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鉄の線路は国境を越えて ~売国奴と蔑まれた令嬢は、敵国の天才技師と未来への架け橋を築く~  作者: ぱる子
第1章:孤立無援の着任

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第4話:悪女の粛清

 朝礼台の上から見下ろす世界は、驚くほど静まり返っていた。

 数百人の男たちの視線が、私の一挙手一投足に注がれている。

 恐怖、困惑、そして微かな期待。それらが混ざり合った粘着質な空気を、私は肌で感じていた。


 沈黙を破ったのは、やはりあの男だった。


「……ぎゃはははは!」


 ボルツ監督が腹を抱えて笑い出した。わざとらしいほど大きな笑い声だ。

 それに釣られるように、彼の取り巻きたちも乾いた笑いを上げる。


「傑作だぜ! 『私が法律』だと? 寝言はベッドの中で言えってんだ!」


 ボルツは泥を蹴り上げながら、朝礼台に近づいてきた。

 その目は笑っていない。爬虫類のような冷たい光が宿っている。彼は私の足元に転がる「新しい就業規則」の束を、汚れたブーツで踏み躙った。


「いいか、お嬢ちゃん。ここは戦場だ。帝都の法律なんざ通用しねえ。ここではな、俺たち現場の人間がルールなんだよ」


 彼は威圧するように胸を反らし、腰に下げた警棒を指先で叩いた。


「俺たちが働かなきゃ、橋は一本も架からねえ。俺たちが資材を発注しなきゃ、釘一本届かねえ。……わかるか? お前さんがどれだけ喚こうが、俺たち全員でボイコットすりゃ、お前さんの立場なんて一瞬で吹き飛ぶんだよ」


 脅し。そして、数の暴力による圧力。

 典型的な小悪党のやり口だ。

 周囲の帝国側作業員たちは、ボルツの顔色を窺いながらニヤニヤと笑っている。共和国側の作業員たちは、悔しげに拳を握りしめながらも、報復を恐れて俯いている。


 私は、踏みつけられた書類を見つめ、それからゆっくりと視線を上げた。

 怒りはなかった。あるのは、深い憐れみだけだ。


「……そう。それが貴方の『切り札』というわけね」


 私は扇子を開き、口元を隠してクスクスと笑った。


「な、何がおかしい!」

「ええ、おかしいわ。貴方は一つ、大きな勘違いをしているもの」


 私は扇子を閉じ、ボルツの顔をビシッと指差した。


「貴方は言ったわね。『俺たちが働かなければ橋は架からない』と。……ええ、その通りよ。労働者は宝だわ。彼らの汗と技術がなければ、何も成し遂げられない」


 私は視線を巡らせ、泥にまみれた共和国の作業員たち、そして帝国側の下っ端作業員たち一人一人の目を見た。


「でも、貴方は違う」


 私の声が、鋭く冷たく響き渡る。


「貴方は労働者ではない。ただの寄生虫よ。貴方がいなくなっても現場は止まらない。むしろ、血流が良くなって健康になるだけだわ」

「なっ、んだと……!」


 ボルツの顔が朱に染まる。

 図星を突かれた怒りで、彼は理性を失いかけていた。


「このアマ……! 調子に乗るのもいい加減にしやがれ!」


 彼は怒鳴り声を上げ、朝礼台へと駆け上がろうとした。

 その手には警棒が握られている。

 周囲から悲鳴が上がる。


 暴力。

 言葉で勝てない愚か者が最後にすがる、野蛮な手段。

 私は一歩も動かなかった。眉一つ動かさず、突進してくる巨体を見据えていた。


 ――今よ。


 ボルツが台に手をかけた、その瞬間。


「そこまでだ!!」


 雷のような怒号が轟いた。

 同時に、数発の銃声が空に向けて放たれた。


 パン! パン!


 乾いた音が峡谷に木霊する。

 ボルツがビクリと動きを止め、振り返る。


 現場の入り口から、整然とした足音と共に現れたのは、紺色の制服に身を包んだ一団だった。

 胸には帝国の紋章。腰にはサーベルと拳銃。

 帝国軍憲兵隊だ。


「け、憲兵……!? なんでこんなところに!」


 ボルツが裏返った声を上げる。

 私は台の上から、優雅に憲兵隊長へと目配せをした。


「ご苦労様、少佐。タイミングが完璧でしたわ」

「はっ! エリザベート様からの電報を受け、急行いたしました!」


 髭を蓄えた憲兵隊長が、直立不動で敬礼する。

 そう、私はここに来る前――帝都を出発する直前に、既に手を打っていたのだ。

 父が私を左遷するために用意した列車の中で、私は管轄の憲兵隊宛に「大規模な汚職の調査依頼」と「身辺警護の要請」を打電していた。

 到着が遅れたのは計算外だったが、結果として、ボルツの暴行未遂という現行犯逮捕の口実ができた。


「な、な……罠か!?」

「罠? 人聞きの悪いことを言わないでちょうだい。私はただ、掃除用具を用意しただけよ」


 私は冷ややかに言い放つと、憲兵隊長に合図を送った。


「彼らを拘束なさい。容疑は公金横領、背任、そして皇帝陛下の代理人である私への暴行未遂よ」


 憲兵たちが一斉に雪崩れ込む。

 ボルツの取り巻きたちは、蜘蛛の子を散らすように逃げようとしたが、訓練された憲兵たちに次々と取り押さえられていく。


「は、離せ!  俺はやってねえ! 証拠はあるのか! 帳簿は全部燃やしちまったぞ!」


 地面にねじ伏せられながら、ボルツが悪あがきのように叫ぶ。

 そう、彼が唯一自信を持っていたのは「証拠隠滅」だった。


 私は階段を降り、泥にまみれたボルツの顔の前に屈み込んだ。

 そして、ジャケットの懐から、一冊の薄い手帳を取り出した。


「……これのことかしら?」

「あ、あぁ!?」


 それは、私が一瞬だけ目を通した、あの汚れた帳簿――ではない。

 私の私物の手帳だ。


「貴方は知らなかったでしょうけれど、私は一度見た数字は忘れないの。貴方が見せてくれた帳簿の内容、不正な取引の日付、金額、そして架空の作業員名簿……すべて私の頭の中にあり、昨夜この手帳に書き写させてもらったわ」


 嘘ではない。私の記憶力は、幼い頃から社交界の膨大な家系図と資産状況を暗記するために鍛え上げられている。

 もちろん、これだけでは物的証拠としては弱いが、憲兵隊を動かし、彼らの自宅や隠し口座を捜索させるには十分すぎる「告発状」となる。


「それに、貴方たちが燃やしたのは『現場用の控え』でしょう? 本店への発注記録と照らし合わせれば、矛盾なんていくらでも出てくるわ。……終わりね、ボルツ監督」


 私は手帳で彼の頬をペチペチと軽く叩いた。


「ひ、ひぃ……」

「連れて行きなさい。二度と私の視界に入らないように」


 私の命令で、憲兵たちがボルツたちを引きずっていく。

 罵声と命乞いが遠ざかっていくのを、数百人の作業員たちは呆然と見送っていた。

 圧倒的な力による、一方的な蹂躙。

 それが「悪女」のやり方だ。


 静寂が戻った広場で、私は再び全作業員に向き直った。

 彼らの目には、ボルツに向けていたのとは違う種類の恐怖が宿っている。

 「次は自分たちが粛清されるのではないか」という怯えだ。


 特に、帝国側の作業員たちは真っ青だ。ボルツのおこぼれに預かってサボっていた者も多いだろう。

 私は彼らをゆっくりと見渡し、そして宣言した。


「勘違いしないでちょうだい。私は恐怖政治を敷くつもりはないわ」


 私は声を張った。


「私が嫌いなのは二つだけ。『無能』と『不正』よ。国籍も、身分も、過去も問わない。……働く者には正当な対価を。働かない者には退場を。それだけよ」


 私は足元の泥を、ブーツの踵で強く踏みしめた。


「給料泥棒はいらないわ。でも、この過酷な現場で、泥にまみれて橋を架けようとする『プロフェッショナル』には、私は敬意と報酬を惜しまない!」


 ざわめきが広がる。

 私は、群衆の中に一人の男を見つけた。

 昨日、ボルツに怒鳴られながらも、黙々と資材を運んでいた帝国側の若い作業員だ。名前は確か、ハンズ。真面目だが気弱で、いつも損な役回りを押し付けられていた男。


「そこの貴方。名前は?」

「えっ、あ、俺……ですか!? ハ、ハンズです!」

「ハンズ。貴方、昨日の雨の中、最後まで排水ポンプの点検をしていたわね? 誰も見ていないと思ってサボることもできたのに」


 ハンズは目を白黒させた。

「見、見ていたんですか……?」

「言ったでしょう。私の目は節穴ではないと」


 私は彼の手を取った。硬く、豆だらけの手だ。


「本日付で、貴方を帝国側作業班のリーダー代理に任命するわ。その真面目な手で、腐った現場を叩き直しなさい」

「ええっ!? お、俺が!?」

「できないの? ならクビよ」

「や、やります! やらせてください!」


 ハンズが必死に叫ぶと、周囲の真面目な作業員たちから、パラパラと拍手が起こった。それは次第に大きくなり、やがて歓声へと変わっていった。

 虐げられていた者たちが、正当に評価された瞬間だった。


 次に私は、共和国側の集団へ視線を向けた。

 彼らはまだ警戒を解いていない。当然だ。帝国貴族への不信感は根深い。

 私はそのリーダー格と思われる、眼光鋭い壮年の男に歩み寄った。


「貴方もよ。……名前は?」

「……ガストンだ」

 彼は私を睨みつけたまま答えた。


「俺たちをどうする気だ。ボルツがいなくなっても、帝国のやり方は変わらねえんだろ?」

「変わるわ。私が変える」


 私は懐から、先ほど踏みつけられた「新しい就業規則」を拾い上げ、泥を払って彼に差し出した。


「読んで頂戴。共和国作業員への差別的な賃金規定の撤廃。食事の改善。そして、危険手当の支給。……これが私の提示する契約よ」


 ガストンは疑わしげに書類を受け取り、目を通した。

 読み進めるにつれて、彼の手が震え出した。


「こ、これは……本気か? こんな金、どこから出すんだ」

「私のポケットマネーと、ボルツたちが横領していた裏金よ。……足りない分は、私が稼いでくるわ」


 私は不敵に微笑んだ。


「その代わり、仕事はきっちりしてもらうわよ。共和国の技術が世界一だと言うなら、その腕を見せてみなさい」


 ガストンはしばらく書類と私の顔を交互に見ていたが、やがて太い息を吐き出し、ニヤリと笑った。


「……へっ、口だけじゃねえみたいだな。いいだろう、雇い主様。あんたが金を払う限り、俺たちは最高の橋を作ってやる」

「交渉成立ね」


 ガストンが差し出した泥だらけの手を、私は迷わず握り返した。

 歓声が爆発した。

 それは、両国の作業員たちが初めて一つになった瞬間だった。


 私は喧騒の中、ふと視線を感じて顔を上げた。

 遥か頭上。

 鉄骨の足場の上で、クロードが腕を組んでこちらを見下ろしている。

 その表情は遠くて見えない。

 だが、彼が吸っていた煙草の吸殻が、まるで合図のようにヒラヒラと落ちてきた。


 ――合格だ、と言われた気がした。


 私は汗で張り付いた前髪をかき上げ、小さく息を吐いた。

 第一関門突破。

 けれど、これはまだスタートラインに立ったに過ぎない。

 資金難、技術的な壁、そして本国の妨害。

 本当の戦いはこれからだ。


 私は泥だらけのブーツで大地を踏みしめ、巨大な鉄橋を見上げた。

 待っていなさい。必ず、貴方を完成させてみせるから。

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