第六十二話 筋肉男爵と回り続ける誇り
朝日が差し込むガティネ男爵領は、今日も元気そのものだった。
畑では村人たちが掛け声を上げ、水車はゆっくりと回り続けている。子どもたちは笑いながら『いち、に! 筋肉、ばんざい!』と体操をしていた。
「ふっ、ふっ……筋肉の朝は、今日も絶好調ですわ!」
丘の上でアドリアナが腹筋をしていると、息を切らしたマティアスが駆け上がってきた。
「ア、アドリアナ様! 大変です! お、王都からの視察団がっ!」
「まあ、お客様ですの? それなら筋肉で歓迎しないと!」
「ま、待ってください! 握手だけは控えて…! 以前みたいに相手の手が曲がりますから!」
慌ただしく準備が進む中、広場に豪奢な馬車が到着した。
金の紋章をつけたその馬車から降り立ったのは、かくしゃくとした王国老貴族のヴェルナー子爵。片眼鏡をかけた、王都でも改革派として知られる人物だ。
「ここが…噂のガティネ男爵領ですかな? 随分と活気のある土地のようだ」
彼は整然とした畑や、水の音を聞きながら感嘆の声を漏らす。
「ようそこ、我が領へ。アドリアナ・ガティネと申します。筋肉の代表としてお迎えいたしますわ!」
「き、筋肉ですと…?」
「はい、領地運営の要ですの!」
隣にいたローランは『……始まった』と、小さく溜め息をついた。
こうして始まったのは『筋肉視察ツアー』である。まず案内されたのは、水車小屋だった。マティアスが図面を見せながら説明する。
「こ、この回転力を利用して粉を挽いています。改良したので、い、以前より効率が三割ほど上がりました」
「……ふむ、見事な設計だ。男爵自らが?」
ヴェルナーの視線がアドリアナに向く。
「ええ! 筋肉で軸を回して確かめましたの。手で触れ、力で感じることこそ理解への早道ですわ!」
「ち、力で、理解を…?」
「そうですわ!」
ヴェルナーの眉がぴくりと動く。ローランは遠い目をして呟いた。『……説明が台無しだ』。
次に訪れたのは畑。エティエンヌが村人たちとともに働いていた。
「こ、耕地は均等に分け、土壌改良を進めています。す、水路の整備も完了しました」
ヴェルナーはその整然とした畝を見て、思わず感嘆した。
「小さな領地で、ここまで整った農地があるとは……」
「ええ。筋肉と知恵、どちらもあってこその農地ですわ!」
「……た、確かに畝の整備に筋肉は必要でした…はい…」
そして最後に案内されたのは、広場。そこでは子どもたちがリズミカルに体操をしていた。
「いち、に! 筋肉、ばんざい!」
ヴェルナーは口を開けて固まった。
「……これは、新しい宗教、ですかな…?」
「いえ! 健康教育です!」
マティアスがどもらずに即答した。子どもたちは元気に手を振り、アドリアナも振り返す。
「この領地では、誰もが自分の『力』を信じるのです。それが筋肉であり、心でもありますわ!」
その日の夕刻、視察の報告をまとめながらヴェルナーは呟いた。
「……奇妙だ。だが、この地には『熱』がある」
同時に、アドリアナの誘いで村の宴に参加することになった。
焚き火が揺れる夜の広場。村人たちが笑い、果実酒の香りが漂う。アドリアナは豪快に杯を掲げた。
「さあ! 今日も筋肉に感謝して、乾杯ですわ!」
『か、乾杯…!』と、ヴェルナーもつられて杯を掲げる。筋肉談義が始まり、最初は困惑していた彼も、次第に笑い声を漏らすようになった。
「あなたの言う『筋肉』とは、努力と誇りの象徴なのですね」
「その通りですわ、ヴェルナー子爵! 誰もが鍛えれば変われる。それは筋肉も、領地も同じことです!」
ヴェルナーは深く息をつき、真顔で言った。
「――国内にも、これほど誇り高い領地は少ない。あなたの在り方、見習うべきだ」
「まあ! それでは次にお会いするときは、ぜひ一緒に筋肉体操を!」
「……検討します」
――数週間後の王都。貴族たちの社交の場では、新たな噂が飛び交っていた。
『水車を回す女』『領民と筋肉を育てる男爵領』『筋肉教の発祥地』――。
誇張された逸話は広まりに広まり、ついには『理想の領地』として称賛されるほどとなった。アドリアナの父アルマンは、書斎で報告書を読みながら笑う。
「あの子は、見事に『領主』になったな」
そして――季節は巡り、再び男爵領。
丘の上に立つアドリアナは、回る水車を見つめていた。畑は豊かに実り、村には笑顔。領民の声が風に乗って響く。
そして、その背後には、いつもの三人が。
「……王都でも筋肉体操を広める気ですか?」
ローランが腕を組み、問いかける。
「もちろんですわ! 王国中に、健康と誇りを届けますの!」
マティアスが慌てて帳簿を開く。
「え、えっと…予算が、すごいことに…!」
エティエンヌは微笑んだ。
「王国の未来も、鍛えられるということですね」
アドリアナは胸を張って笑う。
「筋肉は裏切りませんわ! 領地も、人も、私も――全部、鍛えてみせます!」
彼女の笑い声が、風に溶けていく。その下では、水車が今日も力強く回っていた。
筋肉男爵の物語は、止まることなく回り続ける――あの水車のように。




