第五十九話 筋肉男爵と初めての取引
朝から男爵領の倉庫前では活気が満ちていた。荷馬車が二台、並べられている。野菜、木材、そして手作りの木工品。それらを見ながら、アドリアナは両手を腰に当てて笑った。
「これこそ、我が領の筋肉の結晶ですわ!」
「け、経済の力とも言えますね…」
帳簿を手にしたマティアスが、苦笑しながら言う。
「初めての交易ですし…で、できればそっと、お願いします」
「お任せください! 交渉は筋肉と同じ。鍛えれば鍛えるほど強くなるのです!」
隣でエティエンヌが額を押さえた。
「アドリアナ殿、筋肉で取引はできませんよ。今日は言葉で勝負する日です」
「筋肉もまた語り合う言葉の一種ですわ!」
「どういう理屈ですか、それ」
ローランは寡黙に荷馬車の荷物を確認していた。そんな彼がぽつりと呟く。
「……相手が逃げなきゃいいが」
その一言に、三人は同時に顔を見合わせた。
***
昼頃、隣領フランシス家の使節団が到着した。若き領主フランシスは、都会風の薄い青の上着に身を包んだ細身の青年だ。姿勢は良いが、筋肉的には――貧弱。
使節団の到着に、アドリアナの瞳が輝く。
「ようこそ、我がガティネ領に。友情の証にぜひ握手を」
その言葉にフランシスは微笑んだ。
「ええ、握手を。どうぞよろしく――」
ガッ。握手とは思えない音が響いた。フランシスの腕が小刻みに震え、顔が引きつる。
「ぐ、ぐぅぅ…っ」
「よろしくお願いいたしますわ、フランシス殿」
横でマティアスは青ざめた。
「ちょ、ちょっとアドリアナ様! そ、それは交渉前の関節破壊行為です…!」
マティアスの制止により、フランシスはようやく解放され、手をぶらぶらと振った。
「な、なるほど…。これが、男爵領の歓迎…」
「そうです! 誠意と友情の握手ですわ!」
「い、痛みとともに伝わりました」
エティエンヌが横からさりげなく口を挟んだ。
「本日は、木材と穀物の交換についてでしたね。まずは価格と数量の確認を」
すかさず場を仕切るその姿に、フランシスがほっと息をついた。
長机を囲み、交渉が始まる。マティアスは帳簿と算盤を前に、慎重に数字を確認していく。
「ガ、ガティネ領の木材二十束に対して、フランシス領の小麦百袋…」
手元の紙に震える文字が並ぶ。
「まあ! よい取引ですわね! この木材は筋肉と同じ。密度が高く、強靭ですわ!」
アドリアナは自信満々に言い放ち、フランシスが曖昧に笑う。
「み、密度? ええっと、筋肉の?」
「筋肉のような木材ですわ!」
「そ、それは…折れにくい、という意味ですか?」
「そうです! 折れにくく、たくましい!」
アドリアナの熱弁に押され、フランシスは完全にペースを失っていた。
エティエンヌが冷静のフォローする。
「領主様の言いたいのは、木の質が良い、ということです。木目が詰まっていて、耐久性が高いんですよ」
そして見本を差し出す。木肌の滑らかさに、フランシスは目を見開いた。
「ほう…確かにこれは良い木材だ。香りもいい」
「ね? 筋肉的でしょう?」
アドリアナのドヤ顔に、エティエンヌはため息をついた。
交渉は一進一退だった。木材と穀物の比率で折り合いがつかず、場がやや停滞する。アドリアナが腕を組み、『こうなったら――』と立ち上がった。
「力比べで決めましょう!」
「やめてください!」
全員の制止が重なる。アドリアナは頬をふくらませた。
「筋肉は正直ですのに」
「筋肉で為替は動きませんよ」
「ならば、心の筋肉で勝負ですわ!」
「それは何ですか、ガティネ男爵」
結局、エティエンヌが中立的な提案をする。
「単発の取引ではなく、定期的に物資を交換しませんか? 双方に利益が出るよう、年ごとに調整しましょう」
マティアスも頷く。
「そ、それなら、数字の調整も簡単です」
フランシスが少し考え、笑みを浮かべた。
「……確かに。その方が健全ですね。では、契約を」
アドリアナは嬉々として手を伸ばす。
「では、友情の再握手を!」
「か、軽めでお願いします!」
フランシスの必死のお願いに、アドリアナは少しだけ力を抜いた。――たぶん、少しだけ。
***
交渉が終わり、夕暮れの空が茜色に染まる。村の広場では、交易成立の報告を受けた村人たちが歓声を上げていた。
「おお、穀物が来るのか!」
「うちの木材が他領で使われるんだって!」
笑顔と拍手が広がる。
倉庫の中では、マティアスが静かに帳簿を閉じた。
「け、経済が、少しずつ動き始めましたね…」
エティエンヌは満足げに頷く。
「アドリアナ殿の握手、交渉の起爆剤になりましたね」
「あら。爆弾みたいな扱いですのね」
アドリアナが楽しそうに笑う。ローランは壁にもたれ、短く呟いた。
「……破壊力はあったな」
「筋肉は誠意ですわ!」
胸を張るアドリアナに、三人は一斉に苦笑した。
村の水車がゆっくりと回る音の中、取引の荷馬車が遠ざかっていく。アドリアナはその背を見送りながら、静かに口を開いた。
「取引も筋肉も、信頼あってこそ成り立つのですわね」
エティエンヌが微笑む。
「そうですね。筋肉にも、経済にも、続ける力が必要です」
マティアスも頷いた。
「ア、アドリアナ様の握力が、交渉力に……」
ローランがぼそりと呟いた。
「……怖くて誰も値切れない」
「それもまた、筋肉の得ですわ!」
アドリアナの満面の笑顔に、三人は思わず吹き出した。
笑い声が、夕焼けの村に響く。こうして男爵領は、初めての取引を成功させ――経済という新たな筋肉を動かし始めたのだった。




