第11話『森の異変』
二本目、三本目と『ツキミソウ』を摘み取るたびに、ケイの視界は明滅を繰り返していた。
「……ッ、はぁ、はぁ……」
膝をつき、泥の混じった唾を吐き捨てる。脳を直接ペンチで引き絞られているような、鋭い痛みがこめかみに定着していた。
「あと二本よ。立てる?」
リナの声が、少し遠くから聞こえる。
「……立てる。問題ない」
「顔色が死人みたいよ」
「それでも、立てる」
リナは小さくため息をついた。呆れているのか、それとも少し心配しているのか、ケイには判断がつかなかった。
「……無理をしすぎると、眼そのものが潰れるわよ。魔力が枯渇した状態で適性を酷使すると、最悪、二度と使えなくなる場合があるわ」
「それは……困る」
「でしょうね。だから、少し休みなさい。五分だけよ」
リナは木の根元にどかりと座り、水筒を取り出してケイに放り投げた。ケイはそれを受け取り、冷たい水を一口含んだ。喉を流れ落ちる感触が、焼けた脳に染み渡るようだった。
(三本。大銅貨二十一枚分。今日のコストが七枚だから、十四枚のプラスだ)
相場師だった頃の癖で、頭が自動的に数字を弾き出す。わずかなプラスだが、昨日の地下倉庫とは比べものにならない。
(だが、あと二本。脳がもつか……)
五分が経った。ケイは立ち上がり、再び視界を「解析」の位相へと合わせた。
眼を使うたびに、感覚が少しずつ分かってきていた。意識を「広げる」のではなく、「薄く伸ばす」イメージだ。焦点を遠くに外すように、視野全体をぼんやりと捉える。そうすると、魔力の歪みが「ノイズ」として浮かび上がってくる。
緑一色の視界の中で、虹色の揺らぎを探す。一秒、二秒——。
こめかみに熱が灯り始めた頃、視界の左奥にかすかな歪みを捉えた。
(あった)
だが、そこで視たものは、ツキミソウの虹色の歪みではなかった。
「……なんだ、これ」
森の奥から、無数の「光」がこちらへ向かって高速で移動してくるのが視えた。一つ一つはウルフ程度の魔力だが、その数が異常だった。数十、いや、百に近い光の粒が、何かから逃げるように、あるいは何かを追いかけるように、街道側へと殺到している。
そして、その光の群れの遥か後方。森の深奥から、別の「何か」が滲み出していた。光ではない。むしろ、光を飲み込むような、黒い濁りだった。ウルフとも、フォレストウルフとも違う。ケイがこれまで視たどんな魔力とも質が異なる、重く、粘るような存在感。
(でかい。……でかすぎる)
「リナ……。何か、おかしい」
「何が」リナの目が鋭くなった。
「……魔物が、こっちに来る。すごい数だ。奥の方から、何かに追い立てられてるみたいに……! それと——その奥に、もっと大きな何かがいる。魔力が、ウルフとは全然違う。……俺には、何なのかまでは分からない」
一瞬の沈黙。
リナの顔色が、みるみる変わった。
「……今日は朝からギルドで嫌な空気がするって噂になってた。勘のいい連中は来なかったみたいだけど——それでも、まだ森に残ってる採取者がいるはずよ」
彼女のようなベテランには、ケイの言葉が何を意味するか即座に理解できた。スタンピード——魔物が大群となって溢れ出す現象——の前兆。あるいは、さらに深刻な事態。森の深部に棲む上位魔獣が縄張りを動いたか、あるいは目覚めたか。その圧力に押し出された下位の魔物が、出口を求めて街道へと殺到している。
「採取は中止! 今すぐ街へ戻るわよ!」
リナはケイの腕を強引に掴み、来た道を猛スピードで引き返し始めた。
しばらく走ると、前方から悲鳴が聞こえた。街道脇の茂みから、採取用の籠を抱えた男女三人が飛び出してきた。いずれもアイアンランクと思しき装備で、顔が恐怖で引きつっている。
「た、助けてくれ! ウルフが——!」
男が叫ぶより先に、茂みが爆ぜた。三匹のウルフが、一斉に飛び出してくる。
「ケイ! あの三人を街道へ誘導して! 絶対に離さないで!」
リナが剣を抜きながら叫んだ。ケイは頷き、採取者たちの前に立ちはだかった。
「こっちだ! 走れ!」
採取者たちが動き出した瞬間、ウルフの一匹がケイへ向かって低く構えた。ケイはリナから渡された安っぽいナイフを握りしめ、獣と視線を合わせた。戦えるわけがない。だが、ここで退くわけにもいかない。
「——っ」
ウルフが跳んだ。ケイは咄嗟に身を低くし、採取者の一人を背後へ押しやった。爪が肩口を掠め、鋭い痛みが走る。それでも足を止めなかった。
リナはすでに残り二匹を相手にしていた。一匹を袈裟に斬り伏せ、もう一匹の跳躍を横にかわして返す刀で仕留める。鮮やかな二連撃。そして振り返りもせず、ケイへ向かってきたウルフの首筋を背後から正確に貫いた。
「走って! まだ来るわよ!」
五人が一団となって街道を駆けた。遠くで、森の木々がなぎ倒されるような不穏な音が連続して響く。地面が、微かに揺れた。普段は静かなはずの「境界の森」が、まるで巨大な生き物のようにざわついていた。鳥が一斉に飛び立ち、草むらの小動物が我先にと逃げ出していく。森全体が、何かを恐れていた。
アウラムの重厚な城壁が視界に飛び込んできたとき、ケイの脚はほとんど限界だった。
「門を開けろ! スタンピードの前兆だ!」
リナが叫ぶと、門番が即座に反応した。警戒の鐘が鳴り響き、城壁の上に兵士たちが駆け上がっていく。
五人全員が門をくぐった直後、重い鉄格子が音を立てて落ちた。
ケイはその場に膝をついた。荒い呼吸が収まらない。視界がぐらぐらと揺れ、こめかみの痛みが波のように押し寄せてくる。
助けた採取者の三人が、肩で息をしながらケイとリナに向き直った。
「……あんたもアイアンか。命を張ってくれてありがとう」
「リナさん、あなたがいなかったら全滅してた。本当に助かりました」
「気にしないで。……お互い、生きて戻れたんだから」
リナが短く答えると、三人は深く頭を下げ、それぞれの方向へと駆けていった。
「……生きてる」
「当たり前でしょう」リナは肩で息をしながら、それでも涼しい顔を作ろうとしていた。「私が死ぬわけないじゃない」
手元に残ったのは、三本の『ツキミソウ』。
大銅貨二十一枚分のはずだった。
ノルマには届かなかったが、死の予感から逃げ切れたという安堵だけが、まだ足元を震わせていた。
城壁の向こう、森の方角から、低く重い轟音が響いてきた。
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【借金メモ・11話終了時点】
前話(10話)終了時:残債小銀貨5枚・大銅貨2枚
11話収入:ツキミソウ3本採取(単価大銅貨7枚・スタンピードで中断・未売却)
11話支出:なし(スタンピードで採取中断)
残債充当:なし
ケイの手元:0枚
残債:小銀貨5枚・大銅貨2枚
※ツキミソウ3本は翌12話で緊急売却




