第六十話 筋肉男爵と恋の前夜
穏やかな風が、王都の石畳を撫でていた。
久しぶりに帰るドラクロワ邸――立派な門扉の前で、アドリアナは深呼吸をした。
「ふう。男爵領よりも空気が柔らかいですわね。筋肉が少し、弛緩しそうですわ」
迎えに出てきた執事が、思わず目を瞬かせた。
「アドリアナお嬢様…、随分とたくましくなられましたな…」
「筋肉は領地の礎ですもの!」
満面の笑みで答えると、使用人たちは顔を見合わせ、懐かしそうに目を細めた。
屋敷に入ると、広間には父アルマンが待っていた。
「アドリアナ、元気にしていたか! 噂では『筋肉男爵』と呼ばれているそうじゃないか」
「お父様の『筋肉伯爵』に続き、誇り高い称号ですわ!」
彼女は胸を張り、二の腕を軽く曲げて力こぶを作る。
「どうですか、この成果! 領地経営も筋肉も、順調ですのよ!」
父は目を輝かせながら、嬉しそうに頷いた。
「さすが我が娘アディだ! ……だがな、今日は少し、別の話をしたい」
父の声が低くなる。その響きに、アドリアナは思わず背筋を伸ばした。
「もうすぐお前も十八だ。領地を持つ身としては、そろそろ将来を考えねばならん」
「将来……?」
「うむ。――婚約のことだ」
その言葉に、アドリアナは目を見開いた。
仲間と一緒に領地を少しずつ発展させていくのが楽しい。そんな中で『結婚』など、まるで別世界の話のように思えた。
「お父様、私はまだ、領地の筋肉を育てている最中ですわ」
「領地の筋肉はともかく、アディ自身の人生も考えねばならん」
父アルマンは穏やかに言った。
「男爵領の運営も落ち着いてきたのだろう?そろそろ、お前が誰かと支え合う時期が来たということだ」
アドリアナは少し黙り、視線を落とした。
「……誰かと、支え合う……」
その響きにふと浮かんだのは、三人の顔だ。
最初に思い出したのは、寡黙な騎士ローランだった。
陽射しの下、黙々と鍛錬する背中。寡黙で表情が乏しくて――けれど彼の剣筋には、誰よりも確かな信頼がある。
「……アドリアナ様、下がって」
護衛をしてもらっていたときの声が、今も耳に残っている。短くても、絶対的な守りの言葉。あの瞬間の彼の背筋を、私は今でも忘れられない。
……結婚相手にするなら?
――そう問われたら、確かに悪くない。
一緒に鍛錬をしたら、筋肉的にも理想的な夫婦関係になれそうだ。ただ、問題は無口すぎること。たぶん夕食中も黙々と咀嚼して終わるだろう。
「それは……少し、寂しいですわね」
アドリアナは苦笑をもらした。
次に浮かんだのは、学者肌の青年マティアス。
彼はいつも帳簿の山と格闘している。少し内気で、どもりがちながら、誠実で、誰よりも努力家だった。
「ぼ、僕はこういうとき、数で数えるタイプで…」
真剣な表情でペンを走らせる姿は、剣を振るうローランとはまるで違う。けれど、その手の震えは恐怖ではなく、責任感から来るものだった。
――もしマティアスと結婚したら?
家計簿のバランスは完璧に保たれそうだ。だが一緒に鍛錬したら、彼は五分で倒れるかもしれない。
「筋肉と知恵で補い合えますわね」
そう呟いて、思わず吹き出した。あの優しさに包まれたら、きっと穏やかな日々が訪れるだろう。けれど、彼の前で力こぶを披露したら、また固まってしまうに違いない。
三人目は、冷静沈着な策士エティエンヌ。
どんな状況でも動じず、常に全体を見通す視線を持っている。彼がいなければ、アドリアナは領地運営の基礎を学べなかった。
「アドリアナ殿はすでに立派な領主ですよ。筋肉とともに、人の心も鍛えていらっしゃる」
かつて言われたその言葉が、胸の奥にまだ残っている。
――エティエンヌとの結婚。
きっと頼りがいがあり、知恵でも支え合える。だが毎朝『その鍛錬、合理的ですか?』と聞かれるのは少し窮屈そうだ。
「理論より、気合ですのに…」
苦笑しながらも、心が少し温かくなった。
誰の顔を思い浮かべても、不思議と嫌な気持ちはしなかった。彼らはみんな自分の筋肉――いや、努力と信念で生きている。そんな人たちに囲まれて、自分は本当に恵まれているのだと思った。
***
夕食後、窓辺に座り、アドリアナは夜空を見上げた。領地で見た満天の星よりも少し淡い、王都の夜。その静けさの中で、自分の胸に手を当てる。
「……筋肉も、人の心も、鍛えるものなのですわね」
今まで考えたこともなかった『恋』という筋肉。それがまだ未発達な自分に気づき、少し頬が熱くなった。
そこへ扉をノックする音が聞こえ、父アルマンが顔を覗かせた。
「考えはまとまったか?」
アドリアナは笑った。
「はい。けれどまだ、早い気がいたします」
「ほう?」
「領地も、心も、まだ鍛え中ですから。もう少し、鍛え抜いてからでも遅くありませんわ!」
父はしばし沈黙し、ふっと笑った。
「……実にアディらしい答えだ」
「筋肉に嘘はつけませんもの」
「そうだな」
二人の間に静かな笑いが流れる。アドリアナは再び窓の外を見た。夜風が、カーテンを優しく揺らす。
「お父様」
「なんだ?」
「私、誰かと支え合うときが来たらきっと、その人の心も、筋肉のように鍛えてみせますわ」
父は目を細め、満足げに頷いた。
「強くなったな、アディ」
その言葉に、アドリアナは静かに微笑んだ。
十八歳間近のとき。筋肉男爵の心に、初めて『恋』という名の筋肉が生まれようとしていた。




