第五十八話 筋肉男爵と学び舎の朝
男爵領の朝は、今日も筋肉のきらめきとともに始まった。陽光を背に立つアドリアナ。仁王立ちをし、村を見下ろしながら高らかに言う。
「水車も回った! 畑も整った! 次は、村人の頭脳を鍛える番ですわ!」
その言葉に、隣にいたマティアスがぴくりと反応した。
「あ、あの…実は僕も、同じことを考えていまして…。子どもたちに、読み書きや算術を教えたいと…」
「まあ! マティアス先輩もそうお思いでしたの!」
アドリアナは感激のあまり、マティアスの肩をばんばんと叩いた。細身の彼は、『ばんばん』の一発ごとにぐらりと揺れる。
「ちょ、アドリアナ、様、待って…」
「あら、ごめんなさい。嬉しくてつい!」
その後ろでローランはやれやれと首を振り、エティエンヌは苦笑していた。
「では学び舎を作りましょう! 古い納屋を片付ければ使えます!」
こうして、村の即席学校づくりが始まった。
***
数日後、納屋は見違えるように整えられた。
ローランが木材を削り、机と椅子を並べ、エティエンヌが窓に布を張って柔らかな光を取り入れる。マティアスは黒板代わりの板を立て、チョークを削りながら手を震わせていた。
「ど、どきどきしますね……。ぼ、僕が先生だなんて…」
「いいですが、マティアス先輩。子どもたちの魂を震わせるような授業をお願いします。学びとは、心と筋肉の連携なのですから!」
「き、筋肉は関係ないと思うんですが…」
そうして初日は穏やかに始まった。
村の子どもたちは緊張しながら席につき、マティアスがアルファベットを板に書く。
「さ、さあ、一緒に読みましょう」
子どもたちが元気に声を合わせる。アドリアナは感動のあまり、両手を握りしめた。
「これが知の筋肉トレーニングですわ…!」
「ち、違うと思います」
***
休憩時間。マティアスが水を飲んでいると、アドリアナが真顔で近づいてきた。
「マティアス先輩。今の授業、大変素晴らしかったですわ。でも、一つだけ足りない点がありますの」
「た、足りない点?」
「ええ。文字を覚えるだけでは魂に響きませんわ! やはり身体を使わなければ!」
アドリアナの輝く目に、マティアスは嫌な予感しかしなかった。
「ア、アドリアナ様。学問はそういうものではなくてですね」
「次の授業はぜひ私にお任せくださいな!」
「あ、あぁ……。ぼ、僕じゃ止められない…」
***
「さあ、みなさま! 次の授業は『筋肉文字訓練』ですわ!」
アドリアナが教壇に立つと、子どもたちはきょとんとした顔をした。
「A! と言いながら腕立て一回! B! でスクワット! C! で腹筋!」
子どもたちは爆笑しながらも、一斉に身体を動かし始めた。
「Aー! Bー! Cー!」
「良い調子ですわ!」
教室の外では、エティエンヌが呆れ顔で呟く。
「これは…教育というより、筋肉訓練ですね」
ローランは黙って頷いた。一方、マティアスはやや驚いた表情をしながらメモを取っている。
「きょ、教育的効果が、あるような…ないような…」
だが、笑い声に包まれたその光景は、確かに村の空気を明るくしていた。
***
翌日。マティアスは懲りずに普通の算術授業を始めたが、やっぱりアドリアナが割り込んできた。
「足し算ですわね! でしたらこれですわ!」
そう言って、腕立てを二回、続いてスクワットを三回。
「合わせて五回の運動! つまり、二足す三は五ですわ!」
「そ、そんな無茶な…」
子どもたちは再び大爆笑。そして『五はすごくつかれる数だ!』と叫んで笑う。
マティアスは頭を抱えたが、心のどこかで『楽しそうだなぁ』と思っていた。
その光景を見守っていたエティエンヌが呟く。
「案外、記憶に残るかもしれませんね。数字に『感覚』があるのはおもしろいです」
ローランは窓際で、いつも通りの無言の微笑みを浮かべていた。
***
授業が終わった。一人の少年がマティアスに駆け寄った。
「先生、今日の『五』についてもっと知りたい! 『十』はどのくらい疲れるの?」
マティアスは思わず笑った。
「それはね、もっと大きな力を使うんだよ」
少年の目が輝いた。
アドリアナはその様子を眺めながら、小さく呟く。
「学ぶことも、鍛えることも…どちらも力を育てるんですのね」
エティエンヌは頷いた。
「そうだな。筋肉も頭も、使えば育つものだ」
夕日が差し込み、教室に柔らかな光が満ちる。
外からは子どもたちの笑い声と、水車の回る音。アドリアナは思いついたように口を開いた。
「よし! 次は体力測定の授業を――」
「ま、まだやめましょう!」
マティアスの必死な声に、子どもたちが笑った。
その日の学び舎は、筋肉と笑いと未来の希望で満たされていた。




