第3話 今夜は、私たちに甘えてください
それから、常夜灯は、ちょっとした戦場になった。
「えっと、熱の時って、どうすればいいんだっけ。冷やす? 温める?」
「首の後ろと、脇! 太い血管、冷やすの!」
「氷! 氷枕! ……って、どこにあんの、この家」
「私、調べる!」
「累、スマホで検索して! 早く!」
普段、俺に世話をされてばかりの四人が、わたわたと動き回っていた。
俺は布団の中で、その光景をぼんやりと見ていた。なんだか、ひどく不思議な気持ちだった。
「管理人さん、お水。飲める?」
ゆめちゃんが、吸い飲みを差し出した。どこから出してきたのか、レトロなガラスの吸い飲み。
「あ……すみません。自分で」
手を伸ばそうとすると、ゆめちゃんが首を振った。
「いいから。寝てて」
そっと、吸い飲みを俺の口元にあてがう。冷たい水が、ひりついた喉に染みた。
「……ありがとう、ございます」
「いいって。……てか、おじさん、ほんとは、こうやって、ずっと、私たちのこと、世話してくれてたんだよね」
ゆめちゃんが、ぽつりと言った。その目が、少し潤んでいた。
***
まひるさんが、濡れた手ぬぐいを俺の額にのせてくれた。冷たくて、気持ちがよかった。
「あの、管理人さん。あったかいの、何か、食べられますか。食べないと、薬も飲めないし」
「いえ、そんな。皆さんに、作ってもらうなんて」
「いいから!」
まひるさんが、めずらしく、強い声を出した。
「私たち、ずっと、もらってばっかりだったんです。管理人さんに。あったかいご飯も、優しい言葉も、ぜんぶ。だから、今日は……今日くらいは、ね?」
その目が、また潤んでいた。
「私たちにも、何か、させてください。お願いします」
俺は、何も言えなかった。
***
台所から、こと、こと、と音がしてきた。それから、ちょっと慌てた声も。
「ねえ、お米、どのくらい入れるの」
「分量、適当でいいでしょ。雑炊だし」
「だしって、どうやって取るの……? 管理人さん、いつも、何か、やってたよね、昆布とか」
「あ、これ、出汁パックある! これでいいでしょ!」
「火、強くない? 焦げる、焦げる!」
俺は布団の中で、その音を聞いていた。ことこと、と鍋が煮える音。包丁がまな板を叩く、ぎこちない音。
──ねぎ、もっと細く切った方が。火は、もう少し弱火で。卵は、火を止めてから。
頭のなかで、つい口を出しそうになって。やめた。
今日は、いいか、と思った。任せてみようか、と。生まれて、はじめて。
***
しばらくして。怜さんが、お盆を運んできた。その上に、湯気の立つ土鍋の小鉢がのっていた。
「……できた。雑炊」
怜さんが、ちょっと決まりの悪そうな顔で、言った。
「言っとくけど。あんまり、期待しないで」
小鉢のなかは。正直に言うと、見た目はお世辞にも綺麗とは言えなかった。ねぎは太さがばらばらで。卵は固まりすぎて、ところどころぼそぼそで。米は煮えすぎて、ほとんどお粥みたいになっていた。
俺が、もしこれを作ったら。たぶん、出さない。やり直す。
でも。湯気が、立っていた。優しい湯気が。
「……あ」
俺の喉の奥が、つまった。
「だしパックで、ごめん。昆布の引き方とか、私たち、分かんなくて」
怜さんが、早口で、言い訳のように言った。
「ねぎ、ゆめが切ったから、不揃いだし。卵、まひるが入れるの、早すぎて、固まっちゃって。米は、累が、ぼーっとしてる間に、煮えすぎたし」
「ちょ、人のせいにしないでよ」
「事実でしょ」
四人が、わいわいと言い合っている。
俺は、震える手でれんげを持った。ひと匙、すくって。口に運ぶ。
──……。
味は。しょっぱかった。塩の加減がめちゃくちゃで。だしも薄くて。米はのびきっていて。プロの俺なら、絶対に出さない一杯。
なのに。なのに、俺は。ひと匙、口にした瞬間に。
ぼろり、と。涙が零れた。
「……っ」
止まらなかった。ひと匙、ひと匙、口に運ぶたびに。後から、後から、零れた。
手の甲で、目元を拭った。拭っても、拭っても追いつかなかった。俺は、れんげを握りしめたまま、肩を震わせた。
号泣するなんて。いい歳のおじさんが。みっともない。それでも。止められなかった。
「……っ、ばか、みたい、ですよね」
俺は、しゃくりあげながら、言った。
「こんな、しょっぱい雑炊で。……でも、こんなに、美味しいの、生まれて、はじめてで」
四人が、驚いた顔で俺を見ていた。
それから。まひるさんが、つられて泣き出した。
「やだ、なんで、私まで、泣いて……」
ゆめちゃんが、洟をすすった。怜さんが、ぐっと唇を噛んだ。真壁さんが、そっと目元を押さえた。
足元で、小麦が心配そうに「くぅん」と鳴いて。俺の布団のそばから、片時も離れなかった。
***
「管理人さん」
泣き止んだ怜さんが、ベッドのそばに膝をついた。そして、いつになくまっすぐな目で、言った。
「私たちね。昨日の夜、話したの。管理人さんが、寝たあとに」
「……はい」
「あなたは、いつも、私たちに、言ってくれるよね。『おかえりなさい』『大変な一日でしたね』『ご飯にしましょうか』って。私たちが、ボロボロで帰ってくるたびに」
怜さんの声が、少し震えた。
「だから、今度は、私たちが、言う番」
四人が、俺を囲んだ。ゆめちゃんが、吸い飲みを。まひるさんが、新しい手ぬぐいを。真壁さんが、静かに枕元に。そして、怜さんが、ぎこちない雑炊のおかわりを。
怜さんが、言った。
「今夜は──私たちに、あなたを、甘えさせてください」
***
俺は、また、泣いた。
『あなたが、誰かに甘えられる日が来ますように。』
登美さんの、最後の一文が。頭のなかで響いた。
ずっと、できなかった。誰かに甘えるなんて。「助けて」と言うなんて。俺は、与える側の人間で。それしか知らなくて。
でも。今、こうして。ぎこちない手つきで作られた、しょっぱい雑炊をすすって。四人の女の子に囲まれて。
俺は、生まれてはじめて。誰かに受け取ってもらっていた。
「……ありがとう、ございます」
俺は、ようやく、その言葉を言えた。ずっと言えなかった、言葉を。
「ありがとう……ございます。本当に」
だしパックで、ねぎは不揃いで、米はのびきって。プロなら絶対に出さないその一杯を、ひと匙すすった瞬間に——。しょっぱい雑炊の湯気に涙腺をやられたら、【泣ける】を! この夜の続きは、どうかブックマークで見届けてください。




