第十五話 曲がらぬ、強さ
第二東部基地。首都モスクワからほど近い位置にある基地だ。統治軍はその存在意義から長く駐屯することを考えられていないため、基地に固有の名前が与えられていない。建てられた順に名がつけられるのが通例となっている。
第二東部基地は、イタリア軍出身の者が主となって構成されている基地だった。東の要所の一つとして機能している。
その基地内の一角で、不謹慎なほどに大きな声が上がった。
「だぁーっ! くそっ! 詰んだ!」
「おいふざけんなよ! 十人と同時に差し合ってんだぞ!?」
「残ってんのは基地長だけじゃねぇか!」
「あっはっは」
笑っているのは、一人の青年だった。ソラ・ヤナギ。彼は自身の周囲に囲むようにしておかれた十ものチェス盤を見回し、言葉を紡ぐ。
「それでは、基地長殿?――一対一の殺し合いと行きましょう」
「……ぬぅ」
唸るような声を出したのは、初老の男だった。この第二東部基地の基地長である。階級は中佐だ。
ソラ、と彼を呼ぶ声が響いた。振り返る必要はない。少し離れた位置からこちらを見ていた朱里だ。
「勝てるな?」
「さて、どうでしょう。わからないからこそ、賭けになるのでは?」
「確かにな。――ナッティス中佐。賭けは覚えておられるか?」
「……大尉が勝てば、キミたちの補給に全面的に協力する。私たちが勝てば、私たちが一度祖国へ帰還できるように教皇陛下へとりなして頂ける、でしたな?」
「覚えてもらっているなら、結構」
朱里が頷く。その彼の側では、退屈そうに欠伸を零すリィラと、不安そうにソラを見つめるアリス。そのアリスの手を握り締め、寄り添うようにしているヒスイに、楽しそうに笑い声を噛み殺しているドクターの姿があった。その後ろには、中隊のメンバーが控えている。
ナッティス中佐が、意を決したように駒を動かす。
その直後、間髪入れずにソラが駒を動かした。中佐がまた考え込み、駒を動かすと、ソラも即座に手を打つ。それの繰り返しだ。
十人と同時に差し合っていたはずが、今や詰んでいない盤面は一つだけだった。
「…………」
「チェック」
そして、ソラがナッティス中佐の手を追い詰める。中佐は、そこで大きく息を吐いた。
「……投了だ」
瞬間、わっ、という歓声が上がった。ソラは立ち上がり、背伸びをする。
「おいおい嘘だろ!?」
「どんな脳みそしてんだよ!?」
「十人相手にしてんだぞ!?」
広がるのは戸惑いの声。その中で、中佐がソラへと声をかけた。
「相変わらず、とんでもない頭脳だな」
「チェスはゲームですからね。敵も味方も配置が同じ戦場など存在しません」
「それでも、十の戦局を同時に動かすことなど常人にはできんだろう?」
「やろうと思えばできますよ」
言って、ソラは中佐へと言葉を紡いだ。
「では、補給と……しばらくここに駐屯する許可、貰ってもいいですか?」
「約束だ。許可しよう。……そもそも、そちらのアスリエル大佐の命令とあれば断ることは出来んのだがな」
「そこはそこ。皆さん、納得しないでしょう?」
必要な儀式ですよ、と言葉を残し、ソラは中佐へと一礼する。そうしてから背を向けたソラに、中佐が言葉を紡いだ。
「そもそも、断る理由がありはせん。イタリアの英雄を拒む理由が、あろうものか」
「…………」
答えず、ソラは朱里たちの方へと歩いていく。
そして、中隊のメンバーのところまで行くと、ソラは声を張り上げた。
「宿ゲットしたぞお前ら文句ねぇな!?」
「よっしゃ! 今日は野宿しないで済む!」
「流石だぜ隊長!」
「雨の中の野営ってキツいんだよな」
「なー。ここに来るまでの二日地獄だったもんなー」
口々に隊員たちが声を上げる。ここへ至るまで、雨の中を二日も行軍してきたのだ。全員、表情は疲れの色を宿していた。
しかし、その中にも無論のこと例外はいる。
「……まあ、ウチは隊長と一緒に寝れたら屋外でも……」
「つーわけで、女性陣は個室貰うからなー。男衆は雑魚寝だ雑魚寝」
「無視された!?」
「ヒスイは……アリスんとこで寝るか?」
「……はい」
「おや、私のところでは寝ないのかね?」
「貴様が一緒に寝たらただの変態だろう、ドクター」
「おや? ヒスイは男だよ? むしろ女性である中尉と共に寝る方がおかしくはないかね?」
「…………えっ?」
「あれ? 中尉、気付いてへんかったんですか?」
「くっく、そうはいってもヒスイはまだ肉体的には十かそこら。そういう感情もない。安心したまえ、中尉」
「あー、はいはい。落ち着け」
パンパンと手を叩き、ソラは隊を諌める。この二日の行軍で、中隊は結成当時のような微妙な雰囲気は消え、まとまりつつあった。まあ、いきなり戦場で命を預合い、その後も協力して二日もかけて基地へと移動したのだから当然だが。
更に言えば、叛乱軍の部隊を相手に一方的な攻撃を仕掛けたという事実も大きい。しかも、中隊を構成する上で新しく配属された者たちを撃退したのは、〈毘沙門天〉だ。朱里が操る〈ブラッディペイン〉がそれを圧倒したという現実を目にし、この部隊にいる意義を見出したのだ。
……精神掌握ってのは、単純だねぇ。
その様子を見ながら、ソラは内心で苦笑する。部隊がまとまった?――当然だ。そうなるためにわざわざ無理を押して反乱軍にちょっかいを出しに行ったのだから。
非正規部隊へ突然叩き込まれた底辺から、名ばかりの正規部隊へ。希望を失いかけていたところへ、先日の戦闘。リィラに任せておいた方も負傷者こそ出たが、〈ワルキューレ〉が〈セント・エルモ〉の両肩の砲門を砕いたと聞いている。〈毘沙門天〉を損傷させたことからも、完全勝利といえるだろう。
そう――勝利である。
死者の一人もない勝利。あの状況で死者を出さず、完全な勝利を演出したソラと朱里の二人に、部隊の者たちは絶大な信頼を寄せるだろう。まるで縋るように。
汚い手段だとは思う。人の心を弄ぶようなやり方だ。
だが、これで下準備は整った。後は、もう一手、次の手を打てれば優位に立てる。
「――とにかく、今日は装備を全部運び込んだから解散だ。ゆっくり休め。以上!」
ソラが言うと、隊員たちが散っていった。それを見届けながら、ソラは朱里へと声をかける。
「で、大佐。――出発前に頼んでいた件はどうなっていますか?」
「本国へ連絡は済んでいる。俺たちがここにいることも、先程モスクワへと連絡を入れておいた。……そうだな、三日、といったところか?」
「……ま、そんなもんですかね」
「しかし、貴様は正気か?」
朱里がソラへと問いかける。ソラは、何がですかと首を傾げた。朱里が言う。
「先日の一手で、叛乱軍は統治軍の力を認識しただろう。獅子に餓狼は勝てんとな。その上で、こんなリスクの高い作戦を敢行する気か?」
「リスクは重々承知。そもそも指揮官は大佐です。大佐が不可能だと仰るなら、それが真理ですよ」
「俺は武人であり戦士に過ぎん。人を率いる才などない。その点では貴様の方が遥かに上だ」
「それはそれは」
「だから問う。――ここまでする意義があるのか?」
朱里の瞳は、真剣だった。ソラは苦笑を浮かべ、そうですね、と呟く。
「今後のために色々とね。叩けるうちに叩いておきたいんですよ。好き勝手に調子に乗って動かれると、こちらも調整が利かない。叛乱軍と統治軍――いえ、第十三遊撃中隊は結構上手くやっていけると思うんですよ」
「上手くやっていく?」
「俺たちは捨て駒です。でも、捨て駒っていつでも必要なわけじゃないんですよ。『捨て駒が必要となる戦場』があってこそ、意味があるんです。叛乱軍はそれを用意してくれる」
だから、とソラは言った。
だからこそ――
「殺し合うために必要なんですよ。俺たちも、彼らも。お互いに」
「……貴様の話を聞いていると、戦争がゲームに思えてくるな」
「ゲームですよ、戦争なんて。お偉いさんたちが俺たちの命を賭け金にやってる、ゲームです」
「ふん。否定はできんな」
朱里が頷く。その上で、朱里は言った。
「いいんだな? この二年、ひた隠しにしてきたというのに……また、最前線へ送り込むことになるぞ」
「状況が状況。それに大佐なら、まさか殺すなんてことはないでしょう?」
「あり得んな」
朱里が応じる。そして、それじゃあ、と朱里は言葉を紡いだ。
「到着次第、お前の作戦通りにことを進めよう」
「お願いします」
ソラが一礼する。すると、朱里は頷いて去っていった。ため息を零す。そんなソラに、リィラが駆け寄ってきた。
「隊長、どないしたんです?」
無邪気なのか、考えてなのか……二年以上の付き合いになるというのに、未だに読めない部分が多いこの女性。救われてきたのは確かだ。
だから、ソラは言った。
隠さずに、言おうと思った。
「……ちょっと、話がある」
「真面目な話ですか?」
「真面目な話だな」
頷く。無理をさせてしまう――そんなことはわかっていた。しかし、打てる手としてはこれが最上なのだ。
「――お前に、また神将騎へ乗ってもらう」
口にした言葉は。
思っていた以上に、サラリと口にすることが出来た。
◇ ◇ ◇
城塞都市アルツフェム。数日をかけてそこへ帰還した護たちを待っていたのは、壮絶な戦後処理だった。連れ帰ってきた兵士たちの休息、負傷者の手当て。何より――解放軍の虎の子であるたった二機の神将騎の修復。
「苦いな。苦い……敗戦だ」
慌ただしく誰もが動き回る光景。それを見下ろしながら、ソフィアが呟いた。
「勝利で浮足立っていたところを、完膚なきまでに叩きのめされた。……やってくれる」
「想定していた以上に、敵の動きが鋭かった……ただそれだけでしょうに」
そんなソフィアの背後から声をかけたのは、天音だった。いつものように不遜な笑みを浮かべる彼女は、楽しそうに言葉を紡ぐ。
「この程度で絶望するようなら、解放軍に未来などありませんよ?」
「……貴様」
「この状況下では、あなたに声をかけたところで皆さんも気を払う余裕がないと思いましたので。私個人としてはどうでも良いのですが、貴女はそうもいかないでしょう?……随分と、立派になったものです」
ソフィアが振り返る。そこにいたのは、彼女が二年前に見た笑みと同じものを浮かべた天音の姿だった。
「一つ、貴様に聞いておきたいことがあった」
「何でしょう?」
「――何故、私たちを生かした?」
喧騒に背を向け、ソフィアは天音に問いかける。
二年前、首都を脱出した日。その動きを察知した天音は、僅か単騎でソフィアたちの前に立ち塞がった。その当時、ソフィアの側にいた六機の神将騎。その全てを打ち砕き、その上で天音はソフィアを逃がしたのだ。
敵であり、殺すべき存在である自分を追い詰めながらも逃がしたその意図がわからない。
「貴様に――貴様らにしてみれば、私は殺すべき存在だったはずだ。禍根を絶つ。私が生きていることで、シベリアには戦乱の嵐が吹き荒れることは容易に理解できたはずであろう? 事実、こうして私は立ち上がった。貴様がそれを予測できなかったとは思えぬ。……何故だ?」
「……死んだ方がいい命というのは、確かにあるでしょう。身近なことを言えば、食糧問題。今でこそ大戦のおかげで世界の人口は減りましたので、問題となりませんが……大戦前は少しずつ、その問題が発生しておりました」
「何の話だ?」
「答えですよ、貴女の問いに対する答えです。……私の持論に、『価値のある人間一人のために百人が死ぬのは是である』というものがありまして。そういう意味で、死んでもいい人間というのは確かにいると思っています」
「…………」
天音の言葉に、ソフィアは無言で眉をひそめる。天音は笑った。
「ふふっ、あなたが否定しますか?――あなた一人のために、ここにいる彼らは死んでいこうとしているのに」
「……それは」
「必要な犠牲? それが『死んでもいい人間』ではありませんか? 生きるべき人間と、死ぬべき人間。この世界にはその二つが確かに存在する。それは事実ですよ、王女様」
「だが、それは認められぬ論理だ。必要のない人間などおらぬ」
「死んで役に立つ人間はいるでしょう?」
天音は言葉を返す。その口調は驚くほど冷淡で、微笑を浮かべる彼女の雰囲気と相まって底知れぬ何かをソフィアに感じさせる。
何なのだ、とソフィアは自問した。
目の前にいる者は、一体何なのだろうと。
「そして、あなたの疑問への答えです。――あなたは死ぬべきではない人間だと思った、それだけですよ」
「戦乱を捲き起こし、数多の人間を殺すことになるこの私がか?」
「その物言いがすでに間違いです。人を殺すことは害悪ではありません。『価値ある人間を殺す』ことが害悪なのですよ。五人のために一人を殺しました――これは、貴女にとっては是ですか? 非ですか?」
「人を殺すことは、如何なる理由があろうと唾棄されるべき悪徳だ」
ソフィアは言い切る。人を殺すという行為。同族殺しでもあるそれは、人間が行う行為において最大の悪徳だ。
故に、戦争とは最悪の行為であり、忌避されるべきものなのである。
だがそれを、天音は正面から肯定する。
戦争を、否定しない。
「あなたの言うそれは、感情です。理性で考えればそれが最善だということは明白です。それが功利主義という考え方。その一人のせいで五人が死ぬことになるのは最悪です。人には死ぬべきか否か、その二択しかないのですよ」
天音は言う。綺麗事ではないのだと。
「戦争とは、人の業の果てに行われるもの。そこでは倫理も常識も役に立ちません。生きるべきものが生き、死ぬべき者が死んでいく。なればこそ、戦場というのは必要なのです」
「人が死ぬその場所を、貴様は必要だというのか?」
「平穏、平和。そんなものにどれだけの意味があるというのです? 確かに、その世界は楽なのでしょう。日々を生きることに必死になる必要はなく、ただただ、上から下される言葉に従い、今の現状が幸せだと納得すればいい世界。楽ですよ、どうしようもないほどに。
しかし、そんなものはいりません。
必要ないのです、そんなものは。
生きることは殺すこと。それは平和であろうとなかろうと変わることのない事実。ならば、この手で人を殺し、世界を殺す戦争の方が余程正直ですよ」
天音は言い切る。
「故にこそ、貴女を生かしました。私がシベリアへ来たのもそれが理由ですよ。二年も待たされましたが、まあ、そのような事実は些細なことに過ぎません。ガリアやドイツ、南米に行くという選択肢を捨ててここへ来たのは、貴女を生かしたからこそ。
無論、貴女が戦争の引き金になる事が予測はできても、実際はわかりません。私にしてみれば可能性の一つ。
――感謝していますよ、あなたには」
至近距離まで、天音が歩み寄る。触れそうになるくらいの距離で、真っ直ぐにこちらを見つめながら、天音は言った。
「ここが現実。これこそが真実。虚偽と欺瞞で覆い尽くされた平穏になど興味はありません。本当に、本当に心から感謝します」
一歩、天音が後ろへと下がる。
「英雄とは戦場で生まれるもの。この戦場はどのような英雄を生み出すのか。ふふっ、楽しみです」
「……貴様」
「死なないでくださいね?」
天音はソフィアに背を向け、言い放つ。
「あなたに死なれると、少々困りますので。最早止まれはしませんよ。その手で殺しなさい。その先にこそ、掴むべきものがあるのですから」
「……いいだろう。戻れぬ道だ。踊ってやる」
「それは重畳。……ああ、それと。〈セント・エルモ〉はともかく、〈毘沙門天〉の損傷が少々酷いものでして。修繕までは一週間はかかります」
「……一週間」
「それが最速。それでは、今後はまた見知らぬ他人同士といきましょう」
それでは、と言葉を残し、天音が立ち去っていく。その背を見送り、ソフィアは息を吐いた。
「……生きるべき人間と、死ぬべき人間……」
戯言だ。そう思う。死ぬべき者など存在しない。
しかし、正面から反論を叩き付けられなかった自分は、本当はどう思っているのだろうか?
わからない。だが。
「…………」
振り返る。そこでは、自分を戴き、戦う者たちがいる。
そう――自分一人のために、死んでいくことも厭わない者たちが。
――もう、戻れない。
ソフィアは、呟いた。
◇ ◇ ◇
アルツフェムの一角にある、整備場。大戦で破壊されたその場所は、この二年で建て直されていた。
最新鋭、とはいかずとも十分な機材が揃うその場所に、一人の女性の姿がある。
「とりあえず、〈セント・エルモ〉は両肩の砲門を外します。急ぎなさい」
「しかし、それだと武装が……」
「今必要なのは動ける神将騎です。それすらわからないほど愚昧ではないでしょう?……まあ、嫌だというなら構いません。私は〈毘沙門天〉の方で忙しいのですよ。必要ないというなら、ここは放置していきますが?」
「――それは困る」
技術者の一人にそう言い放ち、立ち去ろうとした天音。それを呼び止めたのは、セクター・ファウストだった。片眼鏡をかえたその老人は、天音を見据えながら言葉を紡ぐ。
「キサマには働いてもらわねばならん。急ぎ、〈セント・エルモ〉と〈毘沙門天〉を前線へ復帰させてもらわねばな」
「そうは仰られますが、ファウスト殿。彼らは私が信用ならないようですよ」
「ふん。何を言っているのだキサマらは?」
セクターが、天音の側にいた技術者たちに侮蔑とも呼べる視線を向ける。
「この者はキサマらよりは遥かに優秀な人間だ。凡夫が逆らうでないわ」
「ふぁ、ファウスト様……」
「くどいぞ。その女の指示に従え。……全く、だから私はあれほど言ったというのに……」
言い捨てると、セクターはブツブツと何事かを呟きながら立ち去って行った。天音は息を吐き、周囲の技術者へと向き直る。
「まあ、ファウスト殿はああ仰られておりますが……私が必要ないのなら、それで構いません。如何なさいますか?」
「……あの、貴女は一体何者なんです?」
至極当然の問いを、技術者の一人が発した。天音は苦笑を零す。
「この間の自己紹介から、何も変わりませんよ。私の名前は天音。先生、とお呼びください」
「しかし……」
「これ以上は何も出てきませんよ。少々神将騎について詳しいだけの女ですからね。……さて、問答はここまで。口を動かす前に手を動かしましょう」
言葉を結び、天音は動き出す。先日、ここへ来た時に技術者のメンバーに顔見せはしていた。しかし、当然の如く正体を明かしてはいない。〈毘沙門天〉をずっと見てきたということしか伝えていない。
まあ、嘘ではない。事実はそんなものなのだから。
「先生、準備が整いました」
その天音に、声がかけられた。振り返る。そこにいたのは、レベッカ・アーノルド。
「ご苦労様です。優秀ですね」
「いえ、そんな……」
「謙遜しなくてもいいですよ。あなたの知識には目を見張るものがあります。可能な限り、私はあなたへ私の持つ知識を伝えましょう」
天音は微笑む。レベッカ・アーノルド。聞けば、大戦時に中破し、動かなくなって打ち捨てられた〈フェンリル〉を何の予備知識もなしに修復、起動できるまで持っていったという。その他にも。その目で見、感じただけで戦車の整備までやってのけるなど、優秀を通り越して異常な才能を見せる少女だ。
――いるものですねぇ。
天音の生きてきた人生は、そこまで長くはない。特に『生きていること』を実感してからの月日は驚くほど短い。だが、その人生で天音は多くの命を見てきた。
天才。
生まれながらにして、他を圧倒する際を持つ存在。流石に数多くとはいかないが、天音はそれを見てきた。この少女もまた、それだろう。
――ただそこにいるだけで、凡人の努力と成果と結果を捻じ伏せる存在。
天音の持つ、天才の定義だ。おそらく間違ってはいない。その事実を考えた上で、彼女は定義するのだ。レベッカ・アーノルド。彼女は紛うことなき『天才』であると。
自分と同種であると。
ここにいる凡人たちを捻じ伏せる力を、有していると。
「……やはり、戦争とは面白い」
呟く。戦争――それは、人の文明を一瞬で進ませるもの。同時に、平和な世界においては決して目覚めることがなかったであろう才能が急激に開花していく舞台でもある。
この少女の才能など、その最たる例だ。
故に、思うのだ。
争いこそが人の本質であり、救いであると。
「さて、それでは〈毘沙門天〉の修復へ移りましょう。幸い、手足がもげるということはありませんでしたが、左腕の損傷が激しい。内線を繋ぎ直さなければなりませんね」
言いつつ、天音は仰向きに倒れた状態の〈毘沙門天〉へと視線を送る。《赤獅子》の駆る、聖教イタリア宗主国最強の神将騎、〈ブラッディペイン〉に敗北したその機体は、酷い損傷を受けていた。両の手足を貫通する一撃に、機体中のシステムに罅が入ったような衝撃を受けた痕。
修復には相当な手間がかかることは、明白だった。
「……まあ、一週間もあれば十分」
通常ならば倍以上はかかるが……そこは、才能の発揮。天才の得意技は時間を縮めること、これに終始する。それに、一週間というのはリミットでもある。
正直、統治軍が二週間も三週間もこちらを放っておくとは思えなかった。一週間とはそういう意味でもギリギリのラインだ。
「では、御嬢さん。とりかかりますよ」
「はいっ」
レベッカが頷く。そうして天音が事前に出していた指示通りに動こうとしていたレベッカだったが、不意にその動きが止まった。
視線を追う。そこにいるのは。
「――少年」
護・アストラーデ。
手負いの餓狼だった。
◇ ◇ ◇
護は、床に仰向けで倒れている状態の相棒に視線を送った。〈毘沙門天〉――自分の未熟故に、《赤獅子》に敗れてしまった神将騎。
「……あんた、傷は大丈夫なのか?」
視線を戻し、女性――出木天音を見据える。天音は微笑を浮かべた。
「まあ、痛み止めも打っていますし。優秀な助手もいますからね。大丈夫です」
「そうか。……直せるのか?」
「まあ、不可能ではありません」
天音は言う。修復することはできると。
なら、と護が言葉を紡ごうとする。それを、天音が遮った。
「……何をそんなに焦っているのです?」
右の人差し指を突きつけ、天音は問いかける。
「落ち着きなさい、少年。あなた自身が言ったではないですか。生きているのだ、と。その通りです。生きてさえいれば、歩む道はいつだってそこにあります」
「……修復まで、どれくらいかかる?」
「一週間」
天音は、肩を竦めて言い切った。
「先程、別の人物にも似たようなことを言いましたが……損傷が激しいのです。殺す気はないと言いながら、きっちりこちらの動きを封じてきました。厄介ですね」
「三日で直せ」
「無茶を言うものですね。無理ですよ。天才というのは時間を縮めるのが得意ですが、それでさえも限界というものがあります。それに、少年。――直したところであなたでは《赤獅子》には勝てません」
「…………ッ!!」
ギリッ、と護が拳を握った。天音はその姿を見据え、言い放つ。
「認め、受け入れなさい少年。あなたは負けたのです」
「――まだ、終わってねぇ」
護は、殺気さえもたたえた瞳で天音を睨み据えた。
「まだ、何一つ終わっちゃいねぇ!」
「終わったのです。私たちは敗北しました」
「ならすぐに直せよ! もう一度戦う! 次は勝つ!!」
護は吠えた。無茶を言っているのはわかっている。それでも、退けない。退いてはならないのだ。
冷たい雨に打たれながらここへ帰還するときに感じたのは、敗北に対する絶望でも、積み上げたものが崩れてしまったことに対する喪失感でもない。
ただただ――憤った。
屈してはならない。
受け入れてはならない。
護・アストラーデは、あの男の論理に敗れてはならない。
「負けちゃいけなかった……! 屈しちゃいけなかった……! 俺は! アイツを認めるわけにはいかねぇんだよ!」
「何故?」
「ずっと、ずっとわからなかった」
呟くように、護は言う。
「俺の敵は何なんだって。家族を奪ったのはシベリア軍で、あいつを奪ったのはEUだった。理不尽をばら撒くのは統治軍。全部が許せなくて、でも、何かが違った」
相対していても。戦っていても。
どこか、ズレていた。
自分の中で、何かが違っていた。
「わかったんだよ、俺の敵が」
だけど――あの時。
あの殺し合いの最中で、その後の相対で理解したのだ。
敵は。
護・アストラーデの敵が、誰なのかを。
「俺の敵は、アイツだ。俺の全てを奪った戦争の英雄。殺しを肯定する世界。それが俺の敵だ!」
大切なものを奪われ、奪われ尽くした。もう、この手には一丁の銃しか残っていない。
どうして、という問い。
アルツフェムへ来た日、レオンやレベッカ、天音に対して口にしたその言葉。
その、答え。
「背を向けることはできねぇ。理不尽だと? 不条理だと? そんなもんを、そんな程度のもんを受け入れちまったヤツを英雄と呼ぶ現実が! 俺の敵だ!」
背を向けることは、もう、できない。
退くことはできない。
「このままで終われるかよ……! 終わってたまるか!」
天音を見る。そこにいる女性は、静かにこちらを見据えていた。そして。
「……少年。抜きなさい」
側に立てかけてあった日本刀を、天音は護へと投げ渡す。護が日本刀を受け取ると、天音は白衣のポケットから何かを取り出した。――鉄扇だ。
「どういうつもりだ?」
「一つ、現実を見て頂こうと思いまして」
パンッ、という音を響かせ、天音が鉄扇を開く。その扇の向こうに見える瞳にいつもの底の知れない笑みはなく、ただただ、怜悧なまでの光が宿っていた。
「殺す気で来なさい」
「…………」
「来ないのであれば――」
天音が、一瞬、護の視界から消えた。
どこだ、と思うのは一瞬。下だ。天音が前に踏み出すのと同時に地面すれすれまで体を低くしたため、一瞬視界から消えたのだ。
「――私の方から往く」
耳元で、風の音が鳴った。
頬を浅く裂かれる。だが、ギリギリの反射神経で避け切った。護は抜身の刀、その峰で天音に一撃を叩き込む。
――しかし。
「詰みです」
ギィン、という澄んだ音が響いた。刀が宙を舞う。同時に、護の身体が床へと叩き付けられた。
衝撃によって肺から空気を絞り出され、護は呻く。その護の体の上にまたがり、天音は護を見据えた。
「神将騎というのは、不思議なことに人とよく似た形をしている。その機能はまあ、ともかくとして……似ているが故に、自分にできる動きの延長線上しか奏者は神将騎で体現することはできません」
「…………ッ」
「これが、奏者の多くが自身の肉体を鍛え上げる理由です。私の知るとある奏者など、《抜刀将軍》と呼ばれるほどの居合の達人。いいですか、少年? あなたは弱いのですよ。どうしようもないほどに弱い。手負いの女一人にこうして組み伏せられるほどに」
天音は、護の胸に手を置く。
「その事実を認識しなさい、少年。今目の前にいる、私という『不条理』を認識しなさい。認めないことと認識しないことは違います。認識し、その上で否定しなさい。少年、あなたのその『曲がらない強さ』を私は見誤っていました。あなたは曲がらないのではない。逃げていただけです。
現実から、事実から、真実から、不条理から、理不尽から。
それでも私はいいと言いました。逃げ切ればいいと。あの時にもそう言ったはずです。逃げ切れ、と。そうすれば、あなたにとって幸福と呼べる未来が待っていたかもしれません。
しかし、あなたはそれを否定した。逃げることに背を向けた。
ならば、進みなさい。歩み続けるのです、護・アストラーデ。逃げずに、受け入れなさい。この世界は理不尽でできています。それを否定するのは世界の否定と同義。それでも進むだけの理由を、私に見せなさい」
「俺は……!」
組み敷かれた状態で、それでも尚、護は言う。
「もしも、この世界が不条理だっていうんなら……」
手を伸ばす。今まで何も掴むことが出来なかったその手は。
初めて、目の前の女性へと届いた。
「そんな世界、否定してやる……! どんな理由を並べても、どんな事情があろうとも、それで殺されて良い命があるはずねぇ! 俺の家族も! 今まで死んでいった奴らも! 俺が救えなかった奴らも! 死んで良かったはずがねぇんだよ!」
死ぬべき命など、ありはしない。
しかし、護・アストラーデは人を殺す。
その矛盾に気付いているのか、いないのか。
それは――わからない。
「だから、頼む」
護は、天音の胸倉を掴み、懇願するように告げる。
「戦わせてくれ……!」
奪われた家族。
失った大切な人。
冷たくなっていくのを、ただ抱き締めるしかなかった現実。
それを、前にして。
俺は、いつだって。
「俺に、戦う力をくれよ……!」
許せない、と思ったことがある。
奪われた現実を、奪った存在を、世界が許した。
ならば。
俺だけは――許すわけにはいかねぇ!
「戦わせてくれ!!」
こんな世界でも。
貫き通せる道理はきっと、あるはずだから。
成程、と天音の唇が動いた。そして。
いきなり、その顔が至近に迫る。
「むぐっ!?」
「んちゅっ……んっ……ぷはっ」
いきなりのことに、何が起こったのか理解できなかった。天音は立ち上がると、楽しそうに言う。
「ふふっ、料金は頂きました。その覚悟に免じて、三日で片を付けましょう」
「なっ、あっ、てめ……!」
「ウブですねぇ。接吻ぐらい、挨拶でしょうに。……もしも、あなたの家族が喪われなかったならば。戦争が起こらなかったならば……あなたは、どんな人生を歩んでいたのでしょうね?」
その時、護は一瞬、呆気にとられた。
天音が浮かべた笑み。それが、どうしようもなく儚げで、寂しげだったから。
「さて、それでは参りましょうか。立ちなさい少年。あなたにも手を貸していただきます」
「……わかった」
護は立ち上がる。
間違えてはならない。怒りは撒き散らすものではない。何に怒り、抗うのかを定めるのだ。
――上等だ。
俺は認めねぇ。テメェが言う、理不尽な世界を。
不条理を、惨劇を。
絶対に、認めねぇ!
◇ ◇ ◇
第二東部基地へ、四機の神将騎と三人の奏者が到着した。それを出迎えたのは、朱里とソラの二人。
「ご苦労だった」
開口一番、到着した三人に朱里が言葉を紡いだ。先頭に立っている女性が、朱里とソラへ敬礼をする。
「レイラ・マッカートニー以下、二名。招集に応じて参りました」
「ああ。来てもらって早速で悪いが、お前たちは俺の指揮下へ入ってもらう」
「大戦時代の強襲部隊、レオーネ部隊の再結成だな」
壁に背を預けながら、ソラが言った。朱里はそちらの方を見ぬまま、部下たちへと言葉を紡ぐ。
「十二時間後、ここを出発する。部隊編成は新たに二人の奏者と神将騎を入れ、七人で行軍する予定だ。俺たちの目的はただ一つ。叛乱軍の要塞、アルツフェムへの強襲。殺し切る必要はない。ただ、僅か七機の神将騎で追い詰められるのだという現実を思い知らせてやればいい」
「了解しました」
全員が敬礼する。朱里は頷いた。
「《氷狼》……この現実を前に、貴様はどう抗う?」
というわけで最新話です。
護くんの歪み、それが少しずつ表面化してきました。同時にソラくんの異常さも垣間見えてきましたね。
そんなこんなで、とりあえずは配置完了。次回は思いっ切り戦闘です。その戦場で誰が何を思い、どういう結末が待っているのか……。
楽しみにして頂けると幸いです。
ありがとうございました!!