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鉄の線路は国境を越えて ~売国奴と蔑まれた令嬢は、敵国の天才技師と未来への架け橋を築く~  作者: ぱる子
第1章:孤立無援の着任

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第6話:数式の会話

 深夜二時。

 宿舎の窓から見える「竜の顎」は、漆黒の闇に沈んでいた。

 昼間の喧騒が嘘のように静まり返っている。聞こえるのは、風が峡谷を吹き抜ける低い唸り声だけだ。


 私はランプの芯を少し上げ、瞬きをして乾いた瞳を潤した。


「……なるほど。トラス構造における応力の分散は、三角形の合同条件ではなく、ベクトル解析で捉えるべきなのね」


 机の上には、父の書斎から持ち出した数学書と、現場事務所からくすねてきた建築力学の入門書が積み上がっている。

 ここ数日、私は睡眠時間を削ってこれらを読み漁っていた。

 クロードに「文系のお嬢様」と切り捨てられたのが、どうしても許せなかったからだ。


 確かに、私は橋を架けたことはない。鉄の硬度も、セメントの配合も知らない。

 けれど、あの図面に描かれていた曲線――あの美しいアーチが崩れ落ちるという「理屈」だけは、どうしても理解したかった。

 なぜなら、あれを見た瞬間、私の胸が高鳴ってしまったからだ。

 完成した橋の上を、蒸気機関車が白煙を上げて走る光景が、まざまざと脳裏に浮かんでしまったからだ。


「……現場監督は現場で寝ろ、なんて言うけれど」


 私は椅子から立ち上がり、凝り固まった肩を回した。

 今夜、クロードは不在だ。

 下流の資材置き場で小火騒ぎがあり、その対応で出払っている。現場のトップである彼が戻るのは朝方になるだろう。


 つまり、今なら「あの部屋」は空っぽだ。


 私は上着を羽織り、ランプを手に取った。

 泥棒猫のような真似は公爵令嬢の矜持に関わるけれど、これは「視察」だ。そう、総責任者としての正当な業務の一環なのだと言い聞かせる。


 ***


 夜の現場は、昼間とは違う顔を持っていた。

 巨大なクレーンや鉄骨が、月明かりの下で黒い怪物の骨のように浮かび上がっている。

 足元に転がるボルト一つ蹴飛ばさないよう、慎重に歩を進める。


 設計室のある塔の前に着いた。

 鍵はかかっていない。あの男のことだ、どうせ「誰も俺の聖域には入らない」と高を括っているのだろう。


 ギィ……と、蝶番が錆びついた音を立ててドアが開く。

 私は素早く中に入り、背後でドアを閉めた。


 部屋の中は、相変わらずのカオスだった。

 紙とインク、そしてコーヒーと古いタバコの匂いが染み付いている。それは、あの不遜な男の体臭にも似ていて、少しだけ胸がざわついた。


 私はランプを掲げ、部屋の奥へと進んだ。

 目的のものは、壁一面に張り出されていた。


「……これね」


 クロードの「夢の設計図」。

 昼間見た時よりも、ランプの灯りに照らされたそれは、より幻想的で、悪魔的な魅力を放っていた。

 通常の橋ではない。峡谷の強風を受け流すための流線型のフォルム。従来の倍以上のスパン(支間長)を持つ、巨大な単アーチ橋。

 今の技術では不可能とされる、鉄の芸術品。


 私はランプを机に置き、図面に顔を近づけた。

 その余白には、びっしりと数式が書き込まれている。

 クロードの筆跡だ。

 殴り書きのような乱暴な字だが、そこには彼の思考の痕跡が刻まれている。


 ――荷重係数α、風圧荷重W、許容応力度σ……。


 私は一つ一つの数式を目で追い始めた。

 最初は記号の羅列にしか見えなかったものが、数日間の猛勉強のおかげで、少しずつ意味のある「言葉」として浮かび上がってくる。


 彼は悩んでいる。

 この巨大なアーチの中央部、そこにかかる負荷をどう分散させるか。

 鉄骨を太くすれば自重で落ちる。細くすれば風で捻じれる。

 その矛盾ジレンマの中で、計算式が行き詰まり、悲鳴を上げているのがわかった。


「……ここで、積分を使っているの?」


 私は図面の中央付近、黒く塗りつぶされた計算式に指を這わせた。

 彼はここで、複雑な微分方程式を用いて解を導こうとしている。だが、変数が多すぎて計算が発散してしまっているのだ。

 まるで、迷路の中で出口を見失い、壁に頭を打ち続けているような痕跡。


「馬鹿ね。……難しく考えすぎよ」


 私は呟いた。

 構造力学の常識は知らない。

 けれど、純粋な数学的視点で見れば、このアプローチは美しくない。

 もっとシンプルに。もっとエレガントに。

 複雑に絡まった糸を解くのではなく、一度断ち切って、別の視点から結び直すような。


 私はふと、実家の領地経営で見てきた灌漑水路の設計図を思い出した。

 水の流れを分散させる時、父の抱える技師たちは複雑な計算を避け、幾何学的な「相似形」を利用して解決していた。

 力も水も同じだ。流れるものなら、自然な形に導いてやればいい。


 気がつくと、私の手は机の上の製図ペンを握っていた。

 インク壺にペン先を浸す。

 心臓が早鐘を打つ。

 人の図面に、それもあの気難しい技師の「夢」に手を加えるなんて、正気の沙汰ではない。見つかれば殺されるかもしれない。


 でも。

 この数式が、私を呼んでいる気がした。

 「解いてくれ」と。

 「ここに橋を架けてくれ」と。


 ――ええい、ままよ!


 私は震える切っ先を、図面の余白に落とした。


 カリッ、カリカリ……。

 静寂な部屋に、ペン先が紙を走る音だけが響く。


 私が書き始めたのは、彼が苦戦していた微分方程式の続きではない。

 全く別の、幾何学的なアプローチによる補助線だ。

 アーチの中央部にかかる力を、トラスの三角形の配置を変えることで、垂直方向ではなく水平方向へ逃がす。

 そのための角度計算。


 sinθ、cosθ……。

 三角関数が踊る。

 彼の無骨な数字の隣に、私の流麗な筆記体の数字が並んでいく。


 楽しい。

 私は、生まれて初めて感じる高揚感に包まれていた。

 舞踏会で誰よりも上手く踊れた時とも、投資で莫大な利益を出した時とも違う。

 これは、対話だ。

 言葉を交わさずとも、数式を通じて彼の脳内に入り込み、彼が見ている景色を共有している感覚。


「ここは……こうすれば、係数が消える」


 彼の計算ミスを見つけた。

 単純な計算間違いではない。風の向きを「一定」と仮定してしまっているのだ。

 峡谷の風は巻く。

 だから、定数ではなく、変動するパラメータとして組み込む必要がある。

 私は容赦なく彼の式に二重線を引き、赤インクで修正式を書き加えた。


 没頭していた。

 時間の感覚が消えた。

 ランプの油が尽きかけて、炎が小さく揺らめくまで、私は憑かれたようにペンを走らせ続けた。


 やがて。

 私の目の前には、新しい数式の道筋が出来上がっていた。

 行き詰まっていた計算式が、私の書き足した補助式によって綺麗に収束し、一つの「解」――必要な鉄骨の強度と角度を導き出している。


「……できた」


 私は深く息を吐き、ペンを置いた。

 額に汗が滲んでいる。指先はインクで汚れていた。

 改めて図面を見る。

 黒いインクの荒々しい筆跡と、赤いインクの繊細な筆跡が、まるでダンスを踊るように絡み合い、一つの橋を支えている。


 それは、身震いするほど美しい光景だった。


「……ふふっ。ざまあみなさい」


 私は小さく笑った。

 これを見たら、彼はどんな顔をするだろうか。

 激怒するだろうか。それとも、あの時の私のように、言葉を失うだろうか。


 ふと、窓の外が白み始めていることに気づいた。

 朝だ。

 まずい、クロードが戻ってくるかもしれない。


 私は慌ててインクの蓋を閉め、ペンの位置を(できるだけ元の位置に)戻した。

 図面はそのままだ。隠しようがない。

 それに、隠したくもなかった。

 これは私の署名だ。「文系のお嬢様」からの、挑戦状だ。


 私はランプを吹き消し、逃げるように設計室を後にした。

 心臓はまだドキドキと鳴っている。

 悪いことをした子供のような背徳感と、何か大きなことを成し遂げた達成感が、私の中で渦巻いていた。


 宿舎に戻り、ベッドに倒れ込む。

 泥のように眠りに落ちる直前、私は思った。

 明日、彼に会うのが楽しみだと。

 あんなに嫌いだった男の顔を思い浮かべて眠りにつくなんて、私もどうかしてしまったのかもしれない。

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