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元トレーダー、金アレルギーなのに金本位制の異世界に翻弄される  作者: 夜明け一葉
第1章

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第23話『弓と金貨』

スタンピードから三日が経った。


街はまだ完全には動いていなかった。商店の半分は閉まったまま、道端には片付けきれない瓦礫が残っている。それでも人は動いていた。朝になれば炊き出しの煙が上がり、昼には鎚の音が響き、夕方には子供の声が戻ってくる。壊れたものを直す音だった。


大聖堂での合同弔いは、その朝に行われた。


礼拝堂の中は人で埋まっていた。守備隊の兵士たち、冒険者、街の住人。それぞれが思い思いの場所に立ち、老神父の祈りの言葉を聞いていた。祭壇の前には花が供えられ、蝋燭の列が揺れている。


ケイはリナと並んで入り口近くの柱の陰に立っていた。


前に出る気にはなれなかった。自分がここにいていいのか、今もよく分からない。カルロはケイの呼びかけに応じて大聖堂の防衛に立った。それが正しい判断だったかどうか——ガッシュはあの夜「カルロも分かってた」と言った。それは本当だと思う。それでも。


老神父の声が礼拝堂に低く響く。ケイには祈りの言葉の意味が半分も分からなかったが、その音の重さだけは分かった。リナは目を閉じて、静かに聞いていた。


祭壇の脇に、弓が立てかけてあった。


カルロの弓だ。あの夜から、ずっとあの場所にある。誰も動かさなかったのか、それとも動かせなかったのか。ケイには分からなかった。


祈りが終わった。


人が少しずつ動き始める中、ケイは弓から目が離せなかった。近づくべきか、それとも——


「……あの、すみません」


声をかけられた。


振り返ると、女がいた。地味な色の上着を着た、三十前後の女。その後ろに子供が二人、小さい方は女の袖を掴んでいる。上の子は男の子で、七つか八つといったところか。


「あの弓、夫のものだと聞いたんですが……受け取りに来てもいいか、神父様に教えていただいて」


女の目が、祭壇脇の弓に向いていた。


ケイはすぐに返事ができなかった。


(……カルロの、嫁)


「……どうぞ」声が出た。「誰も止めません」


女は小さく頭を下げ、子供たちの手を引きながら祭壇の方へ歩いていった。上の子が弓を見上げる。下の子はまだ何も分かっていないのか、きょろきょろと礼拝堂を見回している。


女が弓を両手で受け取った。長さがあるので少し持て余している。それを見た上の子が、黙って片方を支えた。


ケイはそれ以上見ていられなくて、視線を床に落とした。


逃げたかった。この場から、この視線から、この重さから。しかし逃げてはいけないとも思った。その二つが胸の中でぶつかり合ったまま、足だけが動いた。


女が子供たちを連れて戻ってくる前に、ケイは三歩進んで、その前に立った。リナが少し後ろでそれを見ていた。


「……少し、よいですか」


女が足を止めた。警戒ではなく、ただ静かに待っている目だった。


「スタンピードの夜、大聖堂で戦った者です。……ご主人に、呼びかけたのは俺でした」


女の目がわずかに揺れた。上の子がケイを見上げる。


「……謝罪になるか分かりませんが、申し訳なかった」


頭を下げた。言葉が続かなかった。何を言っても言い訳になる気がして、それ以上は何も出てこなかった。


しばらく沈黙があった。


「……あなたのせいじゃない、とは言えません」


女が静かに言った。責める声ではなかった。ただ、正直な言葉だった。


「でも」と女は続けた。「あの人は、自分で決めたと思います。……そういう人でしたから」


弓を抱えたまま、女は一度だけ目を伏せた。泣かなかった。


上の子がケイを見上げたまま、口を開いた。


「おじさん、お父さんと戦ったの」


ケイは返事ができなかった。頷くことしかできなかった。


上の子はそれを見て、また弓の片方を支えるように手を添えた。何も言わなかった。


「……行きます」と女が言った。「ルーシャといいます。こっちがルーク、この子がルナです」


短く、しかしはっきりと名乗った。ケイに向けた言葉というより、ここにいたことを刻みつけるような言い方だった。


「……ケイだ」


女——ルーシャが小さく頷いた。ルークがもう一度だけケイを見た。ルナはまだ何も分かっていないのか、母親の上着を握ったまま外を向いていた。


三人が礼拝堂を出ていく背中を、ケイはただ見送った。


リナがケイの横に並んだ。何も言わなかった。しばらくして、短く口を開いた。


「……よく名乗れたわね」


「名乗るべきだと思った」


「そうね」


それだけだった。二人して、蝋燭の列が揺れる祭壇をしばらく眺めた。


---


ギルドに報酬の配布に来いという連絡が入ったのは、弔いから戻った昼過ぎだった。


スタンピード防衛への参加報酬、および危険手当——バルドの名で通達が出ていた。ケイはリナ、ガッシュと連れ立ってギルドへ向かった。ガッシュの後ろにはミーナとテオがついてきた。


ギルドの大広間は久しぶりに活気があった。冒険者たちが列を作り、受付で名前を確認して報酬を受け取っていく。テオが首を伸ばして前の列を確認する。肩の包帯がまだ外れていない。ミーナがその横でテオの腕を軽く引いた。「落ち着きなさいよ」


五人で列に加わった。


「採取者も出るのか」ケイが言った。

「スタンピード中に動いた全員に出るらしい。バルドの判断だ」ガッシュが答えた。

「あなたも対象よ」リナが付け加えた。「内壁の上で何をしていたか、バルドから話は通っているみたいだから」

「俺たちも出るんですよね」テオが前のめりになって聞いた。「あれだけ戦ったし」

「出る」ガッシュが短く答えた。


列が進む。受付の台の上に、袋が積まれている。硬貨の音がする。銅貨、銀貨——そして金貨。


金貨だ。


ケイは列の前方にある袋を見た瞬間、胃の底が冷えた。


(……金貨)


離れた場所でもそれだと分かった。黄色い光沢。積み重なった丸い金属。あの夜、画面を埋め尽くしていたチャートの赤と、その色が一瞬重なった。冒険者たちが袋を受け取るたびに、金属の音が響く。


ケイの額に汗が滲んだ。呼吸が浅くなる。


列がまた一歩進んだ。


視界の中で金貨の光沢が広がってくる。黄色い。目に刺さるように映る。胃がひっくり返るような感覚が走り、喉が締まった。もう一歩進んだ。喉の奥に苦いものが込み上げてきた。


「……ケイ」ガッシュが横で言った。「顔色が悪いぞ」

「……少し、待ってくれ」


だめだった。


込み上げてくるものを堪えきれず、ケイはその場にしゃがみ込んだ。胃の中身が逆流する感覚。後ろの冒険者が驚いて道を開ける。ガッシュが無言で背中に手を当てた。


「ちょっと、何やってるの」


リナが素早くしゃがみ込んでケイの顔を覗き込んだ。ミーナも「大丈夫ですか」と声をかけながら駆け寄ってくる。


「……金貨を見ると、どうもだめらしい」

「金貨?」リナが眉をひそめた。「見るだけで?」

「そうらしい」


リナとガッシュが顔を見合わせた。テオが「金貨で?」と間の抜けた声を上げた。


「……それは難儀だな」ガッシュが言った。

「難儀どころじゃないわよ」リナが呆れたように言いながら、ケイの肩を支えた。「今まで何ともなかったの」

「今まではここまでひどくなかった」

「……今まで症状が出てたの」リナの声が少し低くなった。「なんで言わないのよ」

「言う機会がなかった」


しばらく、うずくまったままだった。


立ち上がろうとした時、手が滑った。横にあった台の上の何かに触れた。


硬い、平らなもの。金属の枠に嵌まった水晶——見覚えがある。ギルド登録の時に使った、鑑定の道具だった。おそらく報酬配布の身元確認に使っていたのだろう。


触れた瞬間、水晶が光った。


単なる淡い光ではなかった。受付の職員の手が止まる。隣の職員も振り返る。近くで報酬を受け取っていた冒険者が何事かと足を止めた。ガッシュが水晶を見て、眉をひそめた。リナの指先がわずかに強張った。


「……なんだ、これ」


受付の職員が水晶を覗き込み、手元の台帳と見比べた。「……おかしい。この方、登録時はかなり低い値だったはずなのに。今の値と全然違う」


「どのくらい違うんだ」テオが首を伸ばして聞いた。


「登録時の……三倍近く出てます」職員の声が上ずった。「こんなこと、見たことない」


隣の職員が「上司を呼べ」と小声で言う。広間がざわつき始めた。


バルドが大広間の奥から歩いてきた。騒ぎに気づいたのだろう。水晶を覗き込み、台帳と見比べて——動きが止まった。しばらく数字を見つめ、言葉を探すように息を吐いた。


「お前、これに触れたのか」

「……転んだ拍子に」


バルドが低い声で言った。「……魔力値は成人してから大きく変わらない。子供の頃ならともかく、お前の年で登録時からこれだけ上がるのは——普通じゃない」


その沈黙が、何よりも重かった。


ケイは水晶を見た。淡い光の中に、数字が浮かんでいる。その数字が何を意味するのか、ケイには正確には分からなかった。ただ、バルドの顔が険しいことは分かった。リナは水晶の数字をじっと見ていた。


バルドは受付の職員に何か耳打ちした。職員が頷いて奥へ走っていく。


「後で話を聞く。今日、ギルドに残れるか」

「……残れる」

「私も同席します」リナが即座に言った。「保護人として」


バルドがリナを見た。一瞬間を置いて、頷いた。「構わない」


それ以上は言わず、配布の指揮に戻っていった。


ガッシュがケイの隣に立ったまま、水晶をしばらく眺めていた。

「上がっているというのは、おかしいのか」

「バルドの顔を見れば分かる」


ガッシュが鼻を鳴らした。「……お前、普通じゃないな」

「そうらしい」


報酬の袋を受け取ったのはガッシュで、ケイの分も預かってくれた。ミーナとテオも自分の袋を受け取った。


テオが袋を開けて中身を確認した瞬間、固まった。「……大銀貨だ」

「見せなさいよ」ミーナが覗き込んで、息を呑んだ。「……大銀貨が入ってる。何枚も」

「スタンピード中に戦ったんだ」ガッシュが短く言った。「それくらいは出る」

テオが袋を両手で抱えたまま、しばらく黙っていた。「……俺、死ぬかと思った」

「思ったな」ガッシュが頷いた。

「ミーナも大銀貨もらえるの」ミーナが自分の袋を覗き込んだ。「戦ってないのに」

「サポートしてただろ」ガッシュが言った。「もらえ」

ミーナが袋をしばらく眺めてから、小さく笑った。「……生きててよかった」

テオが「それだけは同意する」と言った。


「ガッシュ」ケイが言った。「その袋、中に金貨が入っていたら——カルロの嫁に渡しておいてくれないか」


ガッシュが少し間を置いた。「……分かった」


「あなたね」リナが呆れた声で言った。「借金も返してよね」


「……優先順位がある」


「カルロの家族が先で私が後なの」


ケイは何も言わなかった。リナが小さく息を吐いた。「……まあ、いいわ。今日じゃなくても」


---


夕方、バルドに呼ばれた。


ギルドの奥の部屋——ギルドマスターの執務室に通された。リナも一緒だった。バルドが椅子に座っており、その横に見慣れない男がいた。細身で、目元に小さな水晶を嵌めた眼鏡をかけている。魔道具の類だろう。


「こいつは魔力鑑定士だ。総本部から連絡が来る前に、こっちで先に確認しておきたかった」


男がケイに向き直り、無言で水晶の小型版を差し出した。


「改めて、正確に測らせてください」


ケイは手を伸ばした。触れた瞬間、また光った。


男が数字を丁寧に記録し、バルドに見せた。バルドが眉間に皺を寄せたまま頷く。リナが隣でその数字を見て、わずかに息を呑んだ。


「値自体は高くはありません」男が言った。「ただ——成人後に魔力値が変動することは、通常ありえない。登録時からこれだけ上昇しているとなると、何か異常なことが起きたと考えるべきです。スタンピード中に何か——普通ではない状況はありましたか」


ケイは少し考えた。


「解析を、止められなかった夜があった。使いたくなくても、展開し続けた」


男とバルドが視線を交わした。


「それが引き金になった可能性がある」男が言った。「詳しくは総本部の専門家でないと判断できませんが」


バルドがケイを見た。「解析の件も合わせて、総本部に報告する。異存はないな」

「……ない」


バルドが立ち上がり、窓の外を見た。夕暮れの街が広がっている。復興の槌音がまだ響いていた。


「もう一つ」バルドが言った。「スタンピードで確認された魔物の中に、既知の種に当てはまらないものが複数いた。境界の森で何かが変わっている可能性がある。調査隊を出すことにした」


「……それは」

「お前には関係ない話だ。今は」


今は、という言葉が引っかかった。ケイは何も言わなかった。リナも黙って聞いていた。


バルドが振り返り、ケイを真っ直ぐ見た。


「総本部からの返答が来るまで、この街にいられるか」

「……いる理由ならある」


リナがケイを横目で見た。何も言わなかったが、小さく頷いた。


バルドが短く頷いた。


部屋を出ると、廊下の窓から夕暮れの空が見えた。スタンピードの夜から三日。街はまだ傷だらけだが、確かに動いている。


リナが隣を歩きながら、静かに言った。


「……面倒なことになったわね」

「そうだな」

「でも」リナが少し間を置いた。「逃げないでよ」

「逃げない」ケイは言った。「帰るところもない。帰り方も分からない」


リナが少し黙った。「……それ、逃げられないってことじゃない」

「そうとも言う」


リナは横を向いたまま、小さく息を吐いた。それ以上は何も言わなかった。



---

【借金メモ・23話終了時点】

前話(22話)終了時:残債小銀貨2枚・大銅貨5枚

23話収入:スタンピード防衛報酬(金貨含む袋)→金貨分はカルロの家族へ譲渡・手元小銀貨1枚少し

23話支出:なし

残債充当:なし(手元に残った分は充当保留)

ケイの手元:小銀貨1枚

残債:小銀貨2枚・大銅貨5枚

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