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第五十六話 筋肉男爵と回る水車


 朝の光が水路を照らしていた。澄んだ水の流れの中に、一際大きな影がある。村の象徴だった水車だ。だが今は歯車が錆びつき、板も腐り、すっかり沈黙していた。


「……こりゃあもう駄目だな」


「こんなの、もう動かんよ」


 今日は水車を修繕しようと予定しているが、村人たちの口から漏れる言葉は、溜め息ばかり。そんな中で、アドリアナは両腕を組んで、ドンと足を踏み鳴らした。


「何を弱気になっていますの! 壊れたなら直すまで!」


 そう言って豪快に笑うアドリアナの声が、朝の空気を震わせた。彼女の勢いに押され、村人たちも『お、おう』と顔を見合わせる。


 こうして水車修繕組が結成された。頭脳担当のマティアス、労働担当のアドリアナとローラン。そして別動隊として、エティエンヌは畑の整備を村人と進めている。


 水路に立つマティアスは、古い設計図を手にして眉をひそめた。


「うん…ここが駄目になってる…。軸が曲がってるんだ…」


「軸を真っ直ぐにすればいいんですわね?」


「え? そ、そんな簡単じゃ――」


「デュヴァル卿! 丸太を持ってきて! 叩いて真っ直ぐにしましょう!」


 アドリアナの号令に、ローランは無言で頷き、大きな丸太を抱えてやって来る。木槌の代わりにその丸太が振り下ろされ、軸がゴン、と鳴った。


「――ふぅ、少しはマシになりましたわね」


「あ、あの…木槌ならここにあったんだけど…」


「あら? もう丸太で済ませてしまいましたわ」


 慣れたと思っていたアドリアナの筋肉技に、マティアスは笑うしかなかった。


***


 昼前、水路のほとりには木くずが散り、古い板が取り除かれていた。アドリアナは肩を回しながら、マティアスの横に立つ。


「マティアス先輩。次はどうすればいいですか?」


「ええっと…あ、ここの回転軸の角度を三度傾けると、水流の効率が上がるはず…です」


「三度? そんな少しだけで良いんです?」


 ローランに軸を支えてもらいながら、アドリアナは行き過ぎないようゆっくりと角度を変えた。


 マティアスは自信なさげな態度ではあるが、その目は真剣だ。だからこそアドリアナは、彼の言葉を信頼できる。


 村の子どもたちが見物に来て、アドリアナとローランの腕の筋肉を見ながら『すごい…』と呟く。彼女ににこっと笑い、『筋肉は裏切りませんわ!』とポーズを決め、どっと笑いが起こった。


***


 午後になると、作業は佳境に入った。ローランが水路の苔を削ぎ落し、マティアスが新しい水流の角度を計算し、アドリアナは板を組み上げていく。


「あれ? 釘が足りませんわ」


「ぼ、僕が予備を持ってます」


「さすがマティアス先輩! ぬかりありませんわね!」


 アドリアナは板を叩き込み、ローランが最後の止めを打つ。その手際は、無言ながら職人のように的確だった。


「……こ、これで完成です」


「まあ! ついに修繕が終わりましたのね!」


 顔を見合わせて笑うアドリアナとマティアスを見て、ローランが深く頷く。いつの間にか三人の息はぴったり合っていた。


***


 夕暮れ時になり、水路に夕日が差し込む。完成した水車が、静かに立っていた。


「水を流してくださいな!」


 アドリアナの掛け声で、堰が開かれる。水路の水が一気に流れ込み――最初は何の反応もないが、やがてぎこちない悲鳴とともに水車がゆっくりと回り始めた。


「おお…!」


「動いた! 動いたぞ!」


 村人たちの歓声が上がる。子どもたちが駆け回り、老人が涙を拭う。マティアスは満面の笑みを浮かべていた。


「う、動いた…! 僕たちの水車が動いた…!」


「ふふっ! 知恵と筋肉が合わされば、動かないものも動かせるようになるのですわ!」


 アドリアナの笑い声が、沈む夕日の中で響く。ローランは腕を組み、『……悪くない』と短く言葉を残した。


***


 夜。村の広場では、小さな焚き火を囲んで簡素な祝宴が開かれていた。焼いたパンと野菜のスープ。質素だが、笑いが絶えない。


 アドリアナは火の向こうで、ゆっくりと夜空を見上げる。オレンジの光が、彼女の横顔を照らした。


「……いい村だ」


「そ、そうですね。みんな…よ、よろこんでくれてる…」


「そうだな。喜んでくれる顔を見ると、やりがいがある」


 火の爆ぜる音が響く。しばらく黙っていたアドリアナは、ぽつりと呟いた。


「この村は、もっと良くできる。陛下より授かったこの男爵領、私の筋肉にかけて素晴らしい領地にしてみせますわ!」


 その言葉に、マティアスは驚いたように顔を上げ、やがて微笑んだ。ローランは焚き火越しに目を細める。エティエンヌは当然だという顔でアドリアナを見つめていた。


「すっかり領主らしくなったな、アドリアナ殿」


「……ああ、そうだな」


「す、素敵な領主様です…!」


 笑い声が夜空に溶けていく。遠くで、水車の回転音が規則正しく響いていた。まるで、村が新しく息を吹き返したように。


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