第18話 Side:リナ『それぞれの戦場』
ギルドを飛び出したリナの耳に、東からの咆哮が直接叩きつけてきた。
建物の中では遠く聞こえていた音が、外に出た途端に全く違う圧力を持って迫ってくる。空気そのものが震えている。これは群れだ。しかも、これまでのスタンピードとは規模が違う。
路地を抜けるたびに、街の様子が変わっていくのが分かった。ギルドの周辺はまだ秩序があった。しかし東門に近づくにつれ、その秩序が崩れていく。破壊された看板、転がった荷車、誰かが脱ぎ捨てた靴。路地の壁に背を預けて座り込んでいる巡回のDランク冒険者が一人、脇腹を押さえて顔色が悪い。
「動けるか」
「……リナさん。脇腹をやられました。でも、致命傷じゃない。……東門が、やばいです。早く行ってください」
リナは一瞬だけ立ち止まり、男の傷を確認した。出血は緩やかだ。今すぐ動かなければ死ぬという状態ではない。
「ここを動くな。スタンピードが収まったら誰かが来る」
男が小さく頷くのを確認して、リナは再び走り出した。
東門の広場に出た瞬間、リナは足を止めた。
広場は、既に戦場の様相を呈していた。しかしまだ、戦闘は始まっていない。城壁の上には弓使いと魔法使いが隙間なく並び、眼下の東門へ矢と魔力を向けて構えている。広場の地上では、Cランクの前衛冒険者たちが三列の横隊を形成し、門の前に陣取っていた。その後方に予備の治癒班が控え、さらに後方には物資搬送のEランクたちが矢筒と薬瓶を運んでいる。
指揮台の上に守備隊長バルトロが立ち、全体を見渡していた。その隣に二人のBランクが並んでいる。大柄な男——バルド。白髪交じりの短髪に、傷一つない板金鎧。細身の女性——セル。双剣を腰に収め、腕を組んで城壁の上を見上げていた。
リナはその布陣を見て、プロの仕事だと直感した。三列陣形は理に適っている。一列目は盾と剣で突進を受け流す壁だ。二列目はその壁を後ろから支えながら、突破してきた個体を即座に仕留める。三列目は予備であり、崩れた部分への補充と疲弊した前衛の交代要員を兼ねている。城壁の上の遠距離組が群れの密度を散らし、地上の三列が確実に仕留める。バルドは中央で全体の流れを見ながら崩れかけた箇所へ即座に飛び込む役割だ。Bランクの体力と剣技があってこそできる仕事だ。セルは左翼で細かく動き、敵の侵入を未然に塞ぐ。
「遅いぞ、リナ」バルトロが振り返って言った。
「避難所への誘導で足止めされた。配置は」
「終わっている。城壁の上に魔法使いと弓使い、合わせて二百四十人。地上前衛はCランク百十八人を三列に分けた。一列目が受け、二列目が支え、三列目が仕留める。ヒーラーは後方に六人。バルドが中央の指揮を執る。セルが左翼、お前は右翼だ」
「了解です」
バルドがリナに目を向けた。「お前の魔力は温存しろ。切り札は最後に取っておく」
「分かった」
リナは右翼の定位置に就きながら、改めて広場を見渡した。頼もしい布陣だ。しかしここにいる全員が既に消耗している。スタンピードの報が入ってから、誰もが休む間もなく動き続けている。波が重なるほど消耗が積み重なり、魔物が疲れを知らない以上、時間が経つほど人間側が不利になっていく。長くは持たない——それは直感だった。
その直後、城壁の上から声が上がった。
「来るぞ! 東から第一波! ウルフ……二百以上!」
広場に緊張が走った。二百以上。数だけで言えば、これまでのスタンピードとは桁が違う。
「落ち着け!」バルトロが怒鳴った。「城壁の上、魔法使いはファイアボールで密集個体を散らせ! 弓は前に出た個体を優先! 前衛は城壁際に張りつくな、中央を固めろ!」
轟音と共に、東門が揺れた。城壁の上から炎の球が連続して降り注ぎ、迫りくるウルフの群れの密度を散らす。弓矢が雨のように放たれ、前に出た個体を次々と仕留めていく。しかし数が多すぎる。城壁をよじ登ってくる個体、隙間から侵入しようとする個体が後を絶たない。
右翼の一角で、三体のウルフが同時に突入してきた。リナは間髪入れずにエアブレードを連続で放ち、二体の喉を切り裂く。残る一体がリナの腕に飛びかかろうとした瞬間、セルの双剣が横から割り込んで首を落とした。
「右翼を厚くしろ! 壁際から来るぞ!」バルドが叫ぶ。
前衛が横にずれ、陣形を調整する。城壁の上から魔法使いが「アースウォール!」と唱え、地面から石の壁が生えて壁際への侵入路を塞いだ。
第一波は三十分近くかかった。前衛に重傷者が四人、軽傷者が十数人。ヒーラーが走り回り、魔力を消耗させていく。弓矢の補充が追いつかず、城壁の上の弓使いの半数近くが矢筒を空にした。
「補充を急げ! 休むな! 次が来るぞ!」
バルトロの声に、疲弊した冒険者たちが動き出す。それでも、陣形は保てている。
第二波の報告は、第一波が終わって十分も経たない頃に来た。
「ウルフとフォレストウルフ混成! こちらも二百以上! フォレストウルフ確認、三十体以上!」
フォレストウルフはウルフの倍近い体格を持つ。速度も力も段違いだ。城壁の上の魔法使いが攻撃魔法を集中させるが、ウルフの群れに紛れて動きが読みにくい。
「フォレストウルフを優先しろ! ウルフは前衛が対処する!」バルドが叫ぶ。
前衛の三列が機能し始めた。一列目がウルフの突進を受け流し、二列目が支え、三列目が仕留める。フォレストウルフには城壁の上から中級魔法が叩き込まれた。
「大地に眠る灼熱よ、今こそ目覚め地を割れ——インフェル!」
地面から火柱が噴き上がり、フォレストウルフの一群を直撃した。二体が吹き飛び、周囲の個体が炎の余波で散り散りになる。前衛が一気に畳み掛けた。
リナも右翼で剣を振り続けた。エアブレードを間に挟みながら、体力の消耗を最小限に抑える。しかし第一波から続けて戦い続けている体は、じわじわと悲鳴を上げ始めていた。
第二波がようやく収まった時、城壁の上の魔法使いの一人が力尽きて倒れた。ヒーラーが駆け寄るが、魔力切れだ。回復には時間がかかる。前衛の冒険者が新たに三人重傷を負い、後退した。弓矢の備蓄が底をつき始めている。
そして第三波が来た。
「……ワイルドオーク! ウルフ、フォレストウルフ、カブウルフ全部混じってるぞ! 数は——百以上! オークだけでも十体以上確認!」
城壁の上から叫び声が上がった。次の瞬間、広場に動揺が走った。
「オークだと? この辺りにオークはいないはずだぞ!」
「スタンピードで流れてきたのか……? どこから——」
「うるさい、集中しろ!」バルトロが怒鳴り、動揺を叩き潰した。「見たことのない魔物でも弱点は変わらない! オークは大振りだ、懐に入れば当たらない! カブウルフは方向転換ができない、横に避けろ! フォレストウルフは魔法で足を止めろ、前衛は単独で相手にするな!」
しかし動揺は前衛の足に出た。見慣れない大型の魔物が城壁の向こうから姿を現した瞬間、一列目の数人が思わず半歩後退した。その隙にカブウルフが突進してくる。
「一列目、後退するな! 踏みとどまれ!」バルドが怒鳴りながら中央へ飛び込んだ。
城壁の上の魔法使いが詠唱を始める。
「大地に眠る灼熱よ、今こそ目覚め地を割れ——インフェル!」
地面から火柱が噴き上がり、突進してくるカブウルフの群れを直撃した。数頭が吹き飛び、炎に混乱したカブウルフが仲間のオークに激突する。しかしワイルドオークは棍棒を振り回しながら怯まない。その大振りの一撃が前衛の一人を吹き飛ばした。
「右翼、崩れるぞ!」セルが叫ぶ。
リナが右翼へ飛び込んだ。エアブレードを連続で放ち、突進してくるカブウルフ二頭の足元を薙ぐ。転倒した隙に前衛が仕留める。しかしオークが三体、右翼の隙間から城壁沿いに回り込もうとしていた。城壁の上の弓矢が集中するが、オークの厚い皮膚に矢が弾かれる。
そして右翼の一角が、ついに突き破られた。
オーク二体とカブウルフ数頭が街中へ流れ込んでいく。
バルトロが振り返った。その表情に、リナは初めて迷いのようなものを見た。指揮官として戦力を分散させることへの躊躇い——Cランクが一人でも右翼を離れれば、ここが薄くなる。バルトロはそれを誰より分かっているはずだ。
「リナ」バルトロが低く言った。「……本来、今ここで前線を離れるべきではない。しかし」
一瞬の沈黙。
「大聖堂の地下に、大勢の民がいる。流れ込んだ魔物があそこへ向かえば——戦える者がほとんどいないあの場所は、ひとたまりもない。ウィンドステップで城壁を越えて街中へ入れ。流れ込んだ魔物を処理し、あの避難所を守ってやれ」
リナの胸に、何かがざわめいた。
大聖堂の地下。今頃ケイたちがいる場所だ。そしてあのオークとウルフたちが向かっているのも、おそらくそこだ。大勢の人間が密集している場所へ、魔物は本能的に引き寄せられる。あの地下に戦える者はほとんどいない。間に合わなければ——
それは命令への服従ではなかった。
「了解です」
リナは即座に魔力を脚部に集中させた。
「ウィンドステップ!」
一瞬で城壁の上まで跳躍し、そのまま街中へ飛び降りた。着地と同時に、路地の奥へ消えていくワイルドオークの巨体が見えた。その周囲でカブウルフが散り散りに走り回っている。
リナは剣を構え直した。借金の回収は後でいい。あの男たちが生きていなければ、話にならない。
夜の街へ、駆け込んでいった。




