第42話『開店準備』
翌朝、カウンターと棚が届いた。木工所の職人が二人来て、壁に打ちつけ、脚を固定する。ほどなく終わる。
職人が去ってから、部屋の中を見回す。
棚が壁を埋めている。カウンターが入口近くに据わっている。椅子が一脚、内側にある。ランタンが二つ、壁の金具に掛けてある。
形になった。
カウンターに手を置く。木の感触がある。まだ新しい匂いがする。
ただ棚が空だ。
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その日の午後、安宿の部屋を引き払う。
荷物は少ない。メモ帳、筆記具、着替え数枚、調合道具一式の袋。そして大きめの保存瓶——濁った初級ポーションが入ったままだ。まだ残してある。
宿の受付に鍵を返す。硬貨を数える音がする。老人が帳簿に何かを書く。それだけだ。
廊下を歩く。
板が軋む。
最後だ。
薬屋通りの店へ荷物を運ぶ。
調理場の隅に道具を並べる。
保存瓶を棚の一番奥に置く。
手持ちのポーションを棚の端に並べる。淡く濁った初級ポーション五本、初級ポーション一本。開店初日の足しにする。
(ここから始める)
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翌朝から調合を再開する。その前にリナを捕まえる。
「また借りたい」
リナが少し目を細める。「いくら」
「保存瓶三十本と素材代。合わせて小銀貨五枚と大銅貨六枚くらいだ」
「……また増えるの」リナが小さく息を吐く。「まあ、開店したら返せるわね」
「返す」
「分かってる」リナが立ち上がる。「利息は払って」
「分かってる」
目標は三十本。淡く濁った初級ポーション二十本、初級ポーション十本。調合道具の残りは十日を切っている。一日に安定して作れるのは六本から八本。計算は合う。ただ素材が足りない。
ハコネソウが問題だ。ダンジョン解禁で値段が上がっている。四束買えば小銀貨一枚を超える。
三日で十八本仕込む。淡濁十三本、初級ポーション五本。
残り十二本。ハコネソウがあと五束は要る。
薬草屋に行く。棚が空だった。「入荷が追いついていません」と店の女が言う。「いつ入る」と聞くと「分かりません」と返ってくる。
別の薬草屋を二軒回る。どちらも同じだ。
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夜、数字を並べる。
今ある素材で作れるのは三本。残り目標まで九本足りない。薬屋通りの在庫が戻るまで待てば間に合わない。調合道具の期限が先に来る。
頭の中で地図が広がる。
境界の森。
スタンピードが起きた森だ。
冒険者ギルドがダンジョン探索に動いてから、
採取者は誰も近寄らない。
ただ誰も採取に行かないなら、薬草はそのまま残っている。
(一度だけ)
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夜明け前、東門を出る。
空が白む前の時間帯だ。門番が一人、槍を持ってこちらを見る。「採取ですか」と聞く。「そうだ」と答える。止めない。
森の縁に入ると、空気が変わる。
静寂の森とは違う。
湿度が高い。地面が柔らかい。
足音が吸い込まれていく。
鳥の声がない。
一度だけ解析を使う。
魔力の流れが濃い。
薬草の生える場所は大体分かる。
これ以上は使わない。
使いすぎると危険だ。
目と耳だけで進む。
シロクサが密生している。手が止まる。これほどの量は静寂の森では見たことがない。摘む。袋が膨らんでいく。
ハコネソウを見つける。太い。葉の色が濃い。静寂の森のものより明らかに育ちがいい。摘む。葉が厚い。これは質がいい。
イヤシゴケも多い。岩の表面を覆っている。削る。量だけはある。
袋が重くなってきた頃、枝が折れる音がした。
右前方。
体が止まる。
音の方向を見る。木立の間から、影が動く。大きい。ウルフではない。別の何かだ。
(逃げる)
判断より先に体が動く。来た方向へ走る。
足音を殺して、速く。
後ろで重い足音が一度鳴る。
振り返らない。
東門が見えたとき、後ろの気配が消えていた。森の縁で止まった。
足が少し震えている。
今気づいた。
門番が「どうしました」と言う。息が上がっている。「何でもない」と答える。声が少し掠れた。
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荷物を下ろして袋の中を確認する。
シロクサ三十枚以上、ハコネソウ十五枚以上、イヤシゴケ十グラム近く。十分すぎる量だ。
ただ背中がまだ冷えている。
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食堂に入ったとき、ガッシュが入口近くのテーブルに座っていた。
目が合う。
ガッシュが立ち上がる。「ケイ」
「ガッシュ」
「今朝、東門から出るのを見た」ガッシュが一歩近づく。声が低い。「境界の森か」
黙る。
「境界の森か」
「そうだ」
ガッシュの顔が変わる。怒りというより、何か別のものだ。
拳がテーブルに落ちる。
木が鳴る。椀が揺れる。汁が少しこぼれる。
椅子が引かれる。
「座れ」
座る。
「何のために行った」
「素材が足りなかった。薬草屋の在庫が切れていた」
「だから境界の森に一人で」
「誰も採取に行かないから残っている。ハコネソウが大量に取れる。質もいい」
「そういう話をしているんじゃない」ガッシュが低い声で言う。「あそこはスタンピードが起きた森だ。今もダンジョンに繋がっている。一人で入る場所じゃない」
「逃げた」
「逃げたから今ここにいる。逃げられなかったら」
返す言葉がない。
ガッシュが椀を持つ。しばらく黙っている。「次は言え。俺たちがいる」
「分かった」
「分かったじゃない。次は必ず言え」
「分かった」
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夕方、リナが食堂に来たとき、ガッシュがすでに話していた。
リナがこちらを見る。何も言わない。テーブルに座って、メモ帳を出す。
「手を出して」
メモ帳を開く。
「練習の前に聞く」リナがペンを置く。「次にそういうことをするなら、先に言って」
「ガッシュと同じことを言う」
「同じことだから言ってるの」リナが静かに言う。「あなたが死んだら、借金誰が返すの」
少し間がある。
「……返す」
「そう」リナがペンを取り直す。視線が手元に落ちる。
「じゃあ練習」
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翌日から三日、調合を続ける。境界の森の素材で残り十二本を仕込む。
境界の森の素材は質がいい。同じ手順でも、色が違う。淡濁の緑が、いつもより少し深い。解析を使わなくても分かる。
三日目の夕方、棚に並べる。
淡く濁った初級ポーション二十本。初級ポーション十本。
三十本。
棚が埋まった。
少し見る。
壁一面に並んだ瓶が、
ランタンの光を淡く透かしている。
看板を外に立てかける。リナが書いた「緑の雫」の文字が、夕暮れの光を受けている。読めない。ただ形は覚えた。
明日、開く。
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【借金メモ・42話終了時点】
前話(41話)終了時:手元大銅貨数枚・残債大銀貨一枚と小銀貨五枚
42話収入:なし(収入ゼロ)
42話支出:保存瓶30本(小銀貨一枚と大銅貨五枚)+ハコネソウ追加(小銀貢四枚)+シロクサ補充(小銅貨数枚)+調合道具延長5日(大銅貨一枚と小銅貨五枚)=小銀貨五枚と大銅貨六枚
新規借金:小銀貨五枚と大銅貨六枚
残債合計:大銀貨一枚と小銀貨五枚+小銀貨五枚と大銅貨六枚=大銀貨一枚と小銀貨十枚と大銅貨六枚→大銀貨二枚と大銅貨六枚
ケイの手元:ほぼ零
残債:大銀貨二枚と大銅貨六枚
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【所持アイテムメモ】
ポーション類
初級ポーション(作淡濁:緑) × 25本(新規20本+既存5本)
初級ポーション(作澄:緑) × 11本(新規10本+既存1本)
初級ポーション(作濁:黄緑) × 大瓶1本分(保管中・用途未定)
素材類
シロクサ乾燥葉 × 約10枚(残)
ハコネソウ生葉 × 約5枚(残)
イヤシゴケ乾燥粉 × 約十二g(残)
道具類
調合道具一式(借り物) × 残5日(延長済み)
保存瓶 × 0本(全使用)
店舗
店舗兼住居「緑の雫」(南西区・薬屋通り手前)
月賃料:銀貨一枚と小銀貨七枚(調理場使用料込み)
看板設置済み・開店前夜
登録済み
商業ギルド「天秤座」露店区画(妨害により一時停止中)
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