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英雄譚―名も亡き墓標―  作者: アマネ・リィラ
シベリア動乱編―約束―
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第二十二話 その背に背負うモノ 後編


 朱里・アスリエルは周囲の空気に対して舌打ちを零しそうになるのを必死で堪えていた。無駄に広い会議室。軍隊の上層部が使う場所だというのに無駄に飾られたその部屋が、朱里は嫌いだった。

 もうもうと立ち込める紫煙が、そんな朱里の機嫌を更に悪くする。彼自身は特に煙草というものに対して嫌悪を抱くわけではない。ソラも吸うし(あの男は孤児院では吸わないようだが)、ドクターなどわざわざ仮面をずらしてまで所構わず吸っている。

 健康に害があるということも、明日戦場で死ぬかもしれない身ではそこまで気になることではない。問題は、その臭いだ。


 ……終わったらシャワーを浴びて、臭いを落とす必要があるな。


 この会議は一応、彼の今後を決める意味で非常に重要な会議だ。彼だけではなく、かつては上官であり、今は部下である男の今後も懸かっている。

 その男は今ここに来ていない……要するに遅刻なわけだが、まあ、あの天才――ソラ・ヤナギが意味もなく上官を待たせるとも思えないので、何かあるのだろう。

 そういうわけで、正直そっちはどうでもいい。問題は臭いとこの後の予定だ。

 朱里にとって、それこそ命に代えてでも守りたい相手。その人物は、非常に五感が鋭い。煙草の臭いには一瞬で気付く。ここでついた臭いなど、一瞬で感じるだろう。

 面倒だ、と呟く。その瞬間。


「――もう待てん。会議を始める」


 朱里と同じように、会議室の椅子に座る人物の一人が声を上げた。朱里がそちらへと視線を向ける。名前は忘れたが、階級章では中将という位置にいる人物らしかった。


「良いのか? ヤナギ大尉が来ておらんが?」

「ふん。所詮は大尉だ。いちいち気にかける必要はない。ここに大佐がいる以上、処分を下すことに対して問題はないのだからな」

「…………」


 自分たちのことを言われているのに、朱里は特に興味を示すことなく中空を眺めている。そんな朱里の態度が癇に障ったのか、中将が朱里を睨んだ。


「大佐、貴様は自分が置かれている状況を理解しているのか?」

「……当然だ。していなければここにはいない」


 言い切る朱里。そうしながらも、彼の視線は中将へ向くことはない。その様子と言葉を聞き、中将が立ち上がった。


「キサマッ! なんだその態度は!? 上官を侮辱する気か!?」

「上官? いつ、俺の上官はあなたになった?」


 そこで、朱里は初めて中将へと視線を向けた。睨み据えるような鋭い視線。後方の安全地帯から、ぬくぬくと戦況を見守っていただけの者には決して持つことのできない、歴戦の勇士にのみ許された瞳。

 うっ、と中将がその瞳を見て怯む。だが、すぐさまその必要以上に肥大したプライドで持ち直すと、朱里に向かって怒鳴り声を上げた。


「き、キサマッ! 私は中将だぞ!」

「俺は今、統治軍の所属であり、その前は教皇陛下の親衛隊隊長だ。イタリア軍の指揮系統に、俺の名前は刻まれていない。俺に命令するのは教皇陛下と十二使徒の歴々のみ。その中でも教皇陛下の命令が最優先される。はっきり言おう。――貴様らのような無能の命令など聞く必要などない」

「なっ!?」


 中将が立ち上がり、その周囲の者たちも立ち上がって朱里を睨んだ。それを代表するように、中将が朱里に向かって指を向けながら声を荒げる。


「き、きさ、き、きっ、この、ぶ、ぶれ……!」


 ――別に、これは中将が言語機能に障害を持っているわけではない。もっと別の要因だ。

 普段から実力以上に持ち上げられている人間は、侮辱されることに慣れていない。それ故に、侮辱されると必要以上に逆上してしまうのだ。

 くだらない……朱里は小さく呟いた。そのまま、全員に向かって言葉を紡ぐ。


「その教皇陛下が、俺たちに対して処罰を下さなかった。結論は出ている。違うのか?」

「…………ッ、だが、それとこれとは――」

「別だというのか? 貴様の今の言葉は、教皇陛下に対する反逆だぞ」

「――――ッ!?」


 ビクッ、とその場の全員が体を震わせる。本当に、くだらない奴らだ。

 実力もないくせに、口先だけは一人前。よく見れば、家柄とコネだけで出世したような人間しかここにはいない。よく朱里はその生い立ちから軍内より『庶民の星』などと呼ばれるが、それはつまりイタリア軍という組織がどれだけ実力とは別のところによる評価で上に立つ者が多いかを示している。

 士官学校に入るためには、莫大な金がかかる。この時点で、まず一般の庶民は出世の道を絶たれていると言ってもいい。ソラや朱里のような多少の例外はいるが……それにしても、士官学校というのは貴族のボンボンが多い。

 朱里は思う。二年前の大戦の結果は、至極当然のものであると。


 ……イタリア軍は、大戦においてもまともな結果を出せなかった。


 シベリア連邦の首都攻略や、ガリアにおける大侵攻など、成功の部分が派手であったためにあまり認識されていないが、イタリア軍は大戦においては敗戦の方が実は多い。

 朱里やソラは敗戦というものを『アルツフェムの虐殺』以外に経験していないが、彼らがいない場所では毎度のことのようにイタリア軍が敗戦していた。無能な上司の下に就く部下ほど不幸なものはない……ソラがよく口にするその言葉は、その経験から来ているのだ。

 無論、確かな実力があって昇進している者もいる。しかし、この場にはそんな者は誰もいない。

 ――最弱の軍隊。

 そう揶揄されるのも仕方がないと、この光景を見れば朱里は思ってしまう。

 それほどまでに――愚昧だ。


「だが、納得できないなら仕方がない。異端裁判でもすればいいだろう?」


 朱里が立ち上がる。それを受け、その場の全員が一歩、その場から退いた。これで軍人だというのだから、呆れたものだ。


「確か、正しい者には神による加護が与えられ、勝利できる……だったか? 俺が間違っていると思うなら、それで確かめればいい。聖教イタリア宗主国は宗教国家だ。そのルールに則った決め方をすればいいだろう?」


 魔女裁判でも行われた方法だ。もし、その者が正しく魔女でないのであれば、加護によって火鉢を当てられても守られるという理論である。火傷をしたならば加護がない――つまり、魔女であったというものだ。もっとも、ここで火傷をしなかったならば、それはそれで悪魔の加護が憑いているということになるのだが。

 そして、ここで朱里が提案した裁判というのは単純な殴り合いだ。正義は勝つ、という理論をそのまま利用したものである。

 まあ、結論から言えば殴り合いをして勝った方が正しいという話だ。


「さあ、やるのか?」


 手招きをする。

 答えは――



 …………。

 ……………………。

 ………………………………。



「……貴様が猊下直属の兵だとして、ヤナギ大尉は違う」


 くだらん、と内心で呟いて部屋を出ようとした朱里。その背中に、そんな言葉が投げかけられた。朱里は、はっ、と吐き捨てるように言う。


「いちいち俺に言うようなことでもないだろう?……アイツを処分したいならすればいい。その時、貴様らが何人の貴族を、兵を――そして教皇猊下を敵に回すのかは知らんがな」


 言い捨て、朱里は部屋を出る。

 くだらない――彼は、もう一度だけ呟いた。



◇ ◇ ◇



「だぁーっ! また負けかよ!」

「二十人抜きだと!?」

「テメェ二年前より強くなってねぇか!?」

「あっはっは。賭け金は俺の総取り~♪」


 会議室を出、イタリア軍の末端兵たちが集まる詰所に挨拶だけでもしようと立ち寄った朱里は、聞こえてきたそんな声に思わず額を押さえた。デジャヴを覚える。

 彼の視線の先には、五つのチェス盤を周囲に置き、その周囲を更に四十人近い人間が囲んでいる状態だ。見慣れた光景でもある。

 士官学校や、街中。スラムでさえも。

 ソラ・ヤナギという青年は、いつだって人に囲まれている。

 ただ上に立ち、踏ん反り返っている人間には決して理解できないであろう。そんな人の中心に立つことができる才能を、ソラ・ヤナギは有している。


「くそっ! 次は俺だ!」

「俺も!」

「俺もやるぞ!」

「はいはーい。賭け金はこっちへ~♪」


 そう言って、ソラは帽子を差し出す。そこへ兵士たちが金を入れていく光景を見ると、朱里は思わずため息を吐いてしまうのだ。

 ソラ・ヤナギは決して清廉潔白な人間ではない。しかし、それでも人を惹きつける。

 その理由が何なのかは、朱里にもわからない。ただ――


「ん? あ、大佐~。会議は終わりましたか?」

「ああ。……貴様、こんなところで会議をサボって何をしている?」

「だって行ったとこで結果一緒ですしね。……ほい、チェック」

「げっ!? 詰んだ!?」

「お前弱過ぎだろ!?」

「俺の賭け金返せテメー!」


 やいのやいのと言い合いつつ、殴り合いが始まる。こういう光景も、随分久し振りだ。

 大戦の時は、野営地でよくこんな状況になった。明日死ぬかもしれない状況で、こうやって笑っていたものだ。


「……貴様、処罰を受けても知らんぞ」

「ま、そりゃねーでしょ。猊下がないって言ってんだし。……ほい、こっちもチェック~」

「マジかよ!?」

「……相変わらず、貴様の頭はどうなっているのか理解に苦しむな」


 呟く。それに対し、ソラは振り向かないまま苦笑を漏らした。


「まあ、チェスは所詮ゲームですから。……敵味方が同じ配置で、同じ戦力で、平面での戦闘なんてありえません。敵の配置が完全にわかることさえ稀なんだ。むしろチェスは容易いゲームですよ」

「それでも同時に五つの盤面を支配するのは異常だと思うがな」

「そうでもないですよー。打つ時にその場その場で計算し直すので。一つずつ分けてやれば、そこまで難しいものでもなく」

「……だから異常だというんだ」


 朱里は呟く。ソラが言っているのは、つまりはこういうことだ。

 一手を打った後、別の盤面に移る際に一度その思考をリセットし、新しい一手について考える。そして打ち終えたら次に――それを、ほぼ五つの盤面で同時にやっているというのだ。

 盤上のゲームというのは、総じて『先読み』が重要になる。そういうゲームなのだ。

 だが、ソラはそれをいちいちリセットして毎回、考え直すという。どんな脳の回転スピードをしているというのか。


「全く……貴様はこの後、用があるんじゃなかったのか?」

「…………」


 ピクッ、とその背中が震えた。ソラはこちらへと振り向かぬまま、恐る恐る聞いてくる。


「…………大佐。今、時間は……?」

「もうじき正午だ」

「うおお二時間の遅刻!? ヤバい殺される!」

「……相変わらずだな貴様は」


 ため息を吐く。ソラは慌てて立ち上がろうとするが、まだチェスが終わっていないことに気付くと、すぐさまそれを終わらせに入った。終わらせようとして終わらせられるのだから、やはり異常だ。

 おそらく、予定の相手というのはリィラだろう。この男がここまで焦る相手はあの少女しかいない。

 ソラが立ち上がる。そのまま慌てて出て行こうとする彼の背に、ソラにチェスで負けた中年の男が声をかけた。


「そういえば、ソラ。あれだ」

「何です?」

「ええと、レギング大尉……だったか? 戦死したぞ」

「何?」


 朱里は眉をひそめる。レギング――その名に、朱里は覚えがある。朱里とソラにとっては士官学校の同期であり、首席で卒業した男のことだ。貴族出身の男で、あの男がいたからこそソラ・ヤナギは次席だった。

 中年軍人は、朱里の疑問にああ、と頷く。


「ガリアの方で死んだんだと。気になるなら、墓地の場所を教えてやるが?」

「……誰でしたっけ、それ?」


 ――ゾクッ、と。

 こちらを振り向いたソラの瞳に、朱里は悪寒を覚えた。そのまま、ソラは急いでこの場を立ち去っていく。


 その瞳の中に。

 ソラ・ヤナギという男の性質を垣間見たような気がした。



◇ ◇ ◇



「ええと、隊長の言ってた病院はここでいいのかな……?」


 手渡されたメモを見ながら、アリスは周囲を確認する。病院の名前……よし。間違っていない。位置も大丈夫だ。

 ふう、と息を吐く。今日のこれは、彼女にとっては珍しい私用だ。

 朝、癖のような習慣で朝の六時に目を覚ましたアリスは、そのまま朝食の準備を始めた。そこにソラが(何故か)上半身裸で起きてきて驚かされたのだが、その際にソラに言われたのだ。


『中尉の左腕なんだが、そのままじゃ本気で危険らしい。で、この病院でこの書類を渡して薬を貰ってこい。……根本的な解決にはならんけど、浸食を抑えることはできるはずだ』


 チラリと、左腕を見る。そこには、隠すようにして分厚い手袋が着けられていた。

 力の代償。強くなるためにこうなった。疼く左腕を抑え込むため、まともに眠ることができないのも――それもまた、自分で選んだ道。

 死ぬために戦うと、決めたのだ。

 あの時、あの人の手を振り払ってまで。そうしてまで。

 こんな様に、成り果てて。

 成って――果てるために。


「……でも、驚いたなぁ」


 病院へと足を踏み入れながら、アリスは苦笑を零す。朝、リィラを起こしに行ったら彼女は部屋におらず、ソラの部屋で熟睡していたのだ。それも全裸で。

 布団こそかけられていたが……アリスも子供ではない。その状況、何があったのかはよくわかる。

 二人は恋人同士ではないという。それについては、ソラもリィラも以前にそのようなことを言っていた。ならば、あれは何なのだろうか?

 恋人でなくても肌を重ねるというのは、アリスにとっては少し疑問を抱くものである。

 それが彼女が子供であるからなのか、そうでないのか。あの二人が特別であるのかどうかは、わからない。

 ――けれど。

 あの二人の在り方には、憧れを抱いてしまう。

 言葉にしなくても、互いが互いを想い合っているあの二人が。好きだと、大切だと、そう自覚しながらも殺す気で彼と向かい合うしかない自分には、手に入れることができないものであるから。


「……私は」


 何故ここにいるのだろう?

 ――生きているからだ。

 何故戦うのだろう?

 ――背負ったもののためだ。

 何故こんな様に成り果てたのだろう?

 ――死ぬために戦い、守るためだ。


 何故、あの手を振り払ったのだろう?

 ――共にいることはできないと、そう思ったからだ。


「……私は……」


 重い足取りで、アリスは病院へと入っていく。

 決めたのに。決めたはずなのに。

 それでも、ここにいる自分は迷っている。迷い続けている。


 護・アストラーデとの約束を。

 それでもまだ、胸に抱えて手放せない。


 死ぬことが定められた自分に。

 望める未来など――ありはしないのに。



◇ ◇ ◇



 薬を受け取り、建物を出る。その中で、アリスはどこか居心地の悪さを感じていた。


 ……やっぱり、変、だよね……?


 シベリア人である自分がここにいることが。今日はリィラに貰った紅のリボンで白い髪を隠すように結んでいるのだが、やはり目立ってしまう。

 何故、シベリア人が?

 統治軍で幾度となく感じたものを、ここでも感じる。アリスは、知らず右手を握り締めた。

 実際は、EU諸国では珍しい白い髪――疲れや、その他の要因によって今は灰色に近くなっている――に目が行っているだけである。そもそもここにいる者たちは『シベリア人を知らない』ため、アリスがシベリア人だとは気付かれていないのだが……それに気付けるほど、アリスには知識もない。


「…………」


 とりあえず急いで帰ろう、そう決めてアリスは歩き出す。だが、帰ったところでリィラは用事で出ているし、ソラも今日は朝からイタリア軍の方に顔を出していることを思い出した。

 エレンという、今朝挨拶した孤児院を管理しているという人物とも会ったが、その人に今日は羽を伸ばしてくださいと言われてしまった。といっても、どう伸ばせばいいかわからない。

 大戦前でさえ、独りで過ごすことについては色々と苦手な部分が先行していたのだ。結果として家で読書ばかりしていて、外に出て時間を過ごすという発想が自分にはない。

 どうしたものか、と思っていると、ふと一つの光景が目に入った。


 ――あれは。


 車椅子に座った少女がいる。それ自体は特におかしなことではない。ここは病院だ。様々な事情を持つ人間が生きており、その中に車椅子を必要とする者がいてもおかしくはない。

 問題はそこではない。その少女が向かう先に、排水のための溝がある。あのまま進めば――


「危ない!」


 叫び声と共に、アリスは駆け出した。視線の先、車椅子が傾く。少女の表情が目に入った。

 驚きと、焦燥と、恐怖と。

 ――何より。

 助けて、という感情が。


「――――ッ!」


 滑り込むように走り込み、手を伸ばす。

 左手が――届いた!

 ズキン、と左腕に疼くような痛みが走った。だが、無視する。そのまま、右手でも車椅子を掴むと、どうにか体勢を整えた。


「大丈夫ですか?」


 声をかける。それを受け、少女がこちらを見た。綺麗な少女だ。

 流れるような艶のある黒い髪。整った顔立ち。美人、というのはこういう人物のことを示すのだろう。

 その人物は、はい、と微笑み、ゆっくりと頭を下げる。


「ありがとうございます」


 邪気のない笑顔だった。孤児院の子供たちとは少し違う、良い意味で大人としての笑顔。


「私、体が強くありませんから。……あの木陰に行こうと思っていたのですが」

「なら、押していきます」

「ありがとうございます」


 また、少女が微笑む。アリスは車椅子の後ろに回ると、少女が目指していたという木陰まで車椅子を押して行った。そうしてから、アリスはベンチに座る。


「ありがとうございます。親切にしていただいて」

「いえ、そんな」


 アリスは首を左右に振る。こんなことは特別ではない。当たり前のことだ。

 それを聞いて、少女は更に微笑を深くした。


「お優しい方なんですね。……私、咲夜(さくや)・アスリエルといいます。咲夜とお呼びください」

「あ、えっと……アリス、です。アリス・クラフトマン」


 反射的に答えて、アリスはしまったと内心で呟いた。アリス、という名前は西洋ではそこまで珍しいものではない。だが、クラフトマンという姓名はシベリアでは珍しくなくとも他の地域では珍しい。名前だけでシベリア人とわかってしまう。

 しかし、咲夜はそのようなことは気にした風もなく、成程、と頷いた。


「アリス様、とお呼びしてもいいですか?」

「え、あ、はい。えっと……咲夜さん」

「呼び捨てでいいですよ? 私、この間ようやく16を迎えたところですから」


 微笑まれるが、そういうわけにもいかない。慣れれば可能なのだろうとは思う。リィラでさえも最近になってようやく敬語を使うなという彼女の言葉と、呼び捨てにしていいという言でそうするようになったくらいだ。

 護でさえ呼び捨てにはできない。きっと、これが性分なのだろうと思う。


「いえ……、そういうわけには」

「そう、ですか。……あの、お時間ありますか?」

「あ、はい。特に予定もありません」

「そうですか。それは良かった」


 咲夜が微笑む。その笑顔を見ながら、アリスは不思議だな、と思った。

 以前の自分は、こうして初対面の相手と真正面から言葉を交わすことなどできなかった。怖い――特に、嫌われることを恐れる気持ちが、どうしようもなく気後れをさせてしまっていたのだ。

 それが変わってきたのは、左腕のことがあってからだと思う。

 ――いずれ、キミの命を食い荒らす。

 そう告げられて手に入れた力は、本当の意味で自分の寿命を削っている。自分でわかるのだ。少しずつ、自分の中で何かが『終わって』いっているのが。

 どうせ死ぬのならば――心の根底に、そんな感情が芽生えたからなのか。

 少しだけ、変わったのだと思う。

 本当に――今更だけれど。


「よろしければ、少しだけ……お話のお相手をしていただけませんか?」

「えっ?」

「私、幼少より肺を患っておりまして……話し相手というのが、いないんです」


 どこか苦笑を交えた笑顔で、咲夜が言う。

 特に予定があるわけでもない。なので、頷いた。

 ただ――自分などで良いのか、とも思ったが。


「はい。私なんかで、よろしければ」

「ありがとうございます。……といっても、私はここから出ることがほとんどないので、お話できるようなことが……。よろしければ、アリス様のお話をお聞かせ願えませんか?」

「私、ですか?」

「はい。……アリス様は、イタリアの方ではありませんね?」

「…………ッ!?」


 いきなりの言葉に、アリスは目を見開いた。いや、悟られても仕方がないことだとは思っていたが、こうもストレートに言われると反射的に身構えてしまう。

 やはり、自分は。

 シベリア人でるという事実に、負い目を感じているのだとそう思う。


「それは……」

「ああいえ、そんなに畏まらないでください。気に障ったのであれば謝罪します。すみません」


 そんなことを言われながら頭を下げられ、アリスは思わず、そんなことはありません、と応じた。何だろうか。微妙にペースが乱される。


「匂いといいますか、雰囲気といいますか……私の知るイタリアの空気と、アリス様の空気が違う気がしたので」

「空気、ですか?」

「はい。……あの、間違えていたら申し訳ないのですが」


 咲夜が浅く目を伏せる。アリスは、いえ、と首を左右に振った。

 そこまで感付かれているなら、黙っていても仕方がない。距離を置かれたらその時はその時だと、アリスは自身のことを語り出した。


「私は、シベリア人なんです。極北の、草木無き氷原の民です」

「シベリア連邦、ですか……」


 咲夜の表情が曇る。当然の反応だろう。シベリア連邦の民はEUの民にしてみれば敵であり、支配される側の人間。こうして並んで座ることがまず、あり得ないのだから。

 折角会えたのにな、とアリスは内心で苦笑した。しかし、仕方がない。隠していてもいずれわかるだろうし、自分のせいで迷惑をかけることもあるのだから。

 反応を待つ。そして返ってきた反応は、予想外のものだった。


「……苦労、なさっておられるのではありませんか?」

「……えっ?」

「シベリア連邦については、私も詳しくは知りません。それどころか、イタリアについてでさえも知らないことが多い身です。兄様――その、兄がイタリア軍の軍人で。その話でしか私は世界を知れませんでしたから」


 籠の鳥です、と咲夜は苦笑した。


「一人ではどこへも行けない。生きていくことさえできない、籠の鳥。……それが、私です」


 そう言った咲夜の横顔が、どうしようもなく哀しく見えて。

 同時に――とても強い既視感を感じたのは、何故なのか。


「籠の鳥……」


 呟いたその言葉で、ああ、とアリスは納得した。

 自分も同じなのだ。自分もまた、籠の鳥。


「……私も、そうなんです」


 ポツリと、アリスは呟いた。咲夜がこちらを見る。アリスは俯きながら、言葉を紡いだ。


「私……《裏切り者》なんです」

「……裏切り者、ですか?」

「はい。その、見えないかもしれないんですけど……私、〝奏者〟なんです。統治軍で、戦ってるんです」


 何を言っているのだろう、と思った。こんなことを言っても、咲夜には迷惑をかけるだけだというのに。

 それでも――止まらない。

 止められなかった。


「取引、したんです。私が統治軍のために戦えば、そうして死ねば、捕まっている人たちの安全は保障するって。……今、シベリア連邦には叛乱軍っていう、シベリアを取り戻そうとしている人たちがいます。私は、その人たちに、ただただ刃を持って向かっていくことしかできません」


 祖国が嫌いなわけではない。シベリアは好きだ。両親がいて、護がいて、多くのものを得た場所だ。

 それでも――自分はそれを取り戻すためには動けない。

 どうしようもないほどに、弱いと思う。

 流されて流されて、間違えて間違えて、こうしているのだから。


「……でも、アリス様は、守るためにその道を選んだのでしょう?」


 咲夜の問いかけ。それに対し、アリスは首を左右に振った。


「違うんです。……逃げたんです」


 ギュッ、とアリスは自身の服の裾を握り締めながら、呟くようにそう言った。


「私は、守るという理由を盾に、それでも逃げたんです。戦わない選択肢もありました。耐える選択肢もありました。それでも私は、逃げたんです」


 目の前に突き付けられた、戦い、生き延びる道か。

 それとも、囚われ、絶望の檻に囚われ続けるか。

 そんな――選択で。


「戦うことが嫌いと言いながら、戦う方へと逃げたんです。……だから、あの時」


 ――手を伸ばせなかった。

 その言葉は、声に出さずに飲み込んだ。何度も何度もこうして思うのは、それだけ自分の中で整理ができていないということか。

 もう、戻れぬことは理解できていたのに。

 ぐっ、とアリスは唇を引き結んだ。そうしてから、あはは、と無理な苦笑を漏らす。


「すみません。重い話をしてしまって……」

「……いえ。アリス様も、重いものを背負っておられるのですね。私には、背負うことさえ許されないような重いものを」


 言いつつ、咲夜は空を見上げた。シベリアにある灰色の空とは違う、雲の浮かぶ蒼い空。日が落ち始め、少しずつ赤く染まっていくその光景は、どこか美しい。


「アリス様は、立派だと思います」

「……どうして、ですか?」

「多くを背負い、傷つきながら。それでも、逃げたことから逃げずにここにいるのでしょう?」


 左腕、と咲夜が言った。アリスの左腕――厳重に隠され、重い手袋まで着けられたその下には、彼女が背負った『業』がある。


「怪我をしておられるのですか? 庇うような素振りをしておられましたので」


 怪我ではない。怪我ではないが……他者に見せたくないモノであるのも事実。リィラやソラにさえ見せておらず、これを知るのは護とドクターだけだ。

 覚悟のつもりだった。もう、残っているのは自分だけだったから。


〝そんな約束が守られると思ってんのか!?〟


 あの時、敵同士としてでしか向かい合うことができなかった彼の言葉を思い出す。そう、自分が死ねば救われる――そんな約束が守られるとは思えない。

 しかし。

 自分が戦っている間は、確かに彼らは無事だった。扱いは過酷であろうと、命は繋いでいた。

 だから、戦ってきたのだと思う。


「その傷は、アリス様の誉れです。逃げたと仰られましたが、それでも、その先で逃げずに戦っておられるように思います」


 咲夜が、少しだけこちらへ身を寄せてきた。そして、すん、と一度だけ匂いを嗅ぐ。


「兄様と同じ、血と硝煙の臭いがします。……アリス様、あなたはきっと、兄様のように強い人です。誰かを背負い、その上で戦うことができる人」

「……買い被りです」

「いいえ。私には、少なくともそう見えます」


 咲夜が微笑む。優しい笑顔だ。本当に。

 それを見て、あの、とアリスが何かを言おうとした時、咲夜が不意に入口の方を見た。この病院は前庭を通らなければ建物へ入れないようになっている。その入り口を咲夜が見ているのだ。

 アリスもそちらを見る。すると、そこには一つの人影があった。

 ――あれは。

 見覚えがある、と思ったと同時、その人影が声を上げた。紅蓮の長髪のその男は。


「――咲夜!」

「兄様」


 咲夜が応じ、男――朱里・アスリエルの下へ行こうとする。アリスは立ち上がると、そんな咲夜の車椅子を押し始めた。咲夜が驚いたように振り向くが、すぐに笑顔になる。


「ありがとうございます」

「いえ」


 礼を言われたのに対し、笑みで応じて朱里の下へ向かう。日が落ち始め、空が少しずつ赤く染まる中、その紅蓮の髪は夕日に負けないくらいに強く輝いていた。


「咲夜。もう日が落ちる。病室に戻ったほうがいい」

「はい。兄様」

「ん?――中尉か?」

「は、はい。お疲れ様です!」


 アリスは慌てて敬礼する。兄がいる、そしてアスリエルという姓――聞き覚えがあると思っていたら、まさか《赤獅子》だったとは。

 朱里・アスリエルという男について、アリスは一定以上の信頼を置いている。統治軍の上官で、彼女に敵意も悪意もぶつけなかったのはソラ以外では彼だけだ。徹底的な実力主義はアリスにはわかり易く、余計なことを考えなくてもいい。

 その朱里は首を左右に振ると、気にするな、と呟いた。


「俺はこっちでもそれなりに仕事があるが、貴様は休暇だ。それに俺は堅苦しいのは苦手でな。楽にしてくれていい。咲夜も世話になったようだしな」

「兄様とアリス様は知り合いなのでしょうか?」

「俺が上司で、中尉が部下だ。頼りになる部下で助けられている。……ソラの馬鹿とは違い、余計なことをしないから尚更だ」

「ソラ様もこちらへ戻っておられるのですか?」

「戻っているが、あれはあれで忙しい。ここへ来れるかはわからんと言っていた」

「……そう、ですか」


 一瞬、落ち込んだように見えるのは何故なのか。アリスは、えっと、と言葉を紡ぐ。


「それでは、その……私も、失礼しますね」


 邪魔をしてはいけない。そう思い、アリスは二人に頭を下げた。それを受け、咲夜がこちらを見る。


「はい。アリス様。……また、お話できますか?」

「えっと、はい。その……」

「いつでも来てくれていい。明日でも構わん」


 朱里の言葉。珍しく微笑を浮かべているように見えるのは、錯覚だろうか。


「では、明日また」

「――はい」


 言葉に、笑みが返ってきた。アリスはもう一度頭を下げ、二人へと背を向ける。

 明日は、楽しい話をしよう。

 そんな風に――思った。



◇ ◇ ◇



 病室。そこで、朱里は寝息を立てる咲夜の横顔をじっと見ていた。その右手は、眠り込んでいる咲夜に強く握り締められている。

 アリスが去った後、咲夜の容体が急変した。そうはいっても、発作である。休めば収まるものだ。


「…………」


 朱里は、咲夜の隣でじっと黙り込んでいる。咲夜は昔から体が弱い。一番重いのは肺だが、それ以外にも両足の麻痺や体質的な弱さもある。

 治す方法は未だ見つからず、良くなっては寝込み、良くなっては寝込みということを繰り返してばかりだ。小さい頃から、朱里はずっとそんな咲夜を見てきている。

 二人には両親がいた。小さな喫茶店を営み、小さな幸せを守ってきた尊敬する二人だ。

 しかし――死んだ。

 殺されたと、朱里は思っている。

 事故だ。普及し始めていた車による事故。しかし、当時の両親は車など買う余裕はなく、買い出しで歩道を歩いていた時に、車に轢かれたのだという。

 それが起こったのは朱里が国の検査で〝奏者〟であることが発覚し、咲夜が本格的に入院を考えなければならなくなった時でもあった。

 その後、生きていくために朱里は〝奏者〟であったという理由から奨学金を得て士官学校に入学。咲夜の病気についても、国の援助を得て回復を目指している。

 故に、普通は国に対して感謝をするべきだ。しかし、朱里にはそれができない。


「……親父、お袋……」


 当時、今の朱里の僚機である〈ブラッディペイン〉を操れる者は存在していなかった。〈ブラッディペイン〉は調査だけでも圧倒的な能力を有していることがわかっていたので、是が非でも国は朱里という奏者を欲しがっただろう。

 当時はわからなかったが、今はわかる。


「……俺のせいで……」


 朱里・アスリエルが国において最大戦力と成り得る神将騎の奏者、その器を有していたからこそ。

 彼の両親は奪われ、朱里の人生が決定された。生きていく術を持ち得ていなかった彼に、その現実はあまりにも重かったのだから。

 そして、彼が持っていた〝奏者〟という宿命は。

 ――咲夜までも、巻き込んだ。


「……俺は、やれているか……?」


 咲夜は、朱里・アスリエルに対する鎖だ。

 彼を逃がさないようにするために、国は彼女を縛り付けた。

 治せる方法がないというのが、本当なのかどうかさえも朱里は怪しんでいる。しかし、彼に真偽を確かめる方法はない。

 ただ戦い、咲夜を守り続けるしかない。

 誓ったのだ。幼き日に。


 ――咲夜を泣かせる全てのモノから、彼女を守る。


 たった一人の家族だ。それが誓いであり、命を懸けて為すべきこと。


「……俺は、咲夜を守れているのか……?」


 呟く彼に、返答はない。

 ただ――強く。

 彼は、自身の右手を握る小さな手を、握り締めた。



◇ ◇ ◇



 孤児院に戻ると、室内は大荒れだった。何やらご立腹のリィラに、その傍に集まっている子供たち。その前では、ソラが土下座をしていた。意味がわからない。

 何だろうこれは、と思っていると、ソラとリィラの二人がいない間、孤児院を任されているというエレン・コーメリアという老女がこちらへ気付き、軽く会釈をしてくれた。


「おかえりなさい、アリスさん」

「は、はい。ただいまです。……あの、何かあったんですか?」

「ああ。気にしないでいいわ。……どうも、ソラがリィラとデートする予定だったのに二時間も遅刻して、その後もリィラの機嫌が直らなかったみたいね」

「デート、ですか」

「まあ、いつものことだから気にしないで頂戴」


 苦笑しながら夕食の準備を始めるエレン。手伝おうと思ったが、断られた。今日はイタリア料理を作るらしく、それでは勝手を知らない自分では手伝えない。

 どうしたものかと思い、アリスはソラとリィラの方に視線を送る。そこでは、笑顔なのに目が笑っていないリィラとソラが向かい合っていた。


「で、遅れた理由は何やったっけ?」

「宇宙人にアブダクションされてました」

「ほぉ? よー戻って来れたやんか?」

「いやお前、話したら意外といい人たちでなぁ」

「ほお、人?」

「ま、宇宙人だし?」

「……で、いつまでこんなふざけた嘘が通用すると思っとるんや?」

「リィラ。綺麗だぞ」

「そんなわかり切ったことはどうでもええよ。問題は遅刻の理由や」

「おいちょっと待て! これツッコんだら負けか!? 負けなのか!?」

「あァ?」

「…………いえ、何でもありません」


 いつも通りで非常に安心した。わかってきたことだが、この二人の関係図はリィラの方が基本的に上だ。ただし、状況が特殊になるとソラが上になるという、妙な関係でもある。

 温かな関係だ、とアリスは思った。

 そして。


「……明日は、二人の話をしてみよう……、かな」


 楽しい話をしたいと思う。この二人は、この場所は、自分を受け入れてくれた。

 本当に、温かい場所である。


「ふふっ」


 自然に、笑みが零れた。それに気付いてか、ソラがこちらへと助けを求めるが――


「頑張ってください」

「マジで!?」


 一蹴した。まあ、彼なら上手くやるはずだ。


 ――不意に、左腕に痛みが走った。


 表情には出さぬよう、できるだけ平静を装いながら、右手で左腕を握り締める。

 逃げ続けた先に、背負った代償。咲夜の言うように、これは『誉れ』となるのだろうか。


 いつか、誇れる日は来るのだろうか?

 そんなことを、ふと思った。

というわけで、アリスと朱里の二人が主軸です。

今回の咲夜・アスリエルですが、黒雨蓮先生に考えて頂きました!!


ありがとうございます!!


今回は、アリスに一つの答えが出ましたね。多分に歪んでいる彼女は、護とは別の方向で何かを『守る』ために戦っているわけです。


次回は、首脳会議に入ります。叛乱軍に対する対応を、本格的にEUが決めるという流れですね。

まあ、そんな単純に終わるはずもないわけですが。


では、感想など頂けると幸いです。


ありがとうございました!!

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