第二十六話 その笑顔を偽る理由
解放軍における護・アストラーデの立場は、大きく変わった。明らかな罠だったというのに、正面から立ち向かい、見事に粉砕したのだ。
確かに彼は、彼について行った仲間を失った。死なせてしまった。しかし、あの時――凱旋に近い帰路において、鬨の声を聞きながら護はアルツフェムにある墓標へと足を運んだのだ。
――そして。
散っていった者たちの名をその墓標の前で呟き、深々と頭を下げた。
偽善だと、そう言う者もいた。しかし、多くの兵が思ったのだ。
この人は――覚えていてくれる、と。
兵とは究極的なことを言えば、死ぬことが仕事だ。しかし、だからといって割り切れるものではない。死ぬのは怖いし、彼らにも遺していく者というものがいるのだから。
だから、護のその行為は大きな衝撃を与えた。
人として、背負ってくれる。
死を、覚えていてくれる。
それが――彼らにとっては何よりの救いとなるのだから。
「踏み込みが甘い。それではこうして――容易く狩られますよ」
「――――ッ!!」
静かな言葉に反し、轟音を響かせる天音の踏み込み。その右手に握られているのは、開かれた鉄扇だ。『合気鉄扇術』、と天音はそう呼ぶ体術だが、これが中々に厄介だ。
基本的には『受け』の体術で、向こうから攻め込んでくることはほとんどない。しかし、『合気』という名に恥じず、あらゆる攻撃に合わせてくる。
その足捌きも独特だ。護が父親から叩き込まれた剣術の足捌きに、『運足』というものがある。これはボクシングのフットワークなどとは違い、足を滑らせるように動かすところに特徴がある技法だ。どちらが優れているというわけではないが……体を連結したものとして考え、その拳や脚に力の全てを込める技法は、確かな『技』である。
だが、天音のそれは更に違う。舞……そう、まるで舞踊だ。こちらが往けば退き、退けば来る。どうにも捉え切れない。
それでいて正中線――体の中心を走る線のこと――がブレないので、一撃一撃が重くなる。
「お、お……ッ!」
首筋を狙い打つような鋭い一撃を、護は前に出ることで避けた。いや、避けたのではない。バックハンドの要領で放たれたその一撃に対して前に出ることで、首に当たるものを鉄扇の刃から天音の手首に変えたのだ。
ガツッ、という鈍い音が脳内に響いた。だが、耐えられる重みだ。護はすぐさま体を回転させ、手に持った刀を天音へと叩き付ける。
ギィン!!
しかし、その一撃は天音が懐から左手で取り出した鉄扇に防がれた。鉄扇の刃が欠け、金属片が飛び散るが……刃は届いていない。
睨み合う二人。そこで、ふっ、と天音が笑みを零した。
「流石ですね。私にここまで刃を届かせる者など、久し振りです」
「そうかよ」
応じ、護は距離を取った。そこで。
――――――――!!
歓声が上がった。アルツフェムの格納庫に、声が響き渡る。護と天音の仕合いを観戦していた解放軍の兵たちだ。
「凄いな、将軍は!」
「《氷狼》……! あの人さえいれば戦に勝てる!」
「先生も凄いな!」
聞こえてくるのは、護と天音に対する称賛だけだ。特に護は解放軍における最重要戦力、〈毘沙門天〉を操る奏者だ。神将騎は奏者の実力がそのまま反映されると言われ、実際、それは当てはまる事実だ。彼らにしてみれば、神将騎なしでも十分な身体能力を見せる護は本当に頼りに見えるのだろう。
正直、護はこうして自身の訓練を見られるのが苦手だった。以前は観戦するといってもレオンやレベッカ、天音と共に神将騎の調整をしてくれる技術者、そして一般人たちだけであり、シベリア兵たちは見向きもしなかった。
それが、今や大挙して押し寄せるといった有様だ。
……現金な話だ。
護は内心で小さく呟いた。ただこちらを見送り、何が行われるかを知っていて動かなかったくせにこれだ。
吐き気がする。視界が憤怒で歪む。
本当に、こいつらは。
この国を――シベリアの民を、救う気があるのか?
「少年、顔が怖いですよ?」
「…………」
「人前……それも、あなたに付き従う兵士たちの前です。そういう顔は、控えた方が賢明かと思いますよ?」
顔を寄せられ、耳打ちするように告げられる。それはレオンにも言われたことだ。レオンによると『今後お前は英雄として扱われる。常に見られていると思え』――とのことだったが、これが護にはよくわからない。
護・アストラーデは二十の若造である。
レオンや天音のような頭脳もなければ、レベッカのように機械に強いわけでもない。戦闘についても、傭兵であるというアランには劣るだろう。
そんな自分が《氷狼》と呼ばれ、英雄と呼ばれる現実が、どうしようもなく違和感を感じさせるのだ。
「とりあえず、今日は感謝する」
「ふふっ。もう私の稽古など、必要ないのではありませんか?」
「鍛錬が必要なくなる日なんて来ねぇよ」
刀を鞘に納めながら、護は呟いた。そのまま、天音へと視線を向ける。
「戦争をしてんだよ、俺たちは。……勝つまで、やるさ」
「勝利の先に何があると?」
「別の戦いだろ? 俺にはこれしかねぇ。英雄だ何だと呼ばれても、俺は一番前に出て敵と戦うことしかできねぇんだ。……結局、それだけなんだよ」
底なし沼での戦いから、すでに二週間近くが過ぎている。その間も、幾度となく護は戦闘に出た。周囲の目があるせいで以前のような無茶はできなくなったが、それでも睡眠時間は一日に三時間くらいだ。
そんな毎日を送っていて、不意に思うようになった。
――こんな毎日が、ずっと続いていくのだろう。
二年前、徴兵されて銃を持たされた時は想像さえしていなかった。しかし、これが現実だ。
神将騎を駆り、戦場に立ち。
ずっと、戦って。
戦い、続けて。
そうして――生きていくのだろうと。
「俺は頭も悪いし、頼れるような親族もいねぇ。奏者、っていっても、シベリア人の奏者なんざEUにしてみりゃ危険分子だ。だったらもう、ここしかねぇよ」
この場所でしか、生きていけない。
それに。
それに、もう一つ。
「戦う理由がある。ここでなきゃ、手にできない。手を伸ばせば、届くかもしれねぇんだ」
だから、ここにいる。
ずっと、ここに。
アリスを――救い出すために。
「少年」
不意に、天音が護を呼び止めた。その表情は微笑を浮かべたものだが、どこか淡いものを含んでいる。
「この後、時間を。そうですね……住民街の四番広場へ来てください」
「何かあるのか?」
「一つ、真面目な話をと。……三週間ほど前に頂いたレポートのことも併せて、ね」
「わかった」
護が頷き、天音に背を向けて立ち去っていく。その背を見送りながら、天音は呟いた。
「……敵と戦う、ですか。怖いですね……本当に」
いずれ、と天音は呟いた。
「戦うという言葉が、殺すという言葉になった時……少年は、どうするのでしょうか」
私のように、なるのでしょうかと。
天音は、小さく呟いた。
◇ ◇ ◇
統治軍に、一つの指示が下りた。統治軍の本拠地である首都モスクワと、叛乱軍の本拠地たる城塞都市アルツフェム……その間にまたがる、巨大な河――テュール川。
そこを、叛乱軍との戦闘、その最前線にするというものだ。
この時、その軍隊の規模は三万人。その総大将に任命されたのは《赤獅子》と異名をとる英雄、朱里・アスリエル。その補佐官は、ドイツの名門貴族シュトレン家当主、カルリーネ・シュトレン少佐だ。
現在、統治軍は河を渡ることをせずに陣を構えている。叛乱軍はまだテュール川まで進軍してきていないが、じきにそうなるだろうと朱里たちが判断したのだ。攻めるよりも守る方が容易い。
ちなみにこれは朱里とカルリーネの策ということになっているが、実際は違う。知る者は知っているのだ。
統治軍には、その能力の高さ故に不当な扱いを受ける、名も亡き名指揮官がいることを。
「貴様の見立てでは、あと三日のうちに叛乱軍は向こう側に布陣するというのだな?」
「集めた情報を統合すると、ですが。向こうの今までの動きを見るに、相当な切れ者がいることは明白です。更には、《女帝》も確認されています。勢いを重視するならば、一気にテュール川を渡ろうとするでしょう」
カルリーネ・シュトレンの問に対して応じたのは、ソラ・ヤナギだった。彼らがいるのは陣内に用意された軍議用の天幕だ。そこには彼らの他に二人の人間がおり、その片方の朱里は真剣な表情でソラの言葉を聞き、もう一人のリィラ・夢路・ソレイユは護衛役であるため、静かに目を閉じて成り行きを見守っている。
その中で、なら、と朱里が言葉を紡いだ。
「勢いを重視しないならば、どうする?」
「地盤を固めるのが定石でしょうが、これは叛乱軍にとっては悪手です。そもそも叛乱軍は規模にして精々が二万人。シベリア王女という大義名分がありますが、しかし、徒にシベリアの平穏を乱しているのも事実です。地盤を固めるというのは他国への救援を乞うということになりますが、今の彼らの協力する国などありません」
「中華帝国はそもそも自国の内紛騒ぎが済んでおらず、アジア諸国と中東は我々の影響が及ぶ、か……そうなれば、大日本帝国の動きが気になるな。介入してくるのだろう?」
「そのタイミングが読めないのが、正直気がかりですが……」
カルリーネの言葉にソラは頷く。ソラ・ヤナギという青年は、何よりも『情報』を重要視する。叛乱軍の情報も、統治軍内における勢力図も、彼は彼が小隊を率いていた頃の部下に命じ、調べ尽くしていた。
その過程で大日本帝国の横槍についても知ることになったのだが、それについては実はそこまで心配していない。
そもそも、戦闘を避けるべき相手である大日本帝国。戦うという発想が間違いなのだ。横槍を入れさせるなら入れさせればいい。こちらに火の粉がかかるなら、逃げればいいのだ。
それに、とソラは内心で呟いた。
――統治軍のトップは、精霊王国イギリスの貴族だ。
イギリスと大日本帝国の繋がりは明白だとソラは思っている。アルツフェムの虐殺や、〈アロンダイト〉という神将騎を大日本帝国が保有していること……叩けば、いくらでも埃が出てくる。
それに、アルビナから仕入れた情報によると大日本帝国の目的は《女帝》だ。一対一で朱里がどうにか互角に渡り合える相手である。こちらが手を加えずとも消えてくれるのであれば、それ以上のことはない。
「願うべくは、ぶつかり合う前に介入して欲しいということですね。叛乱軍は大日本帝国の介入を知らないはずです。おそらく、勝手にぶつかってくれるでしょうし」
「成程。……つくづく、貴様がそんな地位にいることが惜しく思える」
「大したことでは」
ソラが首を左右に振る。それを見て、ならばと朱里が声を上げた。
「もし戦闘となれば、どうするつもりだ?」
「問題は、敵方にいる二機の神将騎です」
神将騎、という単語に、カルリーネがピクリと眉を跳ね上げた。ソラは敢えてそれを無視し、言葉を続ける。
「〈毘沙門天〉と〈セント・エルモ〉……正直、信じたくはありませんがこの二機には数の論理が通用しません。その上、〈毘沙門天〉の奏者は叛乱軍において精神的にも要になりつつあります」
「《氷狼》か。くだらん」
「ええ。ナメた話です。だからこそ、大佐に〈毘沙門天〉を相手取っていただきたいと思います」
「俺にか?」
朱里が眉をひそめた。ソラは頷きを返す。
「〈毘沙門天〉は、将軍の首を獲っています。誰も口にしませんが、一兵卒の者たちにはその印象が非常に強い。それを払拭する意味で、こちらの英雄をぶつけたいんですよ」
「いいだろう。だが、〈毘沙門天〉はそれでいいとして、〈セント・エルモ〉はどうするつもりだ?」
「それは中尉の――〈ワルキューレ〉に任せます」
「何だと?」
僅かに声を荒げたのは、カルリーネだった。彼女は、ソラへと鋭い視線を向ける。
「どういうつもりだ? あの《裏切り者》を頼るというのか?」
「お気持ちはわかりますが、統治軍に中尉以上の奏者は大佐しかおられませんし、『名持ち』の神将騎も〈ワルキューレ〉くらいしかありません」
「その通りだな。中尉以上の奏者には、統治軍ではまだ見たことがない」
「…………」
カルリーネが押し黙る。彼女もまた、優秀な人間だ。二人が中尉と呼ぶ人物――アリス・クラフトマンの実力については認識しているだろう。
だが、そもそもカルリーネは選民思想が強い人物だし、奏者を嫌うところがある。そういう意味で、アリスという少女は認められない存在なのだろう。
「まあ、当て馬ですよ。手傷を負わせられれば御の字。おそらく、歩兵戦がメインになるでしょうから」
「……成程、了解した。兵たちには言い含めておこう」
「お願いします」
ソラが頭を下げると、カルリーネは頷いて天幕を出て行った。それを見送った後、朱里がおもむろに言葉を紡ぐ。
「ソラ。もしも、俺や中尉が負けたらどうするつもりだ?」
「考えてありません。中尉はともかく、大佐。あなたが負けることはありえない」
言い切るソラ。朱里は、根拠は、と問いかけた。ソラは頷く。
「聖教イタリア宗主国最強の神将騎を預かり、同時に最強の奏者であるあなたが敗北した時……イタリアに打つ手はなくなる。そういうことです」
「成程」
「それに」
重ねて、ソラは言う。
「〈ブラッディペイン〉の強さとあなたの強さは、俺が一番知っているから」
「…………」
「それじゃ、俺はここで。ちょっと色々と用事があるんでね」
言って、ソラも天幕を出て行った。朱里がため息を吐く。
「あの男は、本当に……」
「なんや含みがある言い方でしたけど……大佐、隊長と何かあったんですか?」
「何か、というほどのことはないが。……俺とソラは士官学校の同期だ。聞いたことはあるか?」
「一応は。確か、隊長は次席で卒業したんですよね?」
「実質的には主席だがな。……疑問に思ったことはないか、リィラ? ソラはスラム街の出身だ。それが、何故士官学校などという、卒業すれば将来の地位を約束してくれる場所へ入学できたのか」
「……そう、いえば」
リィラが言われてみればそうだ、というような表情をする。元々、フランスにいた彼女は紆余曲折を得てイタリア国籍を手にしてガリア人であることを捨てた経緯がある。イタリアという国は、EU内でも群を抜いて貴族思想や選民思想が強い国家だ。リィラが国籍を手に入れることができたのが、そもそも奇跡なくらいである。
朱里は両親こそいないがそれなりの名家の出である上、〈ブラッディペイン〉に乗ることができる奏者であったから理由はわかる。しかし、ソラは?
今の彼が見せる能力の高さ――特に、その頭脳の回転速度と作戦立案能力、指揮能力からすれば当然のように思えるが、そもそも彼はそれを発揮できなかったはずの人間だ。
罪を犯し、地を這いずり、土を食んで泥水を啜るようなスラムという場所で生きてきた人間だ。士官学校になど入れるはずがない。
「ソラは、いや……ソラも、か。あいつもまた、〈ブラッディペイン〉の奏者だった」
「えっ? でも、〈ブラッディペイン〉って……」
「俺にしか扱えない、最強の神将騎だ。だが、当時はその出力の大きさこそ知られていたが、乗れる者のいない神将騎だったんだ。その時、俺ともう一人――ソラ、という奴隷が〈ブラッディペイン〉を操れることがわかった」
「隊長が? それに、奴隷って……」
「それが始まりだ。奴隷狩り……合衆国アメリカで奴隷解放令が出されてから、何年の月日が流れたか。未だに、そんなことが続いている」
イタリアに限らず、EUのあらゆる国々に言えることだ。
奴隷という、人以下の存在を所有する貴族たち……かつては世界の最先端に立っていたEUという場所は、それほどまでに腐ってしまっていた。
「ソラによれば、もうどうでもいい過去らしいがな。……ソラを飼おうとしていた貴族が、戯れで〈ブラッディペイン〉に乗せた時、あれが起動した。だからこそ、ソラは奴隷から人間になれたんだ」
「奴隷から人間に、って……」
「腐った話だ。この世界に倫理などというものがあるのかどうか、疑いたくなる」
人が人でなくなる――そんなことが、有り得てしまうのだから。
朱里は言葉を紡ぐ時に感じた憤りにも似た重い気持ちを振り払うと、言葉を続ける。
「ソラは、俺――朱里・アスリエルの『スペア』だ」
「スペア?」
「当時はどちらが乗るかは決められていなかったがな。戦闘に関しては俺が上と判断されたために俺が乗るようになった。ソラはもし万が一――いや、あの頃は百が一というところか。俺が死に、〈ブラッディペイン〉が無事であったなら、ソラ・ヤナギが乗ることになっていたんだ」
まあ、もう意味はなくなったがな、と朱里は呟く。
「それが、奴隷が士官学校に入れた理由。そして、俺とソラが同じ部隊に配属されていた理由だ」
「そう、やったんですか……」
「出自が出自だ。ソラは厳しい作戦ばかり任されていたが、あの性格と能力だ。生き残り、結果を出し……最終的に、『アルツフェムの虐殺』を経てここにいる」
「…………」
「ソラが言う、朱里・アスリエルに対する信頼の根底はそれだ。〈ブラッディペイン〉に乗ったことがあるからこそ、その力を信用している。だが、ソラは〈ブラッディペイン〉にしか乗れない奏者でな。だから今の奴は、奏者ではない」
奏者であれば、あらゆる神将騎に乗れるわけではない。一つに乗れて、別の神将騎には乗れない――そんなことはいくらでもある。そこの理屈は不明だが、奏者の『質』であるだろうと言われている。
奏者の定義は、『乗れる神将騎が存在すること』だ。そういう意味で、ソラ・ヤナギは奏者ではない。
「それだけの話だ。別に何かがあったわけでもない」
「成程」
頷くリィラ。ソラとの付き合いは、朱里にしてみればもう随分と長くなる。腹は読めないし、何を考えているかはわからないが……信用できるという点においては間違いがない男だ。
そんなことを考えながら、ふと、朱里は思った。
「そういえば、リィラ」
「何ですか?」
「中尉を見ていないが、どうしている? 〈ワルキューレ〉はここにあるようだが……」
「んー、まあ、色々ありまして」
リィラは苦笑。どこか煮え切らない表情で、言葉を紡ぐ。
「戦う意味みたいなのが……わからくなってしもたみたいですよ」
◇ ◇ ◇
言われた通りの場所に行くと、そこには不思議な光景が広がっていた。
「手足を冷やさないようにしてください。申請すれば、毛布くらいは支給されると思いますので」
「ありがとうございます、先生」
「食欲がなくても、できるだけ食べるようにしてくださいね?」
「はい、はい、本当にどうもありがとうございます」
白衣を着た天音が、一般のシベリア人に囲まれ、何やら老人に対して人差し指を立てながら言葉を紡いでいた。老人はしきりに頷いている。
住民街四番広場。城塞都市アルツフェムへと逃げ込んだ一般のシベリア人たちが暮らす場所にある、憩いの場だ。
城塞都市という名が示すように、アルツフェムは周囲を鉄壁で囲まれており、外からは押し潰すようなイメージを受ける。だが、中は人が長期間の籠城戦に耐えられるように完全とはいかずとも自給自足の設備は整っているし、それなりに子供たちが過ごせる場所もある。
もっとも、本来なら十万以上という規模の人々が暮らせる場所に、今は精々二万人ほどしかおらず、一般人などは二、三千という規模なので寂しさは拭いきれない。
一般人の中には子供たちもおり、彼らは専らこの広場で遊んでいる。護も余裕がある時はレベッカなどとと一緒に訪れており、子供たちの相手をしている。レオンや天音は子供たちに一般教養を教えているとのことだったが……。
「おや、少年ではありませんか」
不意に、天音が微笑を浮かべながらこちらを見た。天音を取り囲むようにしていた者たちが、一斉に護を見る。
「護様だ……」
「《氷狼》の……」
「アストラーデ将軍……」
ひそひそ声が聞こえてくる。ここのところ顔を出していなかったから丁度いいと護は思っていたのだが、目の前の反応に対して無意識のうちに拳を握り締めていた。
護・アストラーデは、解放軍にとっての希望である。
統治軍との戦いでは常に最前線におり、結果を残してきた。ソフィアのように後ろから見守るのではなく、現場で戦う護という存在は一般人たちからは見えやすく、わかり易い存在なのだ。
しかし、この間の戦いで護の立場が大きく変わった。
――英雄。
誰もがそう認めてしまった彼は、最早子供たちと遊ぶ青年ではなくなってしまったのだ。
しかし。
「マモルにいちゃん!」
「お兄ちゃんだ!」
「マモルおにいちゃーん!」
「うおっ!?」
背後からタックルを喰らい、護は思わずよろけてしまう。振り返ると、彼がいつも遊んでいた――遊ばれていたとも言う――子供たちが、目を輝かせていた。
「遊ぼう!」
「久し振りだよね! 遊んでくれるよね!」
「遊ぼうお兄ちゃん!」
子供というものは、変わらない。
護・アストラーデが《氷狼》という青年が英雄になろうと、彼に対する接し方は変わらないのだ。
「んー、悪ぃな。今日は先生に用があるんだ」
腰を落とし、視線を下げながら護は言った。えー、と子供たちが不満の声を上げる。
「じゃあそれ終わってから遊んでー?」
「いいぞ。遊ぶ遊ぶ。レベッカ連れてくるよ」
「お姉ちゃんも?」
「ああ。任せとけ」
「約束だよ?」
「約束だ」
頷くと、手を差し出された。護は首を傾げる。すると、子供の一人――いつも中心になって遊んでいる女の子が、小指を差し出してきた。
「ゆびきりしよ! ゆびきりー!」
「ユビキリ?……ああ、指切りか」
大日本帝国の文化だ。小指同士を絡めて約束事をするというものなのだが、何故こんなものを知っているのだろうか?
……ああ、あの人か。
こっちを見て笑っている天音を見て納得する。あの人は大日本帝国の出身だ。何故こんなところにいるのかはわからないが、心強い味方だ。本心でそう思う。
「いいぞ。ほれ」
「わーい♪」
小指を絡める。こんなのは、本当にいつ振りか。
そんなことを護が思っていると、女の子が楽しそうに歌い始めた。
「ゆーびきーりげーんまん、うーそついたらこーゆびつーめる♪」
いつの間にかカタギではなくなっていた。
「おい待てそれは駄目だ」
「え? どうしてー?」
「指を詰めるんじゃなくて、これは針を千本呑ませるもんだぞ?」
「そーなの? でも先生はこー言ってたよ?」
「あの人実はそっちの人か?」
聞きたくないが。
「まあ、とにかくあれだ。約束は守るよ」
「わーい♪」
女の子の頭を撫でてやる。すると、不意にその護の頭上から影が差した。振り返ると、微笑を浮かべた天音がこちらを見下ろしていた。
「モテモテですね、少年」
「……あんた、子供に何教えてんだ?」
「針を千本も飲んだら死にますしねぇ。その分、指を詰めるだけならケジメをつけただけで――」
「そういう問題じゃねぇんだよ」
本気でよくわからない人物である。
子供たちはそんな天音の姿を見ると、先生、と声を上げた。天音が微笑む。
「ふふっ、今日も元気そうで何よりです」
「先生も遊ぼう?」
「後で、です。私は彼とお話がありますから」
「何のお話ー?」
「エロい話です」
「何言ってんだあんたは!?」
思わず叫んでしまう。しかし子供たちはへー、と頷くと納得して行ってしまった。それを手を振って見送った後、さて、と天音が呟く。
「あちらのベンチにでも座りましょうか。少々、長くなりそうです」
「何の話だ?」
「それなりに真面目な話ですよ」
少年次第ですが、と天音は肩を竦める。護は眉をひそめるが、とりあえず促されるままにベンチへ座った。天音を囲んでいた人たちも、いつの間にかいなくなっている。といってもその大半は広場におり、おそらく気を遣ってくれたのだろう。
ベンチに腰掛ける。その時、不意に天音が言葉を紡いだ。
「そういえば、知っていますか少年?」
「何をだよ?」
「私と貴方が恋人同士という噂が出回っているようですよ?」
「…………マジか?」
思わず天音の顔を凝視してしまった。いつもと変わらぬ微笑を浮かべる天音は、ええ、と頷く。
「どうやらそのようです」
「あり得ねぇ……」
「そうでしょうか?」
「……あんたは嫌じゃねぇのか?」
「ならば、そういう関係になってみますか?」
何が『ならば』なのかはわからないが、天音が顔を近付けながらそんなことを聞いてきた。
――唇。
以前、触れ合ったそれに視線が行く。天音は美女と評するに相応しい人間だ。妖艶さを纏い、常に腹の読めない立ち振る舞いをする彼女は確かに魅力的であろう。
しかし、駄目だ。
護の心には、別の人物がいる。
「遠慮する」
肩を押し、引き離しながらそう言葉を紡ぐ。天音は苦笑した。
「つれませんねぇ。私には魅力がありませんか?」
「美人だと思うよ。けど、やっぱり……違うと思う」
「成程。すでに想い人がおりましたか?」
一瞬、護の心臓が高鳴った。しかし、すぐさま息を吐いてそれを鎮める。
「あんたはどうなんだ?」
「肯定も否定もなし。若いですねぇ……」
呟いてから、天音は広場で遊ぶ子供たちを見た。護と天音の距離は少し離れている。他人よりは近く、友人よりは遠い……そんな距離だ。
「かつてはいたのですがね……」
「へぇ、そうなのか?」
二人共、視線は子供たちを向いている。
互いの視線が交わらない状態で、二人は言葉を紡いでいく。
「ええ。それはもう、命を懸けて愛しましたよ。あの人と共にいられるなら、それこそ自分が背負うもの、手にしてきたもの、未来、過去、あの人を想う以外の感情の全てを失っても良かった」
「…………」
「あの人は、私を初めて見てくれた人でした。『笑わなくてもいい』などと……笑え、としか言われたことのなかった私には初めての言葉でした。多くを貰ってばかりで、受け取ってばかりで、支えられてばかりで……何一つ、返せなくて」
天音の口調が、いつもと違う。きっと、それほどの相手だったのだろう。
この人の強さは、理解している。そんな天音が、いつもの口調で言葉を紡がない。
でも、と思う。
――この人は、独りきりだ。
たった一人で、あの場所にいた。たった一人で、笑っていた。
何故だろう? どうしてなのだろう?
どうして――笑っているのだろう?
独りきりでは笑えない。笑うことができない。それを、護は嫌というほど知っているから。
少年、と自分を呼ぶ声が聞こえた。静かな声。真剣な声。
いつか、聞いたことのある声色だ。
……あの時の、声だ。
多くを奪われ、失い、敗北した首都の攻防戦――あそこで〈毘沙門天〉に乗った時に、こんな声色で問われたのだったか。
何だよ、と護は問い返す。天音が頷いたのが、気配でわかった。
「あなたは、何のために戦うのです?」
幾度となく、多くの人に問われ続けてきた言葉だった。護は、いつものように言葉を紡ぐ。
「理不尽に立ち向かうためだ。苦しんでる奴がいる。泣いてる奴がいる。救い出せるかもしれないんだ。……見捨てられっかよ」
多くの苦しむ人を見てきたからこそ、護は言うのだ。
しかし。
「――そうではありません」
天音は、それを否定する。
「それもまた、あなたにしてみれば是なのでしょう。人はいくつもの理由を掲げ、抱くものです。確かにあなたは理不尽に対して憤りを抱ける人です。人の苦しみに対し手を差し伸べようとする人です。人の涙を拭おうとする人です。しかし……私が聞きたいのはそういう言葉ではありません」
「何だってんだよ」
「――手を伸ばすとは、誰に対してですか?」
視線は、互いに合わせない。天音は、更に続けた。
「あなたは幾度となく、手を伸ばせば届く――そんな言葉を口にしてきました。誰に? 誰のために? あなたは一体誰を描き、戦っているのです?」
「いきなりだな。根拠は?」
「女の勘と……後は、あなたの行動の節々に感じる違和感ですね。人は弱いのですよ、少年。そして人は、顔も知らぬ他人のために死ねるほど強くはないのです。人が命を懸ける世界は、いつだってその人が生きる世界です」
その言葉の意味は、護にもわかる。人は、世界を抱けるほど強くない。
顔を知り、名前を知り、言葉を交わした者しか認識できないのだ。
「わかるな、それは。顔の知らない奴のために命を張るのは、ちょっと難しい」
「ええ。だからこそ問いたいのです。……少年、あなたは誰のために戦うのですか?」
誰のために。その言葉から思い浮かぶのは、たった一人だけだ。
――アリス。
あの日約束を交わし、戦場で再会した……護の戦う理由。
彼女へと手を伸ばすために、護・アストラーデは戦っている。
「何で、そんなことを聞くんだよ?」
「必要だからですよ。あなたは最早、英雄となった。なってしまった。その理由を問うておかなければなりません」
「英雄……」
「そうです。あなたは英雄なのですよ。ここに住む二万の命を背負い、シベリアを生きる数百、数千万の命を背負う立場になったのです」
「……俺は」
言っている意味はわかる。英雄とは、そういうものなのだろう。
しかし、自分がそうであるということを……納得できないのだ。
そこまで強くもなく、未熟な――たった一人の女の子さえ救い出せない自分が、英雄だなどと。
「俺は、英雄なんかじゃねぇよ」
「英雄という名は、その功績に対して他者が与えるものです。あなたは英雄ですよ、少年」
「……そんなもんか」
「そういうものです。だから、聞きたいのです。あなたは、誰のために戦うのですか?」
護はベンチにもたれかかり、空を見上げた。灰色の空。青い空など、久しく見ていない気がする。
「……長くなるけど、いいか?」
「存分に」
問いかけには、すぐさま返答が返ってきた。護は一度唸ると、ゆっくりと言葉を紡ぎ始める。
「……一人の、馬鹿なクソガキがいたんだ。見た目がシベリア人じゃねぇってんで、よく苛められてた。そいつもそいつで人との付き合い方とか、喋り方とかがわかんなくてな。どうして、とは思ってもどうしようもなかった」
だから、一人でいることが多くなった。独りきりが、多かった。
「でも、両親は本当に優しくてな。どうにかこうにか、生きていった。けど、やっぱり独りきりは辛くて……でも、それを悟られたくなくて、ずっと、一人でいて。
馬鹿なガキだよ、本当に。寂しいくせに、辛いくせに、泣きたいくせに……強がって、大丈夫なんて言って。いっつも不機嫌そうな面して。
家族が、そいつにとっては唯一の味方だった。両親だけが、優しさを向けてくれた。
けど……その両親は、戦争に殺されたんだ」
戦争で、殺されたのではなく。
戦争に、殺されたのだ。
「父親は、敵国の出身だって理由で殺された。帰ってきたのは、指一本だけ。母親は、その心労で死んじまった。だってのに、戦争はそのクソガキに銃を握らせた。祖国のために戦え?――クソ喰らえだよそんなもん。シベリアが家族を奪ったんだ。そんな奴らのために戦えなんて、どうしても納得できなかった」
天音は何も言わない。言わないでいてくれる。
「でも、生き残るにはそれしかなかった。けど、そこでも独りきりで……もう、本当にどうでもいいと思ってた時に、そんな時に――出会ったんだ。たった一人で、泣きそうな顔で周囲を見てる奴に」
危なっかしい手つきで銃を持ち。
俯きながら、泣きそうになりながら、周囲を見ている一人の少女に。
「馬鹿はさ、そいつに声をかけたんだ。そしたら、ありがとうって、そう言って、笑ってくれて」
くしゃりと、護は顔を覆うようにして右手で髪を掻き揚げた。
どうしてなのだろう、と思った。
どうして、こんなことを忘れていたのだろうか。
自分は。
護・アストラーデは――……
「……同じだったんだ。一人が寂しくて、でも、どうしようもなくて。俯いて、でも、周囲を見て。誰かを、誰かと一緒の笑えることをずっと望んでて。
見たいって、思ったんだ。あの笑顔を、もう一度見たいって。
最初はそれだけで、だから聞いたんだ。――平和になったら何がしたい、って」
そうしたら。そうしたら、あいつは。
「〝世界を見たい〟、って言って笑って。だから、行こうって、そう言って……」
本当に、それだけのことだった。でも、それだけで良かったのだ。
独りは辛い。どうしようもないほどに。
ずっと独りだったなら、あるいは耐えられたかもしれない。けれど、知ってしまったのだ。
あの笑顔を。
共に笑えるということを。
独りじゃない、ということを。
「笑って欲しかった。笑っていてくれれば、それだけで良かったんだ。だけど、俺はあの時手を伸ばせなかった」
一度目も、二度目も、三度目も。
アリスという少女に、手が届かなかった。
だから、今度こそ。
今度こそ――掴み取る。
「今そいつは、敵の側にいる。たった一人で、捕まってるシベリア人たちのために犠牲になろうとしてる。……目の前で死のうとしてる奴に、死ねばいいなんて言うほど達観した記憶はねぇ」
言い切る護。その隣で、天音が頷いた。
成程、と。
そして、こう言った。
「あなたが求める少女は、〈ワルキューレ〉の奏者なのですね?」
「――――ッ!?」
「難しい理由はありませんよ、特には。私にも色々と情報網がありますから。……シベリア人の少女が統治軍に所属しているというので気になっていたのです。色々と、繋がってきましたね」
言って、天音は立ち上がるとこちらを見た。そのまま、真剣な表情で言葉を紡ぐ。
「少年。あなたは、あなたのままで生きていきなさい。何があろうと、どんなことがあろうと……その少女だけは取り戻すと、そう心に誓いなさい」
「言われなくても、そのつもりだ」
「『つもり』では駄目なのです。あなたにはまだ、手を届けられる可能性がある。こんな後悔は――愛した者をその手にかけた後悔などは、背負うものではありません」
その言葉に、酷い重さを感じた。
嘘ではなく、事実の言葉なのだとそう納得させる重みを。
「あんたは、殺したのか?」
「ええ。殺しましたよ」
目を伏せ、天音は言う。そのまま、彼女はこちらへ背を向けた。
――顔を見せたくないとでもいうかのように。
「多くを背負っていました。そうしなければ、私は背負った全てを殺すことになったでしょう。……以前、私はあなたに問いましたね?」
「何をだ?」
「一万人のために一人を殺すのは是であるか否か、と」
そういえば、そんなことを問われた気がする。あの時は、全てを救うと言ったのだったか。
「私は、私が背負った全てのために私の全てであったあの人を殺しました。それは、是であったのでしょうか?」
「……何で、俺に聞くんだよ」
「似ているからですよ。今のあなたとかつての私が。……少年。もし、もしもですよ? あなたが想う少女を殺さなければシベリアを救えないならば、どうしますか?」
「そんなこと」
「考えたこともないというのなら今ここで考えなさい、少年。世界とは、何でも起こるのですよ。何故なら、世界とは自分以外のものの方が多いのですから。だからあらゆることが起こり、あらゆる現実が牙を剥く。全てを救える奇跡など、望めないのです」
奇跡とは、人のために起こるものではないのですから――天音は、そう言った。
護は押し黙る。そんなこと、選べない。決められやしない。
それを悟ったのか、天音はこちらへ背を向けたままに言葉を紡いだ。
「ならば、言い方を変えましょうか。百人を救うために百人を殺さねばならないのだとしたら。あなたはどうしますか?」
「……極端だろ。そんなの」
「もう少し言い方を変えましょう。――味方の百人のために、敵を百人殺さなければならないのであれば……どうしますか?」
「それは、多分……」
殺す、という言葉が出なかった。
何故だろうか。そうしてきたはずなのに。
そうやって――ここまで来たはずなのに。
「……今はそれでいいのですよ、少年。私は一万人のために一人を殺しましたし、百人のために百人を殺して生きてきました。自由のために。囚われた彼女たちに――私と同じ境遇を生きた彼女たちのために。そのために殺して、殺して殺して殺してきて……多くを失い、雨の中、あの人の側でただ泣き続けて」
その独白は、きっと。
彼女がずっと、抱えていたものなのだろう。
――手が、伸びた。
背後から、優しくその頭を撫でていた。
小さな、微笑が聞こえる。
「こういうことをするから、誤解が広がるんですよ?」
「いいだろ、別に。実際違うんだしな。人の噂も四十九日」
「黄泉へと逝けそうですねぇ」
「まだ逝く気はないけどな」
笑う。天音も、微笑を浮かべている。
そして。
「少年。私は、全てを選択してきました。この現状も、現実も、全て自身が選んだものです」
「…………」
「しかし、後悔しています。多くを後悔してしまっています。妙な話ですね。自分で選んだというのに、選ぶ権利があったというのに……後悔ばかりして」
それなのに、と護は思った。
それだけの後悔を得ていながら、そうなっていながら。
どうして――笑っているのだ?
「背負った者たちへと自由を与え、代わりに私は不自由と後悔を手に入れました。選択が間違いとは思いませんし、思えません。彼女たちは笑っている。あの子も……笑っている。笑っているのです。だから、私も笑うしかなかった。そうするしかなかった。
……乞われたのですよ、壊れた世界で。
私の世界など亀裂だらけで崩壊ばかりで、いつ滅んでもおかしくないというのに。そんな破綻した世界で、それでも、笑っているしかなかった」
手から伝わってくる。天音が、震えている。
「愛する人に遺されて。あの子を失って。そんな世界で生きられるほど、私は強くなどなかったのに。それなのに、私は――出木天音という女は、『笑顔』のためだけに戦ってきたのです。
今更、それを変えることはできません。できるはずがない。それしかもう、残っていないのですから。
――ねぇ、少年? 私は、一万人のために一人を殺しました。けれどもう、それはできません。それもまた事実なのです。私は、一人のために一万人を殺すでしょう。たった一人の大切なあの子のために、そうすることになるでしょう。そうならないと誓っても、決めても、あの子を前にすればそうすることでしょう。
だけどそれは――あの人を殺した事実を、肯定しないということになる。
壊れるでしょう。
乞われるでしょう。
その果てに私は、どうしようもなくなっているでしょう」
天音が、一歩前へと歩み出た。振り返ってこちらを見る。
――微笑。
いつもと変わらぬ笑顔を浮かべる天音の微笑が、そこにはあった。
けれど、何故か。
こちらは……笑うことができない。
「泣いてくれるのですか、少年?」
涙はない。泣いてなどいない。
だというのに、目の前の女性はそんなことを問いかけてくる。
護は、頷いた。
「あんたが、泣かないからだろうが」
この言葉を、別の人に言ったことがある。
だけど、目の前の人にも同じ言葉を届けた。
「そうですね。……泣き方を、忘れてしまいましたから」
――重なった。
泣いていた、あの日の彼女と。
微笑んでいる、目の前の人が。
どうしようもなく――似ていた。
「私は笑ってもらうために、笑っていました。そのために生きてきました。けれど……もう、誰かのためには戦えません。
少年、私のようにはなってはなりません。こんなバケモノには、なってはいけないのです」
「バケモノ、って」
「バケモノですよ。大日本帝国へと牙を剥き、多くを殺し、奪い、喪い、奪われ、憤り、慟哭し、その果てに――かつて殺すと誓った者の下で笑うなど。最早、人のする所業ではありません」
故にバケモノなのだと、天音は言って。
そして、こう言った。
「選択の時が来た時は、命を懸けて選びなさい。たった一つの選択で、たった一つの結末で、自身の世界は容易く壊れます。見せてください少年。全てを救うと言ったあなたが、壊れる前の私と同じことを掲げたあなたが、幸福を掴めるかどうか……見せてください」
天音が立ち去っていく。護は、上等だ、と呟いた。
「全部……救ってやるよ」
その、全てには。
酷く寂しい背中を見せる女性も含まれていることに。
気付いていて――気付いていない、振りをした。
まさかの先生ヒロイン化?
というわけで、区切りも着いてきたので戦う理由の再確認を。
護と天音の二人は、実は似た者同士であるという噂が。
天音の言う、『命を天秤にかける』行為は、本当に難しいと思います。
シベリア編も山場に突入。しっかり描き切れたらなぁ、と思います。
ありがとうございました!!