口にした。ヒスイは首を傾げるが、次いでうん、と頷く。ここで天音の笑顔について何も思わない辺り、ヒスイにはまだまだ感情というものが足りていないのだろう。
そんなヒスイの様子を見て、ふと天音がどこか寂しげな笑みを浮かべる。
「……あなたには、本当に申し訳ないと思っています」
「…………?」
「僅か齢十という幼い身でありながら、こうして私の仕事を手伝わせてしまって……。あなたは書類上とはいえ少年の息子となり、少年と彼女と一緒に暮らしています。人形ではなく、人間として……生きていけるのに」
優しくヒスイの頭を撫でながら、天音はそんなことを口にする。英雄となった《氷狼》護・アストラーデは、ヒスイを自身の養子とすることでその戸籍を用意した。知る者は少ないとはいえ、ヒスイはその出自があまりにも特殊だ。元々は統治軍にいたアリスも含め、彼はその立場で二人を守っている。
ちなみにこれを提案したのは護の戦友であるレオン・ファンだ。戸籍の問題も、ほとんど彼がどうにかした。
そうして、ヒスイは人間兵器としてではなく、人として生きる場所を手に入れた。護やアリスと一緒にいる時の彼の姿は、本当に家族のようでさえある。
――しかし。
「……よく、わかりません」
ヒスイは――未だに一度として笑ったことがない。
楽しそうにしていたり、喜んでいることは雰囲気でわかるのだが……本当の意味で『笑う』ところを、天音は愚か護やアリスでさえも見ていないのだ。
まあ、育ってきた環境が環境である上に、彼にとって頼れる存在であったドクター・マッドは現在行方不明。笑えないのもまた、仕方ないのかもしれないが……。
「あなたはもう、戦わなくてもいい。……子供として、生きていく術を探しなさい」
「……どう、やって?」
「そうですね……ここは一つ、聞いてみては如何です? 二人も休憩で出ていますし、今日はこれ以上急がなければならない仕事もありませんから」
「……聞く?」
片目を瞑り、笑みを浮かべながら言う天音に対し、ヒスイが首を傾げる。そんなヒスイの仕草に僅かな笑い声を漏らしつつ、天音はゆっくりと頷いた。
「ええ。あなたが知る人達に、子供時代をどう過ごしたのか……それを聞いてみては如何です?」
◇ ◇ ◇
「子供の頃、どんな風に過ごしていたか?」
「……うん」
自身の問いかけに対してそう確認を取る少女――アリス・クラフトマンに、ヒスイは小さく頷きを返した。アリスはヒスイにカップに入った紅茶を私ながら、うーん、と唸る。
「どうしたの、いきなり?」
今二人がいるのは技術班の休憩所だ。アリスはシベリア連邦再生後、ヒスイやレベッカ・アーノルドと共に天音の助手をすることでシベリアに貢献している。元々はシベリア軍総大将たる護の副官という話もあったのだが、諸々の事情によってそれは却下され、アリスはここへ来ることになった。
護は出来ればアリスには軍事に関係しない仕事を選んで欲しいようだったが、アリスがそれを拒否した。二年もの間、統治軍で戦いの最前線にいたのだ。そう簡単に日常へと戻ることはできない。
――それはさておき。
アリスはヒスイに座るように促すと、その瞳をじっと見つめる。ヒスイは両手で持ったカップの紅茶を一口だけ口にすると、小さく頷いた。
「……先生が、聞いてみろ、って」
「先生が? どうしてまた」
横手からそんな言葉と共に首を傾げるのは、レベッカ・アーノルドだ。アリスとは歳の近い同性ということもあり、その事情を知りながら仲良くしている相手でもある。
そんなレベッカの疑問に、ヒスイは相変わらずの無表情で返答を返す。
「……子供として生きていく術を探しなさい、って」
「……子供として、か」
ヒスイの言葉を、アリスは噛み締めるように呟いた。子供として――天音の言葉、その意味は理解できる。《名無し》という特殊な生まれであると同時に、人工的な奏者でもあるヒスイ。それ故に、ヒスイは統治軍でも『人形』などと呼ばれ、半ば道具に近い扱いを受けていた。
――でも、ここでは違う……。
身寄りのないヒスイを護が養子として引き取り、その結果としてヒスイは普通の人間として生きていく土壌を得た。だが、元が元である。無表情は相変わらずで、感情を読み取ることも容易ではない。
だが、ヒスイは彼の生みの親であるドクター・マッドによれば僅か十歳の子供だ。確かに天音の言うように、子供として生きていくべきというのも理解できる。
「……でも」
「うん?」
不意に、ヒスイがその視線をカップの中に落とし込んだ。その声色からは、若干の戸惑いのようなものが透けて見える。
「……子供って、何か……わからない」
それは素直な感想だったのだろう。アリスはその言葉を聞き、苦笑する。子供――それの意味。それに対して、自分に紡げる言葉はそう多くない。
「ごめんね、ヒスイ。私にもわからないよ」
「……そうなの?」
「うん。私の場合、気が付いたら過ぎちゃってた、っていう感覚だから」
義務教育は受けたし、両親からの愛情もしっかりと受け取ったとアリスは自覚している。しかし、どうにも生来の気質からか他人とうまく関われなかった彼女は、一人でいることが非常に多かった。
友人と呼べる相手がいなかったわけではない。しかし、幼少の頃のアリスは他人と話すことが苦手で、一人で本を読んでばかりだった。本が好きで、読書が好き――他人にそう思われることで、できるだけ他人と関わらなくても良いようにしていたのだ。
無論、本は今でも好きだし、読書も好きである。だが、それを『逃げ』の手段にもしていた。それがアリスの幼少時代だ。
両親の死という転機が訪れても、多くは変わらなかった。変わったのは、学生から社会人になったというくらい。最低限の付き合い――嫌われないようにするための技術を身に着けた、という注釈は付くが。
そしてその生活は大戦が起こるまで続き、護・アストラーデと出会うことで少しずつ変わっていくことになる。
そう考えると、ヒスイに何かを言えるような幼少期は送っていないというのが現実だ。
「その、私はあまり人と話したりするのが得意じゃなくて。運動も苦手だったから、いつも一人で本を読んでたの。だから、あんまりヒスイに教えてあげられることはないかもしれない」
「そうなの? アリスって〝奏者〟でしょ? 護みたいに運動神経が良いって思ってたけど」
「運動は今でも苦手。神将騎に乗ってる時は……その、必死だからあんまり気にならないんだけど……」
護のあの運動能力を『運動神経が良い』の一言で済ませてしまうレベッカに若干の苦笑を零しながら、アリスはそんなことを口にする。シベリア軍は現在、統治軍が保存していた元々はシベリア軍のものである神将騎とそれを扱える奏者の割り出しに奔走している。国王たるソフィア曰く、『国防の要となると同時に、神将騎は復興における重要な力となる』とのことだ。
実際、その言葉は間違いではない。神将騎は数少ない例外を除き、そのほとんどが人型。それも低くても全長三メートルクラスの大きさがある。その力は戦闘だけでなく、下手な重機よりも有用な作業機として活躍する。
事実、護の〈毘沙門天〉は毎日のようにここ、首都モスクワの復興作業に出ている。護には護で軍事における仕事が山積みなのだが、それは全て戦友たるレオン・ファンに押し付けているとのこと。
ちなみにアリスも彼女の僚機である〈スノウ・ホワイト〉で復興作業に出ているが、護ほど頻度は高くない。というより、護の働き方が異常なだけなのだが……それはまた、別の話だ。
「友達、って呼べる相手もあまり多くなかったから。……進学する前に両親が他界して、働くしかなくなっちゃったこともあって、あんまりヒスイに教えてあげられることはないんだ」
気を取り直し、苦笑のままにアリスはそんなことを口にする。ヒスイは変わらずの無表情でアリスを見つめていた。
「……そうなの?」
「うん。そうなの。……レベッカはどう? 子供の頃はどんな風だった?」
「私?」
水を向けられ、レベッカが一度声を上げる。そして腕を組むと、うーん、と首を捻った。
ちなみに当初、アリスはその性格からレベッカに対しても敬語を用いていた。だが、歳が近いことやレベッカの開けた性格もあり、今では対等に話すことができている。伊達にレベッカも護やレオンといった者たちと二年もの間共に戦ってきたわけではない。対人スキルは決して低くはないのだ。
そのレベッカは、そうね……と前置きしてから、頬杖を付きながら言葉を紡ぐ。
「私が住んでた村はとても小さいところだったから……学校も、街に行かないと駄目で。同い年くらいの子は村にいなくて、年下の子ばっかりだったのを覚えてる。まあ、別に学者になりたいわけでもなかったから、学校も適当に行って、家の仕事を手伝ってたわね」
――教育という概念は、現代において世界中に普及しているとは言い難い。
シベリア連邦は所謂『先進国』と呼ばれる国であるため、教育の概念が普及している。だが、ガリア連合や南アメリカ、東南アジアといった地域では教育の概念が普及しておらず、そもそも学校という者が存在しない地域も数多い。
また、シベリアやEUといった地域でさえ、生まれた場所によっては教育を受ける機会がなく、また、そういう概念が存在することを知らないままに一生を終える者も少なくはない。
そういう意味で、アリスやレベッカは恵まれていたとも言えるのだが……それは今口にしても仕方がない。
「まあ、こんなことになるなんて思わなかったけどね。人生、何が起こるか本当にわからない」
「それは……確かに。私もそう思う」
レベッカの言葉に、微笑と共にアリスは頷く。子供の頃は考えもしなかったことだ。護と出会い、殺すか殺されるかの戦場に身を置き、そして、気付けば自身の年齢で至れるはずのない地位にいる。レベッカもアリスも仕事は天音の手伝いや復興作業の助力だが、与えられている権限は軍隊における佐官レベルだ。だからどうしようという気もないが、そう考えると色々と思うところはある。
「まあ、その教育も今は止まった状態だしね。ヒスイも学校が復興したら通う予定だったよね?」
「……護にそう言われた」
「楽しみ?」
「……わからない」
「そっか」
ヒスイの言葉に、レベッカは苦笑を零す。その様子を見ながら、アリスはヒスイに問いかけた。
「でも、ヒスイも友達はいるよね?」
「……遊ぶ相手はいる」
「楽しい?」
「……よくわからない」
問いかけに対する、先程と似たような答え。だがアリスは、そこに僅かな感情の揺れを見つける。
ヒスイは戸籍上は護の家族だが、住んでいるのはアリスの家だ。護がその役職の関係上、王宮の一角に自室という名の部屋があるので――もっとも、寝に帰る程度の部屋らしいが――首都に小さいながら家を構えているアリスの家で生活している。
ちなみに護は夕食を食べに訪れるのだが、泊まっていくことはない。これについては天音が『ヘタレですねぇ』と笑っていた。……うん。考えないでおこう。色んな意味で。
とにかく、ヒスイと共に生活し、一緒にいる時間が長いアリスはヒスイの感情を僅かであるが読み取れる。だからこそ、小さな微笑を浮かべた。
「じゃあ、楽しくない?」
楽しいか楽しくないか――二元論で語れるような事柄でもないのだが、敢えてアリスはそういう問いかけを選んだ。ヒスイは――彼にしては珍しく――少し俯き、考え込む。
そんな様子を、微笑を浮かべて見守るアリス。その姿はまるで、弟を見守る姉のようだ。
「……よく、わからない。けど」
「けど?」
「……みんなといると、ドキドキする。もっと遊びたい、って思う」
――笑みが零れた。それは、二人の人間から発せられたもの。
アリスとレベッカが一瞬だけ視線を交錯させ、笑みを零す。
「ね、ヒスイ。ちょっと、外に出よっか?」
立ち上がり、空になった紙コップをゴミ箱に捨てながら、アリスは微笑を浮かべて問いかけた。ヒスイはそんなアリスを見上げながら、首を傾げる。
「……外?」
「天音さんも、今日はもう急ぐ仕事はないって言ってたから。今なら、護さんは……」
「んー、レオンが西地区に車飛ばしてたから、多分そっちだと思うけど」
「うん、ありがとうレベッカ。……ヒスイ、折角だから――護さんにも聞いてみよう?」
手を差し出す。ヒスイは一度瞬きすると、アリスの手を取り、頷いた。
「……うん」
◇ ◇ ◇
「お前は何度言ったらわかるんだ! お前のサインか実印がなければ動かない仕事があると言っているだろう!」
「いや、そう言われてもな……。書類とか見てもわけわかんねぇし。予算とか言われてもりかいできねぇし……」
「だったら理解しろ! 理解できるまで読み続けろ!」
「んな無茶な」
「無茶じゃない! やれ!」
「…………いや、それは無茶ってもんじゃねぇ?」
西地区――便宜上、王宮を中心に四分割されている。後々、正式な名前を改めて用意するとのこと――に足を踏み入れたアリスとヒスイの耳に、そんな声が聞こえてきた。周囲を見れば、最早日常と化したやり取りに笑みを零している兵たちや、復興の手伝いをしている一般人たちの姿がある。
一応、戦後ということでシベリア連邦における税は減らされているが、それでも存在はしている。EUから無利息無期限の借入金――要するに返さなくてもいい金で、賠償金のようなもの――があるとはいえ、復興には莫大な金がかかる。
そこで、ソフィアが最初に打ち出した政策は復興に参加した者の税金免除だ。同時に、復興が終わった後も減税が施されることになっている。
また、しっかりと給料は出るので、働き手には困っていない。
ちなみにこの政策による支出で頭を悩ませているのはレオンとソフィアの親衛隊隊長であるアーガイツ・ランドールの二人である。セクター・ファウストについては財政に関与しようとしない。ソフィアは完全に二人に放り投げているし、護も似たような状態だ。
アリスの目から見て、レオン・ファンという青年は一種の天才だ。二十と少しという若さに関わらず、この国の政治を動かす立場に立ち、実際にそれを成し遂げている。あのソフィア・レゥ・シュバルツハーケンという王が全幅の信頼を置いているのだ。アリスの評価に間違いはないだろう。
だが、その『天才』も、気を許せる友人の前ではこんなものである。
「丁度休憩時間だろう? なら今すぐここで書類に目を通してサインをしろ」
「え? 目を通さねぇと駄目?」
「…………」
「……すまん。わかったからそんな目で睨まないでくれ」
即座に謝罪をすると共に、護はレオンから受け取った資料に目を通し始める。だがその表情は暗い……というより厳しい。アリスも人のことを言える程に頭がいいわけではないが、護は書類仕事が苦手だ。書類に対して四苦八苦している彼を見ると、思わず苦笑してしまう。
「ん? アリスにヒスイ? どうした?」
呆れた様子で護を見ていたレオンが、こちらに気付いた。その言葉を聞き、護も一度書類から目を離し、おっ、と声を漏らす。
「こっちまで来るのは珍しいな二人共。仕事は良いのか?」
「はい、天音さんが今日はもう急ぐ仕事はないって……その、お邪魔でしたか?」
「いやいや、邪魔なんかじゃ――」
「…………」
「――すまん。ちょっと待っててくれ」
レオンの一睨みで、護はすぐさま書類に目を戻す。その様子を見て苦笑したアリスの手を、ヒスイが小さく引っ張った。
「……護、忙しい?」
「あはは、みたいだね」
「普段から仕事をしていればこうはならない。復興が大事だということもわかるし理解もできる。お前の〈毘沙門天〉の有用性もな。だが、それでこっちの仕事を疎かにされてはこちらが困る」
「いやもうわかったから説教は後にしてくれ。すぐ終わらせるから」
更に続きそうだったレオンの言葉を遮り、唸りながら書類と向かい合う護。レオンはため息を吐くと、それで、とアリスとヒスイの方へと向き直り、
「今日はどうした? 夫の仕事ぶりでも見に来たのか?」
――爆弾を投下した。
「ぶっ!? ちょっ、おいレオン!?」
「おっ、えっ、あ、あの、夫!?」
周囲の視線が二人に集まり、護とアリスが慌て出す。そんな二人の様子を見て、レオンはヤレヤレと肩を竦めた。
「まだなのか? 王宮や軍内では『そういう関係』だと噂が流れているらしいが」
「何でだよ!?」
「何でもなにも――まあ、いい。とにかくお前はさっさと書類を終わらせろ」
「邪魔してんの誰だよ!?」
「いいからやれ」
「ぐっ……!」
実際、仕事をしていなかったことでレオンに迷惑をかけていたという負い目があるためか、護は大人しく書類へと視線を落とす。それを横目で見ながら、レオンはさて、とアリスに視線を向けた。
「それで、どうした? まさか本当にこの馬鹿の仕事振りを見に来たというわけでもないだろう?」
「えっと、その……重要なことでもないんですが……」
まだ若干熱い頬を自覚しながら、アリスは呟くように言う。レオンやレベッカはシベリアにおいてアリスとヒスイの事情を知り、それでも受け入れてくれている数少ない人物だ。しかし、アリスが生来持つ人付き合いが苦手な気質が、どうしても気後れを生んでしまう。
護とでさえもそうだ。護は何も言ってこないが、アリスは彼と話す時、どうしても敬語が抜けない。
怯えているのだろう、とそう思う。
死を覚悟していた時は、どうせ、とか結局、という言葉で誤魔化すことができた。
――どうせ死ぬ。
結局――死ぬのだから、と。
しかし、護に手を引かれ、連れ出されたこの場所で、アリス・クラフトマンは生きていく術を手に入れた。それ故に、忘れ去った悪癖が戻ってしまったのだ。
〝嫌われたくない〟
誰もが必ず抱く思いでありながら、しかし、あまりにも長くその想いを抱き続けてしまったが故に歪み、狂ってしまった一つの理由。
それが、アリスという少女の〝一歩〟を躊躇わせる。
だが、今回はヒスイという理由がある。他人を理由にする――それが褒められた行為であるかどうかはともかく、それがある時、アリスは踏み出せる。
「……少しだけ、聞きたいことが」
無意識のうちに、ヒスイの手を強く握ったことに。
アリスは、気付いていなかった。
◇ ◇ ◇
「子供の頃がどうだったか、か……」
休憩時間ということで軽い飲食物が作業員たちに配られる中、それらを受け取ったアリスたちは隅の方で未だ撤去されていない瓦礫に腰掛けていた。大分復興が進んだとはいえ、まだまだ三分の一程度。首都だけでもあと三か月、国全体となれば半年以上はかかるとされている。
ちなみにレベッカのことをレオンには聞かれたが、それについては用事があるとアリスが説明した。レベッカは本人の意向もあって地位や肩書きは決して高くないが、シベリアにとっては重要な戦力である。アリスやヒスイなどよりはよっぽど忙しい。
まあ、アリスもヒスイも〝奏者〟であるため、別の忙しさがあるのだが……。
「またいきなりなことを聞くな。どうしてまた?」
「えっと、ヒスイが今日、天音さんに言われたらしいんです」
「……〝子供として生きていく方法を探しなさい〟、って言われた」
アリスに視線を向けられ、ヒスイは頷きながら答えた。その声色には、純粋な疑問が込められている。
――何故?
ドクター・マッドは一度としてそんなことを言わなかった。感情――度々ドクターはその言葉を口にしたが、それ以外に求めたのは戦うことだけ。子供、という言葉は彼の口から聞いたことがない。
戦わなくてもいい……天音のその言葉についても、ヒスイは困惑を覚えてしまう。難しいことはわからないが、自分は戦うために生み出された存在だ。あの『箱庭』でも、それだけを望まれた。自分の――自分たちのことを気にかけてくれたあの人も、『生きて欲しい』と告げてその身を散らした。
生きることは、戦うこと。
そういう生き方しかヒスイは知らないし、知らされていない。だから困惑するのだ。
戦うこと以外の生き方を、どうやって見つけろというのか、わからないから――
「先生がそんなことを言ったのか」
レオンが腕を組み、ふむ、と唸る。どうして戦う以外の道を見つけろ、などということを天音が言ったのかはわからないが、彼女はドクターと同じ感じがする。だからきっと正しいのだろう。
レオンはしばらく考え込んでいたようだが、不意に頭を上げると、空を――灰色の空を見上げると、そうだな、と呟いた。
「語って聞かせることができるような過去ではないが……構わないか?」
「はい。えっと、ヒスイは?」
「……うん」
「そうか。……俺は、モスクワの出身だ。といっても、父親が軍人で――それもそれなりに高い地位にいてな。それもあって、シベリアの色んな所へ付いて行ったよ。母親は俺が小さい頃に亡くなったらしいから、俺は父親の背中だけを見て生きてきた」
どこか懐かしそうに、レオンは語る。自らの幼き日々――そこで何があったのかを。
「だが、そのせいで友達と呼べる相手は少なくてな。すぐに別れてしまうから、自然と距離を置くようになった。家では本を読んでばかりの毎日だ。……だがそれも、父親が死んで終わりがくる」
「お父上が、ですか」
「名誉の死だ。賊の撃退の際、部下を庇って重傷を負ってな。それが原因で死亡――誇りに思ったよ、父を。だから俺も軍人になった。そのほとんど直後だ。大戦が起こったのは」
レオンが立ち上がり、苦笑と共にそんな言葉を零す。大戦――ヒスイにとっては初陣となった戦争だ。多くが失われ、多くが壊された。合衆国アメリカの大統領は大戦を『戦争を終わらせるための戦争』などと称しているらしいが、世界中に火種は転がっている。このシベリアさえ、戦乱の果てにこうして形を取り戻したのだから。
「いくつかの戦場で、それなりに地獄を見た。……その中で、一つだけ、救えなかった村があったんだ。いや、救えなかった、というのはこっちの偽善だな。俺たちはあの村を――本来、守らなければならない国民が住む村を囮として利用したんだ」
「村を、囮に……?」
「外道と呼んでくれて構わないし、罵られて当然でもある。実際、唯一の生き残り立だったレベッカには相当責められた。……それで、色々と疑問に思うようになって、軍を抜けてレベッカと一緒に誰もいないその村で暮らすようになったのが、護たちとの出会いのきっかけだ」
そこから先の話は、ヒスイやアリスも聞いたことがある。神将騎〈フェンリル〉。義賊集団《氷狼》の最大戦力であった神将騎をレオンとレベッカが修復したのだが、二人共使うことはできず、そこに〝奏者〟である護が現れたのだと。
護は二人に頭を下げ、必死に頼んだらしい。――戦わせてくれ、と。
ただ――それだけを。
そうして話を終えると、レオンが振り返りながら苦笑を零した。
「すまないな、ヒスイ。参考になるような話をできなくて」
苦笑のままに、レオンがヒスイの頭を撫でる。ヒスイは首を左右に振った。
「……ううん」
「まあ、とにかくお前はまだ子供だ。多くの経験をするといい。護もそれを願っているだろう」
その微笑は、とても優しく。
しかしどこか、寂しげだった。
「……うん」
頷きながら、ぼんやりとヒスイは思う。
――幼少期に、子供でいられなかった者。
それが、レオン・ファンという男なのではないかと。
そんなことを……ふと、思った。
◇ ◇ ◇
「子供の頃がどんなだったか、か……」
夜。月明かりの下で、護・アストラーデはぼんやりと呟いた。その隣には、アリス・クラフトマンの姿もある。
「護さんは、どんな子供だったんですか?」
微笑と共に、アリスがそんなことを聞いてくる。今の二人がいるのは、王宮の前庭だ。ここを利用していたのであろう統治軍総督ウィリアム・ロバートの趣味か、綺麗に整地されたそこにあるベンチで二人は月を見上げている。
触れそうで、触れない距離。
それが、今の二人の距離。
「……ただの馬鹿なガキだったよ。今と変わらない」
肩を竦め、護は呟くように言う。そう、今も昔も変わらない。
違うのは、両親以外に信じられる相手が――大切に想える相手がいるかどうかだけ。
「ヒスイに教えてやれるようなことは、特にないな」
苦笑を零す。シベリア人と日本人の混血でありながら、その容姿が日本人に寄り過ぎていたため、爪弾きにされていた幼少時代。しかし、それも両親がいたからどうにか耐えることができていた。
だが、その両親が殺され――ほとんど殺されたも同然だった――独りぼっちになって。
戦争が、独りきりの日常さえも破壊して。
そうしてから――アリスに出会って。
――何だ、過去なんてそんなもんじゃねぇか。
語れるほどの過去はない。ずっと一人だった。頼る方法も、頼られる方法も知らず、生きてきた。
そんな中、アリスに出会って。
戦いの日々を、生きてきて。
――やっぱり、ヒスイに話せるような過去なんてねぇか……。
前だけを見てきた。ずっとそれだけを続けてきた。
そうしなければ――終わってしまうと思っていたから。
護・アストラーデに、語れるような過去はない。あるのは、独りきりの日々だけだ。
だからこそ。
だからこそ――こう思う。
「俺にとって大事なのは、今この時だ」
手を伸ばす。月を掴もうと伸ばした手は。
何も掴めず――虚空を掴む。
「なあ、アリス。今、幸せか?」
「……はい。きっと」
頷く少女の微笑は優しくて。
思わず、こちらも笑ってしまう。
「なら、〝護る〟さ」
その言葉と共に紡ぐのは、一つの意志。
〝お前の名は、誰かを護ることができるようにと願って付けた名だ。格好いいだろ?〟
思い出すのは、父親が教えてくれたこの名の理由。
恥ずかしい名だと昔は思ったが……そういうことなら、理由はそれでいい。
それだけで、護・アストラーデは生きていける。
「それが俺の、戦う理由だ」
呟く言葉は、一つの決意。
守るため。
護るため。
それでいいと、そんな風に思った。
思うことが――できた。
「――はい」
隣に座る少女が、その手を重ねてくる。
その手を、反射的に握り返した。
――当たり前のように。
唇が――重なる。
こんな日々が、続けばいいと。
守り続けていきたいと。
そんなことを――思った。
というわけで、ヒスイ視点からのキャラクターたちの過去話。その中でも護という主人公は別格です。彼は『中身のない人間』であるためですね。歪みもここまで来ると書いていて不安になってきます。
というわけで、キャラクターたちの過去話や現状話。とりあえず次はリクエストにありました友人間でも受けがいい神道木枯の過去話と、出木天音という怪物の物語を描こうと思っています。
新章突入はもう少し先になると思いますが……お付き合いいただけると幸いです。
感想、ご意見。このキャラクターの話が見たい、などのリクエストがございましたら是非。
ありがとうございました!!