第1話:泥と鉄の洗礼
世界の果てへ向かう音とは、こういうものらしい。
ガタン、ゴトン、ガタン、ゴトン――。
規則的で、暴力的で、少しも慈悲のない鉄の響き。
窓の外では、世界の全てを灰色に塗りつぶすような曇天が広がっている。時折、機関車が吐き出す黒い煤煙が視界を遮り、私の憂鬱をさらに濃く塗り込めていくようだった。
「……最悪だわ」
私は、エリザベート・フォン・アルニムは、誰もいない一等客室で小さく毒づいた。
白絹の手袋で窓枠をなぞると、指先がべっとりと黒く汚れる。
これが、帝国の誇る最新鋭の蒸気機関車の実態だ。外見ばかり華美に飾り立て、中身は整備不良で煤だらけ。まるで、今のこの国そのものではないか。
脳裏に浮かぶのは、三日前の父――宰相であるアルニム公爵の冷ややかな顔だ。
『エリザベート。お前をグレンデルへの技術顧問として派遣する』
父は、まるで茶の葉の選別でもするように、淡々と言い放った。
グレンデル。帝国とリベール共和国の国境に位置する街。両国を隔てる巨大な峡谷「竜の顎」があり、現在、そこには平和条約の象徴として巨大な鉄橋が建設されているはずだ。
『技術顧問、ですか? 私は土木工学など学びませんでしたが』
『お前が得意なのは計算と、無駄な口答えだろう? 現場では予算管理が必要らしい。……それに、お前のその性格は、帝都の社交界には毒が強すぎる』
父の隣では、継母と、その腹から生まれたばかりの異母弟が楽しげに笑っていた。
要するに、そういうことだ。
「予算喰いの魔女」と蔑まれながらも、私が国の産業育成のために投資を行ってきたことは、彼らにとって「家の資産を減らす浪費」であり、私の存在そのものが、可愛らしい弟の将来にとっての「邪魔な石ころ」だったのだ。
左遷。あるいは、体好のいい追放。
未開の地で野垂れ死ぬか、あるいは共和国の野蛮人たちに嫁がされるか。どちらにせよ、二度と帝都の敷居は跨がせないという意思表示だった。
「ふん、せいぜい甘い夢を見ているがいいわ」
私は汚れた手袋を外し、座席に放り投げた。
私がただ泣いて許しを請うと思うなら、大間違いだ。
この私が、あんな腐った貴族たちの思い通りになってやるものですか。
長い汽笛が鳴り響く。
列車が大きく揺れ、減速を始めた。
窓の外、煤煙の向こうに、巨大な黒い影が見えてくる。
切り立った崖。荒涼とした岩肌。そして、その谷底から立ち昇る蒸気と、無数のクレーン。
国境の街、グレンデル。
鉄と石炭、そして欲望と泥にまみれた最前線。ここが私の、新しい戦場だ。
***
駅のホームに降り立った瞬間、鼻をついたのは強烈な臭いだった。
石炭の焦げる匂い、饐えた油の臭い、そして湿った土の香り。帝都の香水の匂いとは対極にある、生の「労働」の臭いだ。
ホームは雑然としていた。
帝国の軍服を着た兵士、共和国風のラフな服を着た商人、そして煤だらけの作業員たちが行き交っている。
豪奢なドレスを纏い、従者も連れずに降り立った私は、異物以外の何物でもなかった。突き刺さる視線には、好奇心よりも明確な敵意が混じっている。
「……お迎えの方は、いらしていないようね」
予定時刻通りに到着したはずだが、出迎えの姿はない。
なるほど、最初から私を歓迎するつもりはないというわけか。帝都からの通達で「厄介払いされた令嬢」という情報は届いているのだろう。
私は顎を上げ、扇子を開いて口元を隠した。
ここで立ち尽くしていては、アルニム家の、いいえ、私自身の名折れになる。
自分で馬車を探そうと歩き出した、その時だった。
「おい、そこどけ! 邪魔だ!」
怒鳴り声と共に、背後から何かが迫ってくる気配がした。
反射的に身を翻すと、目の前を巨大な木箱を載せた台車が通り過ぎていく。牽いているのは、上半身裸の筋骨隆々とした男たちだ。
彼らは私を睨みつけると、足元に唾を吐き捨てた。
「ちっ、これだから帝国のお貴族様は。遊び場じゃねえんだよここは」
聞き捨てならない言葉だ。
言い返そうと息を吸い込んだ瞬間、低い、しかしよく通る声が頭上から降ってきた。
「――全くだ。どこのお姫様か知らねえが、ドレスの裾が邪魔で作業が進まない。さっさと帰ってママのミルクでも飲んでな」
カチン、と頭の中で何かが切り替わる音がした。
私はゆっくりと振り返る。
そこに立っていたのは、一人の青年だった。
背が高い。私が見上げるほどの長身だ。
着古した革のジャケットに、油で黒く汚れた作業ズボン。無造作に伸ばされた黒髪には白い灰がかかり、琥珀色の瞳は、値踏みするように鋭く私を射抜いていた。
顔立ちは整っているが、それを台無しにするほど不機嫌そうな表情が張り付いている。
手には丸められた図面のようなものを持っていた。
「……貴方が、責任者?」
「ああ? だったらどうした」
男は私の問いに答えず、ポケットから煙草を取り出して咥えた。火もつけずに噛み締めるその仕草は、私への侮蔑の表れだろう。
「俺はクロード・ガーランド。この現場の主任技師だ。……あんたが、帝国から送られてきたっていう『監査役』か?」
クロード・ガーランド。
資料で見た名前だ。リベール共和国出身、若干24歳にして数々の難工事を成功させた天才技師。そして、極度の貴族嫌い。
「ええ、そうよ。エリザベート・フォン・アルニム。今日からこの建設プロジェクトの総責任者として着任しました」
私は完璧なカーテシー(膝を折る挨拶)を披露した。
どんなに場所が汚れていようと、礼儀作法は私の武器であり鎧だ。
「総責任者?」
クロードは鼻で笑った。
「お飾りの間違いだろ。いいか、お嬢ちゃん。ここは戦場だ。茶会や舞踏会の予算を計算するのとはわけが違う。鉄と蒸気だけが正義の場所だ」
彼は一歩、私に近づいた。
圧倒的な質量と、熱気が押し寄せる。油と汗の匂いが濃厚に漂う。
普通の令嬢なら、この威圧感だけで悲鳴を上げて逃げ出しているかもしれない。
だが――残念ながら、私は「普通」ではない。
「お帰り願えるか? 現場の士気が下がるんでね」
彼はそう言って、シッシッと犬でも追い払うような仕草をした。
ああ、腹が立つ。
帝都の古狸たちとはまた違う、この無遠慮な傲慢さ。
けれど、不思議と不快ではなかった。裏でこそこそと陰口を叩く連中より、正面から喧嘩を売ってくるこの男の方が、よほど扱いやすい。
私はパチリと音を立てて扇子を閉じた。
「お断りよ」
「あ?」
「聞こえなかった? 帰らないと言ったの。私は皇帝陛下の勅命を受けてここにいる。それを追い返す権限が、一介の技師にあるのかしら?」
私は彼の真正面に立ち、琥珀色の瞳を睨み返した。
クロードの眉がピクリと動く。
「……口の減らないお人形だ」
「お褒めにあずかり光栄ね、油まみれの野蛮人さん」
私は右手を差し出した。
本来なら、男性側から求めるべき握手。それを私から求めたのだ。
クロードは私の白く清潔な手袋を見て、意地悪く口角を上げた。
「俺の手は汚れてるんでね。あんたの高級なシルクが台無しになっちまう」
握手を拒否することで、私の面子を潰すつもりか。
甘い。
私は躊躇なく、彼が腰に下げていた油拭き用のボロ布を奪い取ると、自分の手袋の上から強く握りしめた。
そして、呆気にとられる彼の手を、無理やり掴んだ。
「!!」
「これで対等でしょう? ……よろしく頼むわ、パートナー」
私の手袋は、一瞬で黒い油染みに汚された。
クロードの手は、ゴツゴツとして硬く、熱かった。
彼は数秒間、信じられないものを見るような目で私の手と顔を交互に見つめ――やがて、忌々しそうに舌打ちをした。
「……チッ。勝手にしろ」
彼は乱暴に手を振りほどくと、背を向けて歩き出した。
「ついてきな。宿舎へ案内してやる。……泣いて逃げ出す準備でもしておけよ」
***
駅を出て、舗装されていない泥道を歩くこと二十分。
案内されたのは、街外れにある古いレンガ造りの建物だった。
かつては倉庫か何かだったのだろうか。壁には蔦が絡まり、窓ガラスの半分は木の板で塞がれている。
「ここが、私の宿舎?」
「ああ。文句があるならホテルにでも泊まるんだな。自腹で」
クロードは意地の悪い笑みを浮かべながら、錆びついた鍵を放り投げてきた。
私はそれを受け取り、重い扉を押し開ける。
ギィィィィ……。
悲鳴のような蝶番の音と共に、室内の空気が流れ出してくる。
埃っぽい。
家具は脚のガタつくベッドと、書き物机が一つだけ。床には何かの染みが広がり、天井の隅には立派な蜘蛛の巣が張っている。
そして何より、天井板が剥がれ落ち、そこから曇り空が覗いていた。
これはひどい。
帝都の使用人部屋でも、もう少しマシだろう。
これは明らかに私への洗礼だ。「貴族様にこんな生活は耐えられないだろう」という、無言の圧力。
背後で、クロードが腕を組んでこちらを見ている。
私が悲鳴を上げるのを待っているのだ。あるいは、「こんなところには住めない!」と喚き散らすのを。
――負けるものですか。
私は肺一杯に、この埃っぽい空気を吸い込んだ。
そして、ゆっくりと振り返り、満面の笑みを彼に向けた。
「あら、素敵なお部屋」
クロードの顔が、驚愕に歪む。
「……は?」
「余計な家具がなくて広々としているし、何より天井の通気性が抜群だわ。これなら、夜には星空を独り占めできるでしょうね」
私は部屋の中へ足を踏み入れ、埃の積もった机を指先でなぞった。
「掃除のしがいもありそう。……感謝するわ、クロード。貴方がこんなに気を使って、私のために『風通しの良い』部屋を用意してくれたなんて」
「お、おい……あんた正気か? 雨が降ったらどうするんだ」
「傘をさせばいいじゃない。貴族の嗜みよ」
嘘だ。本当は泣きたいくらい最悪だ。
ふかふかの羽毛布団が恋しい。熱いお湯の出るバスタブが欲しい。
けれど、私は絶対に弱音を吐かない。
この男に、そして私を捨てた祖国に、私の心が折れる音を聞かせてやるものか。
私は彼に向かって、今日一番の冷ややかな微笑みを投げかけた。
「さて、荷解きをしたいのだけれど。……いつまでそこに突っ立っているのかしら? それとも、レディの着替えを覗く趣味がおあり?」
クロードは口を半分開けたまま、しばらく私を凝視していたが、やがて「……可愛げのない女だ」と吐き捨て、扉を乱暴に閉めて出て行った。
足音が遠ざかるのを確認して、私はようやく息を吐き出した。
膝から力が抜け、埃だらけのベッドに座り込む。
軋むスプリングの音が、私の孤独を際立たせるようだった。
「……やってやるわよ」
私は汚れた手袋を脱ぎ捨て、拳を握りしめた。
見ていなさい、お父様。そしてあの無礼な技師。
この泥と鉄の街で、私がただ枯れていく花ではないことを証明してみせる。
私の悪女としての、そして総責任者としての戦いは、今、始まったばかりだ。




