第20話『崩れゆく防衛線』
第三波が収まってから、東門の広場に漂う空気が変わった。
リナが内壁を越えて街中へ消えた後、バルトロは素早く残存戦力を確認した。前衛のCランクは百十八人から八十二人に減っていた。重傷で後退した者、魔力切れで倒れた者、そして戻らない者。外壁の上の遠距離組も、弓矢の備蓄が底をつき始め、魔法使いの半数以上が限界に近い。
「第四波に備えろ。右翼が薄い。Cランクを右に寄せろ」
バルトロの指示に、冒険者たちが黙って動く。誰も文句を言わない。言える余裕がないのだ。
バルドがバルトロの隣に立った。
「リナを行かせたのは正しい判断だ。しかし右翼が心配だな」
「分かっている。お前が右翼を兼ねろ。セルは左翼のまま。俺が中央を見る」
「了解だ」
その直後、外壁の上から声が上がった。
「第四波! ゴブリンガード、ゴブリンハンター……アーマービートルも混じってるぞ! 二百は超えてる!」
広場に動揺が走った。
「ゴブリンだと? この辺りにゴブリンはいないはずだぞ!」
「ビートルまで……どこから流れてきたんだ!」
「集中しろ!」バルトロが怒鳴った。「ガードは足元を狙え! 毒矢に気をつけろ! ビートルは横から叩いて転倒させろ!」
第三波でワイルドオークに動揺した冒険者たちが、また見慣れない魔物の組み合わせに足を竦ませた。しかし動いた。足が震えていても、それでも前を向いて剣を構えた。
ゴブリンガードが粗末な木の盾を並べて押し込んでくる。ウルフやオークのような単純な突進ではない。連携がある。外壁の弓が角度を変えて狙うが、盾の隙間を抜けない。じわじわと、確実に押し込んでくる。
「足元を狙え!」バルトロが叫ぶ。
先頭の中年冒険者が踏み込み、ガードの盾ごと体重をかけて押し倒した。
「穴が開いたぞ、突っ込め!」
盾の列に穴が開く。前衛が一斉に突っ込んだ。しかし——その瞬間を待っていたように、ゴブリンハンターが後方から一斉に毒矢を放った。
「毒矢——! 伏せろ!」
背中に矢が刺さる音。先頭の中年冒険者が崩れ落ち、二人目が膝をついた。三人目が自分の脇腹の矢を見て、呆然と立ち止まった。
「ヒーラー!」
「もうヒーラーの魔力が……!」
「誰か、こいつを後ろへ!」
外壁の風魔法使いが「エアブレード!」と唱え、飛来する毒矢を押し戻す。数本が自分たちのハンターに刺さって自滅した。しかし全ては捌ききれない。毒を受けた前衛が次々と後退し、三列の陣形が急速に薄くなっていく。一列目がほとんど機能しなくなった。
左翼ではセルが鋭く動いていた。飛んでくる毒矢を双剣で弾きながら、ゴブリンハンターへ一気に踏み込む。一体の首筋を斬り、返す刃でもう一体の腕を落とす。しかし仕留めるそばから、新たなハンターが弓を引き絞っていた。
「左翼も押されてるぞ!」
「二列目、前へ! 一列目を支えろ!」
「もう二列目も半分しか……!」
「後退するな、踏みとどまれ!」バルドが怒鳴る。
しかしその声より早く、アーマービートルが突進してきた。薄くなった陣形の隙間を突いて三体が一気に突進してくる。角を構えた甲虫の体当たり——正面からまともに受ければ人間など吹き飛ぶ。
「ビートルだ! 横に避けろ!」
「横って——どっちだ!」
二列目の若い冒険者が咄嗟に横へ飛び、ビートルの脇腹へ剣を叩き込んだ。刃が甲殻で弾かれる。
「くそ、硬い!」
諦めず体重をかけて押し倒した。転倒したビートルの白い腹に、周囲の前衛が一斉に剣を突き立てる。
「腹を狙え! 腹が柔らかいぞ!」
バルドが二体目を横から蹴り飛ばした。しかし三体目が右翼を突き破った。一人が吹き飛ばされ、石畳に叩きつけられる。鎧が軋む音。もう一人が盾を構えたが、衝撃でそのまま後方へ吹き飛んだ。
右翼が、崩れた。
「右翼、崩れるぞ!」セルが叫ぶ。
「穴が開いた! 誰か塞げ!」
「無理だ、もう足が……!」
穴から、ゴブリンガードが三体、広場の奥へ突き進もうとした。毒矢で足をやられた冒険者が一人、それでも這いながらガードの足首に剣を突き立てた。一体が転倒する。
「まだ戦えるぞ!」
掠れた声が上がる。しかし残る二体は止まらない。
「逃がすな!」
バルトロが指揮台を降りて右翼へ走った。指揮台を離れた瞬間、広場全体の統制が緩んだ。「どうすればいい!」という怒鳴り声が飛ぶ。「左翼、下がるな!」とバルドが叫びながら自分も動き回るしかない。各所で陣形が綻び始めた。
バルトロは盾を振るい、ガードを一体、二体と叩き伏せ、三体目を押し倒した。しかしその間、誰も全体を見ていない。
「押し返せ! 抜かせるな!」
セルが左翼から駆け込み、ゴブリンハンターの集団を双剣で斬り伏せた。バルドが中央を固め、残った前衛が食らいつく。這いながら戦っていた冒険者が、最後の力で転倒したガードの首筋に剣を突き立てた。どうにか、辛うじて、陣形が保たれた。
ようやく第四波が収まった時、広場を満たしていたのは静寂ではなく、呻き声と荒い息遣いだった。
毒を受けた者が五人、ビートルに吹き飛ばされて動かない者が二人。這いながら戦った者は仲間に肩を借りて後退している。ヒーラーが走り回るが、もう魔力がほとんど残っていない。外壁の上では弓使いが矢筒を空にして座り込み、魔法使いが石壁に額を預けて目を閉じていた。
バルトロは広場全体を見渡した。一言も発しなかった。その沈黙が、状況の深刻さを何より雄弁に語っていた。
「……持ちこたえた。補充を急げ」
絞り出すような声だった。その声に、誰もが少しだけ息をついた。
第五波の報告は、思いのほか早く来た。
「シルクスパイダー……ブレードアントも! 百五十は超えてるぞ!」
今度こそ、広場に明確な動揺が広がった。
「スパイダーにアントだと? そんな魔物、この辺で見たことも聞いたこともないぞ!」
「一体どこから……どれだけの魔物が合流してるんだ!」
「落ち着け!」バルトロが怒鳴った。しかし、その声にわずかな疲弊が滲んでいた。「スパイダーは火が弱点! 糸に触れるな! アントは首の関節を狙え!」
その時、内壁の外から、ウィンドステップで一気に跳躍してきたリナが内壁の上に着地し、そのまま広場へ飛び降りた。着地と同時に剣を抜き、前衛の右翼へ滑り込む。
「遅くなったわ。状況は?」
「第四波を凌いだ。右翼が薄い」バルトロが短く答えた。
「分かった。右翼に入るわ」
リナの合流で、広場の空気がわずかに変わった。鉛のように重かった冒険者たちの背筋が、少しだけ伸びる。Cランクが一人戻っただけではない。あのリナが戻ってきた——それだけの意味を持っていた。
第五波が来た。シルクスパイダーが外壁を這い登り、まず外壁の上の遠距離組に襲いかかった。
「スパイダーが上に来たぞ!」
「糸を払え! 近づくな!」
「魔法使いが絡め取られた——!」
外壁の上が一気に混乱する。弓使いが弓を捨てて剣を抜き、魔法使いが詠唱を中断してスパイダーを払いのけようとする。遠距離からの援護が途絶えた瞬間、地上の前衛へ向けて残りのスパイダーが一斉に糸を吐き始めた。
「糸だ、踏むな!」
「動けない——!」
「俺も足が……!」
叫び声が飛ぶ中、動きを止めた冒険者が次々と出た。糸に足を取られた者が引き倒され、助けに入った隣も絡まれていく。陣形の一角が固まっていく。スパイダーが動けなくなった冒険者へ向かって一気に距離を詰めてきた。
「来るぞ——!」
悲鳴が上がった。糸で固まった冒険者が咄嗟に剣を突き出すが、スパイダーの脚が剣を弾き飛ばす。駆け寄ろうとした仲間も糸に阻まれて動けない。
リナが右翼から飛び込んだ。ウィンドステップで糸を跳び越え、スパイダーの横腹へ一閃を叩き込む。甲殻に弾かれるが、怯んだ隙に冒険者の足元の糸を剣で斬り払った。
「立って! 動ける?」
「……動ける! ありがとう!」
「下がって!」
「糸は斬れるわ! 剣で払いながら進んで!」
その声に、固まっていた前衛が動き出す。足元の糸を薙ぎ払いながら前進し、スパイダーへ肉薄していく。
外壁の上ではまだ混乱が続いていた。魔法使いの一人がスパイダーの糸で腕を絡め取られ、外壁の縁まで引きずられていく。
「誰か——!」
隣の弓使いが咄嗟に腰にしがみつき、他の冒険者が駆け寄り、三人がかりで引き戻した。
「離すな! 引っ張れ!」
スパイダーが外壁の外へ落ちていく。どっと息を吐く声が上がった。
地上ではブレードアントが大顎を振り回しながら突っ込んでくる。
「正面から受けるな、剣が欠ける!」バルドが怒鳴る。
「首の関節だ、横から回れ!」
「こっちへ引きつけろ!」
大顎の一撃をまともに受けた冒険者が鎧ごと吹き飛ばされ、石畳に叩きつけられた。
「くそ、どこを狙えばいい!」
「脚の付け根だ! 甲殻が薄い!」
試行錯誤しながら、少しずつ仕留めていく。
それでもスパイダーとアントの数は多く、広場のあちこちで小競り合いが続いていた。糸に絡まった者、大顎で鎧を砕かれた者、膝をついた者。バルドが中央で巨剣を振り回し、セルが素早く動き回り孤立した仲間を助け出す。それでも数が減らない。
「まだ来るのか……!」誰かが呻いた。
リナが中央へ飛び込み、大顎を振り上げたアントの首の関節をエアブレードで一閃した。甲殻が弾け、アントが崩れ落ちる。
「首の継ぎ目を狙えばいけるわ! 諦めないで!」
その声に前衛が応えた。限界を超えた体で、それでも動く。糸を斬り払い、大顎を躱し、一体ずつ仕留めていく。一体倒すたびに「よし!」という短い声が上がり、隣の者へ伝わっていく。
外壁の上でスパイダーを追い払った魔法使いが一人、残り少ない魔力を振り絞って立ち上がった。震える手で天を指し、叫ぶ。
「大地に眠る灼熱よ、今こそ目覚め地を割れ——インフェル!」
火柱が群れの中心を直撃し、炎の余波で一気に散らした。その魔法使いはそのまま外壁の上にへたり込み、もう立ち上がれなかった。残った個体が散り散りになったところへ前衛が畳み掛ける。
「逃がすな!」
「こっちも片付けた!」
「右翼、最後の一体だ——仕留めろ!」
怒鳴り声と掛け声が広場に飛び交い、そして——静かになった。
しばらくの間、誰も動かなかった。
石畳に座り込む者、壁にもたれかかる者、その場に膝をつく者。バルドが大剣を石畳に突き立て、その柄に額を預けた。セルが双剣を鞘に収め、目を閉じた。バルトロだけが立ったまま、東の空を見上げていた。
夜が、白み始めていた。
煤けた空の端が橙色に染まっていく。夜通し響いていた咆哮が、ようやく遠のいていた。外壁の上では弓使いが矢筒を下ろして座り込み、魔法使いが石壁に寄りかかって目を閉じている。血と油と獣の臭いが広場に立ち込める中、戦い続けた冒険者たちが思い思いの場所に倒れ込んでいた。
「……終わったか」リナが呟いた。
「……波が止まっている。このまま夜明けを迎えれば、スタンピードは収まる」バルトロが静かに答えた。
誰かが笑った。乾いた、しかし確かな笑いだった。それが伝染するように、広場のあちこちで小さな笑い声が上がった。隣の者の肩を叩く者、その場に倒れ込む者、空を見上げて目を閉じる者。生き延びた者たちの、夜明けを迎えた安堵だった。
リナは剣を鞘に収め、石畳に腰を下ろした。魔力は底をついた。右手の感覚が薄い。鎧の隙間から滲む血の臭いがする。それでも、空が白くなっていく。
(……終わった)
そう思った時、内壁の上から声が降ってきた。
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避難所の石造りの倉庫の中、ケイは壁に背を預けたまま、右目を細めていた。
眠れなかった。ガッシュの寝息が聞こえる。テオが壁際で膝を抱えている。ミーナが子供たちの傍で目を閉じている。老神父が静かに祈りを唱えている。倉庫の中の数千人が、疲弊の中でようやく静かになっていた。
(……東門の方が静かになった)
外からの咆哮が、明らかに薄くなっていた。波が来るたびに響いていた轟音と怒号が、今は遠のいている。スタンピードが収まりつつあるのか。それとも——何かが引っかかった。この静けさが、妙に落ち着かない。
相場師として叩き込まれた感覚が、微かに警鐘を鳴らしていた。相場が急に静かになる時、それは嵐の前の凪であることが多い。
「……解析」
右目に魔力を灯す。こめかみに特有の熱。ポーションは飲んでいない。残り少ない魔力で、薄く展開する。
【対象:周囲環境・魔力反応】
【東門方向:戦闘反応、急激に低下】
【異常検知:東方向、外壁外・約五百メートル地点】
【魔力反応:複数、高密度——通常個体を大幅に上回る】
【警告:当該反応、急速に接近中】
ケイは目を見開いた。
(……まだ、来る)
しかも、これまでとは種類が違う。魔力反応の密度が、ウルフともフォレストウルフとも、ワイルドオークとも違う。複数の高密度な反応が、東から真っ直ぐこちらへ向かってきている。速い。これまでの群れとは比べ物にならないほど速い。
東門で安堵している全員は、まだ知らない。
ケイは壁に背を預けたまま、しばらく動けなかった。
(俺が行って、何ができる)
Gランクだ。採取者だ。剣など碌に使えない。魔力はほぼ底をついている。解析を使えばこめかみが割れるように痛む。前線に出たところで足手まといになるだけかもしれない。
視線が自然と、眠っている人々に向いた。ガッシュ。テオ。ミーナ。老神父。子供たち。老人たち。この数千人を地下から連れ出して、ここまで辿り着いた人たちだ。
しかし——もし第六波が来て、東門が崩れたら。この街にいる全員が終わる。リナたちが知らないまま被害を受けたら。解析の情報を伝えるだけでも、意味があるかもしれない。
(……相場師の論理で言えば、情報を持っている人間が黙っているのは損失だ)
言い訳かもしれない。それでも、動かない理由にはならなかった。
ケイはガッシュを一瞥した。脇腹に布を巻かれたまま、静かに眠っている。起こすべきか——いや、あの傷で起こしても戦えない。ミーナが子供の傍で目を閉じている。老神父が静かに祈りを続けている。
(……頼んだぞ)
声には出さなかった。出せなかった。
ケイは立ち上がり、東門へ向かって走り出した。




