第37話『最初の客』
タイトルとあらすじを変更しました。
朝、作業場に入ると薬品の匂いが鼻をつく。先客は二人。端で火を扱う男と、石臼を動かす若い女。どちらもこちらに目を向けない。
道具を並べる。石臼、土鍋、計量皿。今日で残り四日のはずだが、まずやることがある。
受付の老人に声をかける。「道具の貸し出しを延長したい。あと十日」
老人が帳簿を開く。
「小銅貨三枚が日割りですから、十日で大銅貨三枚になります」
財布の中を確認する。小銀貨一枚と大銅貨三枚と小銅貨五枚。大銅貨三枚は出せる。払える。
「分かった」
硬貨を出す。老人が帳簿に記録して「十四日後まで有効です」と言う。
作業台に戻る。
素材を確認する。シロクサ三十五枚、ハコネソウ十五枚、イヤシゴケ十五グラム。ボトルネックはハコネソウだ。五枚で一本だから、三本しか作れない。
三本。淡く濁った初級ポーションを三本。既存の三本と合わせて六本になる。
それで露店に並べる。
石臼にシロクサを入れて押す。繊維が断ち切れる感触、腕に馴染んでいる。ハコネソウを刻む。細かく、均等に。清水を土鍋に入れて火にかけ、温度を指先で確かめながら調整する。
沸騰させない。これだけ守れば崩れない。
一本目が仕上がる。布で濾して保存瓶に移す。淡い濁りが、瓶の中でゆっくりと落ち着く。
「また濁ったね」
振り返ると、石臼を動かしていた若い女がこちらを見ている。年は二十前後だろうか。髪に白い粉がついている。
「そうなった方がいい」
「どうして」
「自分なりの理由がある」
女が少し首を傾ける。何か言いかけて、やめる。石臼に視線を戻す。
それだけだ。
二本目は澄んだ緑になる。手順は同じだ。微妙な火加減のずれが出た。解析は使わない。色で分かる。
三本目——また淡い濁りに戻る。
保存瓶に並べる。淡濁が二本、澄んだものが一本。既存の三本と合わせて、淡濁五本と澄んだ一本が揃う。
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冒険者ギルドの前を通ると、掲示板の前に人が集まっている。いつもより多い。ざわざわとした声が外まで漏れてくる。
入ると熱気がある。受付の列が伸び、酒場の隅でも数人が紙を見ながら話している。
掲示板を見る。読めない。ただ人の動きと声から分かる。何かが変わった、今日から。
隣に立っていた若い冒険者が口を開く。
「解禁ですよ。ダンジョンの上層、今日から入れます。さっき正式通達が出ました」
「上層のみか」
「ええ。ただパーティ必須で、探索は自己責任です。——でも街が変わりますよ、これで」
冒険者が先を急いで離れる。
頭の中で数字が動く。探索が増えれば怪我人が増える。露店の需要はさらに上がる。
それに——。
手持ちの六本では足りないかもしれない。
帰りに露店の薬草屋に寄る。ハコネソウを二束追加で買う。「小銅貨八枚です」と店の女が言う。払って受け取る。今夜のうちに素材を仕込んでおく。
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夜、食堂でリナと向かい合う。
テーブルの上にリナが紙を一枚置く。羽根ペンを持ち、何かを書く。流れるような線が並んでいく。
「まずこれ。文字は二十六ある」
「少ないな」
「少なくない」リナが即座に返す。
「二十六を組み合わせて音節を作る。単体じゃなくて組み合わせで全部の音を表せるの。あなたの国の文字は何個あるの」
(アルファベットに近い)
納得はした。ただ口には出さない。
「数え方による。文字の種類が三つあって、合わせると二千以上になる」
リナがペンを止める。
「……二千」
「以上だ」
「二十六を少ないと言ったことを謝る気はないけど、あなたの感覚がおかしいのは分かった」
ケイは何も言わない。
「いい。まず形から覚える。音は後からついてくる」リナが紙の端に一つの文字を書く。縦に伸びる線と、右に跳ねる短い線。
「これが最初の文字よ。見て、書いて、覚える。簡単でしょ」
メモ帳を開く。ペンを持つ。
見る。
線の角度、はねの方向。紙の上に同じものを引こうとして——止まる。
「似てない」リナが上から覗き込む。
「横の線が長すぎる。もっと短く」
「こうか」
「違う。短くしたら跳ねが消えた。短くするのは横の線だけで、跳ねは残す」
「それが難しい」
「だから練習するの」
ため息が出そうになる。こらえる。
もう一度書く。今度は横の線を短くしたまま、跳ねを意識する。紙の上に線を引く感触が、微妙にずれていく。
「少しマシ」リナが上から覗き込む。
「ただ力が入りすぎてる。ペンはこう持つのよ」
リナがケイの手を取って角度を直す。指先が、少し冷たい。
「……こう?」
「そう。力を抜いて」
もう一度。
今度は少し近い気がする。リナが確認して「悪くない」とだけ言う。
「二十六全部で一つの意味を持つ音節がある。今日はこの五つだけ覚えて」リナが紙に五つの文字を並べる。
「明日また続ける。一日に詰め込んでも入らないから」
「効率が悪い」
「文字を覚えるのに効率はない。手が覚えるまで書くだけよ」
リナが立ち上がりかけて、ふと止まる。
「ダンジョン、解禁になったわね」
「聞いた。掲示板の前が混んでいた」
「ガッシュたちも動くと思う。あなたの露店の審査、明日通るはずよ」
「そうか」
「緊張してる?」
少し考える。
「してない。準備はした」
リナが小さく鼻を鳴らす。笑ったわけではない。ただ何か引っかかったような音だ。
「まあ、そうね」リナが立ち上がる。
「おやすみ」
「ありがとう」
リナが一瞬だけこちらを見る。何かを言いかけて、言わない。そのまま歩いていく。
食堂の喧騒が残る。冒険者たちの声が、今夜は少し高い。
メモ帳を開く。リナに習った五つの文字をもう一度書く。形を確かめながら、一つずつ。
ペンを動かすたびに、さっきリナに直された角度を思い出す。力を抜いて、跳ねを残す。
下手だ。それは分かる。ただ、今夜初めて五文字を書いた。
明日、露店が始まる。
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【借金メモ・37話終了時点】
前話(36話)終了時:手元大銅貨13枚と小銅貨5枚・残債小銀貨5枚+銀貨1枚
37話収入:初級ポーション(作澄:緑)3本売却(大銅貨15枚・通常価格)+採取報酬1日分(大銅貨2枚)=大銅貨17枚
37話支出:宿+食事2日分(大銅貨6枚)+調合道具延長10日(小銅貨30枚=大銅貨3枚)+ハコネソウ2束(小銅貨8枚)
残債充当:大銅貨10枚→残債小銀貨4枚+銀貨1枚
ケイの手元:大銅貨9枚と小銅貨2枚
残債:小銀貨4枚+銀貨1枚
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【所持アイテムメモ】
ポーション類
初級ポーション(作淡濁:緑) × 5本(露店販売用)
初級ポーション(作濁:黄緑) × 大瓶1本分(保管中・用途未定)
素材類
シロクサ乾燥葉 × 約5枚(使用後残)
ハコネソウ生葉 × 約10枚(追加購入分)
イヤシゴケ乾燥粉 × 約9g
道具類
調合道具一式(借り物) × 残14日(延長済み)
保存瓶 × 2本(6本使用後残)
調合道具を延長して淡濁ポーションを三本追加します。これで六本になりました。
ダンジョン解禁の正式通達が出ます。街の冒険者の動きが変わります。
夜、リナから文字の授業を受けます。この世界の文字は二十六。今日は五文字を覚えます。下手ですがケイが初めてこの世界の文字を書きました。
明日、露店が始まります。
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