第3話:ドレスを脱ぐ日
轟音と蒸気が渦巻く現場の最奥。
私は泥濘んだ地面を踏みしめ、天を衝くようにそびえ立つ鉄骨の足場を見上げた。
高さにして30メートルはあるだろうか。
無骨な鉄の骨組みの頂上付近に、豆粒のような人影が見える。
クロード・ガーランド。この現場の心臓とも言える男だ。
私は深紅のドレスの裾を片手でたくし上げると、足場の昇降口へと向かった。
近くにいた共和国側の作業員が、ギョッとしたように私を見る。
「お、おい! あんた、まさか登る気か?」
「ええ。主任技師に話があるの」
「やめとけ! そこはリフトもねえ、ただの梯子だぞ! そんな格好じゃ死ぬぞ!」
親切な忠告を、私は微笑みだけで受け流した。
死ぬ? ええ、そうね。足を滑らせれば即死でしょう。
でも、ここで引き返して「お姫様」のままでいることは、私にとって死ぬことと同義だ。
私は革手袋を嵌め直すと、冷たい鉄の梯子に手をかけた。
錆と油の感触。
一段、また一段。
重たいペチコートとコルセットが呼吸を妨げる。風が吹き荒れ、スカートが帆のように煽られる。
――重い。
なんて邪魔な衣装なのだろう。
かつては、この重さこそが貴族の威厳であり、権威の象徴だと思っていた。けれど、この鉄の世界では、これはただの足枷でしかない。
半分ほど登ったところで、上から声が降ってきた。
「……正気か?」
見上げると、鉄骨に腰掛けたクロードが、呆れた顔で私を見下ろしていた。
強風で彼の黒髪が荒々しく踊っている。
「邪魔よ、そこをどいて。登りきれないわ」
「帰れと言ったはずだ。ここは舞踏会の会場じゃない」
「ええ、知っているわ。だからダンスのパートナーを誘いに来たのよ」
私が睨み返すと、彼は一瞬鼻白み、渋々といった様子で手を差し伸べてきた。
私はその手を借りず、最後の力を振り絞って自力で鉄骨の上によじ登った。
頂上からの景色は、壮絶だった。
眼下には、峡谷を流れる激流が白く泡立ち、対岸のリベール共和国が霞んで見える。そして、私たちが立っているのは、虚空に突き出した未完成の鉄の腕の上だ。
足がすくむほどの高さだが、不思議と恐怖はなかった。むしろ、風の冷たさが心地よい。
「……で? わざわざ命がけで登ってきて、何の用だ」
クロードは図面を広げたまま、私を見ようともしない。
「貴方は知っているはずよ。あのボルツとかいう現場監督たちが、不正を行っていることを」
私は単刀直入に切り出した。
クロードの手がピタリと止まる。
「資材の横流し、水増し請求、そして共和国作業員への不当な扱い。……貴方は現場のトップでしょう? なぜ放置しているの」
私の問いに、彼はゆっくりと顔を上げた。
その瞳には、諦めと、深い侮蔑の色が混じっていた。
「……言っただろ。俺は技師だ。俺の仕事は、計算通りに鉄を組み、橋を架けることだ。金のことや、政治的な駆け引きは管轄外だ」
「責任逃れね」
「事実だ。それに……」
彼は図面を乱雑に丸め、眼下の現場を指差した。
「何度言ったと思っている? 帝都に報告書も送った。だが、帰ってくるのは『予算不足』と『現体制維持』の命令書だけだ。ボルツの背後には、お前の親父さんか、あるいは別の有力貴族がついているんだろうよ」
言葉に詰まった。
父が絡んでいる可能性は高い。私をここに送ったのも、不正の隠蔽工作の一環かもしれない。
「俺にできるのは、あいつらが手抜き工事で橋を落とさないよう、設計でカバーすることだけだ。……お前も、ここで無駄死にしたくなければ、大人しく飾り物になっていろ」
クロードは背を向けた。
それは明確な拒絶だった。
彼は期待していないのだ。帝国の貴族など、誰も信用していない。
「……私は、飾り物じゃないわ」
「なら証明してみろ。そのヒラヒラしたドレスを着ているうちは、お前はただの『客』だ」
風が強く吹き、私の言葉を奪っていった。
***
翌日。
事態は、改善するどころか悪化していた。
私が現場に行くと、ボルツ監督たちは昨日のことなどなかったかのように、堂々と酒盛りをしていた。
それだけではない。私が昨日指摘した不正の証拠――帳簿の類が、焚き火の中に放り込まれ、燃やされていたのだ。
「あーあ、昨日は寒かったからなぁ。暖を取るのに丁度いい紙があって助かったぜ」
ボルツ監督が、下卑た笑みを浮かべて私を見る。
明らかな証拠隠滅。そして、私への挑発。
「……どういうつもり?」
「いやぁ、監査役様のご指導に従って、古い書類を整理したんですよ。これからは綺麗にやりますから、ご安心を」
周囲の取り巻きたちがドッと沸く。
共和国の作業員たちは、悔しそうに唇を噛み締めながらも、報復を恐れて俯いている。
私が昨日見せた威嚇は、彼らには「小娘の戯言」としてしか響かなかったのだ。
なぜなら、私には実力がないから。
口先だけで、現場の何一つ理解していない、ドレスを着たお嬢様だから。
「女に何がわかるってんだ。現場のことは俺たちに任せて、お前さんは宿舎で刺繍でもしてな!」
ボルツの言葉が、胸に突き刺さる。
怒りで指先が震えた。
悔しい。
こんなに悔しいのは、生まれて初めてかもしれない。
私は何も言い返さず、踵を返した。
今ここで何を言っても、負け犬の遠吠えにしかならないことを悟ったからだ。
背中で浴びせられる嘲笑を聞きながら、私は誓った。
刺繍? ええ、してやるわよ。
ただし、糸と針ではなく、鉄と蒸気で、この腐った現場を縫い合わせてやる。
***
その夜、宿舎の部屋は静寂に包まれていた。
ランプの灯りだけが揺れている。
私はベッドの上に、持ってきたドレスを広げていた。
帝都の流行の最先端。最高級のシルクとレース。父が「嫁入り道具」として持たせた、私の虚栄心の抜け殻。
「……さようなら」
私は裁ちバサミを握りしめた。
冷たい金属の感触が、掌に食い込む。
ジャキッ。
鈍い音と共に、シルクの生地が裂けた。
胸元のレースを切り落とす。広がったスカートの裾を大胆に切り詰める。動きを妨げる装飾を、躊躇なく引きちぎる。
もったいないとは思わなかった。
むしろ、ハサミを入れるたびに、心が軽く、鋭くなっていくのを感じた。
私はアルニム家の娘ではない。
帝都の社交界の花でもない。
私はエリザベート。
この泥と鉄の街で生きる、一人の人間だ。
針を通す。糸を引く。
貴族の嗜みとして習わされた裁縫が、こんなところで役に立つとは皮肉なものだ。
私はかつて乗馬用に使っていた厚手のズボンを取り出し、継ぎ接ぎだらけだが頑丈な作業着へと仕立て直していく。
夜が明ける頃、私の手は傷だらけになっていたが、目の前の「それ」は完成していた。
美しくはない。
けれど、今の私には、どんな舞踏会のドレスよりも輝いて見えた。
***
翌朝。
現場の朝礼広場には、いつも通りの弛緩した空気が漂っていた。
ボルツ監督があくびをしながら、遅刻してきた作業員を怒鳴りつけている。
「おい、今日もあの女は来てねえのか? 昨日のショックで寝込んでるんじゃねえか?」
「へへっ、もう泣いて帰ったかもしれませんぜ」
男たちの笑い声が響く中、私はゆっくりと広場へ歩みを進めた。
ザッ、ザッ、ザッ。
泥を踏む足音が、いつもより力強く響く。
「……ん? なんだあいつは」
誰かが呟いた。
私は彼らの視線を一身に浴びながら、広場の中央、朝礼台の前まで進み出た。
そこにいたのは、深紅のドレスを着た令嬢ではなかった。
身体のラインに沿った、タイトな乗馬ズボン。
上着はドレスの生地をリメイクした、動きやすいジャケット。
足元は泥汚れに強い革のブーツ。
そして、自慢の金色の長髪は、邪魔にならないよう高く結い上げられ、白いリボンでキリリと締められている。
貴族らしさは、凛とした姿勢と、燃えるような瞳にしか残っていない。
それは、「現場の指揮官」としての姿だった。
広場が静まり返る。
ボルツ監督が、ポカンと口を開けて私を見ている。
遠くの足場の上から、クロードが見下ろしている気配がした。
「……おい、お嬢ちゃん。なんだその格好は。仮装舞踏会のつもりか?」
ボルツが震える声で尋ねる。
私は彼を無視し、朝礼台に片足をかけると、軽やかに飛び乗った。
そして、集まった数百人の男たちを見下ろし、腹の底から声を張り上げた。
「総員、注目!!」
ビリリ、と空気が震えた。
オペラの歌唱練習で鍛えた声量は、蒸気の音にも負けない。
「本日より、現場の指揮系統を刷新する! 私は技術顧問、エリザベート・フォン・アルニム! この瞬間より、私がこの現場の『法律』だ!」
ざわめきが広がる。
私は懐から、昨夜作り上げたもう一つの武器――徹夜で書き直した工程表と、新しい就業規則の束を取り出し、ボルツ監督の足元に叩きつけた。
「女に何がわかる、と言ったわね?」
私は彼を見下ろし、不敵に笑った。
「ええ、わからないわ。だから、わかるまで貴方たちと同じ泥を啜り、同じ鉄を運ぶことにしたの。……文句がある者は前に出なさい。私が直接、その根性を叩き直してあげるから」
私の宣言に、誰も動かない。
いや、動けないのだ。
ドレスを脱ぎ捨て、覚悟という鎧を纏った『悪女』の迫力に、彼らは呑まれていた。
視界の端で、クロードがニヤリと笑ったのが見えた気がした。
さあ、反撃の開始だ。




