第16話『それでも、前へ』
……神父、通路を開けてくれ」
ケイの声は、自分でも驚くほど平坦だった。
老神父は無言で頷き、礼拝堂の奥へと歩いていった。重い石扉が軋みながら動き、黒い口が開く。松明の光も届かない、細く暗い通路だった。
扉が開いたが、避難民たちは暗闇への恐怖からか、互いの顔を見合わせたまますぐには動けずにいた。
その沈黙の中、ガッシュが壁に背を預けたまま、ケイの傍へ歩み寄った。脇腹を強く押さえ、顔色は悪いが、その目ははっきりとケイを射抜いていた。
「……旅立った奴の名前、知ってるか」
ケイは首を振った。「……知らない。名前も、顔も、ちゃんと見ていなかった」
「弓を持ってた男だ。……カルロといった。元は西の村の猟師で、嫁と子供が二人いる。……いた」
ガッシュの声が、最後だけわずかに揺れた。
「扉の外にいた連中も、四人いた。元兵士らしい男と、旅芸人だと言っていた男と、老爺が二人。……名前までは分からん。それから、フォレストウルフに肩を噛まれた若者は……今、神父が処置しているが、腕が動くかどうか」
ケイは何も言えなかった。
カルロ。元兵士。旅芸人。老爺二人。そして、治療中の若者。
その名前と背景が、胸の奥に鉛のように沈んでいく。
扉を閉めろと叫んだのはケイだ。その全ての判断の果てに、彼らは死んだ。
「……俺が、扉を閉めろと言った」
「ああ」
「……それで、外にいた人たちも――」
「ああ」
ガッシュは否定も慰めもしなかった。ただ、事実として頷いた。
「……だが」とガッシュは続けた。「お前が扉を閉めなければ、この広間にいた全員が死んでいた。カルロも、それは分かってたと思う。……あいつは馬鹿じゃなかったからな」
リナがケイの横に立ち、暗い通路の入り口を指差した。
「行くわよ、ケイ。最後尾はあたしが引き受ける。……あなたは、一番前を歩きなさい」
「……俺が先頭か」
「ええ。この先は誰も通っていない未知の暗闇よ。先頭が迷ったら、後ろの数千人がパニックを起こして共倒れになる。あなたが『解析』で安全な道を確認しながら、みんなを導くの。……それが、今のあなたの役割でしょ」
ケイは一度だけ、広間を振り返った。
倒れたままの鉄扉。砕けた石畳。油の染みが黒く広がる床。そしてもう動かない、カルロの弓が壁に立てかけられたまま残っていた。
(……カルロ。嫁と、子供が二人)
ケイは前を向き、最初の一歩を暗闇へと踏み出した。
「……俺に続け。女子供は俺のすぐ後ろだ。……怪我人はその後ろ、肩を貸し合え!」
ケイの号令で、止まっていた人の波が動き出した。
通路は狭く、松明一本分の光しかない。足元は不均一な石畳で、所々に水が滲んでいる。先頭を歩くケイは、薄く解析を展開しながら進んだ。ポーションの副作用で、視界の端に赤いノイズが走るが、無理やり焦点を合わせる。
「……解析、何か見えるか」
すぐ後ろを歩くガッシュの声。
「……反応は薄い。今のところ、この通路に魔物の影はない」
「なら急ごう。立ち止まるな」
どのくらい歩いただろうか。前方の闇に、わずかな光の滲みが見えてきた。
「……出口だ」
ケイが呟くと、後ろから波のように安堵の息が漏れた。
石扉を押し開けると、冷たい夜風が流れ込んでくる。
地上だ。
路地裏の石畳に出ると、煤けた空が見えた。東の方角で炎が上がっており、咆哮はまだ続いている。しかし、幸いにも通りに魔物の姿はない。
「急いで! あの角を曲がった先に、石造りの倉庫がある。そこが次の避難所よ!」
最後尾からリナの声が響く。人の波が路地を駆け抜ける。
角を曲がると、頑丈な石造りの建物が見えた。扉の前に守備隊員が二人立っており、人波を見て即座に扉を開けた。
「怪我人を先に座らせろ! 水と布を持っている人間は前へ!」
ケイは扉の脇に立ち、流れ込んでくる人々の顔を一人一人見た。
老人、子供、女性、男。
その全員が、今ここで生きている。
最後にガッシュが通り抜け、リナが扉を閉めた。
「……全員、入ったわね」
リナが確認するように呟き、ケイは短く頷いた。
外から、遠く咆哮が響いている。しかしその音は、少しだけ、遠くなっていた。




