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元トレーダー、金アレルギーなのに金本位制の異世界に翻弄される  作者: 夜明け一葉
第2章

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第27話『二人の客人と夜の酒場』

リナがスタンピードの話を始めた。


「規模としては近年で最大クラス。境界の森から確認された魔物は十種以上、最終的な死者は冒険者・一般市民合わせて十一名。負傷者は百名を超える」


ヴェルナが静かに聞いていた。猫耳のソラは杯を両手で包んで、時おりヴェルナを見ながら頷いている。眉がかすかに動くたびに、耳の先が揺れた。


「発生源の特定は」


「調査中よ。スタンピードから五日後に調査隊を境界の森へ送り込んで——」


リナの声色が、そこでわずかに変わった。それまでの淡々とした報告口調ではなく、少しだけ硬い。ケイは気づいたが、何も言わなかった。


「——そこで新しいダンジョンを発見した」


酒場の喧騒が遠のいた。ケイの耳の奥で、薄い耳鳴りが一瞬だけ走る。


(ダンジョン。この街の近くに)


頭の中で地図が広がった。相場師の習慣だ。新しい情報が入ると、反射的に収益構造を描こうとする。ダンジョンがあれば高ランクが集まる。高ランクが集まれば物資の需要が変わる。薬草の相場も、ポーションの売値も——


ヴェルナの耳が、はっきりと動いた。「ダンジョン。この街の近くに」


ソラの耳も、つられるように小さく立った。杯を持つ指先に、わずかに力が入る。


「森の奥、北北東の方角。これまで調査隊が入ったことのないエリアよ。アーチ型の石の門があって、内部に続く通路が確認されている」


「規模は」


「不明。今は探索禁止にされている。これからギルドの上位機関——総本部に報告を上げて、第一次調査隊を組む段取りになってる。魔物の種類も、ダンジョンの階層数も、何も分かっていない状態だから、当面は一般冒険者は入れない」


ヴェルナが少し黙った。「……調査隊の規模は」


「まだ決まってない。総本部の指示待ち」リナが静かに答えた。「噂を聞いて来たなら、正直に言う。すぐに動けるような状況じゃないわ」


ヴェルナが短く鼻を鳴らした。「分かった。十分だ」


そのとき、酒場の奥から給仕の女が盆を持って近づいてきた。熱気を連れてくるような足取りだった。盆が卓に近づくにつれ、匂いが来た。煮込んだ脂の甘み、焦げた肉の香ばしさ、そしてマハククローブの刺さるような香り。空腹だったことを、その瞬間に思い出した。


ソラの耳が、ぴくりと動いた。鼻先がわずかに持ち上がる。


「お待たせしました」


木の盆の上に、料理が三つ並んでいた。


骨付きロックベアの煮込みが、焦げ茶色のスープを湛えた深皿に収まっている。湯気が立ち、シンコウローズの青い香りがスープの獣臭さと混ざって漂ってくる。骨から肉がほろりと離れかけていて、表面にシンコウローズの緑が散っている。串焼きの盛り合わせは、ホーンラビットとエンシンルート、ドミンチューバーが交互に刺さって焦げ目がついている。脂が滴った跡が串の下に黒く焦げており、煙の名残りがまだ漂っていた。それから小振りの鍋に入ったコウジュンマッシュの炒め物——マハククローブの刺さるような香りが鼻腔を突き、それだけで胃が鳴りそうになった。


「ロックベアの骨付き煮込みと串焼き盛り合わせ、コウジュンマッシュのマハク炒めです。飲み物はあと一杯ずつお持ちします」


「ありがとう」リナが言った。リナが一瞬だけ視線を卓に落とした。それから顔を上げ、「ケイ、これも——」


「分かってる」


「……言わせてよ」


「——借金に入れておく、だろ」


リナが唇を一文字に結んだ。ソラが小さく笑いを堪えている。


「それで、飲み物込みで何枚だ」


「料理三品と飲み物四杯で大銅貨七枚。あなたの分は半分、大銅貨三枚と少し——切りよく大銅貨四枚でいいわ」


ケイは頭の中で計算した。残債、小銀貨四枚と大銅貨三枚。そこにスタンピード後の宿と飯、十日分で小銀貨三枚。さらに今夜の分が大銅貨四枚。合計、小銀貨七枚と大銅貨七枚——大銅貨十枚で小銀貨一枚だから、繰り上がって小銀貨八枚と大銅貨七枚。


(このペースだと、三週間で完全に詰む)


ツキミソウの相場が下がれば、もっと早い。固定費が重すぎる。変動費を削るしかない——


ジリ貧だ。


ケイはロックベアの煮込みに手を伸ばした。骨を持ち上げると、肉がするりと落ちそうになる。スープに浸したまま一口食べた。


悪くない。


正直に言えば、日本で食べていた料理とは全く違う。スープの塩気が強く、ハーブの主張が激しい。複雑な旨味の重なりとか、繊細な出汁の風味とか、そういうものはない。料理としての設計がシンプルすぎる——東京の定食屋のカウンターで、七百円の煮魚定食を食べていた頃を一瞬だけ思い出す。出汁の香りと、白米の甘さ。遠い話だ。


ただ、肉そのものの質は高かった。ほろほろと崩れる繊維の中に、濃い脂の甘みがある。噛むと繊維に独特の締まりが残っていて、それが逆に旨味になっていた。脂の奥にかすかな獣臭さがあるが、長時間煮込まれて角が取れ、スープ全体に溶け込んでいる。素材だけで言えば、東京で食べていた安い定食よりずっとうまい。


「……微妙な顔してるわね」


リナが向かいから言った。


「してない」


「してる。眉間に出てる」


「肉はうまい。ただ、味付けが——」


「文句があるなら食べなくていいわよ。あなたの借金が減るだけだから」


「食べる」即答した。


ソラがまた小さく笑った。ヴェルナは串焼きを手に取り、音もなく口に運んでいる。食べる所作が妙に静かで、テーブルの向こうから緊張感だけが滲んでくる。


串焼きを一本取った。ホーンラビットとエンシンルート、ドミンチューバーが交互に刺さっている。根菜は甘く、肉は塩だけで焼いてある。脂は少なく淡白だが、噛むほどに野性の風味が出る。焦げ目の香ばしさが身の締まりと合わさって、食べ続けられる味だった。コウジュンマッシュの炒め物は最後に試した。強いマハククローブの香りが鼻を突き、噛むとキノコ特有の弾力が返ってくる。悪くない。ただ、飲み込んだ後に喉の奥がほんのりと温かくなる気がした。肉でも酒でもない、じわりとした感覚。食べ物でこういう感触は初めてだ。


「このキノコ、ちょっと変わってる」


「コウジュンマッシュよ。微量の魔力を含んでる。食べると少し体が軽くなる気がするって言う人もいる。気のせいだと思うけど」


「効果があるなら薬草として採取できるか」


「一応採取素材には入ってる。ただ、単体で売ってもたいした値段にならないわ。乾燥させて調合に使う分量が必要だから、束でないと」


ケイはキノコを噛みながら、計算を始めていた。採取量、乾燥時間、売値——


「また計算してる」リナが言った。


「癖だ」


しばらく食事が続いた。


ヴェルナが食べ終えた骨を脇に置き、リナに向き直った。「話を聞かせてもらった。礼を言う」


「役に立てたかどうか」


「十分よ」ソラが明るい声で言った。「ありがとうございました。私たち、ギルドの受付に正式に顔を出しておきたいから、先に行きますね」


二人が席を立った。ヴェルナが立ち上がる際に、もう一度だけケイを見た。一秒、二秒——品定めというより、何かを確かめるような視線だった。


何も言わなかった。ケイも何も言わなかった。


二人の背中が酒場の奥へ消えていくのを見送ってから、リナが息を吐いた。「……Bランクが二人。バルドが聞いたら顔色変えるわよ」


「スタンピードの規模がそれだけ外まで届いたってことだ」ケイは残ったスープを飲みながら言った。「噂が一人歩きしてるなら、他にも来るかもしれない」


「そうね」リナが杯を置いた。「あなたは次、どうするつもり」


「採取クエストに出る。ツキミソウが一番効率がいいのは変わらない。ただ——」


(素材売りは天井が低い。ツキミソウの相場が下がれば即座に詰む。リスク分散が必要だ)


「一つ聞きたいことがある」


「何」


「採取した薬草をそのままギルドに卸すより、ポーションに加工してから売ったほうが高く売れるはずだ。買取価格の差がどれくらいあるか正確には分からないが、素材より完成品のほうが値段が上がるのは当然の話だろ」


リナが少し間を置いた。口の端が、かすかに動く。「……やっぱりそこに気づくのね」


「そうじゃなかったら、むしろ変だろ」


「……そうね」リナが少し呆れたように息を吐いた。「ポーションの作り方を学べる場所はあるか、って聞くんでしょ」


「ある」


「錬金術師ギルドに行けば、調合の基礎は教えてもらえる。調合書も読める。ただし——」


「ただし」


「ギルドへの加入が必要よ。登録料がかかる」


ケイは黙った。登録料。また費用がかかる。リナがこちらの顔を見て、小さく付け足した。


「加入しなくても書籍の閲覧だけなら一定の条件で可能な場合もある。ギルドによって規則が違うから、直接行って聞くしかない」


「場所は」


「アウラムの西側。薬屋の並んでる通りを抜けた先に看板が出てる」


ケイは最後の串焼きを口に入れた。焦げ目の苦みが、舌の端に広がる。


「明日、行く」


「ギルドのクエスト申請は」


「帰りに寄る」


リナが少し間を置いてから、静かに言った。「……相変わらず、段取りだけは早いわね」


「それだけが取り柄だと言っただろ」


リナが何も言わずに杯を持ち上げた。酒場の熱気が、また全開で戻ってきた。焼いた肉の脂の匂い、笑い声、木の床を踏む音。


ケイは空になった皿を眺めた。骨付きロックベアの煮込み、串焼き盛り合わせ、コウジュンマッシュのマハク炒め。文句を言いながら、全部食べた。


借金は増えた。しかし明日、錬金術師ギルドへ行く理由ができた。


損を出した日ほど、次の手を急ぐ。それが癖になっている。錬金術師ギルド——そこで何が待っているのか、まだ分からない。登録料を取られるのか、追い返されるのか、あるいは思いがけない突破口があるのか。


元相場師は、答えが出ない夜でも次の一手を手放さない。それだけは、変わらなかった。


---

【借金メモ・27話終了時点】

前話(26話)終了時:残債小銀貨3枚・大銅貨7枚・手元大銅貨数枚

27話収入:なし

27話支出:宿+食事10日分(小銀貨3枚)+今夜の飲食代ケイ負担分(大銅貨4枚)

27話支出:錬金術師ギルド登録料(小銀貨3枚・リナに借用)

残債充当:なし

ケイの手元:大銅貨数枚

残債:小銀貨9枚・大銅貨7枚

読んでいただきありがとうございます。


ケイが「ポーションを作る」という方向に動き始める話です。素材売りの限界に気づき、完成品の方が高く売れると計算する——元トレーダーらしい着眼点だと思っています。


27話まで読んでいただき、本当にありがとうございます。ここからがケイの第二章です。調合、借金、そしてこの世界の謎——引き続きよろしくお願いします。

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