第5話:天才技師の拒絶
ボルツ監督一派の粛清から一週間。
現場の空気は劇的に変わっていた。
カン! カン! カン!
ハンマーが鉄を打つ音が、以前のようなバラバラな騒音ではなく、一つのリズムを刻み始めている。それはまるで、巨大な心臓の鼓動のようだった。
「ハンズ! 3番ブロックの資材搬入、遅れてるぞ!」
「は、はいっ! 今すぐクレーン回します! ……おい、そこ道開けてくれ!」
かつてはおどおどしていた帝国作業員のハンズが、今は声を張り上げて走り回っている。
その横で、共和国側のガストンがニヤリと笑いながら手を貸す。
「へっ、帝国製のクレーンは鈍くていけねえ。俺たちが担いだ方が早えぞ」
「ぐぬぬ……頼む、ガストンさん!」
以前なら殴り合いになっていた場面で、今は協力――とまでは言わないまでも、健全な競争が生まれている。
賃金の適正化、食事の改善、そして「働けば報われる」という当たり前のシステムが、男たちの目の色を変えたのだ。
私は仮設オフィスの窓からその様子を眺め、満足げに紅茶(といっても、マグカップに入れた安物だが)を啜った。
「……悪くないわ」
書類の山と格闘する日々だが、数字が合うというのは精神衛生上とても良い。
横領がなくなったことで予算には少し余裕ができたし、工程の遅れも取り戻しつつある。
私がやるべき「土台作り」は、概ね順調と言っていいだろう。
ただ、一つだけ。
どうしても噛み合わない歯車がある。
私は視線を上げ、現場の一角に建つ、孤立した塔のような建物を見上げた。
設計室だ。
この巨大な鉄橋の頭脳であり、心臓部。そして、あの男の聖域。
「……クロード・ガーランド」
私が現場を掌握し、作業員たちが私に敬礼をするようになっても、彼だけは変わらない。
いや、むしろ私との距離を意図的に置こうとしているように見える。
現場で顔を合わせても、必要最低限の業務連絡のみ。「ああ」「違う」「邪魔だ」。それだけだ。
まるで、私が現場にいること自体が、彼の美学に反するとでも言いたげな態度。
「気に入らないわね」
私はマグカップを置いた。
私はこのプロジェクトの総責任者だ。技術的な詳細までは口出ししないが、全体の進捗と、今後の設計変更のリスクについては把握しておく必要がある。
それに何より、あの「お飾り」扱いされたままなのが、私のプライドを逆撫でするのだ。
私はジャケットを羽織ると、意を決してオフィスを出た。
目指すは、難攻不落の設計室だ。
***
設計室への階段を登る。
扉の前まで来ると、中から何やら独り言のような声と、紙を激しくめくる音が聞こえてきた。
「……違う、これじゃ強度が足りない。風速40メートルの横風で捻じれが生じる……」
「トラスの厚みを増やすか? いや、それじゃ自重で沈む……クソッ!」
苦悩に満ちた声。
私は一度ノックをしようと手を上げ、そして止めた。
彼が何に悩んでいるのか。それを知るまでは、安易に入ってはいけない気がしたのだ。
私は音を立てないよう、そっとドアノブを回した。
部屋の中は、カオスだった。
床一面に散らばる丸められた図面。製図板の上には、書き損じの紙が山脈のように積み上がっている。
空気はタバコの煙と、コーヒーの焦げた匂いで澱んでいた。
その中心に、クロードがいた。
彼はシャツの袖を捲り上げ、髪をかきむしりながら、鬼気迫る表情で図面と向き合っていた。
その背中は、現場で見せる不遜な態度とは違う、張り詰めた糸のような緊張感を漂わせている。
「……失礼するわよ」
私が声をかけると、クロードは弾かれたように振り返った。
充血した瞳が、私を射抜く。
「……! 何しに来た」
「ノックはしたわよ(心の中で)。……少し話がしたくてね。現場の改善報告と、今後の予算配分について……」
「出て行け」
私の言葉を遮り、彼は低く唸った。
「今、佳境なんだ。数字合わせの話なら後にしてくれ」
「佳境? 現場は順調に動いているわ。何がそんなに問題なの?」
私が一歩足を踏み入れると、彼は激昂したように立ち上がり、私の行く手を阻んだ。
「お前には関係ない!」
その剣幕に、私は思わず足を止めた。
彼は荒い息を吐きながら、私を睨み下ろす。
「順調? ああ、そうだな。お前のおかげで、現場の掃除は綺麗に片付いたよ。作業員たちも餌をもらって喜んでる。……だがな、そんなのは『準備運動』に過ぎないんだよ」
彼は床に散らばる図面の一つを蹴り飛ばした。
「この峡谷を、舐めるな」
低い、地の底から響くような声だった。
「『竜の顎』の風は、気まぐれで凶暴だ。今の設計じゃ、完成した瞬間に崩れ落ちる可能性がある。……俺が作りたいのは、100年先まで残る橋だ。貴族のメンツを立てるための、一時しのぎの張りぼてじゃねえんだよ」
彼の言葉の端々に、深い絶望と焦燥が滲んでいるのがわかった。
技術的な壁。
それは、私の得意とする「金」や「政治」ではどうにもならない領域だ。
「……なら、相談すればいいじゃない。予算が必要なら掛け合うわ。人員が必要なら……」
「わかってないな!」
クロードが大声を上げ、机をバンと叩いた。
製図ペンが跳ねて床に落ちる。
「金や人の問題じゃねえ! これは『理屈』の問題だ! 物理法則との喧嘩なんだよ! ……文系のお嬢様に、この計算式の意味がわかるか? この曲線の美しさと脆さが理解できるか!?」
彼は一枚の図面を掴み取り、私の目の前に突きつけた。
そこに描かれていたのは、見たこともない形状の橋だった。
従来の重厚な石造りや、無骨な鉄骨組みとは違う。流れるようなアーチを描き、まるで蜘蛛の巣のように繊細なトラス構造が組み合わされている。
美しい。
素人の私が見ても、息を呑むほどに。
「これが俺の『夢』だ。……だが、今の技術じゃ実現不可能だと言われている。強度が計算しきれない。未知の領域なんだよ」
彼は自嘲気味に笑い、図面を下ろした。
「あんたは優秀な『管理者』だよ、エリザベート。それは認める。……だが、俺たち技術者とは住む世界が違う。あんたが見ているのは『利益』と『結果』だ。俺が見ているのは『真理』だ」
明確な線引き。
ここから先は、立ち入り禁止だという拒絶。
彼は私を、ただの「金主」としてしか見ていない。
「……邪魔したわね」
「ああ。二度と来るな」
彼は背を向け、再び製図板に向かった。
その背中は、あまりにも孤独で、そして小さく見えた。
私は唇を噛み締め、部屋を出た。
悔しかった。
ボルツたちに馬鹿にされた時とは違う種類の悔しさだ。
彼が私を見下しているからではない。
彼が見ている「景色」を、私が理解できないことが悔しかったのだ。
あの図面。
あんなに美しいものが、計算できないという理由だけで否定されるなんて。
廊下を歩きながら、私は考える。
本当に理解できないの?
私は文系だと言われたが、公爵家の娘として高等教育を受けてきた。特に、領地経営に必要な数学は得意科目だったはずだ。
もちろん、専門的な構造力学はわからない。
でも、数字は嘘をつかない。
もし、彼の計算に行き詰まりがあるのなら、それは「計算式」そのものではなく、「視点」の問題かもしれない。
私は宿舎に戻ると、荷物の底から一冊の古い本を取り出した。
父に隠れてこっそり読んでいた、異国の数学書。
そして、ランプの油を補充し、机に向かった。
「……やってやろうじゃない」
私は諦めない。
金や権力で屈服させるのではなく、彼の土俵――「知性」で殴り合って、私を認めさせてやる。
あの扉をこじ開ける鍵は、きっとそこにある。
外では、夜風が峡谷を吹き抜ける音が聞こえる。
それはまるで、竜が私をあざ笑っているかのようだった。




