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元トレーダー、金アレルギーなのに金本位制の異世界に翻弄される  作者: 夜明け一葉
第1章

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第24話『静かすぎる森と小銀貨四枚』

調査隊がアウラムの門を出たのは、スタンピードから五日が経った朝だった。


セルは隊の先頭を歩きながら、門の外の光景を一瞥した。街道の両脇に、スタンピードの爪痕が残っている。踏み荒らされた草地、折れた木の枝、乾いた血の跡。五日経っても、境界の森はまだ静かすぎた。生き物の気配が、まるごと抜け落ちているような沈黙だった。鳥の声がない。虫の音も薄い。生き物が息をひそめているような、重い静けさだった。


「隊長、出発から三十分で森の入口です」


後ろから声をかけてきたのはダリオだった。Cランクの斥候、二十代半ば。細身で動きが速い。スタンピードでも右翼で戦った顔だ。


「分かってる。喋るな」


セルは短く答えた。隊の編成はセルを含めて六人。Cランクが四人、Bランクはセル一人。バルドに「少数で深く入れ」と言われた通りの構成だ。人数が多ければ見落としが減る、とは限らない。森の中では足音と気配が増えるだけ邪魔になる。


前衛二人、セル、斥候二人、後衛一人。それで十分だ。


森の入口に差し掛かった瞬間、セルの足が自然に緩んだ。


おかしい。


木々の密度は変わらない。空気の温度も同じだ。しかしスタンピード前に何度も入ったこの森と、何かが違う。言葉にするなら——重さだ。空気が、森そのものが、何かを押し殺しているような重さだった。


「止まれ」


セルの声に全員が足を止めた。


「何かいますか」ダリオが低い声で聞いた。


「いない。……だから止まった」


ダリオが首を傾げる。セルは構わず周囲を見回した。魔物の気配がない。スタンピードで溢れ出した後だから個体数が減っているのは当然だ。しかし——完全にいない。下草を踏む小動物の音もなければ、梢を揺らす鳥もいない。森の中からあらゆる生き物が消えたように、ただ木だけが立っている。


「進む。間隔を詰めるな。足元を見ろ」


一時間ほど進んだとき、ダリオが手を上げた。


「隊長、これを見てください」


指差した先、街道から外れた茂みの奥に、大きな木が横倒しになっていた。根こそぎ倒れたのではない。幹の途中から、折れている。折れ口の断面が、鋭い。まるで刃物で斬ったような、異様なほど滑らかな切り口だった。木の繊維が、一本残らず同じ角度で断たれている。


「何がやった」後衛のグレンが呟いた。


「ウルフじゃない。フォレストウルフでもない」セルは断面に触れ、指先で感触を確かめた。「これだけの太さを一撃で断つなら、ワイルドオーク以上の膂力がいる。だがオークの爪痕じゃない。刃だ」


「刃……魔物が武器を持つんですか」


セルは答えなかった。スタンピードで確認された「既知の種に当てはまらない魔物」——バルドの言葉が頭をよぎる。これもその一つかもしれない。あるいは、全く別の何かかもしれない。


「記録しておけ。先へ進む」


さらに奥へ入ると、地面の様子が変わり始めた。草が生えていない。土が露出し、その表面が奇妙に固まっている。踏んでみると、通常の土より硬い。石畳のように均一ではないが、何かの力で圧縮されたような密度がある。


「魔力の痕跡です」斥候のもう一人、エリスが地面に膝をついて言った。「かなり濃い。土ごと固まってる」


「方向は」


「……奥です。北北東」


セルは顔を上げ、木々の間を透かして見た。この方向の奥に何があるかは地図で把握している。境界の森の深部、これまで調査隊が入ったことのない区域だ。


「行く」


返事を待たなかった。


木々の密度が増し、頭上の葉が空を覆い始めた頃、先頭のダリオが突然立ち止まった。


「……隊長」


声が、いつもと違った。低く、かすれている。


セルが前へ出た。


木々が途切れた先に、広場のような空間があった。直径にして二十メートルほど。草も木も生えていない、完全に剥き出しの地面。その中央に——


岩があった。


正確には、岩壁だ。森の中に唐突に現れた、高さ五メートルほどの灰色の岩壁。苔が表面を覆い、つる草が絡んでいる。長い年月を経た岩肌だ。だが、その中央にあるアーチだけは、時間の流れから切り離されたように輪郭が鮮明だった。明らかに人工的な構造物だった。


アーチ型の開口部。


幅二メートル、高さ三メートル。縁に石が組まれ、表面に文字のような紋様が刻まれている。摩耗して判読できないが、文字であることは分かる。開口部の奥は暗く、どこまで続いているのか見えない。


誰も動かなかった。


「……ダンジョンか」グレンが呟いた。


セルは双剣に手をかけたまま、その場から動かなかった。開口部から何かが出てくる気配はない。しかし空気の流れが、奥から手前へ向かっている。中に空間がある証拠だ。それも、相当広い。


「エリス、魔力反応は」


「……濃いです。ただ——攻撃的な反応じゃない。この岩壁全体から、均一に出ています。まるで、岩自体が魔力を持っているみたいに」


「構造物が魔力を帯びているということか」


「はい。自然物じゃないと思います。誰かが——あるいは何かが、作った」


セルは開口部に一歩近づいた。紋様を目で追う。幾何学的な線と、文字らしき記号が交互に刻まれている。この地域の言語ではない。少なくとも、今のアウラムで使われている文字ではない。


「記録しろ。紋様を全部写し取れ。私は入口の空気を確かめる」


「隊長、中に入るんですか」ダリオの声に緊張がある。


「入らない。入口だけだ」


開口部の縁に手をかけ、顔を半分だけ中へ向けた。暗い。しかし目が慣れるにつれ、奥に続く通路の輪郭が見えてきた。天井が高い。壁面も、岩壁と同じ加工された石だ。床は平らで、埃が積もっているが均一に敷かれた石畳だと分かる。


奥から、かすかに風が来た。地下の冷たさに混じって、肌の奥をざわつかせる魔力の気配があった。


「撤退する」


セルは開口部から離れ、隊員たちに向き直った。


「ここまでの情報を全部持ち帰る。この場所の座標、岩壁の構造、紋様、魔力反応——記録できているな」


「できています」エリスが答えた。


「では戻る。バルドに報告だ」


セルは最後にもう一度、アーチ型の開口部を見た。苔と蔦に覆われた古い石の門。どのくらい前から、ここにあったのか。スタンピードが起きる前から、この森の奥でずっと口を開けていたのか。


あるいは——スタンピードが、この場所から始まったのか。


答えは持ち帰った後で出せばいい。


セルは背を向けて歩き出した。


---


アウラムに調査隊が戻ったのは、夕暮れ前だった。


ケイはギルドの外の階段に腰を下ろして、ぼんやりと街の様子を眺めていた。復興の槌音がまだ続いている。昨日よりも商店の灯りが増えた気がする。少しずつ、街が戻ってきていた。


「ケイ」


リナの声だった。振り返ると、リナが腕を組んで立っている。その表情がいつもと少し違った。


「調査隊が戻った。バルドが呼んでる」


「俺もか」


「あなたも、よ」


執務室に入ると、バルドとセルがいた。セルはテーブルに広げた紙に何かを書き込んでいる途中だった。ケイが入るのを見て、手を止めた。


「座れ」バルドが言った。「報告を聞け」


セルが淡々と話した。森の異変、折れた木の断面、固まった地面、そして——ダンジョンの入口。


ケイは黙って聞いた。


「紋様の記録がある」セルがテーブルの上に紙を広げた。幾何学的な線と、見慣れない文字が写し取られている。「この文字に心当たりはあるか」


ケイは紙を見た。知らない。しかし——何かが引っかかった。文字の形ではない。並び方だ。等間隔で刻まれた記号の配列が、どこか——日本語の漢字に似ている。一つの記号に、複数の意味が重なっているような密度があった。


「……分からない。ただ」


「ただ?」バルドが眉を上げた。


「情報が詰まってる感じがする。飾りじゃなく、何かを記録したか、あるいは指示している」


バルドとセルが視線を交わした。


「解析で読めるか」


ケイは少し考えた。「試したことはない。対象は魔物か採取物しか使ったことがないから」


「総本部に問い合わせる際、この紋様も添付する」バルドが言った。「お前の解析の件と合わせて。……もう一つ、聞いておく。報酬の件だが」


ケイは黙った。


「ガッシュから聞いた。金貨をカルロの家族に回したそうだな」


「……ガッシュが話したか」


「責めてるんじゃない」バルドが短く言った。「ただ確認した。お前の手元に残ったのは」


「小銀貨、一枚と少し」


リナが小さく息を吐いた。呆れているのか、何も言えないのか、判断がつかない吐き方だった。


バルドが何も言わずに立ち上がり、棚から小さな革袋を取り出してテーブルに置いた。


「スタンピードの内壁での行動に対する別口の手当だ。ギルドとしての正式な支払いじゃない。俺個人の判断だ。受け取れ」バルドの声は低かったが、そこに迷いはなかった。


ケイは袋を手に取った。中身を確かめるように軽く傾けると、小銀貨三枚分の重さがあった。金属の光沢が見えないよう、袋の口を開けずに握った。


「……ありがとう」


バルドが鼻を鳴らした。「礼はいい。総本部からの返答が来たら、またここへ来い」


部屋を出ると、廊下にセルが立っていた。先に出ていたらしい。ケイを見て、短く言った。


「森の奥、解析で何が見えるか——いずれ試す機会が来るかもしれない」


それだけ言って、歩いていった。


リナがケイの横に並んだ。


「小銀貨一枚と少し、それにバルドの手当が三枚」リナが指を折りながら言った。「合わせて小銀貨四枚少し。……私への借金、いくらあると思ってるの」


「思い出したくない」


「正直ね」リナは横を向いたまま、小さく息を吐いた。呆れと、どこか安堵が混じった息だった。


二人で廊下を歩いた。窓の外、夕暮れの街に槌音が響いている。調査隊が持ち帰った情報は、明日にはバルドから総本部へ送られる。ダンジョンの入口は、今もあの森の奥で口を開けている。


何かが、動き始めていた。

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