第17話『眼の先にあるもの』
「……戻るわ」
避難所の倉庫に落ち着いてから一時間も経たない頃、リナが立ち上がった。
「待て、今すぐ行くのか。魔力も体力も底に近いだろ」
「まだスタンピードは終わっていない。東門のBランク二人だけじゃ、いつ前線が崩れるか分からない。Cランクが一人でも多く戻れば、それだけ生存率が上がる。……当たり前でしょ。あたしはCランク(探索者)よ」
リナは外套の返り血を手の甲で無造作に拭い、剣のグリップを握り直した。その動作に迷いは微塵もない。
「……リナ」
「何」
「……生きて戻れ」
リナは一瞬だけ足を止め、振り返らずに答えた。
「その借金、まだ全部返してもらってないから。死ぬわけないでしょ」
シルバーの髪が翻り、彼女は夜の路地へ消えていった。
ケイは扉が閉まる音を聞きながら、石壁にゆっくりと背を預けた。
広間の隅では、ガッシュが脇腹に布を巻かれながら壁に凭れている。テオは肩の手当てを終え、意識はあるが顔色が悪い。ミーナが二人の傍に寄り添い、膝を抱えて目を閉じていた。広間の奥では老神父が避難民の間を静かに歩き回り、傷の具合を確かめ、小さく祈りの言葉を唱えている。子供の泣き声。誰かの寝息。石壁に反響する、低いざわめき。
倉庫の壁際に押し込められた人々の顔を、ケイはぼんやりと眺めた。老人、子供、女性、男。誰もが疲弊しきった顔をしている。それでも、ここにいる全員が生きている。今夜、この街で死んでいった人々のことを思えば、それがどれほど奇跡的なことか。
避難所の空気は重く、しかし、ぎりぎりのところで「生」を繋いでいた。
「……眠れないのか」
ガッシュの低い声だった。目を閉じているかと思ったが、薄く目を開けてこちらを見ている。
「……ああ」
「俺もだ」
それきり、二人は黙った。言葉にする必要がなかった。カルロのことも、扉の外の四人のことも、今夜起きたすべてのことも、言葉にした瞬間に何かが決定的に変わってしまう気がした。
しばらくして、ミーナがそっと目を開けた。
「……ケイさん。怪我、してない?」
「……してない。かすり傷程度だ」
「そう。……テオも、ちゃんと息してる。大丈夫」
ミーナはそれだけ言って、また目を閉じた。自分を安心させるために言ったのか、ケイに言ったのか、あるいはテオに聞かせたのか。おそらく、その全部だろう。
「……お前、あの場で何人の命を救ったか、分かってるか」
ガッシュがまた口を開いた。目は天井に向けたまま、静かな声だった。
「……数えていない」
「あの地下に逃げ込んだのは、数えきれないほどの命だ。お前が指揮を執らなければ、その全員が死んでいた。……カルロも、それを分かった上で戦っていた。俺たちも、全員そうだ」
ケイは何も言えなかった。
「だからといって、楽になれとは言わない」とガッシュは続けた。「扉の外にいた奴らのことを、お前が背負い続けるのは勝手だ。……だが、それはお前が生きている間だけでいい。死んだら終わりだぞ」
石壁に、松明の炎が揺れた。ガッシュはそれきり目を閉じ、もう喋らなかった。
ケイは目を閉じようとして、やめた。眠れる気がしなかった。
瞼の裏に、あの広間に残してきたカルロの弓が浮かぶ。壁に立てかけられたまま、持ち主を失った孤独な武器。次にあの大聖堂へ戻った時、その弓はまだそこにあるだろうか。あるいは、誰かが拾っていくだろうか。
カルロの嫁と子供二人は、今どこの避難所にいるだろう。無事に逃げ込めているだろうか。ケイにはそれを確かめる術がない。確かめたとして、何ができるわけでもない。
(……俺が、扉を閉めろと言った)
その判断は、相場師の論理で言えば「正しい損切り」だった。数人の犠牲で数千人を救う。数字の上では、これ以上ない正解だ。だが、その「数字」の一つ一つに、猟師としての人生があり、守るべき家族がいた。カルロには嫁と子供が二人いた。扉の外の四人には、それぞれの名前があり、それぞれの明日があった。その重みが、ケイの胸の奥に鉛のように沈んでいく。
(……正しい判断だったとして、それで何が救われる)
答えは出ない。出るはずもない。しかし考えずにはいられなかった。相場師として生きてきた十年間、損切りの痛みには慣れてきたつもりだった。しかし、数字ではなく人間を切り捨てる痛みは、全く別物だった。ガッシュの言葉が頭の中で繰り返される。「それはお前が生きている間だけでいい。死んだら終わりだぞ」。背負い続けることが、せめてケイにできる唯一のことなのかもしれない。
ケイは静かに、右目へ意識を向けた。
眠れないなら、考えよう。今夜、あの瞬間に起きたことを。
「……解析」
魔力が薄く灯る。こめかみに特有の熱。今は対象がいないが、自分の右目の状態を確かめるように展開した。
【魔力残量:極めて低下】
【解析精度:通常より向上(ブースト状態)】
(……精度が上がっている?)
ケイは眉をひそめた。ポーションを二本飲んだ後だ、魔力残量が低いのは当然だ。しかし、精度が向上している理由は何か。
今日の戦闘を振り返る。ウルフ、フォレストウルフを解析した時は、これまで通りの情報……個体数や位置、魔力反応しか出なかった。しかし、ワイルドオークと対峙し、脳が焼き切れるほどの負荷をかけた瞬間、これまで見たことのない項目が出現した。
【死角:足元・半径一メートル】
なぜあの時だけ、その情報が顕在化したのか。
ケイは頭の中で仮説を並べ始めた。相場師の習慣だ。答えが出ない時は、まず仮説を立てる。
(……体格の問題か? オークはウルフより遥かに大きい。死角も広い。だから情報として出やすかった?)
それは一つの仮説だ。しかし腑に落ちない。体格だけの問題なら、フォレストウルフの時にも何らかの死角情報が出てもよかった。フォレストウルフも決して小さくはない。それでも出なかった。
(……知性か? オークはウルフより知性が高い。行動パターンが複雑で、解析が「死角」という概念を認識できた?)
これも一つの仮説だ。相場でも、単純な価格変動より複雑な需給構造の方が「歪み」を読み取りやすいことがある。複雑な対象ほど、解析が深く食い込める可能性はある。しかしこれも確信が持てない。
(……情報の『飽和』か?)
相場と同じだ。市場が極限のパニックに陥り、あらゆる情報が錯綜した瞬間にだけ、本質的な「歪み」が見えることがある。限界を超えて解析を使い続け、強引に魔力を継ぎ足したことで、スキルの処理能力が一時的に次段階へ押し上げられたのではないか。
しかしそれも、確かめる術がない。
仮説は三つ。体格、知性、飽和。どれも可能性としてはあり得る。しかしどれも決定打にはならない。もしかしたら、三つ全てが複合した結果かもしれない。あるいは、ケイがまだ気づいていない全く別の要因があるのかもしれない。
ケイは息をゆっくりと吐いた。相場師として叩き込まれた教えの一つに、「答えが出ない時は、データが足りないだけだ」というものがある。焦って結論を出すな。積み重ねろ。今はまだ、その段階だ。
この眼を手に入れてから、ケイは何度も解析を使ってきた。魔石の仕分け、ツキミソウの採取、スタンピードの防衛。その全てで、少しずつ何かが変わっていた気がする。最初は個体数と位置しか分からなかった。それが次第に魔力反応の強弱まで読めるようになり、今夜はついに「死角」という新しい項目が出た。これは偶然ではないはずだ。
(この眼には、まだ見えていない部分がある)
それだけは確かだった。魔物を倒すたびに、何かが積み重なっている。その「何か」の正体を、ケイはまだ掴めていない。しかし今夜、確かに何かが変わった。それは事実だ。次に大型の魔物と対峙した時、あるいは限界を超えて解析を使い続けた時、また新しい何かが見えるかもしれない。
(……借金を返すより先に、この眼の仕組みを理解しなければならない)
5億の借金に絶望し、気づいたらこの世界に来ていた。そして今、別の意味で追われている。命の危機に、魔物に、死者の未練に、そして自分自身の能力の謎に。
ガッシュが低く唸りながら寝返りを打った。テオの寝息が聞こえる。ミーナがそっと目を開け、ケイと目が合い、また閉じた。東の方角から、かすかに咆哮が届く。しかしその音は、先ほどより確かに遠くなっていた。
(……リナ、死ぬなよ)
ケイは右目を細め、もう一度だけ自分自身を対象に解析を展開した。
【対象:佐藤ケイ】
【魔力残量:低下中】
【解析精度:一時的上昇】
【未解放項目:――】
(……未解放項目、か)
その文字を、ケイはしばらく見つめていた。答えはそこにある。しかしまだ、開く鍵が足りない。
松明の炎が揺れ、影が伸びた。
ケイはゆっくりと目を閉じた。
眠れるかどうかは分からない。しかし今夜、ケイはこの世界の残酷なルールの一端を、確かにその右目に刻み込んだ。
---
【借金メモ・17話終了時点】
前話(16話)終了時:残債小銀貨2枚・大銅貨5枚
17話収入:なし
17話支出:なし(避難所待機)
残債充当:なし
ケイの手元:0枚
残債:小銀貨2枚・大銅貨5枚




