第3話『銀髪の冒険者』
「——シッ!」
鋭い呼気とともに、銀色の閃光が視界を横切った。続けざまに鳴ったのは、肉を裂き、硬いものを断つ鈍い響き。左側面の一匹が、喉元を一閃され音もなく地に伏す。次いで、逆袈裟に振り上げられた剣が、踏み込もうとしたリーダー格の前脚を叩き斬った。
気づけば、サトウの前に一人の少女が立っていた。
銀髪を夕日に輝かせ、抜き放った一振りを右手に下げている。小柄だが、その立ち姿には無駄が一切なかった。革製の軽鎧が全身の動きに合わせて馴染み、腰には鞘と小型のナイフ。肌は白く、顔立ちは彫りが深い。そして何より目を引いたのは、左右で色の異なる瞳だった。右は青、左は緑——光の加減で微妙に色を変えるそれは、現実離れした美しさと、どこか不吉な鋭さを同時に持っていた。年若い顔立ちをしているが、その目だけが違った。戦場を何度もくぐり抜けてきた者だけが持つ、静かで鋭い眼光だった。
残る二匹を正面に捉えたまま微動だにしない。その背中が、サトウを壁の内側に収めるように立ちはだかっていた。
長い数秒が過ぎた。リーダー格は負傷した前脚を引きずり、唸り声を飲み込んだ。一匹が踵を返し、残る個体もそれに続く。
静寂が戻った。少女はゆっくりと剣を収め、初めてサトウを振り返った。
「怪我は」
「……ない、と思う」
「顔色が最悪ね」
「そうだと思う」
少女の視線が、サトウの全身を素早く検分した。黒髪、黒い瞳。肌の色も、顔立ちの系統も、東方の民に近い。だが顔つきは妙に幼い。二十歳前後といったところか、あるいはまだ十代かもしれない。体格は悪くないが、覇気がない。まるで長い間、部屋に閉じこもっていた人間のような、生気の薄さがあった。それでいて、どこか放っておけない雰囲気がある——リナは自分がそう感じたことに、少し苛立った。
少女は一度だけ周囲を見回し、短く息を吐いた。「ウルフは損得を計算する。獲物の肉より、自分たちの命の方が高いと判断すれば引くわ。……ただし、今夜中に群れを立て直して戻ってくる可能性がある。ここには長居できない」
「……あなたは、誰ですか」
「リナ。冒険者よ」
彼女はサトウに手を差し伸べた。助けてやる、というより、早く立て、という動作だった。
「サトウ。サトウ・ケイだ。サトウと呼んでくれ」
リナの目が、一瞬だけ鋭く細くなった。
「……その名前、ここでは不用意に名乗らない方がいいわ。家名(名字)持ちは、それだけで目をつけられやすい」
「いや、貴族とかじゃない。俺のいた国では、みんな家名を持ってるんだ。当たり前のことで、特別でも何でもない」
「……みんな?」
リナは絶句した。王族か、それに連なる高位貴族しか許されない特権を、平民が共有する世界など想像もつかない。
「……それはまた、正気を疑うほど妙な国ね。全員が王族の末裔とでも言うの?」
「妙なのはそっちだ」とサトウは言いかけて、やめた。今は異世界の常識を議論する体力がない。
「じゃあ、名前で呼んでくれ。ケイでいい」
「……ケイ」リナは一度だけ繰り返した。「覚えたわ」
彼女は差し出していた手を引っ込め、立ち上がるよう顎で促した。
「家はどこ。案内できる?」
サトウは少し黙った。
「……そもそも、ここはどこだ」
「『静寂の森』よ。バルド辺境伯領の東端。アウラムという街の近くよ」
「アウラム。聞いたことがない」
「当然でしょう、小さな街だもの。あなた、どこから来たの」
「東京だ」
「……トウキョウ」リナは繰り返した。聞いたことのない響きを確かめるように。「どこの国?」
「日本、という国だ」
「知らないわね」リナは短く言った。「大陸の東の果て? それとも島国?」
「島国だ。ただ……」サトウは言葉を探した。「たぶん、あなたの地図には載っていない」
リナは黙った。その沈黙は否定でも肯定でもなく、ただ状況を整理しているようだった。
「……帰れそう?」
「分からない。帰り方が、そもそも分からない。それに——」サトウは少し間を置いた。「帰っても、何も残ってない。帰る場所が、もうどこにもないんだ。……借金だけが待ってる」
リナはサトウの顔を一秒だけじっと見た。その瞳に宿っていたのは高慢さではなく、すべてを失った者特有の、底の抜けた絶望だった。
(この目を、私は知っている)
リナは内心で、小さく息を飲んだ。何もかも失って、それでも立っていた頃の自分。誰にも頼れず、ただ前だけを向いていた、あの頃の目と同じだった。だから放っておけなかった。理屈ではなく、ただそれだけだった。それに——どう見ても、この男はまだ若い。自分とそう歳も変わらないだろう。こんな場所に一人で倒れていた理由が、リナにはまだ分からなかった。
「……分かったわ。とりあえず街へ行くわよ」
「街、というのは」
「この森を抜けた先にアウラムがある。冒険者ギルドもある。魔法は使える?」
「使えない。そもそも魔法が存在するとさっきまで思っていなかった」
リナは眉をひそめ、しかしそれ以上は訊かなかった。「行くわよ。夜になると、もっと質の悪い魔獣が出る」
彼女は振り返らずに歩き出した。サトウはよろめきながら立ち上がり、その背中を追った。
森の中を歩きながら、サトウはぼんやりと考えていた。ここがどこなのか、まだ分からない。帰り方も、これからどうすべきかも、何一つ分からない。5億という数字の重みは、異世界の空の下でも少しも軽くなっていなかった。
それでも、足は動いていた。諦めることだけが、どうしてもできなかった。
夕暮れの光が、木々の間から斜めに差し込んでいた。その光に透けるリナの銀髪が、風に揺れていた。行き先も、帰り方も、何もわからない。ただ、目の前に銀髪が揺れていた。今のサトウには、それだけで十分だった。
---
【借金メモ・3話終了時点】
前話終了時:-
3話収入:なし
3話支出:なし(リナに保護されるのみ)
残債充当:-
ケイの手元:なし
残債(日本):5億482万1,500円




