第二十九話 道行き
《氷狼》護・アストラーデの敗北は、解放軍に甚大な被害を与えた。精神的にも戦力的にも、《氷狼》とそれが駆る〈毘沙門天〉は重要だった。彼の者ならば道を切り開いてくれると、誰もが信じていたのだ。
しかし――彼は敗れた。
相手が悪かったといえば、確かにその通りだ。大日本帝国《七神将》が第二位、神道木枯。大戦時は《抜刀将軍》と呼ばれ、今回は新たに《剣聖》をも襲名した怪物。世界中を見渡しても、彼女と彼女の愛機である〈村正〉とまともに相対できる奏者はそういないだろう。
だが、それは冷静な考察であり、外部からの見識だ。
目の前で護・アストラーデの――〈毘沙門天〉の敗北を見た者たちは、そうもいかない。
十五分。確かに護はその時間を耐えた(もっとも、実際は十分も経っていなかったのだが)。しかし、それは相手の気まぐれだ。通常ならば、護は殺されていて然るべき状況だった。
解放軍において英雄たる護が、手も足も出なかった――その事実は、あまりにも重い。
――そして。
そんな現実を招いた天音に対して不満が向かうのも、また当然であった。
「貴様はどういうつもりなのだ!?」
格納庫に、怒声が響き渡った。解放軍は全力で撤退をし、どうにか無傷のままでアルツフェムへと撤退を成功させた。だが、〈毘沙門天〉はしばらく使い物にならないし、右腕もないままだ。
仕切り直し以下の状態。それが、今の解放軍の状況だった。
「どう、とは?」
怒声に対し、平然と応じたのは出木天音だった。すでに彼女の素性は解放軍へと知れ渡っている。かつて大日本帝国で《七神将》の位階、その内の二つを同時襲名し、《女帝》と呼ばれていた天才――否、天災。
通常ならば、彼女の加入は諸手を上げて喜ばれるものであろう。それだけの結果を残しているし、同時に《女帝》という名はそれほど知れ渡っている。
しかし――彼女のせいで今回のことが起こったとなれば、話は別だ。
「き、キサマっ……! よくもそんなことが言えたな!」
声を荒げているのは、セクター・ファウスト。解放軍の大将であり、シベリア第三王女であるソフィア・レゥ・シュバルツハーケンの側近だ。
彼の側にはそのソフィアや、副将を務めるアラン。参謀官のレオン・ファンに、天音が多くを教えている最中のレベッカ・アーノルドの姿もある。他にも、解放軍の構成員たちの多くが集まっていた。
「キサマのせいで解放軍の作戦が大きく乱れたのだ! 大日本帝国など呼び込みおって……! どう責任を取るつもりだ!」
「責任?」
「そうだ責任だ! キサマがいなければ《氷狼》の小僧が敗北することもなく、我らは進軍を進めていたのだ! どうしてくれる!?」
声を荒げるセクター。天音はため息を吐いた。
――小僧が敗北することもなく。
その言葉が意味することを、この老人は理解していない。そもそも、護・アストラーデは解放軍を――正確に言えば、シベリア軍というものを快く思っていない。それでも彼が解放軍にいるのは、ひとえにシベリア人たちを救い出す上で最も効率的で正しい手段だからだ。
だというのに、この者たちは護が解放軍にいることを当たり前のこととして捉え、あまつさえ重要な戦力として疑いもしない。
自分たちは――ただただ、後ろから見ていただけだというのに。
あの時、《剣聖》と戦った時も、誰一人として加勢しようとしなかったというのに。
……今更、こういう手合いに対して怒りを覚えるほど幼稚でもありませんが……。
気に入らない、とは思う。好きにはなれない。
別に自分が素晴らしい人間だとは思わないし、むしろ壊れた人間だ。だから筋違いであろうと思う。
しかし、言い放った。
快楽に近いものを、携えて。
「――そもそも、〈毘沙門天〉は私の所有物。私のことが気に入らないと申されるのであれば、共にここから去ってもよろしいのですが」
「なっ!? そんなことが許されると思っているのか! あれは解放軍の――」
「理解していないようですね。私は先代大日本帝国《七神将》第二、第三位《女帝》――出木天音。私の管理下にあるからこそ、大日本帝国は解放軍が〈毘沙門天〉を使うことを容認しているのです。そうでなくなれば、大日本帝国は平気で牙を剥きますよ」
「なっ、そ、そんなことが……」
「ありえないとでも? 彼の国はここ、アルツフェムを――正しく皆殺しにしたような国ですよ?」
そうだ。大日本帝国は、あらゆる意味で手段を選ばない。〈毘沙門天〉の確保のためという名目で解放軍を皆殺しにすることぐらい、平気でするだろう。
「それに、理解しておられないようですが……少年は、あなた達の道具ではありません」
「なんだと? 我々がいつ、小僧を道具だと言った? 奴は我々の副将だ。戦場で戦うのが使命だ。解放軍にいる以上、奴もそれぐらいはわかっているはず」
「――その程度の考え方だから、あなたたちは二年の月日を越えても何一つ成し遂げられなかったのですよ」
その言葉で、周囲の者たちが殺気立ったのがわかった。天音は、ふう、とため息を零す。
「少年の言葉を借りましょうか。この二年、あなた達は何をしたのです? してきたのです? 成し遂げてきたのです? 少年が――《氷狼》が現れるまで、何一つ成し遂げてこなかったではありませんか」
情けないとは、思わないのか。そう――問い詰めたくなるような現状だった。
二年もの間、護たち《氷狼》は戦い続けていたという。それはアルビナからの情報でも聞いていたし、実際に護たちは多くの戦いを経てきた。
たった五人で戦い、そのうちの二人を喪って尚、戦い続けた。戦い続けている。
だというのに、ここにいる者たちはどうか?
何も――していないではないか。
「私は別に、他人に対して誇れるような人生を歩んではいません。だから助言は出来ても説教などできる器ではないと思っていましたが……あなた達に対しては、一つ説教でもしないと気が済みませんね」
「何だと、キサマ。何様のつもりだ!?」
「《女帝》ですが。知らぬわけでもないのでしょう?」
酷く冷たい声と視線で、天音はセクターを睨み付ける。うっ、とセクターは言葉に詰まった。それを見て取ると、天音は手を広げて宣言するように言葉を紡ぎ始める。
「――『《氷狼》に任せれば、全て解決してくれる』」
謡うように紡ぐ言葉。それは。
「『《氷狼》なら、どんな敵も退けてくれる』」
この場にいる誰もが抱く、欺瞞の言葉。
「『何故なら』」
そして――罪。
「『《氷狼》は――英雄だから』」
その言葉を、何度聞いたことだろう。
その言葉を、何度紡いできたのだろう。
天音は、この場の全員に問いかける。
「恥だとは――思わないのですか?」
かつて彼女は、一万の命を背負って戦場に立った。しかし、彼女のそれは彼女自身が選んだことであるし、また、彼女が背負った者たちも同様に天音を背負おうとしてくれた。
独りではなかった。結局は一人きりであっても、孤独ではなかった。
しかし、護は違う。
彼は望みもしないうちにシベリアを背負わされ、しかも、勝手に独りで戦場へと放り出されている。そして放り出している者たちは、口を揃えてこう言うのだ。
――英雄だから。
――英雄なのだから。
――英雄なら、大丈夫だ。
何が大丈夫なのか。何故、誰も疑問に思わないのか。
護・アストラーデは、たかだか齢二十の若造だというのに。
「僅か二十の、この場にいるほぼ全ての兵士たちよりも若い少年に全てを背負わせる自分たちが。後方から『頑張れ』と叫ぶ自分が、恥ずかしいとは思わないのですか? あなたたちは畜生以下です。畜生でも、仲間とは共に並んで戦います。あなたたちは――それさえしていない。
シベリアを解放する? 本気でそれを願い、行動しているのは少年たちだけではありませんか。少年と、青年と、少女と……数えるほどしかいないではありませんか。片腹痛いとはこのことですよ。あなた達の何を信じろというのです? 私がシベリアの民であるならば、あなたたちになど絶対に頼らない。
何故ならば、あなた達はいつだって動かないからです。何を信じろというのです? 何を受け入れろというのです? この程度の集団なら、大戦時に玉砕でもした方がいっそ世界のためですよ」
言い放つ天音。応じる声は、どこにもない。皆――わかっているのだ。
自分たちが、何もしてこなかったことを。
「いっそのこと、死んでしまっては如何ですか? 酸素の無駄です。死んで肥やしにでもなったほうが、世界のためにはずっといい」
「何だとキサマ――」
「――私の戦友は」
セクターの声を遮り、天音は言い放つ。
「私の戦友たちは、いつだって私の横に並んで戦ってくれました。そのせいで多くが死にましたが……だからこそ、胸を張って彼女たちを戦友だと私は誇ることができます。あなたたちは、少年にとっての戦友ですか? 違いますよね?――ただの、寄生虫でしょうに」
言い放たれた言葉に、反論はあっただろう。だが、誰も何も言わなかった。
言葉を――紡げなかった。
沈黙が下りる。その中で、さて、と天音が口を開いた。
「私の口上はここまで。異論があるならば、承りましょう。――少年、あなたからならば」
全員の視線が、そちらを向いた。
コツン、と靴の音が鳴り響く。
現れたのは――一人の青年。
護・アストラーデという名の、英雄だった。
◇ ◇ ◇
全員の視線がこちらを向いているのがわかった。だが、それは特に気にならない。今気にしているのは、自身が敗北したことと――レオンとレベッカ、そして天音に迷惑をかけたことだ。
アランにも迷惑をかけた。〈毘沙門天〉を運んでくれたのは彼の〈セント・エルモ〉だ。
正直――解放軍の中で味方だと思えるのは、レオンたち以外ではアランと人質救出の時について来てくれた者たちくらいだ。その他の者たちについては、正直味方だとは思えない。
「《剣聖》に敗戦したことは、俺の未熟だよ。謝って済むことじゃねぇと思うし、そんなことしたって〈毘沙門天〉が元に戻ることもねぇ。けど、すまねぇ。――俺が弱かった」
頭を下げる。息を呑む空気を感じた。
自分の弱さが招いたことだ。ケジメをつけておきたい。それに――
「別に、俺は今まで通りで構いやしねぇよ。独りで戦うのは慣れてんだ。そもそも、俺はテメェらを――解放軍を味方だなんて思ったことは一度もねぇ」
顔を上げ、護は厳しい表情で言い放った。向ける視線の先にいるのは、ソフィアだ。
「俺の味方は、レオンとレベッカと、天音さんと、救出作戦でついて来てくれた人たちと、アランさんだけだ。他は味方だなんてこれっぽっちも思っちゃいねぇ」
「……ならば、貴様は何故ここにいる?」
言葉を紡いだのは、ソフィアだった。護は、ため息を零す。
「向いてる方向が偶然一緒で、一緒に戦った方が効率がいいと思った。……そんだけだよ。大体、俺の両親はテメェらに――シベリア軍に殺されてるんだぞ? この場で皆殺しにしようとしないだけ感謝しろよ」
「ほう。……私は、味方だと思っていたのだがな」
「テメェの勘違いだよ。味方ってのは、助け助けられる関係だろ? 俺は邪魔をされた記憶こそあれ、助けられた記憶なんてねぇよ」
「キサマ、小僧! ソフィア様に向かって――」
「うるっせぇ!! 黙れよどいつもこいつも!!」
吠えた。護は、殺気さえ称えた瞳でソフィアを見据える。
「いい加減にしろよ!! こんなとこに雁首集めてる場合かよ!? シベリア救うんじゃねぇのかよ!? 何のこのこと帰ってきてんだよ!! あのまま統治軍と戦えば良かっただろうが!!」
「キサマ小僧!! キサマが!! 《剣聖》に敗北したキサマが言うのか!!」
「黙れクソジジイ!! 俺が負けたからって何だ!? それが解放軍の敗北なのか!? それで何もできなくなるほどここにいる奴らは弱卒か!? 二年間も力蓄えてたんだろ!? そもそも俺は解放軍にいなかったんだぞ!? テメェらに関係ねぇだろうが!!」
この時、ずっと燻っていた護たち《氷狼》と解放軍の間に横たわる問題が、一気に浮上した。
味方であって――味方でなかった。
そんな、歪な関係が。
「俺は俺の理由があってここにいるんだよ!! 戦ってんだよ!! 必死こいて前向いてんだよ!! 何なんだよテメェらは!! 何もしないってんならそれでもいい!! 知ったこっちゃねぇ!! とにかく邪魔をすんな!! 俺は自分のことで手一杯なんだよ!! テメェらの理想を押し付けんな!!」
それは――英雄と呼ばれた、一人の青年が口にした慟哭。
どうしようもなく哀しい、一つの叫び。
「英雄!? それがどうした!? 俺がそんなに都合のいい存在に見えるか!? ピンチの時に現れて、味方を全部救い出すようなヒーローに見えんのか!? 俺は人間なんだよ!! 限界もある!! できることはこの手が届く範囲のことだけだ!! それでも届かねぇもんの方が多いんだよ!! だから踏ん張ってんだよ!! 歯ァ食い縛って手ェ伸ばしてんだよ!! そんなこともわかんねぇのか!? シベリアの解放はテメェらの理由だろ!? その全てを俺に押し付けんじゃねぇ!!」
言い切り、荒い息を吐く護。その護へと、ソフィアは言葉を紡いだ。
「ならば問うが、小僧。貴様はシベリアの救済を望まぬというのか?」
「俺は馬鹿だけど、身の程ぐらいは知ってる。……俺一人で、どうにかできるわけがねぇだろそんなもん。たった一人救い出すのさえこんなに苦労してんだぞ? こんな様に、なってんだぞ? それはテメェらの役目だろうが」
「成程。……どうやら、見解の相違があったようだ。誠に残念だ、小僧」
「都合のいいことばっかり言ってた報いだろ」
吐き捨てるような護の言葉。ふむ、とソフィアは頷いた。
「小僧。今更、何を言うかと思うかも知れぬが……問わせて欲しい」
「何だよ」
「――我々は、今度こそ友とはなれぬか?」
一歩、ソフィアがこちらへと歩み寄ってきた。護は目を見開く。天音も、驚いた表情をしていた。
「小僧……いや、護と呼ぼうか。初めて見た時の貴様はただ青いだけ、現実をも見ていない童だと思っていたが……」
「……変わったってか?」
「いや、貴様は変わらず青いままだ。しかし――その青さのまま、多くを成し遂げてきた。以前、私は貴様に言ったな? 死を受け入れよと。その時、貴様は言った。『そんなものは御免だ』と。だが、目にしたはずだ。あの時、もしもあの《剣聖》が全力であったならば。あれが真の意味での殺し合いであったならば。貴様は殺され、我が解放軍も皆殺しの憂き目に遭っていただろう。彼の者は……それほどまでに強い」
かつて、『アルツフェムの虐殺』を引き起こした二機の神将騎。その一角が、あの〈村正〉だ。目的が戦闘であったならば、《剣聖》は一切の容赦をしなかったであろう。
そして、多くが喪われていたはずだ。
「貴様はその青さのままに戦場を駆け抜けてきた。しかし、その手が届かぬ絶対的なものを見た。……今一度、問おう。貴様はそれでも尚、全てを救うと口にするのか?」
「当たり前だろ」
返事は即座。護は、ここに至りても尚、変わらぬ信念を口にする。
「全て救い出すんだよ。そうしなけりゃ、救えねぇんだ」
「――ならば、私も貴様と同じ青い夢を見よう」
ソフィアが、宣言する。
「小僧、貴様は休め。これより我らは出陣する。――シベリアを解放するために」
手を振るい、ソフィアは言う。
「良き世を創るのだ。そのために、我らが武器をとろう」
「…………」
「遅すぎた、貴様はそう言うのかも知れぬな。その通りであろう。だが、我らはまだ生きている。ならばまだ、やれることは数多く存在する。――見定めよ、護。我らが貴様と並び立つことができるかどうか、その目で」
ソフィアがこちらへ背を向ける。その、瞬間だった。
「報告!!」
一人の兵士が、息を切らして駆け込んできた。全員の視線がそちらを向く。ソフィアが、どうした、と言葉を紡いだ。兵士は頷き、言葉を紡ぐ。
「大日本帝国の特使を名乗る者が……交渉を要求しております!!」
ざわめきが広がる。
ドクン、と護の心臓が高鳴った。
混沌に落ちた状況は、未だ変わらずさらなる混沌を望んでいく。
◇ ◇ ◇
現れたのは、二人の男女だった。〈風林火山〉――大日本帝国の陸戦艇をアルツフェムの前に着けた後、大日本帝国から通達があったのだ。
『交渉を』
どういう意図なのかはわからない。しかし、断れる状況でないのも確かだった。
そして、普段は使われていない広間へとその使者を通した。来たのは、二人。
大日本帝国最高指導者、帝。
大日本帝国《七神将》第一位、《武神》――藤堂暁。
二人共、年若い若者だった。しかし、それについて異議を申し立てる者はいない。
「聴衆が多いようだが」
静かに告げたのは、《武神》だ。年の頃は護よりも若い。幼ささえ残る風貌をしている。
だが――違う。
近寄れない。死装束のように真っ白な軍服の背に描かれる、『覇』の一文字。たった一文字のそれを目にするだけで、この場の全員が呑まれていた。
――勝てない。
何に、とは愚問だ。たった一人の若造。それを目にして、誰もが知らず敗北宣言をしていた。
それほどまでに冷たい瞳と、静かな威圧感を《武神》は携えていた。
「それは容赦して貰いたいものだな。突然の申し入れだ。逆に、この場の全員が交渉の証人となるのであれば問題はないものと判断するが、如何か?」
対し、その言葉に応じたのはソフィアだ。彼女は少なくとも表面上は欠片も《武神》――暁に動じた様子もなく言葉を紡いでいる。暁が頷いた。
「確かに、突然の交渉だ。いいだろう。――帝」
「ええ。では――交渉と参りましょう」
手を引かれ、青い髪の少女――帝がこちらの用意した椅子に座る。その所作は気品に溢れたもので、その場の全員が見惚れてしまうほどのものであった。
ソフィアも同様に椅子へと腰かける。帝の側にいるのは《武神》が一人。対し、ソフィアの側にいるのはアラン、セクター、レオンがおり、少し離れた位置には護がいる。更に周囲を取り囲むようにしてこちらを見守っているのは、解放軍の兵士たちだ。
一万人対二人。ソフィア自身は二人へ他の護衛はいないのかと問うたのだが、それに対する帝の言葉は簡潔だった。
『私が死ぬのであれば、それは大日本帝国への宣戦布告と同義です。――殺させてくれないでしょう?』
今の解放軍に、大日本帝国とやり合う余裕など存在しない。例えシベリアを取り戻した後であっても、大日本帝国と事を構えることはないだろう。
つまり――帝はこう言っているのだ。
大日本帝国と事を構えたくなければ、お前たちが自分を守れ――と。
無茶苦茶な論理だ。しかし、これこそが強国の論理。
……恐ろしいものだな、この小娘は……。
ソフィア自身、王族としてはまだまだ未熟だ。しかし、見た目の年齢から察するに帝は自身よりも年若く思える。だというのに。
どれほどの修羅場を、通り抜けてきたのか。
自分自身の命をも交渉の道具にするなど、普通の王族がすることではない。
「それで、交渉とは? 我々は祖国の救済を願えど統治軍にしてみれば反逆者に過ぎぬ。失礼ながら、貴国が我らと交渉することに利益があるとは思えぬのだが」
「いえいえ、これは義理ですよ。そちらには我が国の者と神将騎がお世話になっている様子。その返礼とでも思っていただければ」
「……信用できぬな。むしろ、世話になっているのはこちらであろう?」
「ふふっ、そうでもないんですよ? ここにいるのであれば、少なくとも居場所は知れています。居場所がわかっているのであれば、どうとでもできますから」
帝は微笑んでいる。腹は読めない。
ソフィアは息を吐くと、帝へと問いかけた。無駄な問答をする余裕はない。聞くべきことを、聞かなければ。
「交渉、と貴様は言ったな?――何を求める?」
「正確には、提案です。まあ、気まぐれとでも申しましょうか」
言って、帝はその言葉を口にした。
「――シベリア特区、自治領の設立……如何に思われますか?」
◇ ◇ ◇
「何をしに来たかと思えば、まさかそんな提案をしに来たとは。帝も相変わらず、何をするかわからない人ですねぇ」
「帝が望んでいるのは――我々の望みは、恒久の平和だ。それは貴様とて理解しているだろう」
「まあ、存じてはいますよ」
苦笑を零し、肩を竦めたのは天音だ。その隣には、外壁から外を眺めている《剣聖》――神道木枯の姿がある。
「それにしても、よろしいのですか? 帝の護衛をせずに」
「大将がいる。《史上最高の天才》を謳われる怪物がな」
「暁もまた、二年も見ないうちに変わったものですね」
「二年もあれば、天才は覚醒する。……貴様にも見せたかった。玄十郎様を御前試合で完膚なきまでに叩きのめした大将の姿を」
「……藤堂の申し子、ですか」
呟く天音。その天音に、そもそも、と木枯が言葉を紡いだ。
「貴様の後継者……あれは何だ?」
「後継者?」
「とぼけるな。貴様が軍神を渡すような相手だ。何者かは知らんが、相当なものなのだろう?」
問いかけ。それに対し、天音は顎に手を当てて考え込んだ。
……少年が何者か、ですか……。
考えたこともなかった。とりあえず目的のために用意した一手として協力し、手を貸しているだけの相手である。いちいち考えてなどいない。
ただまあ、敢えていうのであれば。
「気に入りましたか?」
「才能は認める。現時点の実力は低いがな」
「そうでしょうね。だからこそ、目をかけたのです」
全ては偶然だ。多くの『たまたま』が重なった結果、《女帝》と呼ばれた自分もここにいる。
本当に――それだけだ。
「ねぇ、木枯。あなたは、人が戦う時に最も重要となるものは何だと思いますか?」
「純粋な力、では納得せぬのだろうな。――信念か?」
「それをも含めた――『理由』ですよ」
そう、理由。
どんなものでもいい。ものによっては、独り善がりでもいいのだ。それさえあれば、人はどこまでも戦える。
「理由さえあれば、人は戦えます。彼の理由は酷くわかり易い。ふふっ、囚われの姫君を救い出すなど……一体、どこの御伽噺でしょうか」
「よくわからんが、それが貴様の後継者が抱く理由か?」
「約束、だそうですよ?」
笑みを零す。そのままに、天音は言った。
「小さな小さな約束……本当に、それだけだったのですよ。少年にとっては。それに命を懸ける。何の躊躇いもなく、命を懸ける。実に――歪んでいる」
知ったのは、つい最近だ。だが――だからこそ、こうも思うのだ。
「似ているでしょう?……あの二人に」
「……帝と、大将か」
「人の戦う理由など、何でもいいのですよ。その者だけのものであるわけですしね。……さて、それにしても『自治領』ときましたか。少年たちはどうするのでしょうね?」
自治領――それは、落とし処の一つだ。このままどちらかが潰えるまで戦いを続けるのは、正直非効率に過ぎる。それ故の、自治領。
それを選ぶのは間違いではないだろう。ある意味では正しい判断だ。しかし。
「それを選べば、少年は大切な少女を救い出す機会を永遠に失うことになります。……どうするのやら」
それに、自治領と一口に言っても様々な問題がある。それをどう捉えるつもりか。
木枯が、天音、と微笑む彼女に声をかけた。
「貴様の後継者は、政治面にも明るいのか?」
「ん~……全く、ですね。明るいどころか、その方面には欠片も知識がありません」
「ならば、帝と大将の相手は不可能だろう。帝は無論のこと、大将は貴様が教えを授けた相手だ。交渉事で後れをとるような教え方はしていないだろう?」
「とにかく嫌がらせをしろ、って教えましたからねぇ。でもまあ、木枯。ここにいるのは少年だけではないのですよ。もう一人、面白い青年がおりまして」
「青年?」
「少年が武芸特化しているからでしょうかね。青年は……政治面に明るいようですよ?」
微笑む。本当に、いつ振りだろうか。護の言葉も、ソフィアの言葉も、酷く、酷く楽しかった。
ここにいれば面白いものが見られる。心の底から、そう思う。
「まあ、見守りましょう。――どちらに転ぼうと、面白い結果にはなりそうです」
呟いた天音の視線の先、アルツフェムの外には。
統治軍が、部隊を展開していた――
◇ ◇ ◇
自治領――その提案に、周囲でざわめきが広がっているのが聞こえる。そしてそのざわめきの中、言葉を紡ぐ帝の声も。
「シベリア自治領の認可……これにより、シベリア連邦はEUの管理下なれど国家として再び形成されます。あなた方としては、悪くない提案だと思いますが?」
その通りだろう。少なくとも、これ以上の戦いはなくなる。ある意味で、解放軍の勝利だ。
だが……これでは。
――アリスは、どうなる!?
自治領……その話をどうして大日本帝国が持ってきたのかはわからない。しかし、だからこそ嘘ではないのだろう。
この話を呑めば、不当な扱いを受けているシベリア人たちは救われる。戦いもなくなる。管理下というのは仕方がない。敗戦国だ。自治が認められたら、そこから徐々に力を蓄えてゆけばいい。
しかし――アリス・クラフトマンは救われない。
約束の少女は、助け出せない。
「…………ッ」
待て、と叫ぼうとした言葉を、ギリギリで呑み込んだ。同時に、こういうことか、と思う。
一万人のために、一人を殺すのか。
一人のために、一万人を殺すのか。
これが――その選択の時。
「…………ぐっ……!」
血が滲むほど強く、拳を握り締める。理由はどうあれ、アリスは裏切り者である。自治領とは統治軍と解放軍の妥協点だ。そこに、アリスの居場所はない。
統治軍からも、解放軍からも。
アリス・クラフトマンという少女は疎まれる。
このままでは――彼女は世界に見放される。
――俺は……。
ぐちゃぐちゃな思考で、それでも必死に答えを探す。天音は言っていた。『自分で選んだのに後悔した』と。
あの人に何があったかはわからないし、どんな選択をしたのかもわからない。ただ、思うのは。
――後悔。
ここで何もしなければ、自治領を認めれば、多くの命が救えるだろう。それは間違いない。
しかし。
たった一人の大切な少女は――救い出せない。
救い出すことができない。
――後悔。
そうだ。後悔だ。必ず悔やむ。必ず慟哭する。どうしてと、叫ぶことになる。
――俺は……ッ!!
しかし、アリスのために他の全てを犠牲にするのか?
多くを、失うのか?
『私が死ぬことで、救われる人たちがいるんです』
彼女はそう言っていた。そのために戦っているのだと。
そんな彼女が、多くの犠牲を出すことになる選択を受け入れてくれるのか?――答えは、否だ。
しかし、それでも。
そうであっても――……
……そもそも。
どうして、こんなにも自分はアリスという少女のことを気にかけているのだろうか?
共にいた時間はとても短かったし、交わした言葉も多くはなかった。
約束も、他愛もないものだったはずだ。そこまで大きなものでもない。
嗚呼、と思った。
似ていたのだ。どうしようもなく。
真っ直ぐに前を向いていたいのに、どうしてもそれができなくて。
でも、前へ進もうと必死になって。
――そうか。そういうことなのか。
俺は、護・アストラーデは。
「――――」
覚悟が定まる。そうだ。何を迷っているのだ。
アリス・クラフトマンへ、自分は何と言葉を紡いだ。
〝俺が、お前の生きられる世界を創ってやる〟
そこへ、『共に』と言葉を付けよう。そうだ、そのために、それだけのために。
たったそれだけのために――戦ってきた。
護・アストラーデはずっと、それだけを――……
前に出る。言葉を紡ごうと息を吸う。
しかし。
「待て――」
「一つ、物言いを挟ませてもらう」
護のことを手で制しながら、そんな風に言葉を紡いだのはレオンだった。
レオン・ファン。ずっと共に戦いを続けて来てくれた戦友が、言葉を紡ぐ。
「その提案……受け入れることはできない」
「……ほう」
応じたのは、暁だった。《武神》と呼ばれるその若者が、鋭い視線をレオンへと向ける。
「貴様は?」
「解放軍参謀官、レオン・ファンだ」
暁の瞳に対し、怯むことなくレオンは応じる。その横から、セクターが声を上げた。
「キサマ! 身分を弁えろ!」
「いや、構わぬ」
しかし、それを即座にソフィアが止めた。そのまま、ソフィアがレオンへと問いかける。
「青二才。問うが、最上の結果をもたらせるのだな?」
「最善を尽くします」
「ならば――やるがよい」
「はい」
頷く。そしてレオンは護に背を向けたまま、言葉を紡いだ。
「見ていろ、護。俺が、お前の道をつけてやる」
◇ ◇ ◇
「自治領を認めることは、解放軍にとっては悪手です」
外壁から統治軍の展開をぼんやりと眺め、天音は言った。木枯が、何故だ、と言葉を紡ぐ。
「自治領を認めさせれば、これ以上の戦闘行為もなくなる。直接的な死者はかなりの規模で減るはずだ」
「確かにその通りです。しかし、そこには落とし穴があるのですよ。……自治領が認められたからといって、そのままイコールでシベリア人が全員、救われるわけではありません」
そう、自治領ができたといっても、それで全てが解決するわけではない。場合によっては更なる問題が発生する。
「自治領に入ることのできる人間は何人? 自治領の規模は? 収容所や強制労働施設はどうなる?……問題は山積みです」
「……だが、自治領の規模を少しずつ広げていけば」
「シベリア人全員を救うのに、その方法だと何年かかるでしょうか。まあ、十年はかかりますね。断言します。その十年の間に、自治領は必ず崩壊することでしょう」
「自治領が?」
「自治領があり、そこではシベリア人の尊厳を取り戻せる……そう言えば聞こえが良いですが、実際は『入れる者』と『入れない者』が明確に現出してしまいます。入れない者は入れた者を妬み、それは必ず傾国の火種となる」
地獄ですよ、と天音は言った。
「逆に戦いを願えば、全てを救う可能性が存在します。犠牲は出ますが、統治軍を全て排除することは結果として自治領を受けるよりは多くを救えますね」
「だが、敗北の可能性があるだろう?……いや、そうか。そういうことか。自治領を設けるにしても今は『時機』が悪いと、そういうことだな?」
「ご明察。……この自治領の提案は、客観的に見ても優位にある統治軍からの申し出。しかも、大日本帝国と言うた国の介入まで許しています。多くを望むことは許されず、ゆっくりと潰されるのは目に見えているでしょう」
自治領のアイデアそのものは悪くないのだ。ただ、それはあくまでこちらからの要求としなければならない。それも、最低で統治軍と対等、できれば優位な状態でその話をしなければならない。
それさえまともにできないこの状況で、望める未来など知れているのだ。
「かつて、私があなたの私邸に『吉原』についての交渉に伺った時、あなたは何と言ったか覚えておられますか?」
「……『戦争を終わらせに来たのか』……だったか?」
「そうです。自治領というのは、武力の戦争を終わらせるための手段なのですよ。あの時の私は、すでに武力ではない戦争――経済と謀略の戦争の準備を終えていました。一万の命を背負ったのです。それぐらいはしなければ」
覚悟が足りない。誰も彼も、ここにいると本当にそう思う。
少年――護・アストラーデのあれは覚悟ではない。ただの『無鉄砲』だ。
まあ、自分も彼も『歪』な人間。そこに何かを求めたところで無駄なのだが。
「天音」
不意に、木枯がこちらの名を呼んだ。真剣な声色だ。天音は微笑を零す。
「どうされましたか?」
「貴様は、どうなると思う?」
「どうとも。どちらに転ぼうと面白くはありますし、ね」
呟き。目的がある。理由がある。守るべき者も――いる。
ここにいる理由があり、すべきことはまだ残っている。ならば、答えは一つだ。
「とりあえず今は、成り行きを見守ります。……折角です、木枯。私がいない間の大日本帝国の話を伺っても?」
「構わん。……とりあえず、貴様が出奔したせいで吉原の者たちが泣いていることは伝えておく」
「ふふっ。彼女たちに、もう私は必要ありませんよ」
言いながら、天音は目を凝らして外を見る。そこでは統治軍が部隊を展開しており、こちらを囲む構えを見せていた。
戦闘は避けられないだろう。今度は大日本帝国の横槍もない。そうなれば、〈ワルキューレ〉も出てくるはずだ。
少年……歪み切ってしまった存在。わざわざ過去を話したのは、後悔があるからだろう。
しかし、今更あの歪みを正そうとも思わない。正せるような人間でもない。
自分と似ていると、そう思う彼が。
どんな道行きを見せてくれるのか……楽しみだとは、そう思う。
「……さてさて、どうなることやら」
「どうした?」
問いかけ。いつもの微笑を浮かべ、天音は応じる。
「何でもありませんよ。私は何も、変わりません」
◇ ◇ ◇
レオン・ファンは、小さく、しかしゆっくりと息を吐いた。自分のすべきこと、やるべきこと、それは理解している。護・アストラーデが戦う戦場を用意すること、それがレオンの役目だ。
そう――天音が言う、後ろから見ているだけの者に、自分も含まれるのだ。
護に問えば、違うと答えてくれるだろう。あの男は優しい。実際、共に戦場にも出ているのだから、そんなことはないと真剣に否定してくれるのだろう。
けれど、違う。違うのだ。
レオン・ファンは〝奏者〟ではない。それ故に、最後は護という奏者に頼るしかない。その背中を、見ていることしかできないのだ。
だからこそ、レオンは前に出る。
「――お前に、道を付けてやる」
護との出会いは偶然で、共に戦うことになったのも偶然だ。
多くのことがあったし、衝突したことも多くあった。現実を見ろ――この言葉を、何度ぶつけたかはわからない。
しかし、護は変わらなかった。
自分がボロボロになろうと、傷だらけになろうと、ずっと変わらなかった。ひたすらに前へと進み、ずっとずっと、戦い続けている。
なら、その背を見ながら道をつけるのは自分の仕事だ。
「問うが、自治領とはどの程度の規模が許されている?」
「……城塞都市アルツフェムと、周辺地域。丁度、お前たちが制圧した範囲だ」
互いに立ったままでの言葉のやり取り。レオンは暁の言葉を聞き、やはり、と内心で言葉を紡いだ。
現時点で解放軍が制圧した地域は、決して広くはない。その地域に入れるのは、どれだけ努力しても十万人が限界だろう。
それは、つまり。
……数百倍以上のシベリア人が、救済されないことになる。
そんなものは認められない。十万人――多い。救える命としては、相当な数だ。だが、少ないのだ。
解放軍は、シベリアの救済を願って戦っているのだから。
「重ねて聞く。収容所と強制労働施設はどうなる?」
「どちらも潰れることはない。そもそも、収容所は治安維持目的で建てられたものだ。強制労働施設についても、シベリア復興のためという目的がある。その二つは消えない」
ざわり、と周囲にざわめきが起こる。レオンは、ふざけるな、と言葉を紡いだ。
「俺たちがどんな現状にいるか、知らないわけではないだろう?」
「正直なこと言うのであれば、知らないことだ。知る必要のないことでもある」
暁は言い切った。そのまま、更に言葉を続けてくる。
「俺たちはシベリアの現状になど興味はない。俺は大日本帝国《七神将》第一位――その軍事力を全て束ねる存在で、帝は大日本帝国の象徴だ。いいか? そもそも、大日本帝国にシベリアの事情は関係ない」
「何だと?」
「国交でも結んでいるのなら話は別だがな。……俺たちは今回、あくまで統治軍と解放軍の間を取り持つためにここへ来た。シベリアの状況になど興味はなく、それとは別のところに利益を見たからこそこうしている。視察団ではないんだ。その部分は理解しておいてもらいたいところだな」
言い切る護の言葉の意味はわかる。大日本帝国にとって、シベリアの状況などどうでもいいのだ。ここにいるのは向こうにとっての利益があるからであり、シベリアを想ってのことではない。
ならば、跳ね除けるのが正解だ。とり合う必要もない。そう思い、言葉を紡ごうとした瞬間。
「ああ、一つ言い忘れていたな」
何かを思い出したような暁の言葉を聞き、動きを止めた。暁はこちらを気にした風もなく、言葉を紡ぐ。
「俺たちは統治軍と解放軍がどうしようと特に興味はない。だが、その二つの衝突に介入した以上、両方へ義理を通さなければならない。そのために、双方の妥協点として自治領の提案をしに来ている。……大日本帝国としてここへ来ている以上、こちらにも面子があってな。引き下がるには、相応の理由を提示してもらうぞ」
「いいだろう。――まず第一として、我々はシベリアの救済を願っている」
「それが貴様たちの大義だということは聞いている。だが、それが実現可能なことであると本気で思っているのか?」
「思うのではない。実現するためにこうして戦っている」
言い切る。ここで退くのは過ちだ。こちらの手札は多くない。ならば、攻めて行かねば潰される。
「そちらの提案する自治領では、我らを信じてくれている者たちに対して何一つ救済にはならない」
「それはそちらの思い込みだ。自治領が存在する、そこには王がいる……その事実だけでも、民草の救済にはなるだろう?」
「それはつまり、その者たちを見捨てろということか?」
入れた者と、入れなかった者。明確な二つの差は、必ず火種となる。
十年、二十年かければその全てに救済の手が届くだろう。だが、それでは遅すぎる。
……今この瞬間にも、飢えて死ぬ者がいる。
二年もの間、シベリアの大地を駆け抜けてきたからこそ、レオンはその現実を目にしてきている。
誰もが苦しみ、下を向く現実。その中で、自分たちのような義賊ができたことはちっぽけなものだ。
――けれど。
解放軍なら、この数を用いれば。数多くの人々を救えるかもしれないのだ。
無論、全てが救えるとは思っていない。多くが喪われるだろう。しかし、それを呑み込み、それでも進むと決めたのだ。
故に、ここで言う。
「今この瞬間も苦しんでいるシベリアの民を、同胞たちを。その全てを苦しみから解放すること。それが解放軍の大義だ。自治領は受け入れられん」
交渉決裂の言葉を、強い意志を持って叩き付けた。暁が、冷たい瞳でこちらを見る。
「救えると、本気でそう思っているのか?」
ゆっくりと、暁が腰の刀を外した。流麗な動き。鞘に納められたままのの切っ先を、暁はレオンに向ける。
「力がなければ、何一つ救えはしない。……我が国の『軍神』を動かしていたのは、誰だ?」
問いかけに対し、レオンは沈黙を通す。暁が、言葉を重ねてきた。
「言い方を変えよう。〈毘沙門天〉の奏者は誰だ? 俺を除けば大日本帝国でも出木天音しか扱うことのできない神将騎を用い、《剣聖》と刃を交えたのは?」
「――俺だ」
問いかけに対する回答は、即座だった。レオンの隣まで歩み出ると、護は暁を睨み付ける。その視線を受け止め、暁は腰に刀を戻しながら言葉を紡ぐ。
「成程、貴様が《氷狼》か。……随分と」
――風が、流れた。
誰一人――動くことはできなかった。
「――鈍い男だ」
聞こえた声は、背後。暁がレオンと護の背後に立ち、その刀の切っ先をこちらへと向けていた。
「――――ッ!」
護と共に、レオンは慌てて振り返る。全く反応ができなかった。暁は刀を鞘へと収めると、どこかつまらなさそうに護とレオンの間を横切り、言葉を紡ぐ。
「救う、というが。……《氷狼》一人の敗北でここまで撤退してくるような脆弱な軍隊に、何が救える?」
「……俺の負けは、俺の未熟だよ。けどな」
――澄んだ金属音が、鳴り響いた。
護が抜き放った刀の一撃を、暁が受け止めた音だ。
「もう二度と、負けやしねぇよ。全部救うって、決めたんだ」
「全てを救う。そんな夢物語が実現可能だと?」
「夢物語なんかじゃねぇよ。どれだけ困難だろうと、実現すればそれは『実現可能なこと』に成り下がる。できねぇ? やらねぇの間違いだろうが。やるんだよ俺は。そう――決めたんだよ」
敗北の後でも、変わらず護は前を向いている。危うく思うが、しかし、これは必要なことだ。
――狂奔、という言葉がある。
乱世に生きる英雄に必要な資質の一つだ。護にはそれが備わっている。例えば、自分は――レオンは行き先が見えないならば足を止める。だが、護は突き進む。たとえその先にあるのが崖であろうと。
友としては危ういその生き様を修正したいと思う。だが、その気質に幾度となく助けられたのも事実。
故に、これでいいとレオンは思う。彼の道行きは、彼だけのものだから。
「――邪魔すんなよ」
不意に、鋭い声が聞こえてきた。護が、暁に向かって言葉を紡いでいるのだ。
「関係ねぇだろうがお前らは。何を邪魔してんだよ。自治領?――ふざけんな!」
怒号が響いた。暁は変わらず無表情で、先程から一言も発さない帝は口元に笑みさえ浮かべている。それでも、護は止まらない。
「さっきから聞いてりゃ何だよ! テメェらの言う自治領はただの差別だ! 俺たちはな、苦しんでる全てを救うために戦ってんだよ! 関係ねぇだろテメェらは! 何も知らないくせに……知らねぇくせに! 勝手なことばっか言ってんじゃねぇよ!
テメェらにわかんのか!? テメェらが何を知ってんだ!? 目の前で飢えて死ぬ子供がいて! そいつに『大丈夫だ』って嘘吐いて! 泣きたいの必死に堪えて笑う気持ちがわかんのか!? わかんねぇんだろ!? 何が大日本帝国だ! 所詮――恵まれた奴らの集団じゃねぇか!」
「……俺たちが恵まれているように見えるのなら、それは貴様らの敗戦が原因だ。負け犬の遠吠えにしか聞こえんな。狼どころか、ただの犬か?」
「黙れ!! テメェらがそんなんだから俺は戦ってんだよ!!」
振るわれる刀。甲高い金属音を響かせ、二人が距離を取る。
「勝者が正義!? クソ喰らえだそんなもん!! 勝手に始められた戦争で!! 負けたなんて納得できるか!! 耐えられるか!! 受け入れられっかよ!! だから戦ってんだよ!! だから踏ん張ってんだよ!! 歯ァ食い縛って前見てんだよ!! テメェらなんかに――何がわかるってんだよ!!」
響く怒声。それを耳にして、畳み掛けるようにレオンは言った。
「お帰り願おう。こちらは自治領を受け入れない。向こうにもそう伝えてもらいたい」
「成程、承知しました」
言葉を紡いだのは、ずっと黙っていた帝だった。彼女は立ち上がると、ソフィアへと視線を向ける。
「それは解放軍の総意と受け取ってもよろしいですか?」
「委細、構わぬ。元より私も受けるつもりはなかった」
「左様で。……まあ、王としては当然の判断でしょうね」
言って、帝は護とレオンへと視線を向ける。そして、微笑を浮かべた。
「全てを救う……私のような者には戯言にしか聞こえないその言葉、貫き通せるか否か。――見せてくださいますよう」
「――失礼する」
その言葉と共に、帝と暁が立ち去っていく。その姿が見えなくなってからもレオンはしばらくそこに佇んでいたのだが、横の護が動いた瞬間、思い出したように言葉を紡いだ。
「護。……道はつけてやったぞ」
「ありがとうよ。助かる」
「何が助かる、だ。わかっているのか? 戦うのはお前なんだぞ」
「――レオン」
こちらに背を向けたままに、護は言った。
「全部、自分で選んだんだよ。俺がここにいるのも、戦うのも。……救い出すとそう決めた。立ち止まることなんざ、できるわけがねぇだろうが」
そう言った、友の背中を。
ぼんやりと、見ているしかなかった。
――数時間後。
アルツフェムへ――統治軍が侵攻を開始した。
◇ ◇ ◇
「そういえば、あの子は元気ですか?」
「元気にしている。声は相変わらず出ないがな。……天音、本当にいずれ声が出せるようになるのだろうな?」
木枯にしてみれば、ふとした問いかけだったのだろう。だが天音は、真剣な口調で言葉を紡ぐ。
「――あの子の診察において、私が嘘を吐くとでも?」
珍しく、笑みとは違う感情の込められた言葉。木枯は、静かに頷いた。
「……その言葉、信じよう」
そして、沈黙が流れる。外から聞こえてくる兵器の音だけが響く中、不意に、声が聞こえた。
「お待たせしましたー」
二人が視線を向ける。するとそこには、帝と暁がいた。木枯が姿勢を正す。
「お疲れ様です、陛下」
「いえいえ、疲れてなどいませんよ。木枯もお疲れ様です」
「提案の方は?」
「やっぱり断られちゃいました。まあ、まともな神経をしているのなら断って当然ですが」
「左様ですか」
木枯が応じるのを見て、ふむ、と天音は思った。誰が対応したのかはわからないが、特に問題は発生しなかったようだ。まあ、問題が起こるような二人でもないのだが。
大日本帝国最高位、帝。
大日本帝国《七神将》第一位、藤堂暁。
この二人は、人の上に立つことの意味を理解しているし、自分たちが持つ力をきっちりと自覚している。仮に護辺りが刀を抜いたところで、『それがどうした』で済ませてしまうだろう。
――君臨すれども統治せず。
その意味を最も体現するのは、おそらくこの二人なのだろうから。
帝と暁は木枯と何事かを話し合うと、こちらを見た。内容はおそらく帰還についてだ。流石に王が何ヶ月も国を空けるのは問題だろう。
「……お久し振りですね、天音」
「はい。陛下」
微笑を浮かべ、帝へと一礼する。対し、帝はふふっ、と笑みを零した。
「積もる話もありますが、状況が状況、それはまたの機会と致しましょう。……こちらへ戻ってくる気はありますか?」
「以前申し上げましたように、私には私の目的がございますので」
「大日本帝国の打倒、ですか?」
「さて……如何でしょう」
帝と天音は互いに微笑を浮かべる。暁と木枯は戸惑いの表情を浮かべているが、それでいい。帝と天音……二人の関係は、他人に推し量れるようなものではない。
帝は天音へと背を向ける。そうしてから、微笑と共に言葉を紡いだ。
「天音。私はあなたを高く高く評価しています。……いずれ、戻ってきてくれますね?」
「……いずれは」
「それなら良いんです。――流れる血は少ない方がいいですから」
――その言葉の意味を、この場の全員が理解していて。
しかし――何も言わなかった。
「ねぇ、天音。一つだけ、言っておきますね。多くを見、多くを知ったあなただからこそ」
立ち去る寸前、帝は天音へとそんな風に言葉を紡いだ。黙する天音へ、帝は静かに言葉を紡ぐ。
「――あなたはまだ、何も知らないのです」
その言葉だけを残し。
かつての敵であり、今は味方であるはずの怪物たちは……立ち去った。
「……わかっていますよ」
一人佇むその場所で。虚空に向かい、天音は言った。
「だから……こうしているのです」
――しばらくして。
統治軍の攻撃が、開始された。
というわけで、レオンと暁による交渉対決が主題です。
自治領という案そのものは、妥協点としてはあり得る選択肢です。ただ、解放軍側からすればこれは優位に立っているときに提案するものです。
ちなみに統治軍としては、大した領地も与えずに済むので、結構利益はあります。断られても今まで通りなので、実はデメリットはありません。
そして次回は山場です。今回も長かったですが、次回はもっと長いかも……。
感想、ご意見お待ちしております。
ありがとうございました!!