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鉄の線路は国境を越えて ~売国奴と蔑まれた令嬢は、敵国の天才技師と未来への架け橋を築く~  作者: ぱる子
第1章:孤立無援の着任

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第2話:腐敗した現場

 翌朝、目を覚ました私の体は、まるで石のように強張っていた。


 軋むベッド、薄い毛布、そして隙間風の音。

 帝都の屋敷にあった天蓋付きのベッドと、毎朝淹れたての紅茶を持ってくる侍女の姿は、もはや遠い記憶の彼方だ。

 この部屋にあるのは、埃っぽい空気と、自分の意志だけ。


「……おはよう、エリザベート。今日も最悪の気分ね」


 鏡に映る自分に向かって、私は皮肉な挨拶を投げかけた。

 目の下に隈ができている。許せない。美貌は私の武器の一つだというのに。

 洗面器の水は氷のように冷たかったが、私は躊躇なく顔を洗った。冷気が肌を刺し、眠っていた意識を無理やり叩き起こす。


 一人でコルセットを締め、ドレスの紐を結ぶのは骨が折れたが、弱音を吐くつもりはない。

 私は深紅のドレスを選んだ。この灰色の街で、誰よりも目立ち、誰よりも「異物」であることを主張するために。


 ***


 宿舎を出て、建設現場へと向かう。

 昨日の駅周辺とは違い、現場への道はさらにぬかるんでいた。上質な革靴が泥に沈むたび、不快な音が鳴る。

 だが、近づくにつれて聞こえてくるのは、それ以上の轟音だった。


 カン! カン! ギギギギ……プシューッ!


 金属が打ち合わされる鋭い音。クレーンが軋む音。そして蒸気が噴き出す音。

 視界が開けると、そこには圧倒的な光景が広がっていた。


 峡谷「竜のアギト」。

 切り立った崖の間を縫うように流れる激流の遥か頭上、霧の中に巨大な橋脚が聳え立っている。

 まるで巨人の骨だ。鉄と石で組まれたその構造物は、未完成ながらも圧倒的な質量で見る者を圧迫してくる。


「これが……この国を変える橋……」


 息を呑んだのも束の間、私の目はすぐに「別のもの」を捉えた。

 現場の空気があまりに淀んでいるのだ。蒸気の白さではない。人間の放つ負の感情が、粘着質な泥のように漂っている。


 私は扇子を開き、口元を隠しながら現場へと足を踏み入れた。


「おい! もっと早く運べ! 共和国の野良犬ども!」


 罵声が飛ぶ。

 声の主は、帝国の軍服崩れのような服を着た男たちだ。彼らは日除けのテントの下で、木箱に腰掛け、煙草をふかしている。手には酒瓶すら見えた。

 一方で、重い資材を背負い、泥まみれになって働いているのは、粗末なシャツを着た男たち――おそらくリベール共和国の労働者だ。


「水……水をくれ……」

「うるせえ! 休憩時間はまだだ!」


 帝国の監督官が、鞭のようなもので空を叩く。

 共和国の労働者がよろめき、資材を落とすと、監督官たちは下卑た笑い声を上げた。


 これが、「共同プロジェクト」の実態か。

 私は怒りで視界が赤くなるのを感じた。

 人道的な同情ではない。この非効率極まりない管理体制に対する、経営者としての憤りだ。

 疲弊した人間に過重労働をさせれば、ミスが起きる。事故が起きれば工程が遅れる。そして何より、現場の空気が悪くなれば、良い仕事などできるはずがない。


「……無能の集まりね」


 私はドレスの裾を泥で汚しながら、テントへと直進した。


「あら、ごきげんよう。随分と優雅なお仕事ですこと」


 私が声をかけると、酒を飲んでいた監督官の一人が、驚いて噴き出した。

 太った男だ。制服のボタンが弾け飛びそうなほど腹が出ている。


「な、なんだお前は! ここは関係者以外立ち入り禁止だぞ!」

「関係者よ。帝都から派遣された技術顧問、エリザベート・フォン・アルニムです」


 私が名乗ると、男たちの顔色がさっと変わった――侮蔑の色に。


「ああ、噂の『予算喰い』のお姫様か! ガハハ、こんな泥んこ遊びの場所に何しに来たんだ?」

「ピクニックなら向こうの丘でやってくれよ」


 下品な哄笑。

 私は彼らの顔を一人一人記憶に刻みつけながら、にっこりと微笑んだ。


「ええ、ピクニックに来たのよ。……この現場の『腐ったリンゴ』を探しにね」

「ああん?」


 男たちが凄むよりも早く、私は太った男――現場監督の名札には『ボルツ』とある――に手のひらを突き出した。


「帳簿を出しなさい」

「……は?」

「聞こえなかった? この現場の出納帳、資材管理簿、そして労務記録。すべて今すぐここに出して」


 ボルツ監督は呆気にとられた顔をしたが、すぐに鼻を鳴らして、足元の木箱から油じみた数冊のノートを放り投げてきた。


「けっ。女に数字なんかわかるかよ。ほらよ、これで満足か?」


 私は泥の上に落ちた帳簿を拾わせることはせず、ハンカチを使って自ら拾い上げた。

 表紙を開く。

 そこには、乱雑な字で数字が羅列されていた。


 パラパラとページをめくる。

 1ページ、2ページ、3ページ。

 私の視線が動くたびに、ボルツ監督たちはニヤニヤと笑っている。「読めるわけがない」と高を括っているのだ。


 甘い。

 甘すぎる。


 私は幼い頃から、アルニム家の領地経営に関する書類を盗み見て育った。ドレスや宝石の値段よりも先に、小麦の相場と為替レートを覚えたのだ。

 数字は言葉よりも雄弁に嘘をつく。そして、その嘘は必ずどこかに綻びを生む。


「……面白いわね」


 私は5分と経たずに帳簿を閉じた。


「何がだ?」

「セメントの単価が、帝都の相場の3倍。鉄骨の仕入れ先が、存在しない幽霊商会。そして何より……」


 私は視線を上げ、汗だくで働く共和国の労働者たちと、テントで涼む帝国作業員たちを交互に指差した。


「労務費の計上がおかしいわ。現場にいる人数の倍の人件費が支払われていることになっている。……この『幽霊作業員』たちの給料は、一体誰の懐に入っているのかしら?」


 その場の空気が凍りついた。

 ボルツ監督の顔から、笑みが消え失せる。


「て、てめぇ……適当なことを言ってんじゃねえぞ!」

「適当? ならば今すぐ全作業員を整列させなさい。名簿と顔を照らし合わせれば済む話よ」


 私が一歩詰め寄ると、ボルツ監督は後ずさった。

 その額に、脂汗が滲んでいる。

 図星だ。

 彼らは「どうせ誰も監査になど来ない」「来たとしても無知な貴族だ」と侮り、あからさまな中抜き(横領)を行っていたのだ。それも、稚拙極まりない手口で。


「帝国の恥晒し共が」


 私は冷たく吐き捨てた。

 怒りで震えそうになるのを、扇子を持つ手で必死に抑える。

 今すぐ彼らを解雇し、処罰することはできる。だが、それでは現場が止まる。代わりの監督官がいない。それに、もっと根深い「裏」があるかもしれない。


 ここで感情的に喚くのは三流だ。

 私は一流の悪女として、もっと効果的な締め上げ方をしなければならない。


「……ま、今日はこのくらいにしておいてあげるわ」


 私は帳簿をボルツ監督の胸に押し付けた。


「な、なんだと?」

「私が何もわかっていない『お飾り』だと思っているなら、そのままでいいわ。……ただし、これだけは覚えておきなさい」


 私は彼の耳元に顔を寄せ、氷のような声で囁いた。


「私の目は節穴ではない。貴方たちが私腹を肥やしているその金は、我が国の血税であり、未来への投資だということを。――次にボロを出したら、その首と胴体が繋がっている保証はないと思って」


 ボルツ監督は、パクパクと口を開閉させ、言葉を失っていた。

 周囲の取り巻きたちも、私の迫力に気圧され、誰一人として動こうとしない。


 私は優雅に踵を返した。

 背筋を伸ばし、泥道を歩き出す。


 視界の端で、一人の共和国労働者と目が合った。

 痩せこけた少年のような作業員だ。彼は大きな瞳で、呆然と私を見ていた。

 私は彼に微笑みかけることもなく、ただ一瞥して通り過ぎる。

 同情はしない。私がすべきは、彼らが正当な対価を得て働けるシステムを作ることだけだ。


 テントから離れ、人気のない場所まで来たところで、私は大きく息を吐いた。


「……最低だわ」


 想像以上だった。

 腐敗は末端まで浸透している。これでは、橋が完成する前に予算が尽きるか、現場が崩壊するかのどちらかだ。


 建て直すには、荒療治が必要になる。

 そのためには、私一人の力では足りない。

 現場の全てを知り尽くしている「技術」の力が必要だ。


 私は視線を上げた。

 現場の奥、ひときわ高い足場の上に立つ、不遜な男の姿を探して。


 クロード・ガーランド。

 あの無礼な天才技師もまた、この腐敗を黙認しているのか? それとも、彼もまた戦っているのか?

 それを確かめるまでは、このドレスを脱ぐわけにはいかない。


 私は扇子を強く握りしめ、再び轟音の響く鉄の森へと歩を進めた。

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